真田信繁
| 真田 信繁 / 真田 幸村 | |
|---|---|
| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
| 生誕 | 永禄10年(1567年) 一説に永禄13年(1570年)とも |
| 死没 | 慶長20年5月7日(1615年6月3日) 一説に寛永18年(1641年)とも |
| 改名 | 弁丸(幼名)、真田信繁、好白(法名) |
| 別名 | 通称:源次郎、幸村(史料的根拠無し)、 豊臣信繁、伝心月叟(史料的根拠無し)、 渾名:不思議なる弓取り |
| 墓所 | 長野県長野市の長国寺、 京都府京都市の龍安寺塔頭大珠院、 宮城県白石市の田村家墓所、 秋田県由利本荘市の妙慶寺 など |
| 官位 | 従五位下、左衛門佐 |
| 主君 | 上杉景勝→豊臣秀吉→秀頼 |
| 氏族 | 名字:武藤氏→真田氏 本姓:滋野氏、豊臣贈姓 |
| 父母 | 父:真田昌幸 母:宇多頼忠の娘・山手殿(寒松院)異説有 |
| 兄弟 | 信之、信繁、信勝、昌親 ほか |
| 妻 | 正室:大谷吉継の娘・竹林院(利世) 側室:豊臣秀次の娘・隆精院、 堀田興重の娘、高梨内記の娘 |
| 子 |
阿菊(石合重定室)、於市、 阿梅(片倉重長継室)、 あくり(蒲生郷喜室)、なほ(岩城宣隆室)、阿昌蒲(片倉定広室)、 おかね(石川貞清室) |
真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。永禄10年(1567年)とされる生年は没年齢の49歳から逆算されたもので、月日は不明。
武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫。大坂の役で活躍し、特に大坂夏の陣では寡兵を持って徳川家康本陣まで攻め込み、徳川家康を追いつめた。
江戸期以降、講談や小説などで、真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになった。
目次 |
[編集] 「真田幸村」の由来
現在では「真田幸村」の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め、信繁が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは見つかっていない。従って実在の人物の名としては「信繁」が正しい。
「幸村」の名が見られるようになったのは江戸時代で、寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』がその初出であると考えられる。その『難波戦記』が人気を博し、広く読まれたため「信繁」ではなく「幸村」とすることのほうが一般的となったと言えるであろう。時代が下るにつれ「幸村」の名があまりにも普遍化してしまったため、幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史にまで「幸村」が採用されている。
「幸」は真田家(厳密には真田家の本家にあたる海野家)の通字であり、「村」については信繁の姉の村松や、信繁の子孫が仕えた伊達家当主の伊達綱村、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来しているとする説がある。
「幸村」という名は信繁の死後100年以内で広まっているため、真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったのではないかとの推測もあるものの、現在のところ「幸村」という名が記された史料は見つかっておらず、立証されていない。また、夏の陣での死の2ヶ月前に「幸村」と改名したという説もあるが、大坂冬の陣と大坂夏の陣の半ばの慶長20年2月に叔父にあてた手紙や兄・姉にあてた手紙にも「信繁」と記されており、こちらも史料による裏づけはない。
[編集] 生涯
[編集] 出生から真田氏の自立
永禄10年(1567年)、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の次男として生まれたとされる。母は正室の山手殿[1]。
真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸綱(幸隆)の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属し、信綱は先方衆として信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。父の昌幸は幸綱の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。
