ノート:立花宗茂

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記事引用「更に慶長の役の時、明将梅柏率いる明軍5万餘が蔚山城再攻(1598年5月4、5日)、包囲を受け加藤清正が窮地に陥っていることを知ると、宗茂はわずか1000の兵を率いて救援に行け、500の兵を率いて夜襲を行い、假情報、伏兵を使い明軍の包囲網を突破し、加藤清正を救出した。加藤清正をして「日本軍第一の勇将」と絶賛させた見事な戦いぶりであった。(立齋旧聞記を記載する)」

上記なんですが、ここと蔚山城攻防戦に記述されていますが、明鮮側の記録に符合する物があるのでしょうか?
志木沢 郁 『立花宗茂』(学研M文庫)でも考察されているとおり、当時の立花は固城守備で援軍に行っていないと思われます。
『「立齋旧聞記」のみに記載があり、実働の作戦があったとは思われない』ぐらいの記述が良いと思うのですが、識者の意見をお待ちします。yasumi 2006年11月20日 (月) 05:23 (UTC)[返信]

信憑性には疑問符が付くと書き足しました。小川尚明 2007年1月11日 (木) 01:47 (UTC)

強調箇所など、百科事典としての客観性にかける部分が多々見られます。強調を解除し、中立性を高めます。--小川尚明 2007年2月5日 (月) 07:22 (UTC)[返信]

この戦は、志木沢 郁 『立花宗茂』(学研M文庫)p220、 原田種真『立花宗茂』(廣済堂文庫)p346~p352、河村哲夫『立花宗茂』(西日本新聞社)p164~p168 を記述あります--218.162.117.24 2007年2月13日 (火) 02:11 (UTC)[返信]
  • 継室「矢島八千子」の出自について
「足利義昭の孫」とする記述があり{{要出典}}タグを張り付けて置いたのですが、説明無く勝手に削除されていたようです。{{要出典}}タグを再度貼ろうとしましたが、文字化けするためノートで問題提起いたします。足利義昭の家族については不明な点が多いですが、八千子の父・矢島秀行を義昭の息子とする史料は未見です。立花氏側の史料でそのような物が存在するのでしょうか。ご教示お願いします。(ちなみに該当の記述は現在コメントアウトさせています。) --こぶまき 2007年2月10日 (土) 17:14 (UTC)[返信]
河村哲夫『立花宗茂』(西日本新聞社)p153~p154、志木沢 郁 『立花宗茂』(学研M文庫)p187 、中野 等 『立花宗茂』(吉川弘文館)p269~p270を記述あります--218.162.117.24 2007年2月13日 (火) 02:11 (UTC)[返信]
吉川弘文館の本に出典の史料が載ってそうですね。確認してみます。ご教示ありがとうございます。 --こぶまき 2007年2月13日 (火) 02:49 (UTC)[返信]
本日、吉川弘文館人物叢書『立花宗茂』ISBN 4-642-05220-8 を入手して、ご指摘のページを確認しました。著作権の関係もありますので、要点だけを列記します。
  1. 八千子の父・矢島勘兵衛秀行の出身である矢島氏は近江国の豪族・児玉党の末裔とされる。
  2. 矢島秀行は足利義昭に従っていたが、元亀元年(1570年)、三好氏との合戦で戦死。
  3. 秀行未亡人と子供達は実家の菊亭家に身を寄せ、更に細川藤孝の元に引き取られる。
  4. 秀行の子・重成(八千子の兄か弟)は成長して宗茂に仕える。重成には「実は足利義昭の子」という噂があった。
以上から、八千子=足利義昭の遺児・孫とまでは言えないと考えます。
問題が解決したので、本文頭の{{要出典}}を外し、コメントアウトしていた部分は削除しました。--こぶまき 2007年2月20日 (火) 12:57 (UTC)[返信]

出典のない資料について[編集]

もちろん史料批判は必要ですが、かといって周辺状況に沿わない小説等の出典のない資料を元に重点的かつ詳細に記述する必要はあるのでしょうか?ご意見をお願いします。--yasumi 2009年1月28日 (水) 12:11 (UTC)[返信]

確かに、指導は感謝します。重点の資料はわずかに残して『立斎旧聞記(続群書類従 三)』の中であるかもしれなくて、私はその他の史料が記録があることがありますかを知らないで、お手伝いにこれらの武勇伝の関連している有利な史料を追求するように懇請することができますか?--220.141.45.120 2009年1月30日 (金) 11:24 (UTC)[返信]
逆だと思います。ウィキペディアは百科事典であり、武勇伝による人物顕彰の場ではありません。必要な事実関係を延べ、武勇伝は人物項目等のエピソードは概要最小限に止めるべきだと思います。--yasumi 2009年1月30日 (金) 12:18 (UTC)[返信]
現状を見るに、あくまで立花宗茂という人物を説明するのに、単に事象を羅列してあるから問題なのだと思います。そもそも雑多な内容の羅列は、ウィキペディアでは改善すべき項目に挙げられているので、現状の「人物」セクションの内容を、全体として意味のある内容に結合させれば問題ないかと思います。無論、出典の提示があることが原則です。私だと説明が難しいのですが、本来は説明したい事柄があって、それを補足する例としてエピソードが書かれるという主従関係であるべきなのに、このページは、主が居らず、従者がただ何人もいるだけに見えます。単純にエピソードが多く書かれているという意味では、織田信長徳川家康の記事もそうです。だけど、こちらは主がいるから未だ事典としての体裁を保っている。--EULE 2009年2月1日 (日) 10:23 (UTC)[返信]

今後の編集方針について[編集]

EULEさんの助言がありましたが、本来の人物伝としては年代順にもっとシンプルかつ客観的に事象を纏め、逸話については項目を設けてページ下方に配置する。こんな感じが良いと思うのですが、如何でしょうか?--yasumi 2009年2月14日 (土) 02:03 (UTC)[返信]

名将言行録について[編集]

名将言行録は二次史料としての質は悪い方です。あまり名将言行録の記述ばかり重視するのは望ましいことではありません。「名将言行録にこういう記述がある」ということは検証可能な事実であるため記載そのものに問題はないのですがより信頼性の高い二次史料に書かれている情報とは峻別した方がよいと思われます。--ShellSquid/履歴 2013年11月29日 (金) 07:47 (UTC)[返信]

名将言行録だけでなく、『筑前博多史料豊前覚書』、『立斎旧聞記(続群書類従 三)』、『柳川藩叢書 第三集』、中野等『立花宗茂』なども列出した。--122.118.48.21 2013年11月29日 (金) 08:02 (UTC)[返信]

Wikipedia:関連作品[編集]

葵徳川三代、及び各種ゲーム作品を「関連作品」として掲載するのは、「Wikipedia:関連作品」に反しています。「掲載すべきでない場合」における「ロッカーの関連作品にメタルギアシリーズを入れる」ようなものだと考えます。編集合戦の当事者なので私はこれらを関連作品から除去することはもうしませんが、掲載は妥当と考えている方は当該ガイドラインを参照下さい。--ShellSquid/履歴 2013年12月31日 (火) 03:16 (UTC)[返信]