鬼門

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鬼門(きもん)とは、北東=うしとら:の間)の方位のことである。陰陽道では、が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。鬼門とは反対の、南西、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。()を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とした。

陰陽道においては、西は陰、は陽とされ、北東と南西は陰陽の境になるので、不安定になると説明される。

中国から伝わったものとされるが、菅原 道眞が寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられ、道眞の建議により遣唐使は停止、延喜7年(907年)に唐も滅亡し、遣唐使の歴史に幕を下ろしている。現在において、中国の原書原典を見た上での説であれば説は成立するが、家相や鬼門に関しては、さまざまな諸説があり、正式な出典証明のない諸説ばかりであり、かつ整合性のある諸説もなく、諸説が一人歩きしているのが現状である。


鬼門の忌避[編集]

鬼門思想は中国から伝来した考え方であることに間違いはないが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは大きく違った思想になっている。なぜなら風水に鬼門思想はなく、日本独自の陰陽道の中で出来上がった日本独特の思想であると考えるべきである。

日本の鬼門思想は、これらからも、陰陽道と神道仏道宮廷での鬼門思想の文化から独自につくられたものである。 

現代でも、人々は、縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、ひいらぎ南天を植えたり、鬼門から水回りや玄関を避けて家作りする現状があり、根強い鬼門を恐れる思想がある。

十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、の像を鬼門避けとして祀ったりしたといわれている。代表的な例が、京都御所であるが、京都御所の北東角には軒下に木彫りの猿が鎮座し、鬼門に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がその方位だけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきた説がある。しかし、京都御所猿ヶ辻の名称由来は、上記のような理由ではまったくなく、魔除けのために日吉山王社の神の使いとされる猿を祀ることによるものである。

京都御所の築地塀 北東角の部分

現在でも、家の中央から見て鬼門にあたる方角には、玄関、便所、風呂、台所などの水を扱う場所を置くことを忌む風習が全国に強く残っている。また、南西の方位を裏鬼門として、鬼門同様、水まわりや玄関を嫌う風習も根強く残っている。これは、京都御所の築地塀が鬼門、北東方位を凹ませてあることから、御所ですら鬼門を恐れ避けている、鬼門を除けていると考えられ、それから鬼門を避ける鬼門除けの手法とされてきた。

また、都市計画においては、平城京では鬼門の方向に東大寺が、裏鬼門の方向に植槻八幡宮が、平安京では大内裏から鬼門の方向に比叡山延暦寺が、裏鬼門の方向に石清水八幡宮が、鎌倉では幕府から鬼門の方向に荏柄天神社が、裏鬼門の方角に夷堂 が、江戸では江戸城から鬼門の方向に東叡山寛永寺が、裏鬼門の方向に三縁山広度院増上寺が置かれたと、家相「雑書」にその時代の首都に寺が配されたと記述されているが、比叡山などは平安京ができる以前から寺が存在しており、当時の首都からみて、すでに存在する鬼門方位の寺を守護した事実が多く、鬼門の方位に寺を作った、裏鬼門に寺を作ったといわれているが、既存の寺を現在の恵方のように、その時代の首都からみた鬼門方位の寺を守護したと考えた方が妥当な状況が多い。また当時は、寺が絶大な権力や武力を有しており、止む終えず重用したとも思われる。

特に比叡山は自らの意に沿わぬと、僧侶たちが神輿(当時は神仏習合で、神と仏は一体である)をかついで強引な方法で訴えを起こす方法で、朝廷を押さえつけており、比叡山はその権威に伴う武力をもち、また財力もあわせ持ち、朝廷の意向を無視したような状態で、比叡山の力は奈良興福寺と並び、南都北嶺と権力者に恐れられた。つまり京都御所の北東方位を守護する意味で、比叡山を重用したものではない。現実には、日吉山王社を朝廷は重用していた事実が、猿ヶ辻に表れている。

また日光山の東照宮なども最たる例で、日光山には、輪王寺をはじめとした多くの寺が江戸幕府が成立するはるか以前から存在しており、その場所に後に日光山の中に東照宮ができている。多くの家相「雑書」に比叡山延暦寺が平安京の鬼門方位に建てられたとあるが、本来は延暦寺という寺自体も存在せず、比叡山全体にある寺をすべて総称して延暦寺としており、当時の平安京が、その暦号である延暦を与えたものであることも、家相「雑書」の大きな誤解でもある。「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。


