石田三成
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石田三成
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| 時代 | 安土桃山時代 |
| 生誕 | 永禄3年(1560年) |
| 死没 | 慶長5年10月1日(1600年11月6日) |
| 改名 | 佐吉(幼名)、三也、三成 |
| 戒名 | 江東院正軸因公大禅定門 |
| 墓所 | 大徳寺三玄院 |
| 官位 | 従五位下治部少輔、従四位下 |
| 主君 | 豊臣秀吉→秀頼 |
| 氏族 | 石田氏 |
| 父母 | 父:石田正継、母:岩田氏 |
| 兄弟 | 弥次郎?、正澄、三成、女子(福原長堯室) |
| 妻 | 正室:皎月院(宇多頼忠の娘) |
| 子 | 重家、重成、荘厳院(津軽信牧室) 娘(山田氏室)、娘(岡重政室) |
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 秀吉の子飼い
永禄3年(1560年)、石田正継の次男(三男とも)として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている(また、観音寺で学習していたとも言われる)。
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城(長浜市)主となった天正2年(1574年)頃から秀吉の小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国征伐に赴いたとき、これに従軍した。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに従軍。柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当、また先駈衆として一番槍の功名をあげたと「一柳家記」にある。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。
[編集] 豊臣政権下での三成
天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。また、同年末に秀吉から近江水口4万石の城主に封じられた。
天正14年(1586年)1月、当時智勇兼備の名将として名高かった島左近を4万石のうちの半分の2万石の知行を与えて召抱えたといわれる。秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、島左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた(ただし、佐和山19万石を得た時に家臣とした説、それとは別に秀吉からの寄騎であったとする説もある)。同年、越後の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきたとき、これを斡旋した。また、秀吉から堺奉行に任じられる。
天正15年(1587年)、九州征伐に参陣するが、武功を挙げたわけではなく後方の兵糧・武具などの輜重を担当していたと言われている。ただし、先年の四国征伐と同様に九州征伐が比較的短期間で終わったことは、三成という有能な行政官僚が輜重を担当していたからだとも言われている。九州征伐後、博多奉行となり博多復興に従事した。天正16年(1588年)、薩摩の島津義久の秀吉との謁見を斡旋する。
天正17年(1589年)、美濃国を検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が周囲に現存している。関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。そのため、この城攻めは三成の戦下手の証拠であるとする書物が多いが、これには異説もある。 なお三成は、常陸の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋したり、奥州仕置の後、奥州の検地奉行を務めるなど着実に実績を重ねており、有能な行政官僚としての功績は相変わらず大きかった。
文禄元年(1592年)、朝鮮出兵(文禄の役)が始まると朝鮮に渡海し、増田長盛、大谷吉継とともに朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦い、幸州山城の戦いに参加。その後明軍の講和使謝用梓・徐一貫を伴って肥前・名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則ら武断派の反発を招いた。
文禄3年(1594年)、島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。
文禄4年(1595年)、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる。また、同年に近江佐和山19万4000石の所領を秀吉から与えられた。
慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこのときに捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒たちが処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると再び明・朝鮮との講和交渉に奔走するが不調に終わった。慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去すると、朝鮮に在陣していた諸大名の撤兵に尽力したと言われている。
