新宿二丁目
新宿二丁目(しんじゅくにちょうめ)は、東京都新宿区にある丁目である。同性愛者向けのバーやクラブなどが集中し、大阪市北区の堂山町と共に世界有数のゲイ・タウンとして知られている(後述)。通称はニチョ、二丁目。
江戸時代に宿場(内藤新宿)が置かれたことを起源とし、史跡が存在する。その後、1960年代ごろまでは色街として栄えた。
目次 |
概観 [編集]
面積約0.10km²。住民基本台帳上の人口は1,083人、世帯数は694世帯(2004年(平成16年)1月1日現在)。北は靖国通り、南は新宿御苑に挟まれた町である。最寄駅は新宿三丁目駅(都営地下鉄新宿線、東京地下鉄丸ノ内線、東京地下鉄副都心線)または新宿御苑前駅。
なお、現在の新宿二丁目の区域は1973年(昭和48年)1月1日に住居表示が施行されてからのものであり、それ以前は現在の新宿三丁目の東端の一部を含む区域であった。以下の記述ではこれを「旧新宿二丁目」とする。
歴史 [編集]
江戸時代 [編集]
江戸幕府開幕により、甲州街道は江戸から甲府までの主要街道として整備されたが、第一の宿場は高井戸宿であり、その間旅人は難儀をしたという。そのうち、現在の新宿二丁目近辺に人家ができ、1625年(寛永2年)には住民の願いにより太宗寺門前の町屋ができ、これを内藤新宿と呼ぶようになった。「宿」とはいっても、正規の「宿場」ではなく、甲州街道や成木街道(現・青梅街道)を利用する人馬が休憩所として利用していたので、そのように呼び習わすこととなったという。
現在の「新宿」という地名の元となった内藤新宿は、前述の内藤宿を含む辺り(現在の新宿一丁目、二丁目、三丁目界隈)に、浅草阿部川町の名主高松喜兵衛他5人が幕府に願い出て許可され誕生した。内藤新宿は風紀上の理由により1718年(享保3年)に一度取り潰しとなったが、55年後の1772年(明和9年)に、五代目名主高松喜六の請願運動により再興した。
内藤新宿は江戸四宿の一つであり、木賃宿や平旅篭が軒を並べて賑わっていたが、飯盛旅篭(飯盛女と呼ばれる遊女を置く旅篭)も多く、明和9年の記録では、幕府は内藤新宿に150人の飯盛女を置くことと、旅篭屋52軒の営業の許可を出している。官許の吉原に比べれば格は低く「馬糞臭いところ」と呼ばれていた。
明治以降 [編集]
内藤新宿は、明治維新以後も色街としての性格は変わらなかった。1873年(明治6年)に「貸座敷渡世規則」が施行され、遊女屋は娼妓に座敷を貸す形での営業が認められる事となったため、それまでの飯盛旅篭は「貸座敷」と呼ばれるようになり、新宿一丁目辺りから新宿三丁目の追分交差点付近まで、53軒の貸座敷が軒を連ねていた。1921年(大正10年)頃までは「張り見世」といい、娼妓が遊客の「お見立て」を待っていたというが、これは後に警視庁に禁止され、代わりに写真を置くようになった(写真見世)。
1918年(大正7年)、警視庁の命令により、貸座敷は旧新宿二丁目の北西部の一角に移転することとなる。元来この場所には牧場があったため「牛屋ヶ原」と呼ばれていた。この牧場は芥川龍之介の実父新原敏三が1888年(明治21年)から1913年(大正2年)まで経営していたところである。
なお、東京市四谷区に編入されたのは、1920年(大正9年)であり、それまでは東京府豊多摩郡内藤新宿町であった。
遊廓移転 - 売春防止法施行 [編集]
移転作業は1921年(大正10年)頃に一旦完了するが、移転した遊郭は火事で焼失してしまう。1923年(大正12年)に再建され、「新宿遊郭」と呼ばれるようになった。
1923年(大正12年)の関東大震災により、吉原や洲崎等の遊郭はほとんど焼けてしまい、被害を受けなかった新宿遊郭は全盛期を迎える。東京の人口が西に拡大したことによる新宿駅近辺の繁栄、折からの近代化によるサラリーマン層の増加とあいまって、新宿遊郭はインテリ層やサラリーマンを対象とした「モダン遊郭」として大いに受けた。この頃「二丁目」といえば新宿遊郭を指したのである。
しかし新宿遊郭は、1945年(昭和20年)戦災により焼失してしまった。終戦後の1946年(昭和21年)、GHQによる公娼廃止指令により公娼制度が廃止された。しかし、いわゆる赤線地帯として生き残り、風俗営業法の許可を受け、特殊飲食店(カフェー)として売春業は存続することとなった(赤線時代の面影を窺わせる建物が、現在もわずかに残っている)。
赤線地帯は道路整備等の関係で「新宿遊郭」時代の範囲より狭くなり、現在の新宿二丁目北西部の約100メートル四方の場所に所在し、約100軒のカフェーが営業していた(風俗営業法の許可を受けていないモグリの店もあり、これは青線と呼ばれた)。客層はサラリーマンや学生等が多かったという。この時代の二丁目は、吉行淳之介や五木寛之の小説などの舞台になっている。
