立花宗茂

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立花 宗茂
立花宗茂畫像.jpg
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄10年11月18日1567年12月18日[1]
死没 寛永19年11月25日1643年1月15日
改名 幼名: 高橋千熊丸、彌七郎、
高橋統虎、戸次統虎、立花鎮虎、宗虎、
正成、親成、尚政、政高、俊正、経正、信正、
宗茂
別名 左近侍従
諡号 立斎
神号 松陰霊神
戒名 大円院殿松陰宗茂大居士
墓所 圓満山廣徳寺東京都練馬区桜台)
福厳寺福岡県柳川市
官位 従四位下左近将監侍従飛騨守
従三位
幕府 江戸幕府書院番頭慶長8年(1603年) - 慶長12年(1607年))
主君 大友宗麟義統豊臣秀吉秀頼
徳川家康秀忠家光
陸奥棚倉藩主→筑後柳河藩
氏族 高橋氏立花氏藤原氏秀郷流大友氏支族)
父母 父:高橋鎮種(紹運)
母:斎藤鎮実の妹・宋雲院
養父:立花道雪
兄弟 宗茂直次、高橋鎮種娘(以下参照)
正室:立花道雪の娘・誾千代(良清院)
継室:矢島秀行の娘・八千子(瑞松院)、
継々室:葉室賴宣の娘・菊子(長泉院)
養子:忠茂
養女:小田部統房の娘本多俊次室)
小野茂高
高橋鎮種の娘(実妹、立花親家室、のち細川興元継室)
立花種次の娘伊達宗勝継室)
矢島重成の娘今川直房室)

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将大名大友氏の一族。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は多くいるが、旧領に復帰した武将は宗茂ただ一人である[2]

  • 宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えている。本項では便宜的に宗茂で統一する。

生涯[編集]

生い立ち〜立花家相続[編集]

永禄10年(1567年)11月18日、大友氏の重臣・吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる(幼名は千熊丸で、後に彌七郎と改める。)。ちょうどこの年には高橋鑑種が討伐され、吉弘鑑理の子である父の鎮理が高橋の名跡を継いでいた(のち高橋鎮種、高橋紹運に改名)。紹運の嫡男である彌七郎(のち統虎)もその高橋氏の跡取り(次期当主)として育てられる。

ところが、天正9年(1581年)、男児の無かった大友氏の家臣・戸次鑑連(道雪)立花氏の跡継ぎとして紹運の子の高橋統虎(むねとら、宗茂の初名、「統」は大友義統から偏諱を賜ったもの)を養嗣子として迎えようとした(道雪と紹運は共に大友氏の庶流にあたる)。紹運は宗茂の優秀な器量と、高橋氏の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度も請うてきたために拒絶できず、宗茂を道雪の養子として出している。このとき、宗茂は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・誾千代と結婚して娘婿となり、名も戸次統虎と改め、誾千代に代わって道雪から家督を譲られたが、誾千代とは険悪な仲だった上に子に恵まれず、道雪の死後程なくして、二人は別居したという。

天正9年(1581年)7月27日(一説は11月6日、後述の戦闘と混同の可能性がある)、養父・立花道雪と実父・高橋紹運とともに出陣し、秋月氏との嘉麻・穂波の戦い(石坂の戦いともいう)で初陣を飾る。八木山の石坂の地で紹運は敵軍正面に弓・鉄砲・長槍隊を三段に布陣し、道雪の伏兵が側面より奇襲する戦法を採った。この合戦で宗茂は50人を率いて敵軍の側面を襲撃、騎射で秋月方の勇将・堀江備前の左腕に鏑矢を命中させた。左腕の自由を奪われた堀江は大長刀を捨てて宗茂に組みかかって来たが、相撲得意の宗茂は彼を圧倒し、家臣の萩尾治種(萩尾大学)が堀江を討ち取って手柄を立てた。

同年11月6日にも同じ戦地で戦闘があった。立花勢は朽網鑑康の救援に向かう途中で、鑑康が秋月種実問註所鑑景統景の大叔父)との原鶴の戦いで戦闘した後に無事撤退との情報を知り撤退したが、その最中に秋月軍の追撃を受けた。それからの過程は7月の戦闘とよく似ているが、両軍の激戦は立花300余、秋月760の合わせて1,000を超える死傷者をだし、当地には千人塚の名が残された。この戦を立花方は潤野原の戦い、秋月方は八木山の戦いと記した。

天正10年(1582年)4月16日、宗茂は秋月氏・原田氏宗像氏の連合軍2,000との岩戸の戦いに500の伏兵を率いた。立花道雪の本隊1,000が敵軍に包囲された時、先に宗茂隊の300が鉄砲で側面から奇襲して、残る兵200は薦野増時が指揮して偽の旗を立てて大友氏の援軍が来ると見せかけ、遂に敵軍の包囲を解かせた。さらに宗茂は薦野増時・由布惟信小野鎮幸ら1,000騎を率いて、岩門庄久辺野に砦を築いていた原田氏の将・笠興長隊300人を駆逐し150人を討ち取って、西の早良郡まで追撃し原田親秀の早良城を焼き落城させた。宗茂は同年12月28日の宗像領侵攻にも道雪に従って出陣。翌天正11年(1583年)年3月17日の吉原口防戦にて吉原貞安を討ち取って、宗像氏貞の居城許斐山(このみやま)城や龍德城を落城させた。