幸綱は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが昌幸も城代を引き継ぎ、信繁は父に付き従い甲府(甲府市)を離れ岩櫃に移ったと考えられている。なお、天正7年(1579年)には武田・上杉間で甲越同盟が締結され上杉方との抗争は収束するが、一方で相模国の後北条氏との甲相同盟が破綻したため、上野国は引き続き緊張状態にあった。
天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順し上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵された。同年6月には上方で本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、越後国の上杉氏、相模の後北条氏、三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生する(天正壬午の乱)。真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正10年(1585年)には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。この際に信繁は上杉氏のもとに人質として置かれ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたという。
上方で織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると昌幸は豊臣政権に帰属し、独立大名として自立する。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘を正妻に迎えている。文禄3年(1594年)11月2日、豊臣氏名義で従五位下左衛門佐に叙任される。[2]
豊臣氏時代の信繁の動向は史料が少なくほとんどわかっていない。文禄3年の叙位叙勲も、信幸のそれと同時であったかもしれないからという類推どまりで、事実として確定しているわけではない。伏見に滞在していたときに出したとみられる信繁の書状が残っている。
[編集] 関ヶ原の合戦
秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)のため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。
東軍は東海道と中山道を分かれて進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠の大軍勢を城に立て籠もって迎え撃った(第二次上田合戦)。少数精鋭である真田隊にてこずった徳川秀忠軍は落城攻略を諦めて去ったが、結果として関ヶ原での決戦に間に合わなかった。秀忠軍が去った後も海津城将の森忠政は葛尾城に井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度打って出て夜討と朝駆けの攻撃を敢行している。
三成率いる西軍は、9月15日、徳川軍主力といえる秀忠率いる3万5千到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまった。
蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去。慶長17年(1612年)には信繁は出家、好白と名乗った[3]。
[編集] 大坂城に入城
慶長19年(1614年)、「方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣し、黄金200枚、銀30貫を贈った。信繁は国元にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入城した。大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたという(真田の赤備え)。
[編集] 大坂冬の陣
慶長19年(1614年)に開戦した大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、先ずは京都を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられず終わる[4]。しかし大坂城に籠城する策と決定すると、真っ先に信繁は大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃を与えて初めてその武名を天下に知らしめる事となる。(真田丸の戦い)。しかし、この真田丸を造る際、大坂方の大野治長を始めとする他の武将は信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた[5]。
冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。そして大坂方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し「十万石下さるべく候旨」条件を提示し寝返るよう説得している [6] 。しかし信繁はこれを断った。すると家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出た。これを聞いた信繁は「この信繁、十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという[7]。
[編集] 大坂夏の陣
「天王寺・岡山の戦い」も参照
慶長20年(1615年)年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた[8]。
ただし道明寺の戦いでは先行した後藤基次隊が真田隊の援軍が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては当日の濃霧であるなど諸説ある。またこのときの指揮権は信繁にはなく、大野治長が持っていた。そのため後藤基次の戦死の責任は信繁だけにあるとは言えないが、所定の時間に付く事ができず、合流した信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と慰め、退却の指揮をとったという[9]。
豊臣方は後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、疲弊していった。信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみと直訴したが、豊臣側近衆や母の淀殿に阻まれ秀頼の出陣はならず。豊臣氏の滅亡が濃厚となる最中、信繁は毛利勝永と共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させ、これを迂回させた明石全登の軽騎兵団に横撃させるというものだった。しかし毛利隊の前面諸将が独自の判断で射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなった。そして信繁は、「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!」とつぶやき[10] 、真っ正面から家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行した。この突撃は真田隊のみではなく、左翼から攻める毛利隊、明石隊らも奮闘し家康本陣に肉薄した。
まず真田隊は越前松平家の松平忠直隊を蹴散らし、毛利隊らに手一杯であった徳川勢の隙を突き家康本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らした(ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる)。しかし、最終的には軍勢で勝る徳川軍に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していた[11]ところを襲われ、忠直隊鉄砲組の西尾宗次にその首を授けた。享年49。
信繁討死の翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で毛利勝永の介錯により自害、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上。勝永自身も自害し、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。しかしその後、大坂では信繁は生きており、秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという噂が流れたと言われているが、さらに噂では薩摩国の島津家領内に逃隠れし墓もあると言われている。実際に、信繁の子孫と伝えられる真江田家も残されている。
[編集] 人物
- 旗印である六文銭(正しくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれている。冥銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれている。