1958年(昭和33年)、売春防止法の施行により、「赤線(旧遊郭)の街」としての旧新宿二丁目は幕を閉じることとなり、旅館や飲食店、ヌードスタジオ、トルコ風呂(ソープランド。現在も数軒営業中)などが点在する地域になった。その後遊郭や旅館の殆どはビジネスホテルなどにその姿を変え、旧新宿二丁目西端(現新宿三丁目東端)エリアは要町と呼ばれる[1]、「要通り」や「末広通り」などを有する都内屈指の飲み屋街になり、現在の二丁目は世界屈指のゲイタウン(後述)へと変貌を遂げた。2008年には東京メトロ副都心線の新宿3丁目駅が開通し、周辺はミニバブルが起きるなど、商業・オフィスエリアとしても注目を集めている。
史跡 [編集]
現在でも、宿場時代や遊郭時代の史跡を見ることができる。
- 太宗寺(9番2号)
- 成覚寺(15番18号)
- 内藤新宿の遊女の投げ込み寺であった。境内にある「子供合埋碑」(遊女の共葬墓地)、心中した遊女と客や宿場内で不慮の死を遂げた者を供養する「旭地蔵」にその当時の面影を窺う事ができる。
- 正受院(15番20号)
- 三社稲荷神社(16番2号)
ゲイ・タウンとしての新宿二丁目 [編集]
概要 [編集]
新宿二丁目はゲイタウンであり、新宿通りから靖国通りに抜ける、およそ250mの「仲通り(なかどおり)」がメインストリートである[2]。この通りを中心にゲイバーなどが約450店[3]ほど軒を連ね、ゲイグッズを扱うショップ、同性同士で利用可能なホテルなどが集まっている(詳細は後述)。ただ実際は新宿3丁目や5丁目などその周辺にもゲイバーなどのゲイスポットが点在しており、ゲイタウンの範囲は「二丁目を中心としたエリア」ということになる。また二丁目から離れた歌舞伎町、西新宿(新宿駅西口)、北新宿/大久保、代々木(新宿駅南口)エリアなど比較的広範囲にゲイスポットがある。
2008年の東京メトロ副都心線の新宿三丁目駅開設をきっかけに、二丁目エリアが商業・オフィスエリアとして脚光を浴び、ゲイタウンの存続を危ぶむ声も上がり始めている(後述)。
歓楽街としての特徴 [編集]
ゲイの多くは普段はカミングアウトしておらず、異性愛者を装って暮らしている。そんなゲイにとって二丁目は心を許せる数少ない場所であり、様々な属性のゲイが東京近郊は勿論、全国から集まってくる。男性同性愛者は、ゲイ(ホモセクシャル)、オネエ(非女装トランスジェンダー)、女装家(女装トランスジェンダー、女装はするが身体は男性のままでいたい人)と実際はタイプが分かれており(ニューハーフ《トランスセクシュアル》は今は女性とされ、同性愛に含まれない)、二丁目において数の上で主流はゲイである。メディアでよく取り上げられる女装やニューハーフ系の店は、二丁目にはとても少ない。
「ゲイバー#ゲイバーの分類」も参照
新宿歌舞伎町がアジア系暴力団の台頭などでカオスの様相を呈しているが、二丁目は元々男性で構成されている為、暴力団の介入が少ない。また同性愛者の歓楽街であることから、異性愛女性にとってはむしろ安心して遊べてしまう場所でもある。しかしゲイ男性からは異性愛女性客は必ずしも歓迎されているわけではない。彼女たちは「“女”であることを意識せずにすみ、気が楽」という一方で、ゲイとの間にロマンスが起きることを密かに期待している[4]。ゲイを性欲の対象として見ている女性もいる。だがゲイにとって異性は性的には受け付けない存在であり、人目を忍んで出会いたいと思っているゲイには、異性愛女性に入って来られるのは迷惑なことでもある[5]。性欲のはけ口にされるのもセクハラ被害を受けていることと変わらない。また冷やかしや興味本位でゲイ男性に近づこうとする女性との間でトラブルが起きることも少なからずあり、二丁目を訪れる異性愛者には性的マイノリティを尊重しようという意識を持つことが求められる。
2丁目内では、普段はお互いに友好的ではない面があるが、質の悪い客が悪さをするや連絡網で一帯に伝わり、協力体制を敷いて皆で駆逐する侠気の伝統があり、「二丁目を守る」事に於いては皆で団結を惜しまない。しかし昭和から平成に変わった頃を境に、店主(ママ・マスター)の世代交代が徐々に進み、若年層の店主が増え始めた。この為、前述した「二丁目を守る」ことに対する意識に温度差が生じている。
街を守る意識はどの店にも共通しており、国内外の著名人も多数お忍びで訪れるが、それらの情報は秘匿にするマナーも有する街である。各店舗・テナントは又貸し以上が多く、敷金礼金が不要なケースが多いがその代わり家賃そのものが高いシステムが多い。2000年(平成12年)から、新宿二丁目振興会を中心に、ゲイ・レズビアンのためのイベント「レインボー祭」が毎年開催されている。
ゲイタウンの歴史 [編集]
ゲイタウンの始まり [編集]
戦後初期の東京では新宿は未開の地であり、ゲイバーの多くは上野、浅草、新橋エリアを筆頭に各繁華街に数軒ずつが点在していた程度といわれ、現在のような巨大なゲイ・タウンはどの町にも見られなかった。また「同性愛と同性心中の研究」(1985年.小峰研究所.小峰茂之・南孝夫共著)によると戦前の一時期に「上野公園」に男娼がたむろしていたことが知られており[6]、戦後直後から高度経済成長期にかけては、二丁目より上野の方が男娼や同性愛者の街として風俗雑誌などに取り上げられていた[7]。