学習研究社、江戸の暮らし事典によれば、江戸城の鬼門封じとして、さまざまな寺の名称が挙げられているが、神田明神が徳川家康により遷座され、長きに渡り江戸総鎮守として重用されてきたものとされている。

鬼門の真実[編集]

現代でも、家の中央から見て鬼門にあたる方角には、玄関、便所、風呂、台所などの水を扱う場所を置くことを忌む風習が全国に強く残っている。また、南西の方位を裏鬼門として、鬼門同様、水まわりや玄関を嫌う風習も根強く残っている。

これは、京都御所の築地塀が鬼門、北東方位が凹ませてあることから、御所ですら鬼門を避けている、除けていると考えられ、それから鬼門を除ける手法とされてきたことにある。建築家清家清著 現代の家相には、京都御所の猿ヶ辻を家相の教え通りに凹ませていると書かれている。

しかし、NHKブックス発行の建築歴史学者、(東京工業大学教授、名古屋工業大学名誉教授)内藤昌の著書「城の日本史」によると、安土城丹波福知山城安土城を真似たといわれる岡山城にも、地階、もしくは一階の東北部、すなわち鬼門方位に厠(トイレ)を設けることが当時の常道であったと書かれており、姫路城などでは、鬼門だけでなく裏鬼門である、南西隅にも厠が配置されていたと記述されており、当時は建物の対角線からみた中心点を基準とした鬼門方位に厠を設けることを単純に嫌っていたわけでないことが記載されており、一般的に伝えられている家相とは違い、あえて鬼門方位に厠を作ることを常道として築城は行われていたことが興味深いと研究されている。城など、当時の統制者が、鬼を自然災害や疫病、大火などと考え、鬼は恐れていたものの、毅然と戦っていたこともうかがわれる。

平安、室町時代[編集]

鬼門思想の元となる陰陽道は、平安時代が最盛期であり、そして室町時代はその繁栄期であったと、吉川弘文館発行「近世陰陽道の研究」、愛知学院教授、林淳の著書で述べている。陰陽道は平安貴族社会を基盤にして、展開した呪術的な宗教であったと、林淳氏は述べ、そして貴族の間に深く広がった理由を、律令制の神祇祭祀の中に陰陽要素を含む祭祀がすでに数多くあったことが大きいと述べている。それは、鎮花祭、風神祭、大祓、宮城四隅疫神祭、などの祭祀であると述べている。陰陽道に大きな影響を与えた神道は、創始者や教祖がおらず、そのため世界的にみても珍しい宗教で、仏教のような経典やキリスト教のような聖典がない。教えや内実はすべて神社と祭りの中に盛り込まれていると、茂木貞純、神社庁広報誌刊「神道と祭りの伝統」で述べている。

祭り、つまり祭祀により平安貴族は陰陽道と向き合っていたものと思われる。四隅疫神祭などにあるように、鬼門だけを特出して恐れて祭祀を行なっていたわけではなく、四方、四隅を大切に、疫神からの災いから免れるように願っていたのである。

特に正月元日に四方拝といい、元日に天皇が年災消滅、五穀豊穣を祈る行事を、寛平二年(890年)から現在まで恒例化しており、天皇が午前四時から四方を拝されている。毎日新聞社発行 「京都御所」 に記されている。


俗語の「鬼門」[編集]

以上のように、鬼門は本来呪術的な意味を持つ言葉であるが、転じて「よくない結果が起こりやすい事柄」に対してこの言葉が用いられるようになっていった。方角に限らず、場所、時間帯や特定の教科などを指すこともあり、その用途は幅広い。

主たる参考文献[編集]

  • 篠田信一 著 「陰陽師と貴族社会」 吉川弘文館
  • 林 淳 著 「近世陰陽道の研究」 吉川弘文館 
  • 内藤 昌 著 「城の日本史」 (日本放送出版協会 刊 1979) 
  • 毎日新聞 発刊 京都御所  昭和59年発行
  • 茂木貞純 著 「神道と祭りの伝統」 神社庁広報誌刊
  • 毎日新聞社 刊 『毎日グラフ別冊 京都御所』、1984
  • 江戸の暮らし事典  学習研究社
  • 日本仏教の礎 佼成出版社
  • 日本史伝文選. 上巻  幸田露伴 著  1920年 大鐙閣出版 P 133
  • 禁秘抄釈義. 上巻  明34.2  関根正直 著  p42
  • 禁秘抄講義 : 3巻  1927
  • 三十輻. 第4 国書刊行会  大田南畝 編
  • 現代の家相 新潮社 (1989/01) 清家清

関連項目[編集]