上杉景勝

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上杉景勝

上杉景勝像(上杉神社蔵)
時代 戦国時代から江戸時代前期
生誕 弘治元年11月27日1556年1月8日
死没 元和9年3月20日1623年4月19日
改名 長尾顕景(初名)、上杉景勝
別名 卯松(幼名)、喜平次(通称)
御中城様、越後宰相中将、越後中納言、
会津中納言
諡号 宗心
戒名 覚上院殿法印権大僧都宗心
墓所 上杉家廟所景勝廟
松岬神社(山形県米沢市)
高野山清浄心院(和歌山県高野町)
など
官位 弾正少弼越後守、従四位下
左近衛権少将従三位参議
近衛中将中納言、贈正三位
主君 上杉謙信豊臣秀吉秀頼徳川家康
秀忠
陸奥会津藩主、出羽米沢藩
氏族 平姓長尾氏藤原姓上杉氏
父母 父:長尾政景
母:仙桃院長尾為景の娘)
養父:上杉謙信
兄弟 長尾義景清円院上杉景虎継室
上杉景勝、妹(畠山義春正室
義兄弟:畠山義春上杉景虎山浦景国
正室:菊姫武田信玄の娘)
側室:桂岩院四辻公遠の娘)
定勝
養子義真畠山氏[1]

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ(長尾 顕景(ながお あきかげ)または長尾 景勝(ながお かげかつ))は戦国時代から江戸時代にかけての武将戦国大名豊臣政権五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。長尾上杉家(米沢上杉家)二代で、上杉宗家(重房を初代として)十七代目。

本姓平氏後に藤原氏豊臣氏を経て藤原氏となる。家系桓武平氏の血をひく長尾氏の生まれで、叔父 上杉謙信の養子となり上杉氏となる。[2]

目次

[編集] 生涯

[編集] 出生から家督争いまで

詳細は「御館の乱」を参照

弘治元年(1555年)、越後国魚沼郡上田庄(現・新潟県南魚沼市)に上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれる[3]。生母は上杉輝虎(上杉謙信)の実姉・仙桃院で、輝虎の甥に当たる。早世した兄に代わり、世子となるが、永禄7年(1564年)、父の政景が死去したため、春日山城に入って叔父の上杉謙信の養子となった[4]

永禄9年(1566年)、謙信の関東出兵が初陣であるとされている。景勝は、上田衆を率いて越中の将椎名康胤の取成や謙信旗本吉江資堅の軍役を定めるなど、謙信政権下で重要な役割を担っていく。

天正3年(1575年)、名を長尾顕景から上杉景勝(一説では長尾景勝)に改めると共に、謙信から弾正少弼の位を譲られた。同年の『上杉家軍役帳』によると総勢375人の軍役を負担し、「御中城様」と呼ばれて上杉一門衆筆頭に記載される。

天正4年(1576年)、謙信の能登平定ののちに、相模の北条氏からの人質として送られてきた謙信の養子で義兄(義弟とも)・上杉景虎とともに能登の支配を任せられた[5]

天正6年(1578年)3月13日、謙信が死去すると、上杉景虎との相続争いが勃発する(御館の乱)。これは謙信が後継体制を整えないうちに急死してしまったことや、越後の長尾諸家を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んでいるとされる。御館の乱において、3月24日、景勝は謙信の死の直後に謙信の遺言と称して春日山城本丸と金蔵を占拠し、春日山城城下の御館(上杉憲政の屋敷)に立て籠もった景虎と戦った。

また、乱においては当初、戦局は不利であったため、6月、甲相同盟に基づき調停のため越後へ出兵した甲斐国武田勝頼に東上野の割譲と多量の黄金譲渡を条件とした和睦の書状を送り、8月には勝頼より、承諾の意向が伝えられた。これによって武田家の後ろ盾を得たことにより、景勝は戦局を覆した。またこのときに勝頼の異母妹菊姫と婚約し、翌年9月には正室として迎えることで甲越同盟を結び、武田家との関係を強化した(上杉家当主が武田家から正室を迎えたのは上杉禅秀以来)。