天正12年(1584年)8月、立花道雪・高橋紹運は大友氏の筑後奪回戦に参陣。宗茂は道雪出陣後、1,000程の兵力とともに立花山城の留守を預かる事となった。この時、秋月種実率いる8,000の兵が攻め寄せたが、まず謀叛の素振りをみせた櫻井中務・治部兄弟を粛清し、兵を三隊に分けて果敢に城から出て、夜襲や火計で敵本陣に同士討ちを起こさせてこれを撃破。更に西の早良郡の曲淵房助副島放牛が拠る飯盛城など龍造寺氏の城砦を襲撃し、敵に立花道雪は不在だが立花山城の兵力はまだ十分と印象づけた。

立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回したが、天正13年(1585年)に道雪が病死すると事態は急変し、筑後における大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまう。

豊臣時代[編集]

天正14年(1586年)、島津忠長伊集院忠棟が5万を号する島津軍を率いて筑前国に侵攻し、実父の高橋紹運は岩屋城にて徹底抗戦の末に玉砕した(岩屋城の戦い)。このとき宗茂も立花山城で徹底抗戦を行い、積極的に遊撃戦術を使った。更に詐降の計を用いて島津本陣への奇襲を成功させ、数百人の首級をあげた。この内に8月18日も岩戸にて兵糧を準備する原田種実隊2,000を撃退し700余の首を取った。8月20日にも秋月種長隊2,000を奇襲し400余の死傷を出させた。島津軍は紹運との戦いですでに消耗していたため、8月24日に撤退した。このとき宗茂は、友軍を待たずに島津軍を追撃して数百の首級をあげ、火計で高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の2城を奪還する武功を挙げている[3]。 その時、大友宗麟から豊臣秀吉へ「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう」と要請された[4]

その後も秀吉の九州征伐で活躍し、西部戦線の先鋒として4月初から肥後国竹迫城宇土城などを攻め落とした。更に南下して島津忠辰の出水城を攻め落として川内に島津忠長を撃退し、秀吉に代わって伊集院氏祁答院氏入来院氏から人質をとり、大口城に新納忠元を包囲した[5]。 戦後、秀吉はその功を認めて筑後柳川13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。このとき秀吉は宗茂を「その忠義も武勇も九州随一である(原文:その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。)」、「九州の逸物」(立花文書によると原文:誠九州之一物ニ侯。)と高く評価したという。

天正15年(1587年)9月、佐々成政移封後の肥後国で大規模な国人一揆が発生したときは、兵糧不足の佐々軍救援のため、弟の高橋統増と共に兵1,200(2,800や3,000諸説ある)と輜重隊を率いて出陣、既に一揆方の伏兵の計を查知し、これを逆用して先に兵を三隊に分けて伏兵を配置、小野鎮幸の主力隊が肥後南関を突破し南関城の将・大津山出羽守を討ち取った。そして平山城を包囲する一揆方隈部氏配下の有働兼元軍を統増や米多比鎮久ら騎馬鉄砲[6]の先陣が引き離しつつ、第二陣に守られた輜重隊が城に兵糧を搬入、長槍の第三陣が有動軍を永野原において撃破し有働志摩守を討ち取って、「火車懸」という戦術を繰り出した[7]。その内、十時連貞水野勝成安田国継三将の連携も大きい活躍と伝わる。

立花・高橋軍は佐々軍に兵糧を支援し平山城に入城したが、一揆方和仁親実辺春親行大津山家稜3,000の兵に包囲された。その対応のため、先に輜重を運輸した人夫を使って「立花軍は明日に城を出て柳川へ帰る」との偽情報を敵陣に流し、当日は軍を三隊に分けて由布惟信十時惟由を先鋒に任じて疾駆の勢いで敵を奇襲突破したが、宗茂率いる本隊は三加和平野立尾の地で正面に和仁、左右に辺春、大津山そして後方より有働軍に挟撃され、双方の旗本武将が乱戦となる。そのとき宗茂は戸次家伝来の名刀・笈切り兼光を持ち馬上で敵兵七人を斬り伏せ、横撃して来た有動下総守と一騎討ちして討ち取った。やがて由布・十時の先鋒隊が反転し、小野鎮幸の後備隊が合流して全力で突破し一揆軍を総崩れにした。

その後、街道に沿う一揆方の出城を攻め落として、捕虜を城上や軍の前に置くことで一揆軍の攻撃を避けつつ南関に近い太田黒城へ進軍したが、城将・大知越前守は弓隊を伏兵として立花軍を奇襲した。立花軍は矢の当たりにくい森の中へ500の城兵をおびき出し、十時連貞と小野鎮幸率いる300が反転して迎撃、そして由布惟信が郎党20人を率いて堀や木柵を越えて一番乗りの功を立て二の丸に至る。大知越前守は50騎を率いて迎撃したが、池辺永晟と一騎討ちして討たれた。この時、立花軍は1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵を討ち取ったという武功を上げている。また一揆方の和仁三兄弟の田中城を包囲中に小早川隆景を義父とし、小早川秀包と義兄弟の契りを結ぶ。秀包と共に城内に攻め込み、宗茂自身は和仁中務少輔を討ち取った。

天正16年(1588年)に上洛し、7月に従五位下・侍従に叙任される。同時に羽柴の名字を名乗ることを許され、豊臣姓を下賜された。[8]

天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍する。このとき、秀吉は諸大名の前で宗茂を、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評し、その武将としての器量を高く褒め称えた[9]

文禄の役[編集]

朝鮮出兵頃より宗茂は、旧主家であった大友義統(吉統)の偏諱を受けた統虎という名乗りから鎮虎(しげとら、「鎮」の字は父・鎮種(紹運)または隠居中の大友宗麟(義鎮)から一字賜ったものと思われる)、宗虎(むねとら)へ名乗りを改めている。

