安武方清

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安武方清
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 不明
改名 亀菊丸→戸次鎮安→方清→安武茂庵→東統番
別名 茂庵
主君 大友宗麟義統立花宗茂
氏族 菅原氏流高辻家庶流安武氏→戸次氏→東氏
父母 父:安武鎮政
母:問註所鑑豊娘・仁志姫
養父:立花道雪筥崎座主麟清戸次鎮林
兄弟 政勝立花道清方清戸次政千代
於吉安武鎮政娘、米多比鎮久室)、
誾千代立花道雪娘、立花宗茂正室)
養兄弟:立花宗茂戸次鎮連
戸次親延小野鎮幸室)、
甲斐高橋紹運次女、立花成家室)
安武左太輔、安武小十郎
養子:東豪清(戸次蔵人信番、津山治部左衛門)
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安武 方清(やすたけ かたきよ/ほうせい)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大友氏立花氏の家臣。筥崎座主法印大僧正

略歴[編集]

父は安武鎮政とされ、父母が離縁した後、母が立花道雪の継室として再嫁したため、その養子となる。後に大友義鎮(宗麟)の従兄弟で筥崎座主麟清の養子となる。

天正14年(1586年)から始まる島津氏筑前国侵攻時には、道雪の命令により、自身の組織する箱崎党400余名の兵を率いて立花山城に籠城した。天正15年(1587年)8月には大僧正となる。

小早川隆景が筑前の国主となると、天正19年(1591年)箱崎と多々良に新たな橋を建てた際に、その現場指揮に当たった。

のち立花宗茂に従って筑後柳川に行く、朝鮮派兵で碧蹄館の戦いに無嗣のまま戦死した立花・戸次一門の立花鎮林(戸次鎮林)の跡を継ぐ。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、立花宗茂が改易されると、その翌年に出家して茂庵と称し、家督を嫡男・豪清に譲った。元和6年(1620年)、立花宗茂が陸奥国棚倉から柳川藩主となった際に、茂庵は200石を賜る。茂庵の養子である東蔵人豪清も300石を賜る。

子孫は柳川藩士として仕えた。茂庵の名は現在も柳川市茂庵町(茂庵小路)として残っている。

出典[編集]

  • 筑前博多史料豊前覚書 城戸清種著、川添 昭二校訂、文献出版、昭55