天正7年(1579年)、景虎正室である実姉(妹とも)・清円院は景勝からの降伏勧告を容れずに自害(没日の記録より、景虎とともに鮫ヶ尾城で自害したとの説もある)。同年3月、和議を申し出ようとした養祖父の憲政が景虎の嫡男道満丸信濃豪族市川氏に庇護され、生存していた説あり)とともに景勝の兵によって討たれるなど、徐々に立場を悪くした景虎は自害する。翌天正8年(1580年)には越後の豪族も追従し、景勝は事実上の上杉家当主となった [6]

[編集] 織田家との戦い

御館の乱の混乱が続く天正9年(1581年)、乱の恩賞問題により対立状態にあった北越後の新発田重家織田信長と通じて造反した上、織田家譜代柴田勝家率いる織田軍に越中にまで侵攻される。翌年には武田氏が滅亡したため、武田家の後ろ盾を失うなど、上杉家は滅亡の危機に立たされた。

天正10年(1582年)、侵攻する織田軍は越中を完全に制圧し(魚津城の戦い)、上杉家はまさに窮地に立たされるが、6月2日、織田信長が本能寺にて自害したため(本能寺の変)織田軍の北征は頓挫し、上杉家は九死に一生を得た。しかし、織田氏の侵攻に加え、御館の乱後の混乱が長期化し、自力のみによる沈静化ができなくなったことから、謙信が一代で拡大した上杉氏の国力は著しく衰退し、上杉家の力は急激に凋落の一途を辿った。

[編集] 豊臣政権時代

信長の死後、北信濃に侵攻し、北条氏直と争うが、北信濃4郡の割譲を条件に北条氏と講和した(天正壬午の乱)。その後、信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)と好を通じ、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは秀吉より、越中侵攻を命ぜられた。しかし、本国から動けず合戦には参加できなかった。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)、富山の役でも秀吉に味方し、佐々成政を牽制した。また同年、信濃の真田昌幸を一時的に従属下に置いた。

天正14年(1586年)6月、上洛し、秀吉と会見し、秀吉に養子であった畠山義真(当時は上杉姓)を人質として差し出し、臣従して命脈を保った。その際に、越中と上野(真田氏の大名としての独立)の領有を放棄、換わりに佐渡・出羽の切り取りを許可される。このとき、景勝は正親町天皇に拝謁して右近衛少将に任じられた。

天正15年(1587年)、秀吉の後ろ盾と協力を得た景勝は、長年にわたり抗争状態にあった新発田重家を討ち(新発田重家の乱)、再び越後統一を果たした。天正16年(1588年)には上洛し、従三位参議に昇叙された。この時、豊臣姓と羽柴の苗字を許されている。天正17年(1589年)には佐渡本間氏を討伐し、佐渡を平定した。

天正18年(1590年)、後北条氏との小田原合戦にも、山浦景国を先鋒として出兵し、前田利家や真田昌幸らとともに、上野・武蔵の北条方諸城を攻略した。

文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵が始まると、5,000人を率いて肥前名護屋に駐屯し、翌文禄2年(1593年)の6月6日から9月8日まで、秀吉の名代として家臣の高梨頼親らを伴って渡鮮する。このとき朝鮮における日本軍最前線基地として熊川に城(倭城)を築城している。 文禄3年(1594年)には権中納言となり、越後中納言と呼ばれた。

文禄4年(1595年)1月、秀吉より、越後・佐渡の金山の支配を任せられた。同年豊臣家五大老の一人小早川隆景が家督を小早川秀秋に譲り隠居したため、空いた五大老に景勝が任命された。

慶長3年(1598年)、秀吉の命により会津120万石(武辺咄聞書・藩翰譜)に加増移封された(上杉将士書上では会津50万石国替)(秋田家史料:天正~慶長:全国石高及び大名知行高帳では、会津中納言、91万石) [7]。 旧領地から引き続き統治が認められたのは、佐渡一国及び越後のごく一部(東蒲原)と本庄繁長最上義光と激しい争奪戦をして奪った出羽庄内地方のみで、後は戦国時代伊達氏の領地だった出羽置賜地方陸奥伊達郡信夫郡刈田郡伊達政宗が征服した会津地方であった。また、各地は山地で隔絶され、現在でも交通の難所と呼ばれる峠道で結ばれているだけであった。常に北側に境を接する最上義光、伊達政宗と衝突の危険性が有り、改易された蒲生氏に代わり東北諸大名の監視と牽制のための配置であった。