文禄元年(1592年)からの文禄の役では小早川隆景を主将とする6番隊に2,500人の軍役を課せられて参陣している。4月、諸将と共に東莱城を攻め落とした。6月26日宇喜多秀家の要請で火計と釣り野伏せ戦法を使って漢城北方の朝鮮軍を駆逐。漢城会議で全羅道の攻略が割り当てたられた6番隊は忠清道から南下したが、錦山・梁丹山で数次にわたる朝鮮軍や義兵の趙憲霊圭の攻撃を受けて後方を脅かされたため侵攻は停滞した。また、7月に遼東から来たの援軍である祖承訓平壌を攻撃したことにより主力の小早川隆景が漢城方面へ転出したため、宗茂率いる残存兵力は全羅道の入り口の錦山や茂朱の拠点を維持するにとどまった。7月17日の第一次平壤の戦いは小西行長大友義統黒田長政と共に明の祖承訓と史儒を撃退したが、一門の重臣・立花鑑貞(戸次直貞)を失った、後に宗茂も漢城方面への転出を命じられたため全羅道攻略を果たせなかった。

文禄2年(1593年)、李如松の率いる明軍主力が小西行長を攻撃して平壌を攻略し更に南下を始めると、1月10日に小西行長救援のため弟の高橋統増と釣り野伏せを連携して龍泉の戦いに明の追撃軍を撃退した。

日本軍は迎撃を企画し、碧蹄館の戦いでは宗茂と高橋統増が先陣となった[10]1月26日午前2時頃、先に森下釣雲と十時惟由ら軽兵30名が敵状を偵察。敵軍は未明の内に進軍すると予測し、午前6時頃碧蹄館南面の礪石嶺北側二所に布陣した。先鋒500を率いた十時連久内田統続は、正面に少ない軍旗を立てて兵数を少なく見せ、查大受を率いた明軍2000を誘致して、越川峠南面にて正面で交戦。そして宗茂と統増の本隊2000は、先鋒の連久らと中陣700の小野鎮幸、米多比鎮久を陣替する際に、統増と戸次鎮林戸次鑑方の次男)を陣頭に立て、疾風の如く馳せて左側面から敵後詰・高彥伯の朝鮮軍数千を奇襲し撃退。さらに宗茂は800騎の堅固な備えを率いて明・朝鮮軍を猛烈追撃し、戦果を拡大した。 十時連久、内田統続、安田国継(此時の名は天野源右衛門貞成と呼ぶ)らは槍を投げて数十騎を突落し、明・朝鮮軍の中央を回転突破。中陣の戸次統直は強弓を引いて20余りの敵兵を射落し援護した。しかし連久は李如梅の毒矢を受け、帰陣して間もなく戦死[11]。旗奉行の池辺永晟も連久負傷後は先鋒隊の指揮を暫任し中陣と替わるを成功させたが、後の追撃戦で戦死した。寡兵の立花・高橋勢は奮戦してこれを撃退し、越川峠北方右側にて休息させた。のち小早川隆景など日本軍先鋒隊が来ると疲労の深い立花勢を後方に下げ、西方の小丸山に移陣した。

午前11時頃、小丸山から北への森陰に移動し、数が多い敵軍への恐怖を鎮めるため、兵卒たちを”敵を背にして陣す”と埋伏させた。 高陽原にて小早川隆景の先鋒粟屋景雄井上景貞が明・朝鮮軍を牽制する際、戦機を捉えるように、朝とは逆に兵一人に三本の軍旗を背負し現わせて、敵軍に「日本軍は大軍である」と騙した。そして先に鉄砲二百挺を三連射し、長刀や長槍を高く揚げて白い刃と300名ほどの将兵が被る金兜で日光を反射させ、敵の将兵の目を晦ませて左側面から突襲。立花・高橋軍およそ3000は敵本陣へ突撃し白兵乱戦になるも、宗茂自身は長槍や長刀を提げ、一騎駆し敵兵将15人を斬殺。統増も響雷のように音を大声に揚げ奮迅突撃し、全軍は敵500騎を討ち取った。

立花・高橋軍は善戦しながらも高陽原から北へ敵本陣の碧蹄館にて進撃。明・朝鮮軍を同士崩にさせ、小早川隆景・秀包、筑紫広門毛利元康吉川広家、宇喜多秀家らが三方より明軍を包囲した。このとき金備えの立花軍先鋒隊長安東常久は李如松と一騎討ちして落馬させたが、李如梅の矢を受けて戦死。その後、明副総兵・楊元が火軍(火器装備部隊)を率いて援軍に来るも宇喜多軍の戸川達安ともにこれを撃破。惠陰嶺を越え坡州への虎尾里までの追撃戦は立花軍が敵を六ヶ所に破った。この際、もう一人の金備え先鋒隊長小野成幸小野鎮幸の従兄弟)や与力衆の小串成重小野久八郎と一門の戸次鎮林、そして高橋家中今村喜兵衛井上平次帆足左平梁瀨新介も戦死したが、李如松の親衛隊も李有聲など80余名戦死した。大きな被害を出しながらも立花軍が明軍を食い止めたために戦機が生まれ、小早川隆景などの日本軍が明軍を撃破した。宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、四つの甲首を鞍の双方に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったという。『甫庵太閤記』に「鬼神も敵す可らざる御功績もあり」と記述があるので、柳川の民からも「鬼将軍」の異名で呼ばれた。小早川隆景は「立花家の3,000は他家の1万に匹敵する」と評価し、秀吉からも「日本無双の勇将たるべし」との感状を拝領した[12]

