小牧・長久手の戦い

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小牧・長久手の戦い
戦争:小牧・長久手の戦い
年月日天正12年(1584年
場所:小牧山・長久手 他
結果:羽柴軍の戦略的勝利。
    徳川・織田連合軍の戦術的勝利。
交戦勢力
羽柴軍Goshichi no kiri wide.jpg 織田・徳川連合軍Oda emblem.svgMitsubaaoi.svg
指揮官
羽柴秀吉Goshichi no kiri wide.jpg 織田信雄Oda emblem.svg
徳川家康Mitsubaaoi.svg
戦力
100,000?[1] 16,000-30,000?[2]
損害
 ?  ?
小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)に、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄徳川家康陣営の間で行われた戦い。名称に関し、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧長久手の役」、さいきんでは「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている[3]

背景[編集]

豊臣秀吉

天正10年(1582年)3月、織田信長徳川家康は甲斐国の武田勝頼を滅ぼし上方に凱旋するが、同年6月には信長が家臣明智光秀によって討たれる(本能寺の変)。本能寺の変後には織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が光秀を討ち清洲会議において台頭し、有力家臣の柴田勝家とは敵対的関係となった。また三河の徳川家康は本能寺後、織田政権の承認のもと、織田遺領の甲斐・信濃を確保し、五カ国を領有した。

天正11年(1583年)4月、秀吉は近江賤ヶ岳の戦いにおいて織田信長の次男の信雄を擁立して、信長の3男・信孝を擁する柴田勝家に勝利した。賤ヶ岳の戦いの後、柴田勝家の領する越前は丹羽長秀に与えられ、摂津・大坂の池田恒興は美濃を与えられ、大坂の地は秀吉が接収し、同年暮れ新築した大坂城に信雄を含む諸将を招いている。

天正11年に信雄は秀吉によって安土城を退去させられ、これ以後信雄と秀吉の関係は険悪化する。秀吉は信雄家臣の津川義冬岡田重孝浅井長時(田宮丸)の3家老を懐柔し傘下に組み込もうとするが、徳川家康と同盟を結んだ信雄は天正12年(1584年3月6日)に親秀吉派の三家老を処刑した。これに激怒する秀吉は、信雄に対し出兵を決断した。

小牧の役に当たっては、紀州雑賀衆根来衆四国長宗我部元親北陸佐々成政関東北条氏政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫した。

経過[編集]

羽黒の戦い[編集]

現在の犬山城
現在の小牧山と小牧城

3月13日、家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り犬山城を占拠した。家康はこれに対抗するため、すぐさま翌々日の15日には小牧山城に駆けつけた[4]

同時に羽柴軍の森長可(恒興の女婿で本能寺の変で信長とともに戦死した森蘭丸の兄)も小牧山城を狙っていた。3月16日、長可は尾藤知宣に小牧山攻めの許可を求め、承認を得ると森と尾藤は夕方に出撃し、夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に着陣する。しかし、この動きは直ぐに徳川軍に知られ、同日夜半、酒井忠次榊原康政ら5,000人の兵が羽黒へ向けて密かに出陣する。翌3月17日早朝、酒井勢は森勢を一気に奇襲。奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして正面から敗走し指揮系統の混乱も起こり支えきれず潰走した。

敵襲の心配がなくなった家康は3月18日、小牧山城を占拠し、周囲に土塁を築かせ羽柴軍に備えた。秀吉は3月21日に兵30,000を率いて大坂城を出発、3月25日に岐阜に進み、3月27日に犬山に着陣する[5]。家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、両軍がの修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は全くの膠着状態に陥った。

長久手の戦い[編集]

両軍は小牧付近にて対陣状態におちいり、たがいに相手の出方をうかがっていた。4月4日、池田恒興は秀吉のもとを訪れて献策した。兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろうと。5日朝、恒興は秀吉のもとをまた訪れ、森長可とともに羽黒戦の恥をそぎたいと述べた。秀吉はついにこれを許可し、森長可らを主として支隊を編成して明6日三河西部へむけて前進すべしと命令。支隊は4月6日夜半出発した[6]

各隊の主な編組は以下の通り:

現在の岩崎城模擬天守

家康は4月7日羽柴秀次勢が篠木(春日井市)・上条城の周辺に、2泊宿営した頃に近隣の農民や伊賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知。4月8日、地元の丹羽氏次水野忠重榊原康政大須賀康高ら4,500人が支隊として小牧を夕方に出発して、20時小幡城名古屋市守山区)に入り、付近の敵情を探った。家康と信雄の主力9,300は20時小牧山を出発し、24時小幡城に着陣。織田・徳川軍は主力の到着にともない小幡城で軍議をおこない、兵力を二分して各個に敵を撃破することに決した。9日2時、織田徳川軍支隊は羽柴秀次勢を攻撃せんと出発した。

秀次勢は家康が小幡城に入った8日に行軍を再開し、9日未明には池田恒興勢が丹羽氏重(氏次の弟)が守備する岩崎城(日進市)の攻城戦を開始する。氏重らは善戦したが、手薄な北西部の破所より森隊の一部が乱入し、約三時間で落城し玉砕した(岩崎城の戦い)。この間、羽柴秀次、森長可、堀秀政の各部隊は、現在の尾張旭市長久手市日進市にまたがる地域で休息し、進軍を待った。しかし、その頃すでに徳川軍は背後に迫っていた。

白山林[編集]

岩崎城で攻城戦が行われているころ、羽柴秀次勢は白山林(名古屋市守山区尾張旭市)に休息していたが、9日4時35分ごろ後方から水野忠重丹羽氏次大須賀康高勢、側面から榊原康政勢に襲撃された。この奇襲によって秀次勢は成す術なくほぼ潰滅する。秀次は自身の馬を失い、供回りの馬で辛くも逃げ遂せた。また、目付として付けられていた木下祐久やその弟の木下利匡を初めとして多くの木下氏一族が、秀次の退路を確保するために討ち死にした。

桧ヶ根[編集]

羽柴秀次勢より前にいた堀秀政勢に、秀次勢の敗報が届いたのは約2時間も後のことであった。堀勢は直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を組み込んで桧ケ根に陣を敷き、迫り来る徳川軍を待ち構えた。秀次勢を撃破して勢いに乗った徳川軍は、檜ヶ根(桧ケ根、長久手市)辺りで堀勢に襲い掛かったが、返り討ちにされて逆に追撃された。徳川軍支隊の死者280余とも500人ともいう[8]

色金山歴史公園から見下ろす御旗山

織田徳川本隊は、9日2時に小幡城を出発して東へおおきく迂回し、4時30分ごろ権堂山付近を過ぎて色金山に着陣。そこで別働隊の戦勝と敗退を知り、岩作をとおり富士ヶ根へ前進して堀秀政と池田恒興森長可勢との間を分断した。この時、秀政は家康の馬印である金扇を望見し、戦況が有利ではないことを判断して池田と森の援軍の要請を無視し彼らを見捨て戦わずに逃走した。

長久手[編集]

長久手古戦場
安昌寺の僧が長久手の戦いの戦死者を埋葬供養した首塚
色金山のふもとに位置する安昌寺

岩崎城を占領した池田恒興森長可に徳川軍出現の報が伝わり、両将は大慌てで引き返しはじめた。そのころ、家康は榊原康政勢の敗残兵を組み込み、富士ヶ根より前山に陣を構えた。右翼に家康自身3,300人、左翼には井伊直政勢3,000人、これに織田信雄勢3,000人、別働隊の残党4000人、計13,300。一方、引き返して対峙した恒興・森勢は右翼に恒興の嫡男池田元助(之助)、次男・池田輝政勢4,000人、左翼に森勢、後方に恒興が陣取りこちらは計9,000人である[9]

4月9日午前10時ごろ、ついに両軍が激突。両軍入り乱れての死闘は2時間余り続いた。戦況は一進一退の攻防が続いたが、森長可が狙撃されて討死した辺りから一気に徳川軍有利となった。池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、永井直勝の槍を受けて討死にした。池田元助安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。やがて恒興・森勢は四散し遭えなく潰滅、合戦は徳川軍の大勝利に終わり、追撃したのち小幡城に引きあげた。この日の長久手の戦いにおける羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人という[10]

