渡辺驥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渡辺驥

渡辺 驥(わたなべ すすむ、天保7年9月9日1836年10月18日) - 明治29年(1896年6月24日)は、幕末松代藩士、明治期の検事元老院議官貴族院勅選議員錦鶏間祗候。通称は左太郎。

経歴[編集]

渡辺驥少丞(前列右端)。前列左より、玉乃世履権大判事、福岡孝弟大輔、江藤新平司法卿、楠田英世明法権頭、渡辺。後列左より、丹羽賢少丞、島本仲道警保頭 、松岡康毅七等出仕、松本暢権大判事(元壬生藩御典医・石崎誠庵)、尾崎忠治中判事、阪本政均警保助。1872年。[1]

信濃国松代城下代官町に松代藩士・槍術師範の渡辺十太夫の長男として生まれる。佐久間象山の門に入り、久坂玄瑞中岡慎太郎と交わって、国事を論じた。その後京都に出て、岩倉具視の邸宅に寄寓しながら、倒幕運動に参加した。戊辰戦争が勃発すると、北陸道先鋒総督や岩倉の命を奉じ、諸藩への使者となった。その後、松代に戻って藩兵を集め、北越戦争会津戦争を転戦した。

1869年(明治2年)、弾正台に出仕し、弾正少忠に進んだ。1871年(明治4年)の弾正台の廃止とともに司法省に移り、少丞兼権大検事、大丞兼大検事、大書記官を歴任し、1879年(明治12年)には太政官書記官を兼ねた。翌年、大審院勅任検事となり、元老院議官を兼ねた。1881年(明治14年)、大審院検事長に就任し、1886年(明治19年)まで在任した。退官後は元老院議官専従となる。1890年9月29日、貴族院議員に勅選され[2][3]、死去するまで在任した[4]。同年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた[2][5]

明治23年(1890年)12月に出版された 『国会傍聴 議場の奇談』には「渡邊驥氏演壇に顕る エヘンの一声 満場為めに静粛 氏の弁舌被告人に向て演説するが如し」と記されている。

栄典[編集]

位階
勲章等

脚注[編集]

  1. ^ 的野半介『江藤南白 上』南白顯彰会、1914、p643
  2. ^ a b 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』179頁。
  3. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  4. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』180頁。
  5. ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
  6. ^ 『官報』第1018号「叙任」1886年11月19日。
  7. ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
  8. ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
  9. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。

参考文献[編集]

  • 佐藤寅太郎 編『信濃人物志』文正社、1922年。 
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。