ゲイ・タウンとしての新宿二丁目の歴史は1960年代半ばから始まると言われる。当時はゲイに対するタブー視も強くはっきりとした資料は存在しないが、空家となった元赤線の店などを利用してゲイバーが営業を始め、徐々にその数を増やしていったものと思われる。
戦後初のゲイバー「やなぎ」 [編集]
戦後初のゲイバーは1945年(昭和20年)、新橋の烏森神社参道に開店した島田正雄(通称:お島さん)が経営する「やなぎ」といわれ、比較的女装バーの色合いが強い店であった。この店は「青江のママ」こと青江忠一、「吉野のママ」こと吉野寿雄両人のような女装の名物ママを輩出したバーとしても知られる(後に銀座にゲイバーを開いた青江はカルーセル麻紀の師匠にあたり、同店では東郷健も働いていた。吉野は1963年に六本木にゲイバー「吉野」を開店する)[8]。またやなぎには、江戸川乱歩、アラン・ドロン、ピエール・カルダン、イブ・サンローランなどの著名人も訪れていた。この後、三島由紀夫の小説「禁色」に出てくるゲイ・バア「ルドン」のモデルとなるゲイ喫茶「ブランスウィック」も現在の銀座五丁目近辺に開店する。同店には美輪明宏がボーイとして働いており、その時吉野は客として訪れている。その他神田には1949年(昭和24年)に開店した「シルバー・ドラゴン」があった[9]。
新宿初のゲイバー「イプセン」 [編集]
新宿で最初のゲイバーは1951年(昭和26年)開店の「イプセン」[10](旧新宿二丁目要町界隈,現新宿3丁目)。当初は喫茶店であったが、口コミでゲイバー化することとなる。そして、前田光安が銀座に開いていた「蘭屋」[11]が同じ要町界隈(末広通り)に移転する。辺りは「蘭屋」のほか、「ラ・カーヴ」、「ロートレック」、外国人客が多かった「SHIRE(シレ)」[12]などのゲイバーとともに新宿ゲイ・タウンの礎となる街を形成する。要町以外では、「夜曲」(角筈1丁目,現在のアルタ裏)[13]「ユーカリ」(歌舞伎町)、「アドニス」(区役所通り)があった。このように新宿にゲイタウンが最初にできた場所は、今の三丁目東端(旧二丁目西端)エリアだった。今のニ丁目で現在も続くクラブでは1966年開店の「NEW SAZAE」が最も古いといわれる[14]。
この頃のゲイバーの分類は現在と幾分違っており、女装バーの占める割合が高かったとされる。男性性を求めるゲイのためのバーは後年になって急激に増えたが、お客がボーイを指名して売春行為が可能であったり、店内でお客同士によるハッテン行為が出来るなど、いわば性に直結したスタイルの営業が多かった[要出典]といわれる。
売春防止法以降: 要町から現二丁目へ [編集]
1958年(昭和33年)売春防止法が施行されると、空き家となった現在の二丁目の地所を買い取り、積極的に移転を行ったのが前述の蘭屋を経営する前田である。要町からの移転先は現在の仲通り界隈ではなくラシントンパレス(スカイジム)跡地南側、新宿御苑にごく近いほんの狭小なエリアであり、「バル」、「ビザン」など他の店や、旧二丁目要町界隈とともに新宿ゲイタウンの中核となっていく。このように新宿二丁目がゲイ・タウンとして産声を上げたのは1960年代半ば以降であるとされる。因みにこの場所は緑園街といわれ、現在も御苑大通りから東の方向に「緑園街」入口の看板を目にすることができる。
緑園街の区画整理を受けて「蘭屋」は三度目の引っ越しを余儀なくされる。前田は新宿二丁目不動通り近辺を中心に不動産を買い、そこに移転を図る。このとき沖縄出身であった前田が一族を呼び寄せ、沖縄料理を中心とした飲食業を展開したのが二丁目に多く存在する沖縄料理店の所以であるといわれる。以後、不動通りの北側エリアにもゲイバー出店が相次ぐ。
1970年代 - 1980年代: ゲイ雑誌と二丁目 [編集]
1971年(昭和46年)にゲイ雑誌としては日本で7番目以降(商業ゲイ雑誌としては初)の「薔薇族」創刊後、「アドン」(廃刊)、「さぶ」(廃刊)、「The Gay」(廃刊)、「SAMSON(サムソン)」等が続いたが、いずれの雑誌にも多かれ少なかれゲイバーの広告が掲載されていた。1980年代頃からは、雑誌ページの三分の一程度が広告ページになり、ゲイバー・風俗店・ビデオメーカーの広告で埋め尽くされていた。その為、雑誌の本編の内容が広告主であるゲイバーや風俗店に「行きましょう」と促すものが増え、差し詰め「広告クライアントの啓蒙雑誌」の様相を呈した時期があった。この頃からゲイの間で「二丁目」「二チョ」といえば、ゲイ・タウンとしての新宿二丁目を指すようになった。また、一部の芸能人が飲みに訪れることから、一般の週刊誌等にも多く取り上げられるようになったのも1970年代後半 - 1980年代前半以降である。
1970年代 - 1980年代中頃: ゲイディスコ [編集]