[編集] 秀吉死後の三成
秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだ。しかし、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。三成は秀吉死後の直後、慶長3年8月19日に家康を暗殺しようとしている。家康は覇権奪取のため、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。
しかし、閏3月3日に家康と互角の勢力を持っていた大老・前田利家が病死する。その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将(史料によっては蜂須賀家政や藤堂高虎の名もある)が、三成の大坂屋敷を襲撃した。しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した(この事件時、三成が単身で向島の家康の屋敷に難を逃れたとする書物が多いが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない)。
利家の死去・三成の蟄居により、家康の専横は再び活発になり、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉の遺命で禁止されていた所領配分なども実施した。9月、家康が重陽の節句による祝意を秀頼に述べるため大坂に赴いたとき、三成の屋敷を宿所としたと言われている。
[編集] 関ヶ原での三成
詳細は「関ヶ原の戦い」を参照
慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図る(この密約は無かったという説もある)[1]。 その後、上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。これには秀吉存命の折の茶会で、らい病を患っていた吉継の膿が茶に落ちたとき余人が回し飲むのをためらった際、三成が吉継のためにそれを飲み干したためその友情に報いようとしたという説もある。
7月12日、兄・正澄を奉行として近江愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名、鍋島勝茂や前田茂勝らの東下を阻止し(ただし、鍋島勝茂は父・直茂より大阪の屋敷にとどまるよう命令されており、勝茂もこれをいぶかしんだものの、直茂は自分を三成に助勢させようという意図があるのだろうとして従ったとする説もある)、強引に自陣営(西軍)に与させた。7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止された。
7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めた。しかし伏見城は堅固で鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しない。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、伏見城は陥落した。8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。
8月からは伊勢方面の平定に務めたが、家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、三成は関ヶ原で野戦を挑むことを決める。そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6900人であったが、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に攻められたものの、島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。
その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。このとき、三成は極度の空腹から沢の水を飲み、生米(稲穂をそのまま食べたという記録もある)を食べたため、下痢を起こしたと言われている。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。
9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られた。
また一説では、引き回された三成は影武者であり、本物の三成は高知へ逃げて自害したとも言われている[要出典]。
[編集] 辞世の句
- 筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
[編集] 逸話
- 大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)、もしくは大吉大一大万と記された紋を用いた。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味ともされるが、本来は「一」を「かつ」と読み、縁起の良い文字を重ねたものとされる。鎌倉時代の武将、石田次郎為久(源義仲を射落とした武将)も使用しており、ほかには備後山内首藤氏も使用している。また、石田家ではこの他に九曜紋や桔梗紋も使用している。