6月の第二次晋州城攻防戦では、小早川隆景などの5番隊として明・朝鮮軍の後巻き部隊を牽制し、援軍を寄せ付けなかった。

上記とは別に次の武勇伝が伝わっている。

  • 攻城戦前、晋州城東北方の星州一帶に明将劉綎は数万の明、朝鮮援軍を集結、その対応のため、第六軍の立花宗茂と小早川秀包とともに兵4千で星州へ行ったが、6月13日、劉綎配下の琳虎というの武将が明、朝鮮軍4万を率いて晋州城へ進軍、立花と小早川軍は転進し釣り野伏せ戦法を連携して明軍を撃退している[13]。この戦闘については『懲毖録』では明軍は朝鮮の救援要請に対して、動かなかったとあるので疑問がある。
  • 『問註所家譜』により文禄2年(1593年9月2日問註所統景問註所正白兄弟は小早川秀包の先鋒になって明の劉綎と晋州城外西南方二十里の河東郡に遭遇し以下数百兵は戦死した、宗茂は敗れた小早川軍を救援のため劉綎と対戦し、劉綎は敗れて晋州城に返る[14]

慶長の役[編集]

慶長2年(1597年)からの慶長の役では侵攻軍には編入されずに安骨浦の守備を命ぜられた。侵攻軍のうち井邑会議に参集した諸将は今後の作戦展望として連署注進状を秀吉に送っており、その中で「南部再布陣の当初計画では釜山の守備について日本と結ぶ重要拠点であるため、当初計画の若い立花宗茂から毛利吉成に変更したい」との要請を行い、最終的に吉成は釜山、宗茂は固城の守備が割り当てられた。続く、第一次蔚山城の戦いでは固城倭城の守備に就いており戦闘には二日遅くに参加したとされる(島津義弘が1月6日付で石田三成に送った書状には「鍋島直茂勝茂親子が蔚山へ救援へ出たために馬山倭城が空になった。竹島城にも場合によって後詰めを行うと宗茂から連絡があった」との記述がある。固城倭城馬山倭城泗川倭城の間に位置する)。

慶長3年(1598年)9月、明・朝鮮軍による蔚山・泗川順天への三方面同時攻勢の際には、固城の守備に就いていた宗茂は島津忠恒より泗川攻撃の通報を受けて9月28日付書状で返信を行っており、戦闘には参加しなかった。だが、『柳河藩享保八年藩士系図』によって、家臣の小串成信など蔚山にて戦死の記載があるので、蔚山の戦闘は実際に参加していた可能性はある。

秀吉が死去すると朝鮮に派遣されていた日本軍に撤退命令が下ったが、順天倭城で小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれていることを知ると、弟の高橋統増・島津義弘宗義智寺沢広高らと共に水軍を編成して救援に向かい、陳璘率いる明水軍や李舜臣率いる朝鮮水軍と戦い(露梁海戦)、家臣の池辺貞政(彦左衛門、池辺永晟の弟)は明の陳璘の戦船に乗り込んで一番乗りの功を挙げたが、串刺に遭れて戦死したものの、行長らの救出を成功させ、朝鮮軍船60艘を捕獲した。この戦いについて、島津家臣の川上久國は自身の日記で海戦にも敵の偵察を用心し、善戦した立花高橋軍に比べ自軍の死傷甚大を嘆いていると記述した[15]

上記の他に次のような武勇伝も伝わっている。

  • 慶長3年(1598年)第一次蔚山の戦いの時、日本軍諸将は救援の為釜山から出て蔚山へ進軍した。1月2日、明将高策率いる明軍2万2千、朝鮮軍3万は日本軍本陣を偸襲するために釜山へ進軍、般丹に現れた。本陣の宇喜多秀家は、宗茂に呼びかけて釜山へ出撃を求めた。宗茂は8百の兵を率いて高策2万2千の兵を夜襲と火計を使い撃破し、7百の首を取った戦功を挙げ、これは般丹の戦いと称えられたという[16]
  • 明将・麻貴率いる明・朝鮮軍2万9500人が蔚山倭城を再度攻撃し(第二次蔚山城の戦い)、守備に当たった加藤清正が包囲され窮地に陥っていることを知ると、釜山で近所の日本軍諸将は会議を行う。日夜対策が評議されたがなかなか結論が出ず、辛抱強く議論を聞いていた宗茂もさすがにしびれを切らし「評定のみに日を送っても無駄なことです。思いますに、まず蔚山城の敵を追い払えば泗川の敵は退き、泗川の敵が退却すれば順天の敵もおのずから退却いたすでありましょう。拙者が蔚山城を救援いたしましょう」と進言した。それを聞いた総大将・小早川秀秋は「それはよいことを申された。わずか3,000にも満たない兵であれば、万一やり損なっても味方の難儀にはなりますまい」と言い放った。宗茂はわずか1千の兵を率いて救援に駆けつけ5百の兵を率いて夜襲を敢行。別の5百兵が鉄砲で攻撃し明軍の先陣5,000人を撃退し、その後は偽情報を拡散するために先の夜襲した際の捕虜40人余を解放した。その夜、偽の陣地や營火と伏兵を使って明軍を引き出して分断包囲撃破。翌日蔚山城に到着し、加藤清正を援助した[17] 。その後、清正も5,000の軍勢で明軍を追撃し、戦後ともに蔚山城に入り、清正から「日本軍第一の勇将」と絶賛された[18]

なお、これらの武勇伝は同時代史料に記録が無く、話の信憑性には疑問符が付く。しかし、立花家臣の十時惟由(十時但馬)と米多比鎮久(立花丹波)は二人自身の覚書で両度の蔚山戦闘の記述がある。[19]