- 信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。また、信之は『幸村君伝記』において「幸村は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」とも語っている。
- 家康を追いつめた勇猛な名将として語り継がれたが、夏の陣の戦功においては、毛利勝永のものも取り込んで過大に伝えられたと考えられる。毛利勝永も信繁と同等以上に活躍したが、知名度において信繁に劣ったため、その戦功も後世に伝えられるうちに信繁のものとして伝えられるようになった。江戸時代中期の文人・神沢杜口(かんざわとこう)は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで毛利勝永の活躍を賞賛し「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と記している。
- 一般には江戸時代になってから、講談等でその名将ぶりが知られる事になるが、徳川に敵対したにもかかわらず幕府側はそれを敢えて禁ずることはなかった。これに関しては、「その忠勇に敵方も武士として尊意を示した」「主君に最後まで忠義を尽くすという筋立てが幕府に容認された」とされる。他に、「二代将軍となった秀忠の関ヶ原での遅参を誤摩化すため、真田親子が名将の方が都合が良かった」「大坂の陣でやや不甲斐なかった徳川勢を遠回しに擁護するため」という見方なども存在する。
- 家康は大坂方の諸将の中で最も活躍した信繁に脅威を覚え、大坂冬の陣の後には信繁の兄・真田信之に命じて信濃一国40万石で彼を調略しようとしているが、この破格の条件に興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通している(一説には叔父真田信尹に命じて上田10万石とも)。
- 信繁の忠臣説には異を唱える者もある。
- 信繁と徳川氏は「不倶戴天の敵」であったといわれるが、これは後世の俗書や小説等による影響である。
- 関ヶ原に西軍として参戦し、改易され、復活を遂げた数少ない大名である立花宗茂や丹羽長重も、本領に復帰する前に与えられた所領は宗茂が陸奥棚倉1万石、長重が常陸古渡1万石であった。宗茂や長重より知名度も実績も劣る信繁が信州40万石を与えられる可能性は低い。信繁本人も真に受けなかったと推察される。
- 家康からの破格の条件を断ったのが、豊臣家への忠誠のためであったかについては実証することはできず、逆に信繁の兄や叔父らが徳川家の臣下であることを根拠に「信繁は徳川方の間者である」という豊臣家臣からの誹謗中傷もあったと言われている。
- 既に触れたように幸村は後の時代に創られた名前のため信之が信繁ではなく幸村と言う訳もなく、後世の脚色であると思われる。後世の真田関係の資料は信繁を「幸村」として神格化させる動きがあり、真田信繁関係の資料の信憑性には疑問がある。
- 真田信繁の方が実は長男で信之が実は次男なのだが、信繁の母の方が身分が低いので長男と次男を入れ換えられたという異説があり、源三郎、源二郎の順序入れ替わりの謎もその傍証の一つとされる。しかし、父の昌幸(幼名:源五郎)と父の弟である信尹(幼名:源次郎)も幼名は順番になっていないことから、この異説は憶測の域を出ていない。
- 信繁の愛槍は、「十文字槍」というもので、両鎌槍を強化して作られた細めの槍であった。槍の柄は朱色に塗られ、真田の赤揃えに恥じぬ名槍だった。刀は正宗、脇差しは貞宗。徳川に仇なす妖刀として有名な村正を所持していたという説もあるが、こちらは資料そのものの信憑性が疑問視されている[4]。
- 徳川家康はあの世に行ったら真っ先に酒を酌み交わしたい人物であるとまで評した。
- 大坂の陣の時、後藤基次の近習を務めた長沢九郎兵衛という者が、後年口述筆記させた『長沢聞書』によると「真田左衛門佐(信繁)は四十四、五にも見え申し候。ひたひ口に二、三寸の疵跡あり小兵なる人にて候」とある事から、年齢相応(大坂入城時、信繁48歳)な容姿をした小男であったと言う事が出来よう。
[編集] 評価
- 島津忠恒(ただし、この戦いに島津氏は参加しておらず、伝聞から信繁の奮戦ぶりを推測して話した)
- 「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。」[12]
- 細川忠興
- 「左衛門佐、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄。」
- 『大坂御陣覚書』
- 「真田は味方の諸軍乱走るも機を屈せず、魚鱗に連なりて駆け破り、虎韜に別れては追い靡き、蜘蛛手十文字に掛け破らんと、馬の鼻を双べて駆け入り、其の速かなるは疾雷の耳を掩ふに及ばざるが如し。」