- 関ヶ原の戦いで敗走した三成は自身の領地の近江(滋賀県)の古橋村に身を潜めた。始めは三珠院を頼ったが、そのとき住職・善説より「何を所望か」と問われ「家康の首が欲しい」と答え善説を呆れ且つ恐れさせたとされる。その後領民・与次郎太夫が招きで岩窟に身を寄せた。与次郎はこのとき咎めの責任を一身に引き受けるため妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に累が及ばないように役人に自分の在り処を訴えさせた。三成の捜索に際し田中吉政は三成を匿った場合、当事者の親族に限らず一村全部を処刑すると触れを出したが、与次郎が自首したこともあって実際にはそのような虐殺は実施されてはいない。
そのときに村人たちに「このように逃れてきたのはふたたび家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人たちはこの言葉にひかれて石田三成を匿った。しかし隣村出身で古橋村に養子に来ていた与次郎太夫という者が裏切ったため三成は捕らえられた。古橋村ではこれ以降、他村より養子を取らない慣習ができた[要出典]。 - 前田利家の死後、加藤清正・福島正則らが三成を襲撃するという事件が起こり、家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居することになった。三成が佐和山城への護送役をつとめた結城秀康に「無銘正宗」を贈ると、秀康はこれを喜び、「石田正宗」と名付けて終生大切にしたという。この「正宗」は三成が秀吉から拝領したものといわれるが、江戸時代の享保期に出版された書物『刀剣名物帳』では、毛利輝元が所持していたものを宇喜多秀家が買い取り、三成に贈ったと記されている。
- 三成は秀吉から初めて200石(400石とも)の知行を賜った時、その全てを投げ打って渡辺勘兵衛(渡辺了とは別人)を召し抱え、家臣である彼の屋敷に起居したという逸話がある。勘兵衛は秀吉や柴田勝家から2万石の誘いを受けても「10万石でなければ仕える気はない」と断っていたほどの人物であり、秀吉を大いに驚かせたという。その後、勘兵衛は三成から何度も加増の話を受けるが、すべて断って終生200石(400石)で仕えたという。島左近召し抱えのエピソードは、この話が入り交じって伝えられたとされている。
- 文禄の役の際には軍目付として戦地に赴いた。幸州山城の戦いでは負傷したとされる。
- 斬首される前に三成は柿(干し柿)を勧められたが「柿を食べると腹を冷やすため身体に障る」と言って食べなかったとされる。これに対して「すぐに死ぬ身が身体を気にする場合ではなかろう」と嘲笑されると、「大事を成す者は最期の最期まであきらめないものだ」と答えたという。
- よく犬猿の仲とされる加藤清正とは元々は仲が良かったという説もある。実際、名護屋城建設では下準備と後方支援の三成と建設指揮の清正のコンビネーションで短期間に十数万の人間を収容できる基地を建設している。二人の仲が破綻するのは文禄の役の講和問題が持ち上がった時期と思われる。
[編集] 三杯の茶(三献茶)
近江国長浜の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もあり)にのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓だった三成に茶を所望したのを出会いとするもの。史料が江戸時代のもの[2]であること等から、創作と思われる。
[編集] 三成と淀殿及び高台院
一般的に広まっている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家はたしかに近江の土豪だが浅井氏とは敵対関係にあった。その意味ではむしろ「仇敵の姫」とも言える。
また、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説があるが、淀殿不行跡の史料的根拠である『萩藩閥閲録』において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があること及びこの話の出典が江戸中期以降ということから、現在では三成や淀殿を貶めるために幕府の御用学者が捏造したと考えられる。秀頼は文禄2年8月(1593年8月29日)生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていた三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。
その一方で白川亨は、三成が秀吉の正室である高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、これまでの通説とは正反対の説を唱えている。その論拠として白川は、三成の三女辰姫は高台院の養女である(杉山家由緒書・岡家由緒書)こと、側近筆頭の孝蔵主は三成の縁戚で関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っていること、淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいないことなどを挙げている(詳しくは高台院を参照)。[3]
[編集] 肖像画
少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の頭蓋骨から復顔した肖像画を取り上げる。