景勝は要となる米沢城に家老の直江兼続を配置、対伊達氏最前線の白石城甘糟景継福島城の本庄繁長、梁川城須田長義東禅寺城志田義秀を指揮させた。

[編集] 会津征伐

詳細は「会津征伐」、「慶長出羽合戦」をそれぞれ参照

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、家老の直江兼続が五奉行石田三成と懇意にあった事などの経緯から徳川家康と対立する。同年9月、秀吉の葬儀のため、上洛。慶長5年(1600年)2月になると、景勝は夏までに領内諸城の補修を命ずる。3月になると鶴ヶ城が将来手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城の建築を命ずる。

4月、家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出るがこれを拒否する。この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。この際、兼続による挑発的な返答が、家康の会津征伐を煽ったとされる(直江状)。ともあれ、家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣する。景勝は神指城の突貫工事を命ずるが、6月になると普請を中断して家康軍の対応にあたる。7月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが挙兵(関ヶ原の戦い)し、家康が西上するとなると会津から出兵。東軍に与した伊達政宗最上義光らと戦った(慶長出羽合戦)。しかし、9月15日の本戦で三成ら西軍が敗れたため、12月に家康に降伏することを余儀なくされた。

慶長6年(1601年)、景勝が兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許された。なお、文禄4年(1595年)、景勝夫人菊姫、兼続夫人お船の方は証人として伏見邸に入っていたが、両夫人は引き続き徳川の証人として、伏見邸に留め置かれた(『米沢市史・近世編1』より)。しかし改易は免れたものの、置賜信夫伊達の3郡からなる出羽米沢(30万石:武辺咄聞書・藩翰譜)藩主として減移封され、上杉家は景勝一代において北信越の強大な大大名から出羽半国の一大名へと没落した。

※上杉家(米沢藩)の江戸幕政下での石高は、浜松藩水野家文書寛永11年記(朱印状に石高が記載)および明暦四年(1658)武鑑によると、30万石。上杉綱勝死後、15万石に減封され、江戸末期の慶応元年武鑑にも、15万石。慶長6年(1601年)~寛永10(1633)までの表高は不明だが、各種資料には、文禄慶長の太閤検地から類推される石高ではなく、30万石と表記されている。ただし、上杉家においては領土を安堵した寛永11年徳川家光朱印状の原本および写本は現存していない。

[編集] 江戸時代

減封後は米沢藩の藩政確立に尽力した。

慶長19年(1614年)の松平忠輝の居城高田城築城の際、伊達政宗の指揮の下天下普請を行なった。同年、大坂冬の陣では徳川方について先鋒として鴫野の戦いなどで大功を挙げる。翌慶長20年(1615年)2月、下国し、同年4月、大坂夏の陣では京都警備を担当し、八幡山に布陣した。