- 『翁草』
- 「真田は、千載人口に残る奇策幾千百ぞや。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚の名を得ず、徳川の毒虫なりと世に沙汰せり、当世の英雄真田を非ずして誰ぞや。絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。」
- 『北川覚書』
- 「車軸を流す雨の如く候へども、真田が備、一人も散らず真丸に堅り、とてものがれぬ処にて候間。一寸も後をみせ候なと、皆々念仏を唱へ、死狂に懸り候。」
- 『元和先鋒録』
- 「真田左衛門合戦の様子奇怪の節多し、此の日初めは茶臼山に出、夫より平野口に伏兵を引廻し、又岡山に出て戦ふ。後に天王寺表に討死す。其の往来抜け道の跡、今に相残り候旨、実にしやかに書き記し候。」
- 『山下秘録』
- 「家康卿の御旗本さして、一文字にうちこむ、家康卿御馬印臥せさすること。異国は知らず、日本にはためし少なき勇士なり、ふしぎなる弓取なり真田備居侍を一人も残さず討死させる也。合戦終わりて後に、真田下知を知りたる者、天下に是なし。一所に討死にせるなり。」
- 『言緒卿記』(公家・山科言緒の日記)
- 「天王寺にて度サナタ(真田)武辺(勇敢に戦った)、其後討死」
真田軍の名は不朽のものとなり、武勲にあやかろうとした諸将が信繁の首から遺髪をこぞって取り合いお守りにしたと言われる[13]。
[編集] 墓所
真田信繁の墓所(正確には供養墓・供養塔)は、以下の複数が確認されている。
- 龍安寺塔頭大珠院(京都府京都市)
- 信繁の七女おかねの夫石川貞清(宗林)は、竹林院を始めとする信繁の遺族を援助したことでも知られ、龍安寺に信繁夫妻の墓を建立した。この墓は鏡容池の弁天島に現存するとされるが、非公開となっている。
- 田村家墓所(宮城県白石市)
- 長国寺(長野県長野市)
- 孝顕寺(福井県福井市)
- 信繁の首を取った越前松平家の家臣西尾仁左衛門が、自家の菩提寺に首塚を建立。実際に首が埋葬されたかは不明(真田一族の奪還を恐れ、別の場所ともいわれる)。
- 妙慶寺(秋田県由利本荘市)
- 四女・御田姫(顕性院)が真田家(信繁系統)の菩提寺として建立した寺。墓はないが位牌が残されている。
また、逃亡伝説に基づいた墓所も全国に点在する。
- 田原家私有林墓石(鹿児島県南九州市頴娃町牧ノ内の雪丸地区)
- 真田幸村は、大阪の陣のあと、島津の軍船で鹿児島に逃れ、谷山(今の鹿児島市谷山地区)に上陸した。鹿児島では、真田幸村は芦塚左衛門と名乗ったが、現地の者は、真田幸村を芦塚大左衛門、その子・真田大助幸昌を芦塚中左衛門、孫を芦塚小左衛門と区別していた。その後、豊臣秀頼を谷山においたまま、尾根伝いに揖宿郡頴娃村(今の南九州市頴娃町)に潜入し、(牧ノ内)雪丸に居を構え住んだ。その名残として墓が立てられたが、その墓には何の刻印もない。真田幸村は、頴娃村摺木の百姓娘との間に隠し子をもうけたが、徳川幕府の追及を逃れるため、その娘を(別府)大川の浦人に嫁がせ、生まれた子は瓢左衛門と名づけられた。その子孫は、幕末になって、名字帯刀を許され、真江田姓を称し、(別府)大川の真江田家・難波家の墓には六文銭が刻まれている。
- お篭もり堂(長崎県南島原市西有家町)
- ここには、真田幸村の墓(推定)があり、眞田大助幸昌の子孫とされる山田芦塚家の墓は雲仙旧山田村牧之内にある。
- 一心院(秋田県大館市)
[編集] 系譜
信繁には多くの子がいたが、真田氏における真田信繁家としては、嫡男の大助(真田幸昌)が生まれた時には既に九度山へ幽閉されており、幸昌は大坂城にて子を作らぬまま自害、この系統は絶えた。
次男の大八(真田守信)は、伊達家重臣で後に三女・阿梅の夫となる片倉重長の元で姉達とともに保護され、後に元服し片倉守信となった。以降、公式に残る信繁唯一の家系・仙台真田家として現在も続く事となる。なお、片倉姓から真田姓に復したのは守信の子・辰信の時である。
- 両親
- 兄弟
- 妻子
[編集] 伝説
元和元年(1615年)5月7日、享年49で死去したものとされるが、幸村には影武者が何人も居たとの伝承があり、そのため大坂城が落ちるのを眺めつつ、豊臣秀頼を守って城を脱出し、天寿を全うしたという俗説がある。
「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたり加護島(鹿児島)へ」というわらべ歌が流行したという。当時の人々の心情が流行り歌になったのだろうとも見られる。
[編集] 「真田三代記」
『真田三代記』は江戸元禄期の歴史小説であり、真田昌幸・幸村・大助の三代、親・子・孫が徳川を相手に奮闘する物語である。後に生まれる真田十勇士中、猿飛佐助と望月六郎を除いた八勇士が登場。これが十勇士の原型とみられ、幸村を題材にした講談の流布とともに真田人気に繋がった。