1966年にはクラブ「NEW SAZAE」は既に開店しており、後にゲイディスコミュージックのスーパースター「ヴィレッジ・ピープル」や「クイーン」のフレディ・マーキュリーも来店した[15]。
1976年、新宿五丁目の靖国通り沿いの瀟洒な白いビル、Qフラットに美輪明宏が「クラブ巴里」を出店(厳密にはゲイバーではない)、同年5月には同じビルに薔薇族(後述)編集長の伊藤文學による「談話室 祭」が開店した[16]。
このQフラットビル地下には「ブラックボックス」という当時としては最も進んだ異色のゲイディスコがあり、ゲイや外国人、パンク風スタイルの若者らが集まった。通常のディスコと違い入場料は男性のほうが安かった[17]。この頃「ツバキハウス」(伊勢丹裏,ノンケ中心)も全盛で、常連は2つの店を往き来していた。また二丁目には「MAKO」や「ブギーボーイ」、雑誌などでよく取り上げられていた「フルハウス」もあった。「MAKO」(現BYGSビル東向かい)は70年代後半頃できた小さいビルの3階にあった店で、入って左がレジとカウンター右がフロアーで、その境は高さの違う円柱で仕切られ、奥にソファーがありフロアの壁面には鏡が貼られていた。若いゲイがこれほど多く集まった店は当時はなく、満員電車並に混雑し店内に入れない客は階段や路上をウロウロした。また世界的ゲイマップマガジン「スパルタクス」に先に触れた「SHIRE」、「リージェント」(現東京三協信用金庫)[18]等と共に載っていたこともあり、外国人客も多かった。「MAKO」は1980年に隣のビルに移って「MAKO2」となり、元の場所はゲイバーになったが、移転先の「MAKO2」は盛況だったものの1985年5月、突然閉店した[19]。二丁目のゲイディスコの運命は、皮肉なことに異性愛女性客が増えると客のメインとなるゲイの男性客が離れ、必ず潰れていった[19]。
その頃の新宿二丁目のゲイディスコを知る手がかりとして、比留間久夫が1984年頃に書き始めた小説「YES・YES・YES〜夜の街をさまよう少年たちの甘く、残酷な、愛の冒険〜」には、「文化祭の模擬店のようなチャチな照明と安っぽい装飾でこしらえられた店で…平日の夜中だというのにたくさんの若い男の子がいた…ここは発展場というところなんだろう…皆、壁やカウンターに寄り掛かりながらも、また狭いダンスエリアでひび割れた鏡に自分を映し、何かに憑かれたように踊りながらも、その目は何かに焦がれるように間断なくあたりを徘徊している…」といったことが書かれている。又1985年に売専バー“K”で働いていたストレートの男性は「二丁目の“S”という老舗ゲイディスコは…調度品といえば天井に小さいミラーボールがついているくらいなのだが、何といってもそこにいる人が凄かった。インディアンみたいな小太りのおっさんやトシちゃんみたいな美少年が踊り狂ってるわ、キリストみたいな外人がボーっとしてるわ、ミック・ジャガーに似た歯の抜けた店員らしき男がハイキックバリバリで踊り狂ってるわ、背の高いマッチョの店員が踊り狂ってるわ、外人のモデルっぽい男女がチチクリ合ってるわ、サラリーマンみたいのが寝てるわ、僕は酔っ払ってビックリしてるわ、で正しくタイやヒラメがヒラヒラしているような感じだった。ちょっとカッコよくいうと“S”は混沌としていた」といっている[20]。
バブル期以降(1): ゲイブーム [編集]
1988年、フジテレビ系「笑っていいとも」で始まり、その後一年続いた人気コーナー、「Mr.レディー & Mr.タモキンの輪」[21]が火を点けたニューハーフブームがまず起こり、1990年頃からはメディアで「ゲイブーム」が起きた。比留間久夫の二丁目を舞台にした小説「YES・YES・YES」(1989年)が文芸賞を受賞し、多くの週刊誌で取り上げられ話題になった。それに続き文藝春秋の雑誌「クレア」(1991年2月号)が、「ゲイ・ルネッサンス'91」という医学・社会・文化・芸術・風俗など多岐にわたる47ページのゲイの大特集を組んだのを筆頭に、SPA!「ゲイの聖地・新宿二丁目ヌーベルバーグ体験ルポ」(91年4月24日号)、DIME「仕事ができる女はゲイが好き」(91年5月16日号)、朝日ジャーナル「ゲイに恋する女たち」(91年7月12日号)、アエラ「当世大学生事情 キャンパスに咲く“ゲイ・ルネサンス”」(93年10月25日号)、マルコポーロ「普段着のゲイ」(94年2月)など、多くの雑誌がそれに続いた。別冊宝島でも度々ゲイが取り上げられ、テレビのワイドショーなどでもゲイ特集が組まれた[22]。
1990年には「動くゲイとレズビアンの会」(通称OCCUR)が東京都の宿泊施設の利用を拒否されたことがメディアに取り上げられ(「府中青年の家事件」)、結果として同性愛が注目を浴びることになった[23]。
文学では他に、両刀の男娼を描いた中上健次の『讃歌』(90年)、比留間久夫の2作目でゲイとニューハーフを描いた「ハッピー・バースデイ」(90年)も話題を集めた。エドマンド・ホワイト「ある少年の物語」、「美しい部屋は空っぽ」、パトリシア・ネル・ウォーレン「フロントランナー」など、海外ゲイ小説もこの時期に邦訳された。