関ヶ原[編集]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。家中でも重臣・薦野増時(立花賢賀)は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、「勝敗に拘らず」と増時を留守に残し西軍に参加した。そして石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出する。

その後、毛利元康・毛利秀包(小早川秀包)・宗義智・筑紫広門と共に東軍の京極高次が守る大津城を攻めた(大津城の戦い)。宗茂は城方の夜襲を予見し、更に家臣の十時連貞が敵将・丸毛萬五郎、箕浦備後、三田村安右衛門三人を捕縛した(大津籠城合戦記による)。この戦で宗茂は高さ一間の土塁と城からの矢弾を防ぐ竹束を置いて、千鳥掛のような幅1間半(約2.7m)、深さ1間余(約1.8m)の塹壕を掘り、ここより鉄砲射撃を行わせた。養父・道雪の発案した「早込」(「早合」ともいう。1発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫)を用いた立花勢は他家の鉄砲隊の3倍速で銃撃し、城方は激しい銃撃に耐えられず鉄砲狭間を閉じた[20][21]。その機を見た家臣の立花成家内田統続らが一番乗りを果たし、三の丸から二の丸まで突破したという。また、「立花勢、長等山より城中に大筒を打ち入れ、これより防戦難儀にをよぶ」と伝えている(京極家譜による)。しかし9月15日の関ヶ原本戦には大津城を攻めていたために参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返した[22]

大坂城に退いた後、宗茂は城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが、輝元はその進言を容れずに徳川家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に引き揚げた。なお、柳川に引き上げる時に実父・高橋紹運の仇である島津義弘と同行した。関ヶ原で兵のほとんどを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たちの進言を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、むしろ島津軍の護衛を申し出でて義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついた[23]

国許でも戦が起こっており、黒田孝高(如水)、加藤清正鍋島直茂が柳川を攻める形勢となった。このとき、息子・鍋島勝茂が西軍に加担したことを挽回しようと懸命だった直茂率いる鍋島勢32,000(『葉隠』聞書第六によると12,000、『太宰管内誌』は20,000余、『立斎旧聞記』は10,000余としている)は10月14日、二手に分かれて佐賀を進発した。これに対し立花勢は迎撃のために出陣するが、家康への恭順を示すため宗茂は城に残った。立花勢13,000のうち、城を出て八院方面へ出陣したのは家老の小野鎮幸を総大将とする約3,000(一說2,000、うち小野の直卒する中軍は1,000余騎)である。鍋島軍は、10月16日には筑後川を渡河して立花方の海津城を落城させ、続いて10月19日朝には先鋒隊3,000が立花成家勢200の鉄砲奇襲を受け20余人が討たれたが城島城を攻略、翌10月20日には江上八院[29][30]で立花勢本隊と激突した。

立花勢先鋒の安東範久(五郎右衛門)、石松政之(安兵衛)らは軍法を破って独断で開戦し、次々と鍋島勢十三段の軍陣の中へ突入し、先鋒の第三隊立花統次(三太夫、森下釣雲の三男、立花統春の養子)はその九段までも進んで奮戦した。鍋島勢の先鋒・鍋島茂忠は本陣の五反田へ撤退したといわれている。しかし、一騎駆で敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め、先鋒の安東範久、石松政之はたちまち反撃を受けた。そのために救援出陣の第二陣立花鎮実(戸次右衛門大夫、藤北戸次氏の一族)と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎‧17才)や新田鎮実(平右衛門、掃部助)は横合から攻めかけ、敵を三町ばかり突き崩し、後を断たれて共に戦死した。後陣の矢島重成(勘兵衛、剛庵、宗茂の側室・八千子の弟)と千手喜雲(六之允、筑紫広門の与力)は戦を躊躇していたため、馬廻衆の安東幸貞(津之助、安東範久の養子)、第三陣の若武者十時惟久(新五郎‧16才)、先鋒の安東範久、石松政之も次々と戦死した。総大将の小野鎮幸は本陣前の橋を堅守して鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14、5人になるまで討ち取られた。小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが、水田方面の黒田如水軍を偵察していた立花成家(吉右衛門、薦野増時の嫡男)が別動隊300を率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した。10月21日立花勢は十時惟由らが率いて北の蒲池にて鍋島軍を挑発し、対戦して数人を討ち取った[24]

剛勇を以ってなる立花勢は柳川城へ篭城する構えを示したため、鍋島勢はそのまま柳川城を攻め落とそうとしたが、鍋島直茂がこれを抑え、宗茂と慶長の役で共に苦労した黒田如水、並びその第二次蔚山城の戦いで宗茂に救ってもらった加藤清正が、宗茂を懸命に説得[25]に動き、宗茂は降伏開城した。

島津義弘は国許へ帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送った。しかし、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日が過ぎた後だったという。

江戸時代[編集]

開城後は改易されて浪人となる。その器量を惜しんで加藤清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、宗茂はこれを謝絶した。そこで清正は家臣にすることを諦め、食客として遇したという。その後、清正の元を離れ、由布惟信十時連貞ら付き従う家臣を引き連れ浪人の身で京都に上る。

正室・誾千代は立花家改易後、肥後国玉名郡腹赤村の市蔵宅(現・熊本県玉名郡長洲町)に移り住んでいたが、慶長7年(1602年)7月頃から病を患い、10月17日に死去した。享年34。誾千代の死により、養父道雪の血筋は途絶えた。

