多摩郡
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多摩郡(たまぐん、たまのこおり、たまごおり)は、武蔵国南西部にかつて存在した郡。
現在の東京都多摩地域と、特別区部(23区)の中野区と杉並区の全域および世田谷区の砧・千歳地区であり、武蔵国の国府・国分寺および一宮があった。
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[編集] 歴史
延喜式には多麻郡の字であらわれ、のちには多磨郡とも書き、「たま」「たば」と読まれた。地名の由来は、丹波が転訛したものだとか、かつて麻が多い地域であったとか、かつて多摩郡を治めた大國魂命(おおくにたまのみこと)によるなど諸説ある。なお、武蔵国国府の置かれた府中にある大國魂神社もかつて多摩郡に属していた地域にある。
かつては菅村および中野島村(現在の川崎市多摩区の一部)も含まれたが、菅村は1690年(元禄3年)に、中野島村は1875年に橘樹郡に編入した。
江戸時代、幕府役人の配置が少なく、農民は自己防衛を行うようになり、剣術がさかんになった。 土方歳三、近藤勇らは、こうした環境から世に出ている。 明治維新後、東部の一部は東京府に、他の地域は神奈川県に編入され、1878年、郡区町村編制法により東京府部分が東多摩郡に、神奈川県部分が北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡にそれぞれ分割された。
1893年、主に東京の上水道水源保全を理由にして、多摩3郡(三多摩と呼ばれる)が神奈川県から東京府に移管された。1896年には東多摩郡が南豊嶋郡と合併して豊多摩郡になり、1932年に至って東京市に編入される。1907年には埼玉県北足立郡保谷村(のちの保谷市、現西東京市)が北多摩郡に編入される。1936年には北多摩郡の砧村・千歳村が東京市世田谷区に編入され、多摩郡の現在の東京都多摩地域の領域と23区への再編が完了した。
その後、北多摩郡と南多摩郡は郡内町村の市制施行に伴って1970年と1971年に相次いで消滅し、旧多摩郡で郡名を残すのは西多摩郡のみとなった。
[編集] 多東郡と多西郡
文献史料においては、12世紀半ば以降、多摩郡が東西に分けられて多東郡、多西郡と表記されていた例が多く見つかっている。大石学の研究によると、多東郡の初出は1330年、多西郡は1154年である。このような表記は徳川家康の朱印状や検地帳など、極めて重大な文書でも使用されていることから、中近世において多摩郡は多東郡、多西郡に事実上分かれていたと考えられている。
多東郡と多西郡の境界については狭山丘陵と見る説、多摩川と見る説がある[1]。
[編集] 隣接郡
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 新編武蔵風土記稿、林述斎ほか、江戸幕府、文政 8年。
- 菅散歩(一)菅の地名・自然、佐保田五郎、菅散歩出版事務局、平成 9年。
- 多摩移管百年展(三多摩東京府移管百周年記念特別展実行委員会)
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[編集] 注
- ^ 三輪修三『多摩川:境界の風景』有隣新書、昭和63年61-66ページ

