日本橋中洲

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日本橋中洲(にほんばしなかす)は、東京都中央区町名郵便番号は103-0008。

地理[編集]

東京都中央区・日本橋地域の南東に位置し、北で日本橋浜町隅田川を跨いで東側で常盤清澄、南東の隅田川上の一点で佐賀、南西で日本橋箱崎町と隣接する。このうち江東区清澄との間には清洲橋が渡されており、日本橋中洲はその西詰にあたる。江東区常盤及び佐賀とは水面上でのみ接しており、陸上交通では直接渡れない。日本橋久松町に所在する久松警察署の管轄にあたる。

河川[編集]

歴史[編集]

江戸名所百景』の内「みつまたわかれの淵」
隅田川対岸から眺めた安政期の中洲。

中洲はもともと文字通り隅田川の中洲であった。川が三方に分かれていた地点にあったため一帯はみつまた(「三派」「三ツ俣」「三つ股」など表記が多数存在する)とも呼ばれたが、具体的にどの流れを指したかについては諸説ある。また、付近の海域は淡水と海水の分かれ目にあたるため、別れの淵と呼ばれた。月見の名所として有名で、舟遊びで賑わった。

1695年万治2年)吉原の遊女高尾太夫が中洲近くの船上で吊り斬りにされ、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話がある。

1771年7月27日明和8年6月16日馬込勘解由により浜町と地続きになるように埋め立てが行われ、1773年1月10日安永元年12月18日)に中洲新地として竣工した。1775年(安永4年)には町屋が整い、富永町と号した。間もなく飲食店が立ち並ぶ一大歓楽街となり、両国の客を奪うほどの賑わいを見せた。しかしながら、隅田川の流路を狭めたために上流で洪水が頻発し、また奢侈を戒める寛政の改革の影響もあって1789年寛政元年)取り壊され、芦の茂る浅瀬へと戻った。この時の土砂は隅田土手の構築に利用された。

1886年明治19年)再び埋め立てられ、中洲河岸が成立、後に中洲町となった。1893年(明治26年)真砂座ができると、中洲は娯楽街として再び賑わいを取り戻すかに見えたが、大正期には早くも廃れた。

1935年昭和10年)中洲に改称する。1947年(昭和22年)より中央区日本橋中洲1971年(昭和46年)そのまま住居表示が実施された。1971年(昭和46年)に浜町との境、翌年に箱崎町との境が埋め立てられ、完全に地続きとなった。

交通[編集]

鉄道
バス
道路

施設[編集]

  • 金刀比羅宮

関連項目[編集]

外部リンク[編集]