誾千代が没してから、慶長8年(1603年)江戸に下った宗茂は本多忠勝の世話で、由布惟信、十時連貞など従者らとともに高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送り始め、慶長9年(1604年)忠勝の推挙で江戸城に召し出される。宗茂の実力をよく知っていた将軍徳川家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として5,000石を給されることになり、まもなく嫡男・徳川秀忠の御伽衆に列せられて陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰した。同地で加増され2万5,500石の知行となり、慶長15年(1610年)には更に9,500石の加増を受けて最終的に3万5,000石の領地高となり、この頃から宗茂と名乗っている。

大坂の陣のとき、大御所・家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったという、そして大坂夏の陣は2代将軍・徳川秀忠の麾下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し、大野治房の軍勢動向を予言的中や秀忠軍の進退を指導だけでなく、豊臣秀頼の出陣なきも予言的中した[26]。戦いの末尾は毛利勝永の軍勢を駆逐している。

元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられ、関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となった。また戦国武将としては世代が若く、伊達政宗加藤嘉明丹羽長重らとともに、徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たした。なお、相伴衆となった晩年は秀忠・家光に近侍し、重用されたようで、将軍家の茶会や諸大名の屋敷が完成した際の披露会などに頻繁に将軍と共に随伴している。そのため、国元にはほとんど帰れず、特に家督を譲った後はその傾向が一層強くなり、江戸に屋敷を構えて定住して本領の統治にはほとんど関与せず、幕府の中枢を知る人物として地方の大名とのパイプ役を果たしている。

寛永14年(1637年)には島原の乱にも参陣し、総大将の松平信綱を輔佐し、軍事進言や戦略面の指揮を執り、有馬城攻城時には昔日の勇姿を見せ、諸大名に武神再来と嘆賞された。翌年、家督を養子・立花忠茂に譲って致仕・剃髪し、寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去した。享年76。戒名は大円院殿松陰宗茂大居士。俗名の宗茂がそのまま入っているのは、宗茂の名があまりに有名でありすぎるため、変えるに変えられずそうなった、との逸話が伝わる。生涯を通じて実子に恵まれなかった為、直系の子孫はいない。

墓所[編集]

墓所は福岡県柳川市福巖寺。また柳川城内にある三柱神社に養父・立花道雪と妻・立花誾千代と共に祭神として祀られている。

死後[編集]

大正4年(1915年)11月10日に贈従三位

人物・逸話[編集]

優れた人格と器量を併せ持った宗茂には様々な逸話が残る。こうした逸話を残した宗茂の人格形成には、義父の立花道雪、実父高橋紹運の影響が強いと考えられる[27]。特に、主君への篤い忠義という点において、二人の性格を色濃く受け継いだとされる。

  • 『名将言行録』では、宗茂のことを「人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり」と記しているように、宗茂はその才能を、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていた。また、宗茂の関ヶ原の戦い後からの大名としての復帰も、幕府が寛大な処置を取った稀有な例である。戦上手だけではなく、常に温厚で誠実に人に接し、そして義理堅く正直な人物などから「武士の中の武士」とも呼ばれた。
  • 宗茂は軍法についてこう語っている。
    • 「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」
    • 「大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ」
なお、義父である立花道雪は、実際に兵を大切にし、一方で兵は道雪のために尽くした逸話があり、この宗茂の軍法は義父から継承したものと思われる。
  • 関ヶ原の戦い後の浪人時代は、京都で家臣ともども乞食同然に身を落とし、その日の食べ物にも難儀したという話がよく知られる。
    • 米が足りないので家臣が雑炊を作って差し出した所、宗茂は「汁かけ飯を食べたい時は、自分で飯に汁をかけるから、余計な事をするな」と怒ったと言われる。今まで裕福な暮らしをしていたので、米に困って雑炊を作るという意味がわからなかったのだという。
    • 家臣が乞食に出かける時には、宗茂が留守番をしていた。ある日家臣が残飯を干飯にするために日に干して出かけた所、その日突然雨が降ってきた。家臣たちは宗茂がちゃんと残飯を雨に濡れないように屋内に取り込んでくれたかどうかと語り合い、「そんな些細な事に気をかけるような殿では、再仕官などおぼつかないだろう」という結論になった。案の定帰宅すると、宗茂は残飯を放置して雨に濡れるままにしていた。
    • ただし、実際は有力商人や旧家臣団、加藤清正や島津氏らの支援の下、それなりの客将として支援を受けており、大名時代に比べれば経済状態は当然悪化しているが、少なくとも、その日の食事に困るような生活ではなかったので、後世に藩祖としての苦労を際立たせる為に誇張された話であろうという説もある。
  • 文武両道の名将で、連歌書道茶道香道蹴鞠狂言能楽などにも長けていた文化人とされる。(中野等『立花宗茂』による)
    • 剣術丸目長恵から文禄5年(1596年)10月にタイ捨流の免許皆伝を受けている、自身も抜刀術隋変流を開祖し、後年の中村天風もその剣術を修得した[28]
    • 弓術は天正18年(1590年)に尾村連続、慶長6年(1601年)10月には中江新八、慶長7年(1602年)には吉田茂武から日置流の免許をそれぞれ受けている。
    • 茶道は細川忠興からも一目置かれていたようで、忠興は子の細川忠利に対して、数寄の事は宗茂を見習う事と書き記している。また、忠興から宗茂が借金をして茶器を購入したり、逆に宗茂の茶器を忠興に貸したりという文書も残っているので、茶道を通じてかなり両者の関係は親密であったと思われる。
    • 香道は後陽成天皇の弟・良恕法親王より「薰物」を贈られている。
    • 蹴鞠は飛鳥井雅春から「鞠道」の門弟として、小早川隆景とともに「紫組之冠懸」を免許されている。
    • 笛は憩いのひとときに「一節切」という笛を常に吹いた。
  • 正室の誾千代を弔うために、山門郡瀬高上荘の来迎寺の住職で、かつての柳川城主の蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の孫である応誉上人を招き、良清寺を創建した。
  • 宗茂が8歳の時、見世物があった。見物中、群集の中で争論が起り、ついには殺される者がでた。人々は慌てふためき逃げ散る中、宗茂は少しも恐れる様子もなく「今日の見世物はこれで終わりか」と付き添いの者に尋ねた。早く逃げましょうという付き添いに対し宗茂は笑って「お前たちが慌てるとはおかしな事だ。我々はあの争論の相手ではないのだから、どうしてこちらに切りかかってくることがあろうか。まだ見世物も終わっていないのに、ここから立ち去る必要もあるまい」といい、すべてを見終ってから帰ったという。
  • 立花家へ婿養子に行く際に実父・高橋紹運より「高橋と立花の間に戦が起こった場合はなんとする」と問われて、高橋に味方すると答えたところ、紹運に「養子に行ったならばもはや高橋の人間ではない。立花勢の先鋒となってわしを討ち取れ。道雪殿は常日頃から未練な振る舞いを嫌っておられるので、おぬしに不覚の行跡あろうものなら義絶されよう。その時は高橋に帰ろうと思うのではなく、この刀で直ちにその場で自害せよ。」と一剣を渡され諭された。宗茂はその刀を紹運の形見として、終生身辺から離さなかったという。
  • 立花家の婿になってまだそれほど経ってない頃、養父・立花道雪の供と一緒に近くの山を散歩中、棘の付いた栗を足で踏み抜いた。当然の如く近習の者に「これを抜いてくれ」と頼むと由布惟信が駆けつけ、抜く所か逆に栗を足に押し付けた。叫び声を上げようにも近くの駕籠の中からは養父の道雪が眉を吊上げて見ており、叫ぶ事も出来ずに大変困ったと後年述懐したそうである。お坊ちゃま育ち故、立花氏に来てからは大変厳しく教育された。
  • 文禄の役での碧蹄館の戦いでは敵の大軍の前にも悠然と昼食の握り飯を食べていた。この行為を疑問が持つの家臣達に、昔い上杉謙信小田原攻めの時もこうしようと返答ったと伝わる。(小野家文書による)
  • 関ヶ原の後の柳川城攻防戦で開城当日、筑後四郡の領民達は「殿様のためなら命も惜しまない」と涙ながらに降伏開城を押しとどめようとした。しかし宗茂は「気持ちは嬉しいが、皆を戦乱に巻き込みたくないのだ。分かってほしい」と答え、領民達は別れを涙ながらに宗茂を見送った。それ程までに、彼は領民からの信望が篤かったと言える。

