玉川上水
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玉川上水(たまがわじょうすい)は、多摩川の羽村取水堰を水源とし東京都羽村市から新宿区四谷までを流れる用水路(上水道)である。江戸幕府により江戸市中への飲料水供給を目的として開削され、一部区間は現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。
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[編集] 概要
[編集] 流路
東京都羽村市の羽村取水堰より多摩川の水を取水し、東流する。多摩川水系は現在でも東京の水源の1/3ほどを占めており、毎秒17.2m³の水が水道用水の原水として利用されている。ここで取水された水の大部分は、取水堰の下流約500mに位置する第三水門第3水門で取水され、埋設鉄管によって東村山市にある東村山浄水場まで送水されている。これより下流、西武拝島線と多摩都市モノレールの玉川上水駅前(南口)に架かる清願院橋から300m程下流にある小平監視所(かつては玉川上水と野火止用水の分水地点であった)までは、水道源導水路として現役活用されており少量の水が流れている。この水は小平監視所から東村山浄水場への送水管と現役の農業用水路である新堀用水の双方にパイプで通水される。これより下流は、かつては多くが新宿区の淀橋浄水場まで送水されていたが、淀橋浄水場が廃止されてからは現役の水道施設としては利用されていない。
これより下流は、東京都の清流復活事業により高度二次処理下水が通水されている。高度二次処理下水が通水されている区間は、浅間橋(杉並区久我山)までで、木が茂り森林状となっている部分も多い。途中小平市から武蔵野市までの区間は五日市街道と併走する。 途中、東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近にある境橋(旧武蔵国多摩郡上保谷村地先)付近にある分水口より千川上水を分水する。ここで千川上水へも高度二次処理下水の20%を分流させている。 浅間橋より下流は中央自動車道建設に伴い暗渠化されている。これより下流には通水されておらず、処理水は環状八号線に架かっていた中の橋付近から環状八号線直下に埋設された鉄管へと排水され、高井戸駅前付近で神田川に放流されている。中の橋より下流は殆どが暗渠化されて公園や遊歩道として整備され、一部は首都高速道路用地として転用されている。但し、京王線代田橋駅付近や笹塚駅周辺などには一部に暗渠化されず残存している部分も存在する。この区間では透明な水が流れ鯉などの群れも見られるが、この水は付近の地層から湧出した地下水が流下しているもので、小平監視所~浅間橋まで流れている高度処理水とは異なり水質がよい。 幡ヶ谷駅付近から都心部にかけては、ほぼ甲州街道と併走しており、公園や遊歩道や道路として整備されている。用地の一部は京王電鉄京王線の地下化の際に用地に転用されている。新宿駅南口にある葵橋までは流路跡が確認できるが、葵橋より東側、甲州街道が新宿駅を跨ぐ橋付近から四谷大木戸(新宿御苑前)までの玉川上水跡は市街地となっておりもはや痕跡を辿る事は出来ない(ただし流路は保全されており、1986年の東京都「清流復活事業」に際し行われた通水試験では四谷大木戸まで通水可能であった)。 終点四谷大木戸には現在、水道碑記と、東京都水道局新宿営業所がある。江戸時代にはここに水番所があり、塵芥が除去された水が、地中の水道管を解して江戸市中へと配水されていた。なお、余剰水は新宿御苑に源を発する渋谷川に放流されていた。
[編集] 沿革
[編集] 江戸時代から明治維新まで
『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川から水を引く開削計画がたてられた。開削工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。しかし兄弟の計画は二度失敗し引水工事は困難を極めた。そこで信綱は家臣の安松金右衛門に設計の見直しを命じる。安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み-」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み-」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立-」を立案し、この第3案によって承応2年(1653年)に玉川上水はついに完成し、翌年承応3年(1654年)6月より江戸市中への通水が開始されたという。
江戸時代に、玉川兄弟が江戸の水源を確保するために私財を投じて工事を行い、1653年(承応2年)4月4日開削工事開始、同年11月15日開削工事完了。翌年1654年(承応3年)より江戸市中への通水が開始された。羽村(現在の東京都羽村市)から四谷大木戸(現在の東京都新宿区四谷)までの43kmが露天掘りで、四谷水番所からは木樋や石樋などで地下水道となっていた。江戸の飲料水の貴重な水源であり、露天部分には見張りのための番小屋が設置され、付近の住民による放尿や生活排水の投棄などの汚染がなされないように、役人が厳重に取り締まっていた。1722年(享保7年)以降の新田開発によって多くの分水(用水路)が開削され武蔵野の農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献した(代表例、野火止用水、千川上水)。
だが江戸幕府の滅亡とともに一時期厳重管理が途絶え、付近の住民による汚染が多発した。1870年(明治3年)4月15日より玉川上水は船の通行が許可され、多摩地域からの農産物を東京市街へ運搬が開始された際には、船運による汚染、特に船員が上水に糞尿する事態にまでなった。そのため1872年(明治5年)4月15日、許可後2年間で禁止された。これが、後の多摩地区の東京府への編入理由となった。