元和7年(1621年)、出羽山形藩(最上家第3代)藩主最上義俊の改易に際して、その居城で藩庁山形城の受け取りを務めた。

元和9年(1623年)3月20日、米沢で死去。享年69。後を庶長子定勝が継いだ。

墓所:遺骨は和歌山県高野町の高野山清浄心院、遺灰と衣冠は山形県米沢市の御廟の上杉家御廟所に、それぞれ納められている。

[編集] 経歴

※日付は大正記述以外は、旧暦

  • 弘治元年(1555年)11月27日生、幼名:卯松。のち長じて喜平次顕景と称す。
  • 永禄7年(1564年、実父・長尾政景溺死ののち、上杉謙信の養子となる。
  • 天正3年(1575年)1月11日、元服し、養父上杉謙信より諱を景勝と改名させ、弾正少弼の官職を官途書出。謙信が称していた弾正少弼の官職を継承することによって、上杉家の家督後継者に浮上する。
  • 天正6年(1578年)~同7年(1579年)、御館の乱。上杉謙信養子である上杉景虎と戦い、上杉家の家督を相続。
  • 天正14年(1586年)6月22日、上洛により、豊臣秀吉と接見。従四位下に叙せられ、左近衛権少将に任官。これにより、秀吉から景勝宛の書状の宛先が「上杉殿」から「上杉とのへ」と書式が変わり、秀吉の家臣的立場となる。
  • 天正16年(1588年)5月26日、上洛し、従三位に昇叙し、参議に補任。清華家の家格に列す。[要出典]
  • 天正17年(1589年)9月28日段階で近衛中将を兼帯している。(羽柴の名字と豊臣の姓を与えられ羽柴越後宰相中将と称される。←米沢市上杉博物館所蔵「豊臣秀吉直書」より)
  • 文禄3年(1594年)10月28日、上洛し、豊臣景勝として、権中納言に転任。
  • 文禄4年(1595年)8月3日、公家武家の法度を徳川家康前田利家宇喜多秀家毛利輝元、小早川隆景とともに連署し、制定。豊家の重要施策において、加判する立場となる。
  • 慶長2年(1597年)6月以降、小早川隆景の薨去に伴い、豊家五大老入り。
  • 慶長3年(1598年)1月10日、豊臣秀吉から陸奥国会津へ移封(120万石:武辺咄聞書・藩翰譜)の命が下る。(上杉将士書上では会津50万石国替)(秋田家史料:天正~慶長:全国石高及び大名知行高帳では、会津中納言、91万石)従前、越後中納言と称され、以後、会津中納言と称される。4月18日、権中納言辞任。
  • 慶長5年(1601年)8月16日、徳川家康より出羽国米沢(30万石:武辺咄聞書・翁草・藩翰譜)への移封の命が下る。
  • 大正11年(1922年)9月7日 贈正三位