土橋 治重による現代語訳がPHP文庫から刊行されている。
[編集] 真田十勇士
真田幸村の忍者として著名な「真田十勇士」は、『真田三代記』や『難波戦記』を底本として、大正時代に一世を風靡した立川文庫の中の一冊·「猿飛佐助」が大好評を博し、その総集編のタイトルとして使われたのが始まりとされる。類似したケースに「尼子十勇士」がある。ただし、資料によって若干のバラツキが見られる。
主に上がる名前は、猿飛佐助、霧隠才蔵、根津甚八、由利鎌之助、筧十蔵、三好清海入道、三好伊三入道、望月六郎、海野六郎、穴山小介。ただし、幸村の息子である真田大助を入れるケースもある。
いわゆる現在の幸村伝説と、彼をとりまく十勇士の顔ぶれが確立したのは、明治末から大正初期にかけて子どもの人気を集めた『立川文庫』からである。猿飛佐助や霧隠才蔵は架空とも言われるが、海野六郎・根津甚八・望月六郎の姓は真田の本家である海野氏など滋野三家であり(根津に関しては、浅井長政の忘れ形見とされる浅井井頼がモデルという説もある)、また三好兄弟はそれぞれ三好政康・三好政勝がモデルと言われている。ただし、政勝は家康側として参陣した。
真田領の近くに、忍びの里として有名な、「戸隠の里」がある。
[編集] 脚注
- ^ 一説に、信繁の実母は山手殿ではなくもっと身分の低い女性で、信繁は兄の信之より1つ上で1565年生まれであるという。この説によれば、信繁の存在が山手殿の知るところになり、実の子として育てる代わりに信之の年子の弟として育てたということだが、確実な史料からの実証はできない。
- ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」
- ^ 「真好白」「真好白信繁」などと署名した木村綱守や河原左京などに宛てた書状が現存している。
- ^ a b 『名将言行録』
- ^ 『俊藤合戦記』。大野治長が後藤基次に相談したが一笑に付されたとされる。
- ^ 『慶長見聞書』
- ^ NHK『その時歴史が動いた』「真田幸村 どん底からの挑戦 ~家康を追いつめた伝説の名将~」2003年4月9日放送。
- ^ 『北川覚書』
- ^ 『大坂陣聞書』
- ^ 『武徳偏年集成』
- ^ 信繁自身が、傷つき疲れた身体を休ませていただけとの説もある
- ^ 薩藩旧記雑録(伊地知季安著、明治30年完成)に収録されるとするが、薩摩藩士の得能通昭著(宝暦8年)島津久光写(天保13年)の島津編年史の『西藩野史』(『西藩野史』鹿児島私立教育会 明治29年 国会図書館 近代デジタルライブラリ)では、大坂の陣における真田の記述は一切なく、当然、島津家久の発言もない。
- ^ 『滋野世記』
[編集] 参考文献
- 山村竜也『真田幸村 伝説になった英雄の実像』(PHP研究所)ISBN 978-4569643267
- 三池純正『真田信繁 「日本一の兵」幸村の意地と叛骨』(宮帯出版社)ISBN 978-4863660687
[編集] 関連作品
[編集] 小説
- 真田信繁(幸村)が主人公の小説
- 『真田太平記』池波正太郎
- 『真田幸村』尾崎士郎
- 『真田幸村』海音寺潮五郎
- 『真田幸村』柴田錬三郎
- 『軍師二人』(短編)司馬遼太郎
- 『異聞真田幸村』中田耕治
- 『幸村殿、艶にて候』秋月こお
- 『魔風海峡』荒山徹
- その他の小説
[編集] 映画
- 真田信繁(幸村)が主人公の映画
- 『真田幸村』(1910年、演:尾上松之助)
- 『真田漫遊記』(1913年、演:尾上松之助)
- 『真田三代記 第一篇 幸村の巻』(1920年、演:尾上松之助)
- 『真田幸村漫遊記』(1920年、演:澤村四郎五郎)
- 『真田幸村』(1921年、演:澤村四郎五郎)
- 『真田幸村と大助』(1922年、演:嵐珏松郎)
- 『風雲急なり大阪城 真田十勇士総進軍』 (1957年、新東宝、監督:中川信夫、演:田崎潤)
- 『真田幸村の謀略』(1979年、監督:中島貞夫、演:松方弘樹)
- その他の映画
- 『忍術 猿飛佐助』(1976年、松竹、演:若林豪)
- 『あずみ2 Death or Love』(2005年、監督:金子修介、演:永澤俊矢)
- 『劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生!』(2007年、監督:長石多可男、演:陣内智則)
- 『茶々 天涯の貴妃』(2007年、監督:橋本一、東映、演:黄川田将也)
[編集] テレビドラマ
- 真田信繁(幸村)が主人公のテレビドラマ
- 『風雲真田城』(1964年、ABC、演:高田浩吉)
- 『真田幸村』(1966年、TBS・ナショナル劇場、演:中村錦之助)