[編集] 明治維新後
- 1886年夏 - コレラ流行。多摩川上流でコレラ患者の汚物を流したと言う話が東京に流れる。三多摩地区編入のきっかけとなる。
- 1893年4月 - 三多摩地区が神奈川県から東京府に移管される(東京市街の飲料水汚染防止のため)。
- 1898年12月 - 淀橋浄水場完成(現在の新宿副都心エリア)。原水は玉川上水を利用し、杉並区和泉から淀橋浄水場まで新水路を建設する。給水地は神田・日本橋地区。
- 1899年1月 - 東京市全域に給水開始。
- 1919年11月 - 遠足において万助橋(現在の東京都道114号武蔵野狛江線)付近で玉川上水に転落した児童の救出で訓導の松本虎雄が殉職(東京府北多摩郡三鷹村 (現・三鷹市) )[1]。
- 1923年9月 - 関東大震災により豊多摩郡幡ヶ谷村内において新水路の一部が破損。復旧まで旧水路を使用する。江戸時代に作られた旧水路は無事であった。
- 1937年 - 現在の和泉給水所付近より淀橋浄水場まで甲州街道直下に導水管を新設し、新水路を廃止する。新水路跡地は京王電気軌道(現在の京王電鉄)代田橋駅付近を除き殆どが水道道路と都営住宅となる。
- 1948年6月 - 作家の太宰治が愛人の山崎富栄と共に入水自殺(東京都北多摩郡三鷹町 (現・三鷹市) )。
- 1965年3月 - 浄水場機能の東村山浄水場へ移転により、淀橋浄水場廃止。浄水場跡地は、新宿副都心に転用。杉並区高井戸以東の水路は一部を残し暗渠化。千川上水取水分を除き、原水は小平監視所(東京都小平市、1963年完成)から東村山浄水場へ送水。
- 1967年 - 中央自動車道建設工事により、杉並区高井戸以東の水路の一部が高速道路用地に転用される。
- 1971年 - 大蔵省印刷局王子工場(東京都北区王子)が千川上水より取水を停止。以降、小平監視所以東ほぼ空堀化。但し、境浄水場より下流域は三田用水への配水に伴い、境浄水場から放水。
- 1974年8月 - サッポロビール恵比寿工場の水道水切り替えにより、三田用水廃止。これに伴い、三田用水への配水に行われていた境浄水場からの放水も停止。
- 1986年8月 - 東京都の「清流復活事業」により、小平監視所以東に下水処理水を使用して水流復活。
- 2003年8月 - 開削350年。文化財保護法に基づく国の史跡に指定。
- 2005年7月 - 「玉川上水保存管理計画策定に関する委員会」を東京都水道局内に設置。
- 2008年1月 - 新宿区「玉川上水・内藤新宿分水の基本計画」を作成[2]。
[編集] 流域の自治体
[編集] 上水の分水
『上水記』によれば、玉川上水からは飲料および灌漑目的で33の分水がつくられ、武蔵新田の開発などが行われる。明治3年には、複数の分水口を纏める分水口改正が行われ、取水箇所の整理が行われた。一方、明治期に新たに開設された分水も存在する。
- 主な分水口
[編集] 工事
言い伝え等では、資金として6,000両を幕府から受け取り、工事を開始したが、羽村から四谷までの標高差は約100mであったため、難工事となった。当初は日野から取水しようとした。途中まで工事した後、試しに水門を開けたが、浸透性の高い関東ローム層の土に水が吸い込まれた(水喰土)ために流路を変更(「かなしい坂」参照)。2度目は福生を取水口としたが岩盤にあたり失敗した。その影響で幕府からの資金も底をついた。そこで玉川兄弟はついには家を売り、それを基に資金を作った。3度目は羽村を取水口とし、約半年で工事を終え、江戸(四谷)まで水を引いたという。しかし、玉川兄弟では上水路を完成させることが出来ず、その後、開削工事の総奉行である松平信綱が家臣の安松金右衛門を起用し、同年羽村・四谷大木戸間をついに完成させた。その功績により信綱は幕府より野火止用水建設の許可を得たと言う逸話が残る。 しかし、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないことも多い。杉本苑子が玉川上水を舞台にした歴史小説(玉川兄弟―江戸上水ものがたり)を書いているが、あとがきでは資料がなく大変だった、という趣旨のことを書いている。また安松金右衛門については三田村鳶魚の『安松金右衛門』に詳しく記されている。
[編集] 史跡指定
玉川上水は、近世初期における優れた測量技術にもとづいた長大な土木構造物であり、当時の水利技術を理解していく上で重要であり、さらに、大都市江戸の用水供給施設として、また武蔵野台地における近世灌漑用水としても貴重な土木遺産であることから、2003年8月、国の史跡に指定された。指定範囲は、羽村取水口から四谷大木戸までの水路敷のうち、開渠部分の約30.4kmである。 玉川上水開削時の2度の失敗で仲間が責任感を持ち切腹したという説もあった。
[編集] ギャラリー
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五日市街道喜平橋 |
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三鷹駅北口付近 |
久我山の岩崎橋上から |
京王線笹塚駅付近を流れる玉川上水 |
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 三田村鳶魚『安松金右衛門―玉川上水建設者』(1942年、電通出版部)
- 児玉幸多『日本の歴史 (16) 元禄時代』(1974年、中央公論社)ISBN 412200103X
- 多摩川誌編集委員会『多摩川誌』(1986年、河川環境管理財団)
[編集] 脚注
- ^ 井の頭恩賜公園の園内に碑がある。
- ^ 新宿区ニュースリリース平成20年1月17日http://www.city.shinjuku.tokyo.jp/whatsnew/pub/2008/0117-01.html