関ヶ原の戦いから約300余年を経た明治40年(1907年)、東京帝國大学の渡辺世佑が三成の伝記執筆のために、三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘、京都帝國大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、その時に頭蓋骨の写真を撮影した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」。下って昭和51年(1976年)、末裔の一人である石田多加幸(写真家)からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が石膏復顔を行い、それをもとに関西医科大学の石田哲郎の指導のもと、昭和55年(1980年)3月、日本画家前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は現在大阪城天守閣に保管されている。同時に身長の推測も行い、156cmと試算された。
[編集] 人物像
- 太閤検地においては検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。
- 毛利輝元は「かの仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」、島津義弘は「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」、高野山の木食応其上人は「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」とそれぞれ評し、三成が豊臣政権で絶大な権力を握っていたことを現わしている。
- 不正を極度に嫌い、情実も介さず、常に自らの信念に基づいて豊臣政権の行政を司っていた。そのあまりな謹厳実直な性格が、周囲からは融通のきかない傲岸不遜、横柄な態度と映り、諸大名からの人望を得られず、福島正則・加藤清正ら武功派諸将の三成襲撃、関ヶ原での大敗を招いた。
[編集] 評価
江戸時代には三成は悪人と見なされた。明治に入ってもなお奸臣説が強く、秀次を讒訴したとか、秀吉自身は秀頼を家康に託すよう遺言したのに三成がそれに背き、天下を狙って家康と戦ったと説かれていた。三成の再評価を志した三井の朝吹英二は、三成の墳墓発掘などを行ったほか、歴史家・渡辺世祐に依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年に『稿本石田三成』を上梓、三成奸臣説に論駁している。現在では実証的な評論が行われ、正確な三成像を描く模索が続いている。
[編集] 肯定的材料
- 後世に五人組の制度の元を築いた。これは、江戸時代を通じて農政の基本となった制度である。
- 『桃源遺事』によると、徳川光圀は「石田三成は憎い人物ではない。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。たとえ敵でも、君のために尽くした者を悪く言うのは良くない。君臣ともそう心がけるべきだ」と言ったとされる。
- 豊臣秀吉が短期間で天下を統一できた理由のひとつとして、三成ら有能な行政官僚が常に後方補給などの輜重役を担当したことが挙げられる。実際に文禄の役の際にも兵站度外視で無闇に戦線拡大する諸将を説得して漢城(ソウル)に集結させ、碧蹄館の戦いでの勝利の基礎を作った。
- 佐和山で善政を敷いていたため領民から慕われ、三成の死後も佐和山の領民はその遺徳を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどしてその霊を慰めたという。
- 領内の古橋村が飢饉に襲われたとき、年貢を免祖したといわれている。古橋には当時、三成の母の菩提寺である法華寺があったが、三成は手厚い保護を与えていたという。
- 文禄4年(1595年)の豊臣秀次失脚時には、諸将が秀次を見限る中で三成は「秀次公無罪」と信じ、最後まで秀次の助命に動き、秀次の家臣であった前野忠康(舞兵庫)ら若江八人衆はその三成の姿に感激し、以後、三成の麾下に加わったという記録もある[4]。またこの際、細川藤孝と共同しようとしたが、三成が遠方の検地に赴いていた為、思うように動けなかったとする説もある[要出典]。
[編集] 否定的材料
- 豊臣秀次事件のとき、三成は秀吉に対して、「御謀反調議ノタメニ、山々ニ在留セラル」と讒言し、これが秀吉に秀次排除を決意させたとされるが、現在は秀次の謀反説及び讒言説は否定されている。三成は秀吉の意向を受けて働いただけであり、結果として事務処理をせざるをえなかった三成が秀吉の代わりに憎まれ役になったという事実があったにしろ、それをもって「秀次を謀反の罪で直接糾弾したのは三成」と断言できるかどうかについては意見が別れる。
- 『改正三河後風土記』等には豊臣秀吉臨終時の五奉行の会議で、徳川家康と前田利家に秀吉の死を連絡するかどうかの議案に反対したにも拘らず、個人的に密使を二人に送って秀吉の死を知らせたことが記されている。そのせいで一時期三成はは家康と利家の心象を良くし、逆に二人と仲が良かったものの議決に従って秀吉の死を秘した浅野長政には不信を抱かせている。ただし、この独断先行は最終的には三人にバレてしまい、激怒させる結果に終わっている。