- 『真田太平記』(1985年、NHK新大型時代劇、演:草刈正雄)
- 『風雲!真田幸村』(1989年、テレビ東京・東映、演:北大路欣也)
- 『家康が最も恐れた男 真田幸村』(1998年、テレビ東京・12時間超ワイドドラマ、演:松方弘樹)
- その他のテレビドラマ
- 『大坂城の女』(1970年、フジテレビ、演:中村竹弥)
- 『春の坂道』(1971年、NHK大河ドラマ 演:島田正吾)
- 『風神の門』(1980年、NHK水曜時代劇、演:竹脇無我)
- 『猿飛佐助』(1980年、日本テレビ、演:川崎麻世)
- 『関ヶ原』(1981年、TBS、演:南条弘二)
- 『徳川家康』(1983年、NHK大河ドラマ)、演:若林豪)
- 『風雲 柳生武芸帳』(1985年、テレビ東京、演:山村聡)
- 『独眼竜政宗』(1987年、NHK大河ドラマ、演:若林豪)
- 『春日局』(1989年、NHK大河ドラマ、演:高橋悦史)
- 『影武者徳川家康』(1998年、テレビ朝日、演:伊藤敏八)
- 『葵徳川三代』(2000年、NHK大河ドラマ、演:西郷輝彦)
- 『武蔵 MUSASHI』(2003年、NHK大河ドラマ、演:中村雅俊)
- 『天地人』(2009年、NHK大河ドラマ、城田優)
- 『サムライ・ハイスクール』(2009年、日本テレビ、加藤雅也)
- 『江〜姫たちの戦国〜』(2011年、NHK大河ドラマ、浜田学)
[編集] 人形劇
[編集] ミュージカル
- 真夏のスペシャル・ミュージカル『真田幸村』~夢・燃ゆる~(2007年8月7日、大阪・松下IMPホール、演:桜花昇)
- 『YUKIMURA~我が心 炎の如く』(2010年1月22日~23日 大阪 サンケイホールブリーゼ:演 OSK日本歌劇団桜花昇ぼる)
[編集] アニメ
- 『猿飛び佐助』東映アニメ
- 『猿飛佐助 闇の軍団』
- 『まんが猿飛佐助』(1979年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)、ナック 声:勝田久)
- 『戦国英雄伝説 新釈 眞田十勇士』(2005年、新釈眞田十勇士製作委員会 声:郷田ほづみ)
- 『MUSASHI -GUN道-』(2006年、「MUSASHI」製作委員会 声:木下紗華)
- 『戦国BASARA』『戦国BASARS弐』(2009年、2010年、Production I.G製作 声:保志総一朗)
- 『へうげもの』(2011年、山田芳裕原作、NHK 声:佐々木啓夫)
[編集] 漫画
- 『花の慶次』原哲夫
- 『SAMURAI DEEPER KYO』上条明峰
- 『BRAVE10』霜月かいり
- 『虚無戦史MIROKU』石川賢
- 『戦国BASARA 乱・世・乱・舞』霜月かいり
- 『戦国BASARA2』灰原薬
- 『戦国BASARA2~落花流水の章~』綾瀬マナ
- 『殿といっしょ』大羽快
- 『真田忍術秘帖』(くもぎり太郎 ラポート『こんにちは劇場』収録 1994年)
- 『戦国SANADA~愚連隊~』平松伸二
- 『御指名武将真田幸村 かげろひ -KAGEROI-』浅岡しゅく
- 『戦国★カンパニィ』小田原愛
- 『GATE7』CLAMP
[編集] ゲーム
- 『幸村外伝〜真田幸村 大阪夏の陣〜』(ツクダホビー)ボードゲーム
- 『歴史大戦ゲッテンカ』(制作:セガ)アーケードゲーム
- 『信長の野望』シリーズ(コーエー)
- 『太閤立志伝』シリーズ(コーエー)
- 『決戦』(コーエー 声:堀秀行)
- 『戦国無双』シリーズ(コーエー 声:草尾毅)
- 『無双OROCHI』シリーズ(同上)
- 『真田十勇士』(ケムコ)
- 『婆裟羅』(シリーズ1作目)(ビスコ 声:千葉進歩)
- 『戦国BASARA』シリーズ(カプコン 声:保志総一朗)
- 『天下人』(セガ 声:私市淳)
- 『はじめて戦国王子』(ケイブ 声:名村幸太郎)
[編集] 歌謡曲
[編集] 外部リンク
- rokumonsen.com/真田信繁(真田幸村)
- 豊臣氏存続 - 真田信繁の本姓が豊臣であることについて記述
- 真田幸村という名前の謎
- 城と古戦場・猛将列伝真田幸村da:Yukimura Sanada
en:Sanada Yukimura es:Sanada Yukimura fa:سانادا fr:Yukimura Sanada id:Sanada Yukimura it:Sanada Yukimura ko:사나다 노부시게 no:Yukimura Sanada pl:Sanada Yukimura pt:Sanada Yukimura ru:Санада Юкимура th:ซานาดะ ยูคิมูระ vi:Sanada Yukimura zh:真田信繁