以上の逸話は『名将言行録』や『筑前博多史料豊前覚書』、『立斎旧聞記(続群書類従 三)』、『柳川藩叢書 第三集』、中野等『立花宗茂』などによる。

評価[編集]

河合敦は「百戦錬磨、不敗の名将」「単なる戦上手だけでは語れない何かがある」と評している[29]

家臣団[編集]

立花双璧
立花四天王
立花五城主
その他


脚注[編集]

  1. ^ 一説に永禄12年8月13日1569年9月23日)とも
  2. ^ 関ヶ原 敗者たちの復活戦 159頁
  3. ^ 『日本戦史・九州役』(補伝 第十二宗茂の忠勇)[1]
  4. ^ つまり、立花宗茂を豊臣秀吉の直臣として取り立てて欲しいと、大友宗麟が要請したという意味である。ただしこれについては、秀吉のほうから宗麟に対して、立花宗茂を譲るように命じたのを、宗麟が自ら推挙したようにして取り繕ったのではないかという説もある(海音寺潮五郎『武将列伝」)。
  5. ^ 『日本戦史・九州役補伝』[2]
  6. ^ 騎馬武者の馬首に鉄砲袋を備え、弾薬の袋を馬尻に掛けさせて「火車懸」の戦術を繰り出した
  7. ^ 『立花記(正・続)』、『武神 立花宗茂』、『清和源氏隈部家代々物語』による
  8. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』、P29・P38。
  9. ^ 関ヶ原 敗者たちの復活戦 162頁
  10. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十七宗茂の決心)[3]
  11. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十九十時傳右の戦死)[4]
  12. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十宗茂碧蹄の殊功)[5] 『柳川藩叢書 第一集』補遺目次によると各戦法の解説と由来や家臣の始末、異名のことはある。
  13. ^ 河村哲夫『立花宗茂』P147~P148
  14. ^ 『問註所家譜』[6]
  15. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第百八十七宗茂露梁の戦功)[7]
  16. ^ 『名将言行録』[8]、『日本外史補』[9]『日本支那交戦史』[10]、『立花遺香』(蔚山の後詰)[11]
  17. ^ 麻貴至蔚山頗有斬獲倭僞退誘之貴入空壘伏兵起遂敗『明史 朝鮮伝』[12]
  18. ^ 『立斎旧聞記』(原文では1598年5月4、5日の戦い、明将の名前は『清正記』[13]も「梅柏」となっている)、『名将言行録』[14]、『日本外史補』[15]、『日本支那交戦史』[16]、『立花遺香』(清正宗茂の勇を感ず)[17]
  19. ^ 『立花遺香』[18]
  20. ^ 『評註名将言行録』[19]
  21. ^ 『慶長武士』[20]
  22. ^ 『日本戦史・関原役』(第七篇 本戦前後東西各地ノ諸戦 第九章 大津)[21]
  23. ^ 『日本戦史・関原役』(補伝 第百六立花宗茂再戰説及歸國)[22]
  24. ^ 『日本戦史・関原役』(第七篇 本戦前後東西各地ノ諸戦 第十七章 柳河)[23]
  25. ^ 『日本戦史・関原役』(文書 第百卅一号 清正ト立花宗茂トノ往復書(二通) )[24]
  26. ^ 『日本戦史‧大坂役』(補伝 第二百三十宗茂の卓識)[25]、(補伝 第二百三十一宗茂の獻策)[26]、『立花遺香』(宗茂秀頼の出馬なき豫言す)[27]
  27. ^ 関ヶ原 敗者たちの復活戦 163頁
  28. ^ 六歳の時より家伝の抜刀術隋変流を修業し達人となる。隋変流は立花宗茂を流祖とし、戦国時代そのままの形を伝えるといわれ、先生の号である天風は最も得意な形、天風(あまつかぜ)からとられたものである [28]
  29. ^ 関ヶ原 敗者たちの復活戦 159頁