ゲイ映画も多く公開され、1980年代後半のイギリスのゲイ映画「アナザー・カントリー」、「モーリス」の日本公開を経て、ゲイの青年同士の恋愛模様をドッキュメンした小島康史監督「らせんの素描」(91年)、リバー・フェニックスとキアヌ・リーブスが主演した「マイ・プライベート・アイダホ」(91年)、主演の豊川悦司がゲイを演じた「きらきらひかる」(92年)、中島丈博監督「おこげ」(92年、一部は二丁目で撮影されている)、キャストにゲイが登場した滝田洋二郎監督の「眠らない街 新宿鮫」(1993年)、橋口亮輔監督作品で、袴田吉彦が主演した「二十才の微熱」(93年)、岡田義徳主演の「渚のシンドバッド」(95年)、トム・クルーズとブラッド・ピット主演の「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」(94年)、レオナルド・ディカプリオが主演した「太陽と月に背いて」(1996年日本公開)、今泉浩一監督の「憚り天使」(1999年)などが公開された。
テレビドラマでは、日本で初めて本格的に男性同性愛やバイセクシュアル、ニューハーフを全編に渡って描いた日本テレビ系連続ドラマ「同窓会」(93年)が話題を集め、放送時間帯には新宿二丁目が閑散としたほどだった。その他、キャストの一部に西島秀俊演じるゲイが登場するフジテレビ系「あすなろ白書」(93年)、同性愛がテーマで池内博之主演の日本テレビ系「告白」(97年、エンディング主題歌も同性愛がテーマのユーミン『告白』)、つかこうへいの戯曲が原作で、五輪を目指し水泳に情熱を燃やす2人の青年の愛を描いた同「ロマンス」(99年、新宿二丁目でもロケが行われた)などが放映された。
因みに「同窓会」では野外発展場や二丁目の売り専バーが、「新宿鮫」では歌舞伎町の発展旅館が出てきて衝撃を与えた。また「同窓会」に出てくるゲイバー「スプラッシュ」の店名はニューヨークに実在したゲイバーから取られ、セットは二丁目に実在した「ZIP」(現ANNEX)がモデルだった[24]。その他TBS系「上岡龍太郎がズバリ!」でもゲイの回が放送され、「ゲイ50人」(Badiに出演者募集のTBSの広告が掲載された)や「サラリーマンのゲイ」のほか、ニューハーフの回も多く放送された。
1994年にはユーミンこと松任谷由実がバディの創刊号(1994年)を脇に抱え、仲通り交差点の「薔薇の文庫センター」「ベルジュルネ」(後に「レインボーワールド」に統合,現在閉店)の前で写真に収まったことは有名[25]。
そのほか90年代は、ゲイパレード(94年)が始まったり、新興ゲイ雑誌のBadiとG-menの2誌が創刊されたり、ゲイビデオ会社が激増した時代でもある。このようにゲイが注目を集めたり、ゲイマーケットが拡大した一連の現象は90年代ゲイブームと呼ばれ[26]、「ゲイ・タウン」としての新宿二丁目の知名度も上がることになった。
バブル期以降(2): ゲイナイト [編集]
「日本のゲイ文化」も参照
また既述のようなゲイディスコはそれまでもあったが、1989年に日本初の一般向けクラブでの「ゲイ・ナイト」が開かれる。ユキ・インターナショナル代表の加藤ユキヒロらがニューヨークのクラブカルチャーを吸収して持ち込んだもので、1989年の5月13日に花園神社裏の「ミロス・ガレージ」(現『クラブワイヤー』)で記念すべき第一回目が行われ、以後は毎週土曜日に開催された。1991年には1000人規模の大バコ(大規模)クラブ、芝浦「GOLD」でゲイナイトが始まり、二丁目から芝浦直行のバスが出るほどだった。GOLDの他にも西麻布「イエロー」、芝浦「オー・バー」、スポーツジム系野郎ノリを生み出した日比谷「ラジオシティ」、歌舞伎町「CODE」や「LIQUIDROOM」など二丁目界隈を超えて広がりをみせた。二丁目にも伝説的なゲイナイト向け常設クラブ「ディライト」が94年にオープンし(97年閉店)、その他のゲイバーでもゲイナイトは頻繁に開かれるようになった。ゲイナイトはそれまで比較的少人数だったゲイの集まりを、一気に数百〜千人単位の規模に押し上げた[27]。最近は国内外から毎回3千人を集めるモンスターゲイパーティー「Shangri-La@ageHa」(通称アゲハ)などが有名である。
古い町並みは変貌したが、新宿近辺の他地区のような大規模再開発は行われなかったことや、折からのゲイブームも手伝って、街はゲイで賑わい、メインストリートの仲通りは足の踏み場がないほどゲイで溢れ返ったことは記憶に新しい。
1990年代:室内発展場の隆盛 [編集]
詳細は「クルージングスペース」を参照