- 関ヶ原の戦いの際に、大谷吉継は三成に対して「お主(三成)が檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜多秀家)を上に立て、お主は影に徹せよ」と諫言し、三成の立案した作戦を「それは作戦などではなく博打というものだ」と語ったといわれる。三成は当初は諫言に従ったが、後にはいつもの横柄さに戻ってしまったという。
- 蒲生氏郷を毒殺したという疑惑も存在するが、現在では氏郷の死因は膵臓癌であったという記録があり、否定的な見方が大勢を占める。
- 蒲生家の騒動(蒲生騒動)を仕掛け、蒲生家の弱体化を三成が謀ったとも言われるが、根拠となる記録はなく、蒲生家の多くの旧臣が三成に仕え、更には三成と敵対したとされる人物の家臣であった者達も後に三成に仕えているため、現在では否定的な意見も多い。
[編集] 系譜
三男三女もしくは二男五女のほか庶子数人がいたとされる。
- 長男:石田重家 - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家。
- 次男:石田重成 - 津軽氏に匿われ杉山源吾を名乗る。子孫は津軽家臣。
- 娘:辰姫 - 高台院養女。弘前藩2代藩主津軽信枚の正室、のち満天姫(家康養女)降嫁により側室に降格。子に3代藩主津軽信義。
- 娘:某 - 石田家臣の山田某に嫁ぐ。山田某の叔母は家康の側室茶阿局でその縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ松平忠輝に仕えた。(異説有)
- 娘:某 - 蒲生家臣の岡重政室。重政が藩主蒲生忠郷の母振姫(家康の三女)の勘気に触れ切腹処分になると会津を離れる。子の岡吉右衛門の娘は徳川家光の側室お振の方(自証院)(三成の曾孫にあたる)。お振の方は家光の長女千代姫を産み、尾張徳川家に嫁いだ千代姫の血が7代藩主徳川宗春まで続く(異説有)。
[編集] 研究書籍
- 桑田忠親『石田三成』(講談社) ISBN 978-4061317864
- 安藤英男『石田三成のすべて』(新人物往来社) ISBN 978-4404012586
- 今井林太郎『石田三成』 (吉川弘文館) ISBN 978-4642051422
- 小和田哲男『石田三成「知の参謀」の実像』 (PHP研究所) ISBN 978-4569554426
- 太田浩司『近江が生んだ知将 石田三成』 (サンライズ出版) ISBN 978-4883251629
- 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』 (宮帯出版社) ISBN 978-4863660540
[編集] 三成を演じた俳優
[編集] 映画
- 南条新太郎(『続忍びの者』、1963年)
- 北原義郎(『新忍びの者』、1963年)
- 伊藤孝雄(『お吟さま』、1978年)
- 坂東八十助(『利休』、1989年)
- 岩下浩(『千利休 本覚坊遺文』、1989年)
- 花柳錦之輔(『梟の城』、1999年)
- 要潤(『GOEMON』、2009年)
[編集] テレビドラマ
- 石坂浩二(『太閤記』、1965年)
- 中丸忠雄(『大坂城の女』、1970年)
- 中村敦夫(『春の坂道』、1971年)
- 清水治雄→佐山泰三(『「国盗り物語』、1973年)
- 近藤正臣(『黄金の日日』、1978年)
- 宅麻伸(『おんな太閤記』、1981年)
- 加藤剛(『関ヶ原』、1981年)
- 鹿賀丈史(『徳川家康』、1983年)
- 清水紘治(『真田太平記』、1985年 - 1986年)
- 奥田瑛二(『独眼竜政宗』、1987年)
- 真田広之(『徳川家康』、1988年)
- 伊武雅刀(『春日局』、1989年)
- 草川祐馬(『豊臣秀吉 天下を獲る!』、1996年)
- 小栗旬→真田広之(『秀吉』、1996年)
- 西田健(『家康が最も恐れた男 真田幸村』、1998年)
- 堀内正美(『影武者徳川家康』、1998年)
- 益岡徹(『加賀百万石~母と子の戦国サバイバル』、1999年)
- 江守徹(『葵徳川三代』、2000年)
- 原田龍二(『利家とまつ~加賀百万石物語~』、2002年)
- 中村橋之助(『功名が辻』、2006年)
- 竹中直人(『戦国自衛隊』、2006年)
- 篠井英介(『信長の棺』、2006年)
- 風間トオル(『徳川家康と三人の女』、2008年)
- 中村俊介(『寧々~おんな太閤記』、2009年)
- 小栗旬(『天地人』、2009年)
[編集] 小説
[編集] ゲーム
[編集] 参考文献
- 石田多加幸「忠節無比に仕えた股肱の臣 石田三成」『歴史群像シリーズ 豪壮 秀吉軍団』、学習研究社、1992年。
- 中井俊一郎「秀次・蒲生牢人を吸収、三成苦心の家臣団構成」『歴史群像シリーズ【戦国】セレクション 決戦 関ヶ原』、学習研究社、2000年。
- 関ケ原合戦 笠谷和比古 講談社選書メチエ 1994 のち学術文庫
[編集] 脚注
- ^ 関ヶ原に至る東西両軍の戦いは7月1日の宇喜多秀家の独断での出陣式がきっかけであり、三成は準備不足であったこと言う説がある(義兄弟である真田昌幸の「どうして事前に相談してくれなかった」と三成に文句を言う手紙が現存しており、佐竹義宣、大谷吉継などその他の三成派も事前の相談を受けていなかった)。
- ^ 熊沢正興 正徳六年(1716)?『武将感状記』
- ^ 『石田三成とその一族』など。
- ^ ただしこれは『武功夜話』の記述によるため、信憑性を疑問視する声もある。前野忠康が石田三成の配下になったのは事実であるが、感激したためかはわからない。ただ、当時においても秀次の旧臣達が三成の事を、旧主を陥れた仇敵とは考えていなかった事は明確といえる。