秀吉は9日に陽動として小牧山へ攻撃をしかけている。午後に入って白山林の戦いの敗報が届き、秀吉は2万人の軍勢を率いて戦場近くの竜泉寺に向けて急行した。しかし、500人の本多忠勝勢に行軍を妨害される。夕刻、「家康は小幡城にいる」との報を受け翌朝の攻撃を決める。家康と信雄は夜間に小幡城を出て小牧山城に帰還した。秀吉は翌日この報を聞き、楽田に退いた。

その後の戦い[編集]

その後、羽柴勢は5月4日から尾張の加賀野井城奥城竹ヶ鼻城を大軍で囲み、水攻めなどで順次攻略したが、家康は後詰要請に答えなかった(竹ヶ鼻城の水攻め)。

6月16日滝川一益九鬼嘉隆安宅船と共に、長島城と清州城との中間にあった蟹江城下市場城前田城を攻略した時には、織田信雄・徳川家康は即日反応し、7月3日には全て落城せしめ、一益は船で伊勢に逃れた(蟹江城合戦)。秀吉は、伊勢に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵を集め、7月15日に尾張の西側から総攻撃を計画していたが、蟹江城が落城した為中止となった[11]

8月15日に秀吉は美濃に出陣、8月28日には、双方、楽田と岩倉において対陣するも戦闘は無く。

9月9日には家康に呼応した佐々成政が大軍で能登国末森城石川県宝達志水町)を攻撃、落城寸前にまで至らしめたが前田利家の猛反撃に遭って退却した。(末森城の戦い

休戦・講和へ[編集]

秀吉は合戦から半年以上経った11月11日(11月15日説あり)に、秀吉側への伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康陣営は11月21日についに兵を引いた。信雄は伊賀と伊勢半国を割譲させられ伊賀は脇坂安治(後に筒井定次が大和から移封)、伊勢は蒲生氏郷ら秀吉方大名に分け与えられた。

その後、秀吉は滝川雄利を使者として浜松城に送り、家康との講和を取り付けようと試みた。家康は返礼として次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にするために大坂に送った。こうして、小牧の役は幕を閉じた。

秀吉包囲網の瓦解[編集]

信雄・家康が秀吉とそれぞれ単独講和してしまったため、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らは孤立し、それぞれ紀州攻め四国攻めにより制圧されることになる。

この後、佐々成政が雪深い立山を越えて(さらさら越え)、浜松の家康を訪れ、秀吉への抵抗を促したが聞き入れられず、成政は空しく同じ道をたどって越中に帰っていった。これによって、天下の趨勢は更に秀吉政権確立へと進んでいくこととなったが、秀吉と家康が講和するまでには、まだ2年もの月日を必要とした。

評価[編集]

迂回作戦[編集]

通説である参謀本部や花見は迂回作戦の発起を池田恒興の献策としているが、異なる意見も出ている。岩澤は、秀吉が丹羽長秀に宛てた4月8日付書状[12]を吟味したうえで、三河進攻作戦は池田恒興の強弁な献策ではなく、秀吉が構想していた作戦を恒興が意をくんで進言したと述べている[13]。『長久手町史』はこれを一歩進め、迂回作戦のイニシアチブは恒興ではなく秀吉にあったとしたうえで、九鬼水軍もくわえた大規模な水陸両用作戦を計画していたとする[14]。谷口も三河への水陸両用作戦を想定した大規模な作戦であったと述べている[15]

政治的意義[編集]

参謀本部や花見は、1584年に結ばれた羽柴秀吉と徳川家康の講和を形式的なものだったとみなし、1586年の家康上洛によりやっと服従したとみている。このうえで、秀吉は信雄の領地を奪って勢いを増し、信雄は家康という外援者により余威を存したのみ、そして家康は有形に得るところはなかったが無形の声望によってはかりしれない利益を得、後年の玉成を予約したと述べている[16]

これに対し、跡部は1584年の講和で家康が秀吉に人質を差し出したことをもって服従の姿勢を見せたとし、1586年の上洛は服従の最低条件が引き上げられたからだとしている。そして、秀吉が家康にさえぎられて「軍事的征服路線から伝統的国制活用路線への転換」を余儀なくされたという説を否定している[17]

徳川家での顕彰[編集]

