光行次郎

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光行次郎
生年月日 (1873-01-20) 1873年1月20日
出生地 佐賀県
没年月日 (1945-08-06) 1945年8月6日(72歳没)
出身校 東京帝国大学

在任期間 1935年5月13日 - 1936年12月18日

貴族院議員
在任期間 1939年7月4日 - 1945年8月6日
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光行 次郎(みつゆき じろう、明治6年(1873年1月20日 - 昭和20年(1945年8月6日)は、日本検察官政治家検事総長貴族院議員

経歴[編集]

佐賀県出身。1902年東京帝国大学法学部英法科を卒業し司法省に入る。 司法省人事局長、大阪控訴院検事長、東京控訴院検事長等を歴任し、1935年検事総長となる。1936年に(佐賀人が複数関与した)二・二六事件が起こった日に登庁せずに待合「梅乃井」に身を潜めたことについて東京区検・地検検事が検事総長弾劾に立ち上がり、少壮検事約50人が総長辞職を求める連判状が取りまとめられた[1]。この影響もあり同年12月に退官した[1]

1939年貴族院議員。

1945年死去。

家族[編集]

父親は佐賀県士族の光行壽七[2]。長男の光行寿学陽書房昭和23年に創業し、彼の妻・宮子は、証券会社「望月乙彦商店」創業者で東京株式取引所一般取引員組合委員長、日本精工会長や高砂ゴム工業(のちニッピに吸収)会長などを務めた望月乙彦と妻まさ(望月軍四郎の姪)の長女である[3][4]。光行の長女フサの夫は泊武治、二女峰の夫は早稲田大学教授の田崎友吉[2]。友吉は日本のゴム製造の嚆矢である三田土ゴムの共同創業者・田崎忠篤(松前藩家老の子)の長男で、『ゴムの科学』などを著した。

参考文献[編集]

  • 「職員録」(内閣官報局 1904)
  • 「明治の名法曹物語」(日本評論社 1974)
  • 「幻の関東軍解体計画」(祥伝社 1989)

脚注[編集]

  1. ^ a b 上田誠吉「司法官の戦争責任」103頁
  2. ^ a b 光行次郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  3. ^ 望月乙彦『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  4. ^ 新体制と取引所の行方 東京日日新聞 1940.8.14-1940.8.18 (昭和15)
先代
林頼三郎
検事総長
1935年 - 1936年
次代
泉二新熊