立花鑑広

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立花鑑広
時代 江戸時代後期
生誕 文政6年8月21日1823年9月25日
死没 天保4年2月19日1833年4月8日
改名 万寿丸、鑑広
戒名 含章院殿玉英鑑広大居士
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
筑後柳河藩
氏族 立花氏
父母 立花鑑賢:文子(清光院)
兄弟 鑑広鑑備内藤政義継室、十時惟美室、小野隆興
特記
事項
死後に同母弟の鑑備が身代わりとなり、公式には同一人物とされた。
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立花 鑑広(たちばな あきひろ)は、筑後国柳河藩の第10代藩主。第9代主・立花鑑賢の長男。母は側室の清光院(宝珠山玄琢[1]の娘)。婚約者は山内豊資の養方叔母・兎見(山内豊策の娘)。夭折により末期養子規定の都合上、同母弟の立花鑑備が公式上、鑑広と同一人物ということになったために、明治35年(1902年)まで死去が極秘とされ、歴代藩主に数えられなかった。官位はなし。

生涯[編集]

文政6年(1823年)8月21日、柳河にて生まれる。文政13年3月23日1830年)に父に嗣子として指名され、その年の5月6日柳川城下を発ち、江戸に上る。直後に父が死去したため、同年8月19日にその家督を継いだ。しかし天保4年2月(1833年)に病に倒れ、11歳という幼少で死去した。

将軍に御目見することもなかった11歳では末期養子の許可が下りないと思われたので、鑑広は生存していることにして極秘に弟の鑑備が家督を継いだ。このために公式上は鑑広と鑑備は同一人物とされ、弟の鑑備はしばらく「立花万寿丸鑑広」を称し、後に改名した。

なお、1902年(明治35年)まで立花鑑広と立花鑑備が別人であることが極秘とされていたために、公表されるまでは鑑広改め鑑備が10代、鑑寛が11代ということになっており、墓も嘉永年間まで造られず、観音堂を造って代用された。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「惣侍分限帳」の小姓組無足に『十人扶持 宝珠山玄琢』とある。

参考文献[編集]

関連項目[編集]