戦後直後から1960年代頃までは、東京では、出会いや発展の場といえば野外や映画館の暗がりが中心で、「男娼の森」といわれた上野公園や、日比谷公園、信濃町駅最寄りの権田原などが有名だった。1960年代から特に70年代は東京は発展旅館(その頃は淫乱旅館)の黎明期で、浅草大番・24旅館、上野大番・大宝(後の大宝サウナ)・双美家・一条・大泉、渋谷千雅、新橋の銀座ビジネスイン、池袋西武園(1958年開店)[28]・泉(後のJIN-YA)などができはじめた。新宿は歌舞伎町に大番(旧コマ劇の北側)ができたが、発展旅館の多くは大久保に集中していた。その中には新宿ビジネスイン、新宿ビジネスクラブ、旅荘法師、新大久保のホテル・キャンパスがあり、四谷にも料亭を改造した「たま井」が60年代には開店していた。発展旅館の一部はその後建て替えられ、サウナなどを備えた大型発展施設になった。
古めかしい淫乱旅館を経て、1980年代はクルージングスペースができ始める。だが当時の二丁目はゲイバーやディスコが中心で、クルージングスペースといえば仲通りと新宿通り交差点の「スカイジム」(ラシントンパレスに81年開店)があったくらいで、少し離れた歌舞伎町「ダムアダム(damAdam)」(新宿区役所から路地一つ挟んだ北)[29]、要町(新宿三丁目)「かぶきサウナ」、四谷三丁目「バスストップ」(旧春樹)を含めても多くはなかった。因みにラシントンパレスがホテルだった頃、そこにロラン・バルトやミシェル・フーコーが定宿して二丁目のゲイバーに繰り出していた[30]。
バブルの1990年前後頃から雑居ビルやマンションの一室に開いたビデオボックス(ビデボー)や簡易クルージングスペースなど、新しいスタイルの発展場が激増する。客層が比較的若いのが特徴で、秋葉原「ビックマン」(80年代後半開店、SG系・着衣系)や新中野「ロン」、二丁目では「AmsTrip」(90年頃開店、着衣系)、「バナナプラント」(脱衣系)、「ブラックボックス」(着衣系)、「バックドロップ」(着衣系)、「パラゴン」(93年開店,脱衣系)、テレビ電話を導入した「DuO(デュゥオ)」(新宿一丁目,着衣系)などができた。その後も発展場は出来ては消えるなどしたが、2003年2月には新宿24会館ができている。
また1970年代くらいまでの二丁目はバースタイルの売り専ホストが主流だったが、1982-83年頃からプレジデント(90年閉店)、センチュリー、ハピネス[31]、マリンボーイ[32]など、個室にボーイが待機しマジックミラー越しに指名するマッサージ店が増えていった[33]。
百合の小道(レスビアンバー) [編集]
「百合の小道」」又はL字カーブを描いていることから「L通り」(Lロード)といわれる、女性同性愛者が集まる一角がある。かつてはレスビアンバーは数軒程度しかなかったが、比較的近年からはこの通りを中心に30軒程度あると言われている[34]。Lロードではないが、女性から男性に性転換した人たちの男装バーも1軒ある[35]。殆どの店はレディース・オンリーで男性客は入店できない。
レスビアンバーの歴史 [編集]
レスビアンバー1号店はいつ何処にできたかは未検証だが、1963年8月1日号の『週刊現代』「東京同性愛地帯のインテリ女性たち」や、1966年11月23日号の『週刊漫画サンデー』「深く、静かに流行する"レスビアン"」、1967年9月25日号『平凡パンチ』「レズビアン・バーに潜入」などにはビアンバーについての記述がある。
現在: 少子化とネット時代へ [編集]
現在では、ゲイバーなど約450店を始め、ゲイを対象としたショップ等が立ち並んでいる。因みにゲイ・イエローページ「Gclick」(2013年)によると、2丁目エリアにあるゲイバーは274、売り専バー17、出張・売り専28、マッサージ(整体院含む)43、発展場15、ゲイ系店舗トータルでは402店となっている(西新宿・歌舞伎町・代々木・北新宿/大久保含めず)。そのほか非店舗系のゲイ企業とビアンバーがある。因みに西新宿はゲイ系店舗が18、歌舞伎町は14、北新宿・大久保は13、代々木(新宿駅南口)は9店立地している[内訳 1]。ゲイバーの多くは入り口のドアに「会員制」等のプレートを貼り女性客の入店を断っているが、ストレート(異性愛者)の男女客も入店可能な「観光バー」と呼ばれる店などもある。
昨今、ゲイ・タウンとしての新宿二丁目には往時の勢いがなくなってきたと見る向きもある。最もゲイで溢れていた1990年代と比べると、目抜き通りは閑散とし、数分の一程度に人通りは減っている。異性愛者向けの店舗やオフィス、そして異性愛女性の客が増え、ゲイタウンとしての特色も薄れてきている。その背景には、折からの不況や少子社会になったこと、90年代頃から発展場が都内や全国各地に激増したこと(その為、二丁目の通りやゲイバーは空いていても、発展場の中はゲイで溢れていることがある)、 インターネットの急激な普及で「普通の同性愛者」どうしが気軽に出会えるようになったこと、上野・浅草・渋谷・新橋・池袋など、二丁目以外の街や私鉄沿線の駅前にもゲイバーが増えたことなどが輻輳し、わざわざ二丁目に出向く必要性が薄れてきたことなどがあると考えられる。ゲイの中には二丁目を敬遠し二丁目以外に出向く者もいる。
