箕輪城

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箕輪城
群馬県
箕輪城の石碑
箕輪城の石碑
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 なし
築城主 長野業尚
築城年 1512年(永正9年)
主な改修者 武田氏北条氏井伊直政
主な城主 長野氏内藤氏(武田氏城代)、
北条氏滝川一益井伊直政
廃城年 1598年(慶長3年)
遺構 石垣、土塁、空堀、馬出し、井戸
指定文化財 国の史跡
位置 北緯36度24分17.8秒
東経138度57分3.5秒

箕輪城(みのわじょう)は、群馬県高崎市箕郷町にあった日本の城平山城跡)で、国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。

概要[編集]

箕輪城は、榛名白川によって削られた河岸段丘梯郭式曲輪が配された平山城である。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた。城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なものであった。現在にのこる遺構として、石垣土塁空堀の跡が認められる。

歴史・沿革[編集]

戦国時代・安土桃山時代[編集]

戦国時代上野には関東管領山内上杉家が存在したが、上杉憲政が越後へ亡命した後はその重臣長野氏が残り、相模を本拠とする北条氏甲斐武田氏越後上杉氏(上杉憲政の名跡を継いだ)が侵攻を繰り返す場であった。このようななかで長野氏は、上杉氏の後ろ盾を得ていた。信業の子長野業正は箕輪衆と呼ばれる在郷武士団をよく束ね、「名君」と謳われて長野氏全盛時代を築き、最大の版図を有するに至った。業正の代にはまた、武田信玄の侵略がたびたび繰り返されたが、これをよく退け安定した地位を保った。

  • 1561年永禄4年) 業正が没すると(前年に没した説もあり)14歳(17歳とも)で子の業盛が家督を継いだ。業正は臨終に際し「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし」と伝え、その死は永らく秘匿された。しかし、業正の死を知るや信玄は再び西上野への侵攻を開始した。近隣の城を落とし、また調略を仕掛け寝返らせていった。
  • 1565年(永禄8年)頃には箕輪城は孤立していき、翌1566年(永禄9年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し業盛は自刃して果てた。こののち箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠真田幸隆(幸綱)、浅利信種が城代に任じられる。
  • 1570年元亀元年)頃には内藤昌豊(昌秀)が城代となる。
  • 1575年天正3年) 長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、その子内藤昌月が城代に任じられている。
  • 1582年(天正10年)2月、天目山の戦いで武田氏は滅亡したが、この機に乗じ北条氏政の弟・氏邦が侵攻した。しかし、同年、氏邦は織田信長の家臣・滝川一益により追われ、さらに、この年の6月、信長が本能寺の変で倒れると、北条氏直・氏邦の大軍が上野国に侵攻、神流川の戦いで一益を破り、氏邦が再度箕輪城に入城、内藤昌月もこれに従った。
  • 1590年(天正18年) 豊臣秀吉小田原征伐の際に箕輪城は前田利家上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。この年、徳川家康関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、1598年(慶長3年)高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となり、80余年の歴史に終止符を打った。

現代[編集]

現地情報[編集]

所在地[編集]

  • 群馬県高崎市箕郷町西明屋ほか

交通アクセス[編集]

  • 高崎駅から群馬バス「箕郷行き」で約30分「箕郷本町」下車、徒歩約20分
  • 高崎駅から群馬バス「伊香保温泉行き」で約30分「城山入口」下車、徒歩約5分

その他[編集]

  • 例年10月最終日曜には「箕輪城まつり」が開催され、手製の甲冑に身を包んだ市民らによって箕輪城攻防戦が演じられる。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  1. ^ 箕輪城の城門復元へ
  2. ^ 箕輪城の2門復元へ 木製橋と土塁も 群馬・高崎