[編集] 人物 ・逸話

  • 養父の謙信を戦国武将として尊敬していたといわれる景勝は、それゆえに自分は謙信に及ばないとの想いが強く、常に謙信のようにありたいと考えて行動していたため、感情を表に出すことがほとんどなかったといわれる。ある時、飼っていた猿が景勝の座に座って、もっともらしくうなずいたり、部下に指図したりといった自分の物まねをしていたのを目にした景勝は、そのあまりの可笑しさに思わず笑みをこぼしたが、これが彼が生涯でただ一度家臣たちの目前で見せた笑顔であったという。[要出典]
  • 景勝の影響により、上杉の軍兵は戦場でも無駄口一つ聞かず静まりかえっていたという。大坂冬の陣の際、家康の使者が景勝の陣を訪れたが、景勝をはじめ誰一人として口を利かず、ただ大坂城を睨み付けていた。報告を受けた家康は「それこそ不識庵(謙信)以来の軍法よ」と賞賛したという。[要出典]
  • 大坂冬の陣の際、彼の近習の一部が黙って合戦の見物に出かけ、竹束に隠れて見ていたとき、そこに景勝がやってきた。これに気づいた近習たちは、竹束の外に出て草むらに行き、景勝に見つからないようにしたという。景勝は家来に恐れられていたことがわかる逸話である。
  • かなりの愛刀家であったとされる。卓越した鑑定眼を持ち、特に気に入ったものから選抜した「上杉景勝御手選三十五腰」と呼ばれる収集物には国宝や重要文化財が多数含まれている。
  • ある時、豊臣秀吉が京都・伏見城(もしくは大坂城)に各大名を招き宴が開かれたが、この宴の会場に前田慶次郎が紛れ込んでいた。宴もたけなわになった頃、慶次郎は末席から猿面をつけ手拭いで頬被りをし、扇を振りながら身振り手振り面白おかしく踊り出し、ついには列席している大名達の膝の上に座っては猿真似をやるという暴挙にまで至ったが、大名達は宴の余興ゆえに咎める者も怒り出す者もいなかった。しかし、上杉景勝の前に来ると慶次郎は膝に乗ることを避けた。その理由について尋ねられた慶次郎は、「景勝の前に出ると威風凛然としていてどうしても座ることが出来なかった」と語ったという。また「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝殿をおいて外にあるまい」[8]と慶次郎が後に語ったということから、義を貫く人物は景勝をおいて他にはいないと見込んでの、慶次郎なりの敬意を示した行動だったともいわれている。
  • 叔父であり義父である上杉謙信との仲については諸説あり、尊敬、思慕の対象であったという見かたから、実は険悪であったという説まで様々である。これは謙信が後継体制を築く前に急死したことが影響しているともいわれる。また父の政景が謙信と対立していたことから謙信による政景暗殺説が存在するが、これらの影響か景勝による謙信暗殺説も存在する。しかしその一方、景勝は晩年病床に臥したとき、宗心という法名を名乗っている。これは養父の謙信がかつて名乗ったことのある法名である。
  • 景勝が弾正少弼を謙信から譲り受けた際の2通の書状が、景勝自身の筆跡と同じであるとし、景勝が自己を正当化する為、偽作したとの説(「新潟県史」「上越市史 通史編2 中世」)がある。しかし、上杉景虎が蘆名盛氏にあてた書状には「先日申入れ候如く、少弼曲なきからいゆえ」と景勝を少弼と呼んでいる処をみると、景勝官途は上杉家中において、公の事実と見て間違いないであろう。
  • 奥羽永慶軍記』には、景勝は身辺に女を一切近づけないほど極端な女嫌いで、当然ながら正室の菊姫と非常に不仲[9]であると共に、衆道を甚だしく好み、身辺にはもっぱら美貌の少年達のみを侍らせていたという話がある。しかし、この話には側室の四辻氏の出自を大谷刑部の家臣の娘であった遊女とし、直江兼続が世継ぎを生ませる為、この女を男装させて景勝に引き合わせて定勝を生ませたが、このことを知って激しく嫉妬した正室・菊姫の怒りを鎮めるためにこの女は自ら自害したとし、それを知って恨みを抱いた定勝が兼続を自らの手で殺害するという明らかに史実と異なる記述や考証がされており、信憑性には問題がある。景勝は慶長17年(1612年)8月に衆道禁止令を発布しており(「三重年表」)、これを根拠として男色家ではないとする説もある。[10]
  • 米沢への減移封の際、景勝は所領を大幅に減らされたにも関わらず、家臣の召し放ちを行わなかった。この事が後世の米沢藩の財政難の元凶になっている。
  • 京都府京都市伏見区にある景勝町の地名の由来は、かつてこの地に景勝の伏見の下屋敷があったことに基づく。
  • キリスト教に寛容であり、幕府が禁教令を出し、領内での取り締まりを命じられても「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と答えて、領内のキリシタンを護ったと『日本切支丹宗門史』に記載されている(記事の原文は、1629年7月、会津若松の宣教師からイエズス会総長に送られた報告書である)。当時のイエズス会宣教師ペドロ=モレホンは景勝を評して「異教徒中の異教徒(大いなる異教徒)」と述べており、景勝自身がキリシタンに好意を有していた訳ではないといわれているが、長年苦楽を共にしてきた有能な家臣たちを失いたくなかったためと伝えられている。実際、元和6年(1620年)の仙台藩を皮切りに東北諸藩がキリシタンへの弾圧を開始するなか、元和9年(1623年)3月に没するまでの間、幕府の禁教令を受ける形でキリシタン禁制の高札を領内に立てこそしたが、実際にキリシタンへの取り締まりや弾圧を行った記録などは残されていない[11]

[編集] 肖像画

景勝には生前または没後すぐに制作された肖像および肖像画はない。最古の肖像画は上杉博物館が所蔵する、江戸時代末期に描かれた鎧兜姿のもの。なお、有名な烏帽子姿の肖像画(凡例参照)は近代に描かれた上杉神社所蔵の物。

