衆道
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衆道(しゅどう)とは、「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、日本においての、男性による同性愛・少年愛の名称・形態。別名「若道」(じゃくどう/にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)。
平安時代に公家や僧侶の間で流行したものが、中世以降武士の間にも広まり、その「主従関係」の価値観と融合したとされる。
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[編集] 概要
日本への制度としての男色の渡来は、仏教の伝来とを同じ時期であるとされる。仏教の戒律には「女犯」という僧侶が女と性交する事(女色)を忌避するものがあった。そのため、女色に代わって男色が寺社で行われるようになった(男色の対象とされた少年達は、元々は稚児として寺に入った者たちである)。近代までの俗説的な資料によれば衆道の元祖は弘法大師空海といわれている。
平安時代にはその流行が公家にも及び、その片鱗はたとえば複数の男性と関係した事を明言している藤原頼長の日記『台記』にうかがえる。また源義経と、弁慶や佐藤継信・佐藤忠信兄弟との主従関係にも、制度的な片鱗を見出す説もある。
北畠親房が『神皇正統記』の中で、男色の流行に言及しており、その頃にも流行していた証拠とされている(室町時代においては、足利義満と世阿弥の男色関係が芸能の発展において多大な影響があったとされている)。
戦国時代には、戦国大名が小姓を男色の対象とした例が数多く見られる。織田信長と前田利家・森成利(蘭丸)[1]ら、武田信玄と高坂昌信、伊達政宗と片倉重長・只野作十郎[2]、上杉景勝と清野長範[3]などが有名な例としてあげられる[4]。武士道と男色は矛盾するものとはまったく考えられておらず、「葉隠」にも男色を行う際の心得について説く一章がある。
江戸時代においては陰間遊びが町人の間で流行し、日本橋の葭町は陰間茶屋のメッカとして繁栄した。『東海道中膝栗毛』発端には喜多八はそもそも弥次郎兵衛の馴染の陰間であったことが述べられており、『好色一代男』には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と書かれている。
このように日本においては近代まで男色は変態的な行為、少なくとも女色と比較して倫理的に問題がある行為とは見なされず、男色を行う者は別に隠すこともなかった。しかし江戸時代後半期に入ると衰退し、幕末には一部の地域を除いてはほとんど廃れ、更に明治維新以降にはキリスト教的な価値観が広まったことによって異端視されるようになった。
[編集] 用語
- 陰子(かげこ) - まだ舞台を踏んでいない修行中の少年俳優。密かに男色を売った。
- 陰間(かげま) - 売春をする若衆。
- 飛子(とびこ) - 流しの陰間。
- 念此(ねんごろ) - 男色の契りを結ぶ。
- 念者(ねんじゃ) - 若衆をかわいがる男役(立ち側ないし攻め側)。兄分とも。
- 若衆(わかしゅ/わかしゅう) - 受け手(受け側)の少年、若者。
- 竜陽君 - 陰間の異称。由来は魏の哀公の寵臣の名。
[編集] 脚註
- ^ 信長と森乱丸(蘭丸)の関係については異説ならびに異論もある。詳細は森成利参照。
- ^ 信玄と昌信、政宗と作十郎(勝吉)については一次史料である書状が現存している。ただし、高坂のものは該当する史料に改変の痕跡があり、近年では信玄との関係を疑問視されている。
- ^ 景勝と長範について記す史書は江戸時代になって成立したもので二次史料ではあるが、当時の長範の知行等の待遇や逸話などから考えると、景勝と長範が実際に男色関係にあった可能性もあると推論されている。
- ^ 戦国時代の主従間の男色関係の中には主君の主導によらないとされる関係もある。浮気を謝罪する内容である信玄から昌信へ宛てたとする手紙は、その一例である。
[編集] 参考文献
- 「武士道とエロス」氏家幹人 講談社現代新書 1995年 ISBN 406149239x