相関部分史料[編集]

  • 渡辺村男 『柳川藩叢書 第一集』(青潮社、1922年)
  • 浅川安和 『柳川藩叢書 第二集』(青潮社、1991年)(又名:浅川傳右衛門聞書、立花遺香、立花家聞文、公程閑暇雑書)
  • 浅川漏泉 『柳川藩叢書 第三集』(青潮社、1985年)
  • 木付帯刀 『万日記 (柳川史話)』(柳川郷土史刊行會、1956年、再版 清潮社、1984年)
  • 『高橋記』(続群書類従 第二三輯上)』(続群書類従完成会、1927年)
  • 『立斎旧聞記(続群書類従 三)』(続群書類従完成会、1970年)
  • 『大津籠城合戦記(続群書類従 三)』(続群書類従完成会、1970年)
  • 『立花朝鮮記(改訂 史籍集覽 一三)』(近藤活版所、1902年、再版 臨川書店、1984年)
  • 『立花立斎自筆島原之戦覚書(改訂 史籍集覧 一六)』(近藤活版所、1902年、再版 臨川書店、1984年)
  • 『立花家文書』(株式會社「御花」)
  • 『立斎樣御自筆御書之写』
  • 『筑前博多史料豊前覚書』 (城戸清種著、川添 昭二校訂、文献出版、昭55)
  • 『立花宗茂(人物叢書)』(日本歴史学会、2000年)
  • 『立花宗茂』(中野等著、吉川弘文館人物叢書、2001年) ISBN 4642052208
  • 『戦国なるほど人物辞典』(泉秀樹著、PHP研究所発行、2010年)
  • 『関ヶ原 敗者たちの復活戦』(河合敦グラフ社発行) ISBN 978-4-7662-1292-1

伝記[編集]

  • 白河鯉洋『立花宗茂』(岡村書店、1902年)
  • 渡辺村男『碧蹄館大戦記』(青潮社、1922年)
  • 古賀敏夫『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』(九州出版社、1974年)
  • 海音寺潮五郎『武将列伝(六) 立花一族』(文藝春秋、1975年) ISBN 416713506X
  • 河村哲夫『立花宗茂』(西日本新聞社、1999年) ISBN 4816704884
  • 三池純正『九州戦国史と立花宗茂』(洋泉社、2013年) ISBN 4800301858
  • 江宮隆之『立花宗茂「義」という生き方』(新人物文庫、2014年) ISBN 4046004258

立花宗茂を描いた作品[編集]

活字[編集]

  • 海音寺潮五郎『立花宗茂』(講談社ロマンブックス、1975年)
  • 滝口康彦『乱離の風 若き日の立花宗茂』(文藝春秋、1981年) ISBN 416306320X(のち人物文庫・学陽書房、2008年『立花宗茂と立花道雪』改題)ISBN 978-4-313-75232-0
  • 中村正夫『立花宗茂 他一篇』(メイン・スタンプ、1994年)
  • 八尋舜右『立花宗茂 秀吉が天下無双と讃えた戦国武将』(PHP文庫、2000年) ISBN 4569574211
  • 童門冬二『小説 立花宗茂』上、下(学陽書房人物文庫、2001年)
    ISBN 4313751394 下 ISBN 4313751408
  • 原田種真『立花宗茂 乱世をゆく鎮西の勇将』(広済堂文庫、2001年) ISBN 4331609073
  • 西津弘美『立花宗茂 士魂の系譜』(葦書房、2002年) ISBN 4751208322
  • 海音寺潮五郎『剣と笛と 歴史小説傑作集』(文藝春秋、2002年) ISBN 416713540X
  • 志木沢郁『立花宗茂』(学研M文庫、2004年) ISBN 4059011630
  • 百目鬼涼一郎『戦国武勇伝〈1〉太閤、釜山に死す』(学習研究社、2006年) ISBN 4054031366
  • 百目鬼涼一郎『戦国武勇伝〈2〉如水、筑紫に散る』(学習研究社、2007年) ISBN 4054033717
  • 百目鬼涼一郎『戦国武勇伝〈3〉王者、破れる』(学習研究社、2007年) ISBN 4054036104
  • 上田秀人『孤闘 立花宗茂』(中央公論新社、2009年) ISBN 4120040186
  • 竹中亮『戦国の七人』(学研パブリッシング、2011年) ISBN 9784054051768
  • 葉室麟『無双の花』(文藝春秋、2012年) ISBN 9784163810805
  • 黒田如泉『名に恥ずるなく己に恥ずるなく 立花宗茂異聞』(文芸社、2012年) ISBN 9784286110653

外部リンク[編集]


先代:
立花誾千代
立花氏当主
1581年 - 1638年
次代:
立花忠茂