中村正三郎 (政治家)
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なかむら しょうざぶろう
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| 生年月日 | 1934年7月18日(78歳) |
| 出身校 | 慶應義塾大学法学部卒業 |
| 前職 | 富士製鐵社員・日東交通株式会社社長 |
| 所属政党 | 自由民主党 |
| 親族 | 中村庸一郎(父) |
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| 内閣 | 小渕内閣 小渕恵三内閣第1次改造内閣 |
| 任期 | 1998年7月30日 - 1999年3月8日 |
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| 内閣 | 宮沢内閣 |
| 任期 | 1991年11月5日 - 1992年12月12日 |
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| 選挙区 | (旧・千葉3区) 千葉12区・比例南関東ブロック (コスタリカ方式) |
| 当選回数 | 9回 |
| 任期 | 1979年 - 2005年 |
中村 正三郎(なかむら しょうざぶろう、1934年7月18日 - )は、日本の政治家。衆議院議員、環境庁長官、法務大臣、大蔵政務次官などを歴任した。
目次 |
来歴・人物 [編集]
千葉県出身。慶應義塾大学法学部卒業後、富士製鐵に勤務。1979年10月7日の第35回衆議院議員総選挙で初当選(当選同期に佐藤信二・保利耕輔・畑英次郎・麻生太郎・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・吹田あきら・宮下創平・亀井善之・船田元など)。清和政策研究会に所属し副会長まで務めた。以後2003年11月9日の第43回衆議院議員総選挙まで9回連続当選。
1991年には宮沢内閣の環境庁長官として初入閣。1996年から、千葉12区で浜田靖一とコスタリカ方式を結ぶ。比例区で再選した直後に第2次橋本内閣において三塚博蔵相の下、閣僚経験者でありながら政務次官に就任。1998年には小渕内閣の法務大臣に就任。閣僚就任による資産公開では約26億1千万円と閣僚中1位。約7ヶ月の法相在任中、1998年11月に3人の死刑囚の死刑執行を命令した。その際「本日、死刑確定者に対し死刑を執行した」という形で死刑執行の部分公開を行い、以後死刑執行の部分公表が慣例化し、法制審議会から官僚委員を排除する方針を打ち出すなどした。
しかし不祥事が問題となり、1999年3月に法務大臣を辞任した。
2005年の郵政国会では入院中で採決を棄権。8月8日に郵政解散したことを受け、政界を引退した。第44回衆議院議員総選挙で初当選し、清和会に入会した稲田朋美を支援している。
不祥事 [編集]
- 法務大臣在任中、不祥事疑惑がおこり国会を混乱させたとして辞任している。また法相就任直後に北島敬介検事総長を呼びつけ自身との上下関係に留意するよう注意したり、中央更生保護審査会で承認された無期懲役で仮釈放中の人物に対する復権申請に対して「極悪人を復権させる必要などない」と発言するなど、問題行動が多かった[1]とされる。
シュワルツェネッガー問題 [編集]
アーノルド・シュワルツェネッガーが提出した旅券紛失の顛末書を入国管理局に命じてわざわざ取り寄せて大臣室に保管していた。国会で「シュワルツェネッガーのファンだ」と答弁し批判を受けた。
指揮権発動未遂問題 [編集]
親族・親戚 [編集]
モータースポーツ [編集]
- 1960年代、アマチュアドライバーとして日本グランプリをはじめとする多くのレースに参戦していた。
- 2009年には袖ヶ浦市に所有する敷地に自らコース設計を手がけた袖ヶ浦フォレストレースウェイをオープンさせた。
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代: 原田昇左右 |
1999年 - 2000年 |
次代: 衛藤征士郎 |
| 先代: 奥田敬和 |
第52代:1994年 - 1995年 |
次代: 谷垣禎一 |
| 先代: 越智通雄 |
1988年 - 1989年 |
次代: 中西啓介 |
| 官職 | ||
| 先代: 下稲葉耕吉 |
第65代:1998年 - 1999年 |
次代: 陣内孝雄 |
| 先代: 愛知和男 |
第26代:1991年 - 1992年 |
次代: 林大幹 |
脚注 [編集]
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