これらは日本のゲイを巡る状況の変化、すなわち自分が同性愛者である事を、以前より比較的オープンに表現できるような社会になりつつあることも関係しているのかもしれない。
二丁目が消える? [編集]
2008年に地下鉄副都心線の新宿三丁目駅が開設したことで、二丁目界隈が商業・オフィスエリアとして注目を浴び始めた。その結果ミニバブルが発生して地価は上昇し、ゲイバーの入る不動産家賃も上がっている。高層オフィスや異性愛者向けの店舗も急激に流入してきており、リーマン・ショック以降の不況や二丁目に来るゲイが減っていることも相まって、経営不振から閉店に追い込まれるゲイバーが続出している。経営が苦しくなったゲイバーは異性愛者にも店を開放して難を凌ごうとするが、そのことでクローゼットの同性愛者は益々ゲイバーに行きにくくなり、ゲイの街の特色をも薄れてしまうスパイラルに陥っている。それはゲイカルチャーの堕落を意味するという声もある[36]。また異性愛女性の客が増えることは、結果として性的少数者の居場所や権利を奪うことにもなっている。ゲイ男性にとって、異性愛女性から性的に言い寄られることは迷惑でもある。
薔薇族2代目編集長の竜超氏は「消える新宿二丁目-異端文化の花園の命脈を断つのは誰だ?」(彩流社)で、「ゲイの街二丁目は、今や風前の灯」にあるとして、その危機を追っている[37][38]。一方、オーストラリアではゲイバーへの女性客の入店を禁止することが認められた。理由は女性客がゲイ男性をヘテロにしようとセクハラし、不安におとしいれるからというものだった[39]。
2013年3月、副都心線と東急東横線が直通し新宿三丁目駅の利用者増が予想されている。ゲイ・ビアンバーが一般店舗に乗っ取られるなど、ますます同性愛者の街・二丁目が衰退するのではないかと危惧されている。
脚注 [編集]
- ^ 「末広通り」「要通り」界隈の飲食街を「要町」と呼ぶことがあるが(東京新聞平成15年12月23日「わが街わが友9 新宿要町」、さぶ1985年5月号エレクト広告「要町カバリエ」)、正式な地名ではない。
- ^ SPA!「ゲイの聖地・新宿二丁目ヌーベルバーグ体験ルポ」(91年4月24日号)。
- ^ 産経新聞7月3日配信「新宿二丁目最大のゲイバーグループ摘発」
- ^ 朝日ジャーナル「ゲイに恋する女たち」(1991年7月12日号)
- ^ フジテレビ系「ピカルの定理 じゅりあなにオネエ軍団来店」(2012年10月24日放送)より[1]。
- ^ 「同性愛の一類型(男娼)について:戦前の一時期上野公園に屯した男娼群の観察を通して」『同性愛と同性心中』(1985年 小峰研究所 小峰茂之・南孝夫)
- ^ 上野を男娼や同性愛の街として取り上げた戦後の文献一覧
「飢餓と淪落の生態 上野に拾う職業諸相」『旬刊ニュース』32号(1947年1月1日,角達也、男娼について)
「上野の人々」『実話新聞』(1947年10月28日 - 男娼について)
「狩り込み探訪記:男娼も居る上野の夜」『桃色ライフ』(1949年4月25日,関本喜仲)
「上野の森:夜の生態男と女」『探訪読物』(1949年6月1日,牧竜介,男娼について)
「作家と男娼と強盗」『週刊読売』1953年8月2日(男娼・上野・三島由紀夫について)
「上野駅で街娼手入れ」『読売新聞』(1956年8月24日,男娼について)
「男娼に気をつけろ」『風俗奇譚』(1960年1月)
「上野の森の昼も夜も 禁じられた犯罪・情事のメッカ」『週刊サンケイ』(1960年11月21日)
「上野ホモ・ガイド完全レポート:『ホモ生活 上野の24時間』『上野を裸にしてみる・直撃座談会』など」『アドニスボーイNO.8』(1973年,アドニス通信社)
「上野の森で」『性生活報告』(1990年11月,HM生,男娼の森・男娼について)など。 - ^ 「サービスの達人たち」(新潮文庫・旧タイトル「日本のおかま第一号」)及び新潮45-2005年9月号「三島由紀夫に長嶋茂雄…名物ゲイバー吉野のママが語る隠花植物的人性」、クレア1991年2月号「ゲイルネッサンス91」P87(文藝春秋)
- ^ 2006年11月11日伊藤文学のひとりごと「戦後のゲイバアをのぞく①」
- ^ 新宿初のゲイバー「イプセン」
- ^ 蘭屋
- ^ SHIRE
- ^ 夜曲があったのは大久保ではなく角筈です。『Badi』1998年3月号「伏見憲明のゲイ考古学〜ゲイバー編4〜」によると、「角筈1丁目796ゲイバー“夜曲”経営佐藤静雄さんが…」(読売新聞 1962年(昭和37年)9月7日付け「新宿のバーで殺人事件」)という記事を引用した記述があります。現在のアルタの裏という解説も伏見さんが加えています。西大久保は現在の歌舞伎町二丁目、東大久保は5丁目の一部などで、夜曲のあった場所ではありません。
- ^ 2007年12月8日放送アド街「新宿2丁目」[2]。
- ^ 2011年12月24日放送アド街「新宿2丁目 Xmas SPECIAL」[3]
- ^ 月刊『薔薇族』編集長伊藤文學の談話室祭,ネット版伊藤文学のひとりごと「祭の幕は上がった」[4]
