木村篤太郎

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1953年(昭和28年)4月24日に行われた第3回参議院議員通常選挙で当選したときの木村篤太郎。世界通信より。

木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年明治19年)2月7日 - 1982年昭和57年)8月8日)は、日本政治家検察官弁護士剣道家位階勲等正三位勲一等旭日大綬章

目次

[編集] 略歴

[編集] 業績

[編集] 法律家

弁護士、帝国弁護士会理事長。第二次世界大戦後、検事総長、第一東京弁護士会会長。

[編集] 政治家

長く在野法曹で活動していた木村であったが、幣原喜重郎首相によって検事総長に登用、続く吉田茂首相では司法大臣として初入閣し、日本国憲法署名に名を連ねた。その後公職追放令により公職追放されるが、追放解除程無くして吉田内閣に法務総裁として再入閣。更に1953年の参院選で奈良県から参議院議員に当選し、2期務めた。

法務総裁・法務大臣としては共産党による暴力革命への懸念から治安対策の立案の中心となり、自ら提出した破壊活動防止法案を成立させた。血のメーデー事件では不信任案が提出されるものの、否決されこれを切り抜けている。また警察予備隊から保安隊へと繋がる再軍備政策にも関与し、保安庁長官(自衛隊発足後は防衛庁長官)や隊友会会長を務めた。

政界引退後は1967年(昭和42年)10月に自由民主党同志会会長に就任し、死去するまでその座にあった。加えて街商組合顧問の繋がりから暴力団院外団政治活動の裏幹事的立場にもあり、実際法務総裁だった当時には警察力を補うため全国の博徒的屋愚連隊を結集した反共抜刀隊計画を元大日本国粋会理事長・梅津勘兵衛に持ちかけている。この動きは梅津の死後森田政治に引き継がれ、日本国粋会の結成に繋がっている。

[編集] 剣道家

1952年(昭和27年)、全日本剣道連盟結成。前列中央木村篤太郎、隣中山博道
木村篤太郎翁像(正木坂剣禅道場

高校では撃剣部(剣道部)で北辰一刀流小林定行に剣道を学ぶ。早朝から稽古する、勉学より剣道が優先の生活であった。2年生のとき、剣道の友人7人と家を借り、を出て自炊生活を始める。大学でも撃剣部に属して木下寿徳山里忠徳中山博道に学ぶ。出稽古に来た学習院乃木希典の相手を務めたこともある。

1941年(昭和16年)、大日本武徳会剣道部会長に就任。称号は錬士であったとされる。同年、中倉清ら剣道家が流派派閥中山博道派、高野佐三郎派)を超えて稽古できる剣道会を作りたいと木村に相談、木村は快諾して、論語から「思斉会」と名付け、自ら会長に就任する。思斉会は第二次世界大戦後の剣道復興に多大な貢献をもたらすこととなる。

終戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)指令によって大日本武徳会は解散、剣道は禁止され、木村も公職追放されたが、剣道復興に尽力する。1952年(昭和27年)、剣道禁止令が解除。同年10月14日、全日本剣道連盟発足と同時に会長に就任。

1974年(昭和49年)、石田和外に会長を後継させ、名誉会長に就任。1985年(昭和60年)、奈良県の芳徳寺正木坂剣禅道場に「木村篤太郎翁像」が建立される。

日本刀蒐集家でもあり、国宝重文級のものはすべて財団法人刀剣博物館に寄贈した。愛刀は長曽禰虎徹興正。高齢になっても居合の稽古を欠かさず、剣道大会で居合を演武した。

[編集] 栄典

[編集] 生家

木村の生家は現在も五條市の新町通りに残っており、「まちや館」として勉強部屋や遺品が公開されている。

[編集] 遺訓

  • 「一源三流」という語を好んで揮毫した。
  • 「浪人訓」は自由民主党同志会の標語になっている。

[編集] 著書

[編集] 参考文献

  • 『卆翁百話 文と武の遺文』
  • 『ヤクザが消滅しない理由。』

[編集] 関連項目

官職
先代:
岩田宙造
日本の旗 司法大臣
第47代:1946 - 1947
次代:
片山哲
(臨時代理)
先代:
大橋武夫
日本の旗 法務総裁
第6代:1951 - 1952
次代:
(法務大臣へ名称変更)
先代:
(法務総裁より名称変更)
日本の旗 法務大臣
初代:1952
次代:
犬養健
先代:
橋本龍伍
日本の旗 行政管理庁長官
第8代:1952
次代:
野田卯一
先代:
吉田茂
(事務取扱)
日本の旗 保安庁長官
初-2代:1952 - 1954
次代:
(防衛庁に改組)
先代:
(保安庁から改組)
日本の旗 防衛庁長官
初代:1954
次代:
大村清一
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