中村正三郎 (政治家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
日本の旗 日本の政治家
中村 正三郎
なかむら しょうざぶろう
生年月日 1934年7月18日(79歳)
出身校 慶應義塾大学法学部卒業
前職 富士製鐵社員・日東交通株式会社社長
所属政党 自由民主党
親族 中村庸一郎

日本の旗 第65代 法務大臣
内閣 小渕内閣
小渕恵三内閣第1次改造内閣
任期 1998年7月30日 - 1999年3月8日

日本の旗 第26代 環境庁長官
内閣 宮沢内閣
任期 1991年11月5日 - 1992年12月12日

選挙区 旧千葉3区
千葉12区比例南関東ブロック
(コスタリカ方式)
当選回数 9回
任期 1979年 - 2005年
テンプレートを表示

中村 正三郎(なかむら しょうざぶろう、1934年7月18日 - )は、日本政治家衆議院議員(9期)、環境庁長官法務大臣、大蔵政務次官などを歴任した。

来歴・人物[編集]

千葉県出身。慶應義塾大学法学部卒業後、富士製鐵に勤務。1979年10月7日第35回衆議院議員総選挙で初当選(当選同期に佐藤信二保利耕輔畑英次郎麻生太郎岸田文武白川勝彦丹羽雄哉亀井静香吹田あきら宮下創平亀井善之船田元など)。清和政策研究会に所属し副会長まで務めた。以後2003年11月9日第43回衆議院議員総選挙まで9回連続当選。

1991年には宮沢内閣の環境庁長官として初入閣。1996年から、千葉12区浜田靖一コスタリカ方式を結ぶ。比例南関東ブロックで再選した直後に第2次橋本内閣において三塚博蔵相の下、閣僚経験者でありながら政務次官に就任。1998年には小渕内閣の法務大臣に就任。閣僚就任による資産公開では約26億1千万円と閣僚中1位[要出典]。約7ヶ月の法相在任中、1998年11月に3人の死刑囚死刑執行を命令した。その際「本日、死刑確定者に対し死刑を執行した」という形で死刑執行の部分公開を行い、以後死刑執行の部分公表が慣例化し、法制審議会から官僚委員を排除する方針を打ち出すなどした。

しかし不祥事が問題となり、1999年3月に法務大臣を辞任した。

2005年郵政国会では入院中で採決を棄権。8月8日郵政解散したことを受け、政界を引退した。第44回衆議院議員総選挙で初当選し、清和会に入会した稲田朋美を支援している[要出典]

不祥事[編集]

  • 法務大臣在任中、不祥事疑惑がおこり国会を混乱させたとして辞任している。また法相就任直後に北島敬介検事総長を呼びつけ自身との上下関係に留意するよう注意したり、中央更生保護審査会で承認された無期懲役で仮釈放中の人物に対する復権申請に対して「極悪人を復権させる必要などない」と発言したりするなど、問題行動が多かった[1]とされる。

シュワルツェネッガー問題[編集]

アーノルド・シュワルツェネッガーが提出した旅券紛失の顛末書を入国管理局に命じてわざわざ取り寄せて大臣室に保管していた。国会で「シュワルツェネッガーのファンだ」と答弁し批判を受けた[要出典]

指揮権発動未遂問題[編集]

  • 中村がオーナーを務める企業と民事訴訟で争っている企業への刑事捜査を法務・検察に促していた[要出典]
    • 法務省、検察庁の幹部から「指揮権発動に該当する」と諌められたため、結局、捜査命令は撤回された[要出典]
    • 私的な理由で指揮権を発動しようとしたとして、批判が集まった[要出典]
    • 指揮権発動は造船疑獄時等しか例がなく、極めて稀である[要出典]

親族・親戚[編集]

所属団体・議員連盟[編集]

モータースポーツ[編集]

  • 1960年代、アマチュアドライバーとして日本グランプリをはじめとする多くのレースに参戦していた[2][3]
  • 2009年には袖ヶ浦市に所有する敷地に自らコース設計を手がけた袖ヶ浦フォレストレースウェイをオープンさせた[4]
  • この他に日本自動車連盟(JAF)におけるモータースポーツ関連の改革にも関わっている。日本のモータースポーツへの高い貢献を評価され、2013年にはタグ・ホイヤーが選ぶ「ジャパン・モーター・レーシング・ホール・オブ・フェイム2013」を受賞している[5]

脚注[編集]