- ^ ブラックボックス:男性ワンドリンク500円、女性1000円。
- ^ 外専バー「リージェント」
- ^ a b 「オトコノコのためのボーイフレンド:ゲイ・ハンドブック〜クルージングゾーン①スナック、ディスコ〜」(1986年発行少年社・発売雪淫社)。
- ^ 別冊宝島124「SEXというお仕事〜ボクが売春夫になった理由〜」
- ^ 笑っていいとも Mr.レディー & Mr.タモキン
- ^ テレビ朝日で放送されていた深夜の情報番組「プレステージ」(91年)ではゲイが特集された。司会は蓮舫や飯星景子、ゲストには伊藤文学、伏見憲明、アキ企画系パラダイスビデオの制作スタッフ、映画「らせんの素描」に出演したゲイの青年らが出演した。そしてPARADISE VIDEOのゲイビデオが視聴者プレゼントされた。伊藤氏は同番組のゲイに特化した回ではない時も何度か出演している。
- ^ 新聞やニュースのほか関東ローカルのテレ朝系「プレステージ」では司会ラサール石井、パネラー竹中労らでこのトピックが討論された。
- ^ 1994年2月マルコポーロ「普段着のゲイ〜ゲイの楽園新宿二丁目ボクたちの愉しみ方〜」
- ^ 「よくわかるゲイ・ライフハンドブック」(宝島books)。因みに、二丁目にはゲイにファンが多い中島みゆきの愛好家が集まるゲイバー(みゆきバー)が3軒あった。「36.5度」「西海岸」「碧珊瑚」のうち「西海岸」は90年代半ばに閉店した。また現在でも二丁目クラブでは、ユーミンナイト、みゆきナイトが定期的に開かれている。
- ^ メイゴグ「コイトゥス再考 #20越えがたきジェンダーという背理」(伏見憲明)。
- ^ バディ1998年5月号P52~53「同じゲイなら踊らにゃソンソン」
- ^ 西武園広告。
- ^ ダムアダム広告。
- ^ 『フーコーとクイア理論』 (岩波書店,2004年)。
- ^ センチュリーとハピネス(1985年さぶ5月号)。
- ^ マリンボーイ 1986年。
- ^ 「オトコノコのためのボーイフレンド:ゲイ・ハンドブック 〜ゲイ産業〜」(1986年発行少年社・発売雪淫社)。またさぶ(1985年5月号)にプレジデント、センチュリー、ハピネスの広告が載っている。
- ^ 2012年11月20日放送TBS系「有吉ジャポン」より。
- ^ 2011年12月24日放送アド街「新宿二丁目 Xmas SPECIAL」より。
- ^ アド街2011年12月24日放送「新宿二丁目 Xmas SPECIAL」での山田五郎氏の発言より。
- ^ 『消える「新宿二丁目」―異端文化の花園の命脈を断つのは誰だ?』(彩流社、2009年)ISBN-13: 978-4779114106
- ^ 2009年2月13日伊藤文学のひとりごと「『消える新宿二丁目』〜竜超君の本は街とゲイそのものの未来を予言する本だ!」
- ^ "Australian gay bar wins right to ban 'predatory females' ". Nothing To Do With Arbroath. JUNE 11, 2011.
- ^ 新宿地区のエリア別ゲイ店舗の数(ビアンバー、非店舗系ゲイ企業含まず)
- 新宿二丁目 402
- ゲイバー 274
- 売り専バー17
- 出張・売り専 28
- マッサージ(整体院含む)43
- 発展場15
- その他 25
- 西新宿 18
- 歌舞伎町 17
- 北新宿・大久保 14
- 代々木 9
- 新宿地区トータル 460 (「Gclick」2013年1月27日)より。
- 新宿二丁目 402
参考文献 [編集]
- 地獄へ行こか 青江へ行こうか―女より女らしく・青江ママのゲイ道一筋六十年 青江忠一 (ぴいぷる社,1989年《平成元年》刊)
- トンデモ美少年の世界―あなたを惑わす危険な人々 唐沢俊一 (光文社文庫,1997年《平成9年》刊)
- 日本のおかま第一号 野地秩壽 (1999年〈平成11年〉刊)
- 『どん底』五十年の歩み(竹書房,2001年〈平成13年〉刊)
- 決定版 三島由紀夫全集〈38〉書簡 (新潮社、2004年〈平成18年〉刊)
- 荷風! 特集大人の新宿(日本文芸社季刊版、2004年〈平成18年〉刊)
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- 新宿区観光協会 “新宿史跡・文化財” 散策マップ
- アド街2004年2月14日放送「新宿二丁目」
- アド街2007年12月8日放送「新宿 二丁目」
- アド街2011年12月24日放送「新宿二丁目 Xmas SPECIAL」
- ゲイタウンページ
- Gclick -新宿二丁目 ゲイイエローページ-
- 新宿二丁目ナビ 新宿二丁目総合情報
|
||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||
|
||||||||||||||||