八丁堀 (東京都中央区)
| 八丁堀 | |
|---|---|
| 京華スクエア(旧・中央区立京華小学校・京華幼稚園 | |
| 国 | |
| 都道府県 | 東京都 |
| 特別区 | 中央区 |
| 地域 | 京橋地域 |
| 人口 (2012年(平成24年)8月1日現在) | |
| - 計 | 2,784人 |
| 等時帯 | JST (UTC+9) |
| 郵便番号 | 104-0032 |
| 市外局番 | 03 |
| ナンバープレート | 品川 |
八丁堀(はっちょうぼり)は、東京都中央区の町名。現行行政地名は八丁堀一丁目から八丁堀四丁目。2012年8月1日現在の人口は2,784人[1]。郵便番号は〒104-0032。
目次 |
地理 [編集]
東京都中央区の東部に位置する。京橋地域に属する。かつては西端は楓川・南端は桜川(八丁堀)が境界となっていた。現在の西端は首都高速都心環状線、東端は亀島川、北端は日本橋茅場町・日本橋兜町、南端は新富・入船・湊に接する。日本橋兜町の中央警察署、京橋の京橋消防署 が町域周辺の管轄にあたる。
河川 [編集]
歴史 [編集]
町名としての八丁堀が誕生するのは1931年(昭和6年)のことで、区画整理により、それまでの本八丁堀1丁目〜5丁目を分割したうえで周囲の町が統合され、高代町、松屋町、岡崎町、本八丁堀の一部から西八丁堀1丁目〜4丁目、元嶋町、長沢町、幸町、日比谷町、八丁堀仲町、永嶋町、水谷町と本八丁堀の一部から八丁堀1丁目〜4丁目が誕生した[2]。その後1969年(昭和44年)の区画整理で西八丁堀と八丁堀が統合され、現在に至る[2]。
江戸時代初期には、多くの寺が建立され、寺町となっていた。しかし、1635年、八丁堀にあった多くの寺は、浅草への移転を命じられた[3]。その後、寺のあった場所に、町奉行配下の与力、同心の組屋敷が多く設置されるようになり、彼らは八丁堀の名物となっていった。
江戸時代、八丁堀にあった銭湯は非常に混雑することで知られ、混雑を避けて女湯に入る同心達もいた[4]。そのため、八丁堀の銭湯には、女湯にも武士の刀をかけておく刀掛けがあり、「女湯の刀掛」と呼ばれ有名な存在になっていた。
地名の由来 [編集]
江戸時代、この地に開削された堀の長さが約8町(約873m)あったため「八町堀」と呼ばれ、その堀名に由来して町名がつけられた[2]。後に「町」が略字の「丁」となる。
江戸時代には江戸町奉行所の同心・与力の居住区となっていたため、彼らの自称・俗称(例:「八丁堀」(中村主水等)・「―の旦那」)や彼らを主人公とした時代劇の作品名に用いられる事がある(例:「八丁堀の七人」)。
交通 [編集]
鉄道 [編集]
バス [編集]
- 東京都交通局
- 中央区コミュニティバス(江戸バス)
道路 [編集]
- 東京都道50号東京市川線(新大橋通り)
- 八重洲通り
- 平成通り
- 鈴らん通り
- 二八通り
- 鍛冶橋通り
- 鉄砲洲通り
橋 [編集]
- 久安橋
- 亀島橋
- 宝橋
- 松幡橋
- 弾正橋
施設 [編集]
- 中央八丁堀郵便局
- 八丁堀保育園
- 京華スクエア - 旧中央区立京華小学校・京華幼稚園の建物を利用した区営複合施設。
- 八丁堀区民館
- 玉円寺 - 八丁堀現存唯一の仏教寺院。江戸初期に八丁堀三丁目あたりに起こり、後に現在地に移転。
- 今村幸稲荷神社-由緒不明。
- 日比谷稲荷神社-慶長11年(1606年)建立。現在は祠と由緒書きのみ。
- 天祖神社-寛永元年(1623年)建立、寛永10年(1633年)現在地に移転。現在は祠と由来碑のみ。
史跡 [編集]
参考文献 [編集]
- 大石学「地名で読む江戸の町」(PHP新書) ISBN 4-569-61548-1
脚注 [編集]
- ^ 央区の人口・世帯数(平成24年8月1日現在)町別世帯数・男女別人口(住民基本台帳)、2012年8月3日閲覧。
- ^ a b c 八丁堀地区 町名の由来 - 中央区ホームページ内、2012年6月4日閲覧。
- ^ 地名で読む江戸の町・105P
- ^ 地名で読む江戸の町・107P
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
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