松岡康毅

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松岡康毅
Matasuoka Yasukowa.jpg
生年月日 1846年8月14日
出生地 阿波国板野郡七条村
没年月日 1923年9月1日(満77歳没)
死没地 神奈川県三浦郡葉山村
出身校 長久館

任期 1891年6月5日 - 1892年8月20日

任期 1891年12月22日 - 1920年11月8日

任期 1898年11月24日 - 1906年1月7日
元首 明治天皇

任期 1906年1月7日 - 1908年7月14日

任期 1920年10月22日 - 1923年9月5日
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松岡 康毅 (まつおか やすこわ、1846年8月14日弘化3年6月23日) - 1923年大正12年)9月1日)は、日本の司法官僚政治家徳島県板野郡上板町七条出身。従一位男爵検事総長農商務大臣貴族院議員日本法律学校第2代校長、日本大学初代学長・初代総長。幼名は毅之進、のち康毅。

年譜[編集]

  • 1846年(弘化3年)6月23日、阿波国板野郡七条村(現在の徳島県板野郡上板町七条)に、徳島藩中老長谷川家家臣・松岡佐左衛門康吉の四男として生まれる。
  • 1859年(安政6年)- 藩校長久館に学ぶ。
  • 1861年(文久1年)- 江戸で幕府儒官・若宮勿堂に入門。
  • 1863年(文久3年)- 大坂で藤沢昌蔵に師事。
  • 1870年(明治3年)- 徳島藩庁の文学復読方に任じられ、次いで公務方応接役、民生局検事助役、少属、権大属を歴任。
  • 1871年(明治4年)- 新政府に出仕、司法省権大録、司法省大録、権少判事、少判事を歴任。
  • 1875年(明治8年)5月 - 東京裁判所所長。その後、神戸裁判所所長、司法大書記官を歴任。
  • 1882年(明治15年)2月 - 広島控訴院裁判長。
  • 1886年(明治19年)3月 - 裁判実務視察のためドイツフランスへ出張。
  • 1887年(明治20年)11月 - 欧州視察から帰国。翌月には司法大臣山田顕義のもとで法律取調委員会の委員を命じられ、民法や商法など各種法令の調査と審議に従事する。
  • 1888年(明治21年)2月 - 高等法院陪席裁判官。
  • 1889年(明治22年)10月 - 日本法律学校(後の日本大学)設立評議員。
  • 1890年(明治23年)10月 - 東京控訴院長。
  • 1891年(明治24年)6月 - 検事総長。同年12月、貴族院勅選議員に勅任。
  • 1893年(明治26年)- 廃校の危機に立たされた日本法律学校の存続のため中村元嘉春木義彰らと奔走。同年12月同校第2代校長。
  • 1894年(明治27年)1月 - 第2次伊藤内閣で内務次官。その後、内務省所管事務政府委員、台湾事務局委員、内務省文官普通試験委員長を歴任。
  • 1898年(明治31年)1月 - 第3次伊藤内閣で内務次官に再任。同年11月行政裁判所長官。
  • 1903年(明治36年)8月 - 専門学校令による大学組織「日本大学」の初代学長。
  • 1906年(明治39年)1月 - 第1次西園寺内閣で農商務大臣。
  • 1917年(大正6年)8月 - 男爵。
  • 1920年(大正9年)11月 - 枢密院顧問官。
  • 1922年(大正11年)3月 - 日本大学に総長制度を導入し、初代総長。
  • 1923年(大正12年)9月1日 - 葉山別邸で関東大震災に被災し死去、満78歳。従一位を追贈。

外部リンク[編集]

公職
先代:
渡辺千秋
中村元雄
日本の旗 内務次官
第5代:1894 - 1896
第8代:1898 - 1898
次代:
松平正直
鈴木充美
先代:
周布公平
日本の旗 行政裁判所長官
第4代:1898 - 1906
次代:
山脇玄
先代:
清浦奎吾
日本の旗 農商務大臣
第21代:1906 - 1908
次代:
大浦兼武