[編集] 脚注

  1. ^ 『上杉家御年譜』に基づく、他の資料では畠山景広ともいう。のちに養子縁組を解消。
  2. ^ 後述する新発田重家との対立期の織田家の書簡には「長尾景勝」とあり、豊臣秀吉及び島津家の書簡にも「長尾」と散見される。ただし御館の乱前期に景勝が奉納した願文には「藤原景勝」と署名しており、少なくとも謙信没後には平氏長尾氏ではなく藤原上杉氏を称していたことだけは事実である。
  3. ^ 出生地については上田長尾家の本拠坂戸城やその支城・樺沢城と諸説ある。
  4. ^ ただし、『上杉家御年譜』によると永禄2年(1559年)頃には既に景勝が謙信の許にいたという記述がある。
  5. ^ 「謙信軍記」
  6. ^ 景勝が、謙信死後から家督を勝ち取るに至るまでにとった一連の行動(突然の春日山占拠、養祖父の殺害)は、「家督の簒奪に近い」という見方も有る。しかし、この家督争いの初期段階における景勝の行動については、資料的な裏付けが十分でないところもあり、誰が正統な後継者かということも含めて様々な見方がある。
  7. ^ 一説に当初、秀吉は家康ではなく景勝を関東管領の位置付けとして、関東へ移封するつもりであったという。
  8. ^ 中村忠雄「米沢史談」
  9. ^ 「上杉家御年譜」には菊姫が病にかかった際、景勝がその病気平癒のために様々に手を尽くし、また菊姫が死去した際の景勝の嘆きの有様についての記述があり、これを見る限り少なくとも菊姫との夫婦仲が険悪だった可能性は低い。詳細は菊姫 (上杉景勝正室)参照。
  10. ^ 他家もこの頃に衆道禁止令を相次いで発布している。この禁止令は上杉家も含む諸大名家当主らが、藩士間の衆道を原因とするいざこざ(著名な例として、大内義隆蘆名盛隆らが家臣との衆道のこじれが原因で、自身の死と家の滅亡を招いていることが挙げられる)を防ぐために発布したものであり、当主などの衆道に対する好悪との関わりは薄いと見られる。
  11. ^ 景勝時代には常駐宣教師不在の中、甘糟信綱(甘糟景継の子とも、一族ともいわれている)親子や西堀式部(「寛永八年分限帳」に名前のみえる、御年寄衆西堀七左衛門政直の一族か)らが入信し、地道な布教活動が行われていたようだが、著しくキリシタンが増えるのは、景勝死後、アウグスチノ会の宣教師が置賜に常駐した寛永3年(1626年)以後のことと言われている。当時のフランシスコ会宣教師ディエゴ=デ=サンフランシスコの書簡には、当時米沢藩領内にいたキリシタンは一万人だが、半数の5000人は寛永3年からの五年間の内に受洗したと書かれている。これは、特に寛永元年(1624年)の仙台・秋田・南部諸藩の大迫害後、キリシタン禁制がゆるやかであった米沢藩内に活発な伝道が行われたことが窺われ、こうした信者の著しい増加が、藩庁や幕府の注目するところとなり、ひいては寛永5年12月(1629年1月)の米沢大殉教につながったとの見方もある。(参照 レオン=パジェス『日本切支丹宗門史』、菅野義之助『奥羽切支丹史』、浦川和三郎『東北キリシタン史』、『米沢市史・近世編1』)

[編集] 関連書籍

  • 『上杉景勝』児玉彰三郎(1979年、児玉彰三郎遺著刊行会)
  • 『上杉景勝のすべて』花ヶ前盛明(1995年、新人物往来社ISBN 4404021801
  • 『上杉景勝伝』小野栄(2000年、米沢信用金庫叢書)
  • 『上杉景勝~転換期の時代を生き抜いた人生~』(2006年、米沢市上杉博物館)
  • 『上杉氏年表』池享・矢田俊文編(2003年、高志書院)ISBN 4906641733
  • 同書増補改訂版版 (2007年、高志書院) ISBN 4862150195
  • 『上越市史 通史編2 中世』(2004年、上越市
  • 『上杉家御年譜 2,3 景勝公』(原書房)
  • 『新装版上杉景勝のすべて』花ヶ前盛明(2008年、新人物往来社ISBN 4404035780

[編集] 関連項目

[編集] 関連作品

映像作品
小説
漫画

[編集] 外部リンク


先代:
長尾政景
上田長尾家当主
長尾顕景
次代:
上杉宗家に吸収
先代:
上杉輝虎(謙信)
山内上杉家当主
1578年 - 1623年
上杉家統一は1579年
次代:
上杉定勝
先代:
蒲生秀行
会津藩主(上杉家)
1598年 - 1601年
次代:
蒲生秀行
先代:
-
米沢藩主
初代:1601年 - 1623年
次代:
上杉定勝