関ヶ原本戦において徳川氏の主力は合戦に参加することができなかった。このため、爽快なる奇襲により羽柴軍別動隊を壊滅に追いこんだ小牧・長久手の戦いは徳川家で顕彰の対象となった。尾張藩においては、家康九男の藩主義直はみずから長久手古戦場に調査に行くほどの興味を示し、藩士の調査によってつぎつぎと石碑が建てられ、また藩士による合戦記も編纂されている。紀伊藩では、家康十男の藩主頼宜は小牧・長久手の戦いにまつわる合戦記を収集し、宇佐美定祐などの軍学者に命じて屏風や配陣図を描かせたり当時をよく知る者に合戦記を書かせたりしている[18]

脚注[編集]

  1. ^ 岩澤(2000)p.38
  2. ^ 小和田(2006)p.133
  3. ^ 長久手町史編さん委員会(1991)、参謀本部(1908)、花見(1942)、白峰旬「小牧・長久手の戦いに関するデータベース ――城郭関係資料を中心として――」p.42(『小牧・長久手の戦いの構造 戦場論 上』)。記事名に関し議論がある。ノート参照のこと。
  4. ^ 家康と信雄の小牧山進出(部隊が占領していないという意味ではない)に関し、参謀本部、花見、岩澤は3月15日のこととしている。しかし谷口は29日とする。参謀本部(1908)p.17、花見(1942)p.25、岩澤(2000)p.39、谷口央「小牧・長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」p.115(『小牧・長久手の戦いの構造 戦場論 上』)
  5. ^ 参謀本部(1908)p.21。谷口は3月11日近江国坂本、21日美濃国池尻、24日岐阜、29日楽田とする。谷口央「小牧・長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」pp.94-5
  6. ^ 参謀本部(1908)pp.24-5、花見(1942)pp.33-36
  7. ^ 参謀本部(1908)p.25
  8. ^ 参謀本部(1908)p.34
  9. ^ 日本戦史(1908)pp.35-37
  10. ^ 参謀本部(1908)pp.37-39、花見(1942)p.44
  11. ^ 武田茂敬『蟹江城合戦物語』武田茂敬、2008年(原文献『浅野家文書』)
  12. ^ 長久手町史編さん委員会(2003)p.40の文書100、あるいは愛知県史編さん委員会(2007)p.164の373
  13. ^ 岩澤(2000)p.40
  14. ^ 長久手町史編さん委員会(2003)pp.276-278
  15. ^ 谷口央「小牧・長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」p.97
  16. ^ 参謀本部(1908)pp.56-60、花見(1942)pp.62-67
  17. ^ 跡部信「秀吉の人質策」pp.201-230(『小牧・長久手の戦いの構造 戦場論 上』)
  18. ^ 高橋修「尾張・紀伊徳川家における『小牧・長久手合戦』の研究と顕彰」pp.267-279(『近世成立期の大規模戦争 戦場論 下』)

参考文献[編集]

  • 愛知県史編さん委員会 『愛知県史 資料編12 織豊2』 愛知県、2007年
  • 小和田哲男 『秀吉の天下統一戦争』 吉川弘文館、2006年ISBN 4642063250
  • 武田茂敬 『蟹江城合戦物語』 自費出版、2008年
  • 参謀本部編 『日本戦史第13巻 小牧役』 村田書店、1978年(原著1908年)。http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771068 (近代デジタルライブラリー 2014年12月1日確認)。
  • 長久手町史編さん委員会 『長久手町史 史料編六 長久手合戦史料集』 長久手町役場、1991年
  • 長久手町史編さん委員会 『長久手町史 本文編』 長久手町役場、2003年
  • 藤田達生編 『小牧・長久手の戦いの構造 戦場論 上』 岩田書院、2006年ISBN 4872944224
  • 藤田達生編 『近世成立期の大規模戦争 戦場論 下』 岩田書院、2006年ISBN 4872944232
  • 岩澤愿彦 「羽柴秀吉と小牧・長久手の戦い」 (『愛知県史研究』第4号、2000年)。
  • 尾下成敏 「小牧・長久手の合戦前の羽柴・織田関係 秀吉の政権構想復元のための一作業」 (『織豊期研究』8号、2006年)。
  • 谷口央 「小牧長久手の戦い前の徳川・羽柴氏の関係」 (『人文学報』445号、2011年)。http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/6548/1/20011-039-001.pdf (PDF 2014年11月29日確認)。
  • 花見朔已 「小牧長久手の役」 (『大日本戦史』三教書院、1942年)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]