日本における死刑
| この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 |
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本稿では、日本における死刑(にほんにおけるしけい)の概要、歴史を述べる。
日本は死刑を法定刑のひとつとして位置づけている。その方法は絞首によると規定されている(刑法11条1項)。
- 死刑制度の廃止をめぐる問題に関しては死刑存廃問題を参照されたい。
- 世界各国の死刑制度に関する詳細については、世界の死刑制度の現状を参照されたい。
目次 |
[編集] 死刑のある犯罪
法定刑に死刑のある犯罪は以下のとおりであり、これらは原則として第一審では裁判員裁判の対象事件となる(裁判員の参加する刑事裁判に関する法律第2条第1項第1号。ただし、対象事件からの除外された場合や内乱罪のように地方裁判所が管轄しない事件(裁判所法16条4項参照)などを除く)。裁判所は、法廷に提出された証拠をもとに、過去の判例(いわゆる永山基準など)もあわせて検討し判決を下す。
- 刑法(条文番号順)
- 組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律
- 組織的な殺人罪(3条、刑法199条)
- 人質による強要行為等の処罰に関する法律
- 人質殺害罪(4条)
- 航空機の強取等の処罰に関する法律
- 航空機強取等致死(2条)
- 海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律
- 爆発物取締罰則
- 爆発物使用(1条)
このうち内乱罪は死刑が適用された事例が存在ぜず、外患罪は適用事例すら存在しない。
上記のように日本では、法律上は他者の生命を奪わなくても死刑になりうるが、実際の判例では、戦後の場合、他者の生命を奪った場合にのみ死刑判決が出ている。
現在死刑が適用されるのは故意に行った犯罪行為によって他人の生命を奪った者のなかでも、特に生命を以って償うべきであると裁判所が認定した犯罪者に限定されているといえる。
[編集] 死刑の量刑基準
日本において死刑判決を宣告する際には、永山則夫連続射殺事件で最高裁(昭和58年7月8日判決)が示した死刑適用基準の判例を参考にしている場合が多い。そのため永山基準と呼ばれ、第1次上告審判決では基準として以下の9項目が提示されている。
- 犯罪の性質
- 犯行の動機
- 犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
- 結果の重大性、特に殺害された被害者の数
- 遺族の被害感情
- 社会的影響
- 犯人の年齢
- 前科
- 犯行後の情状
[編集] 殺害した人数との関係
死刑もその他の刑罰と同様、罪刑法定主義に則った明快な基準の必要性が法曹界で議論されてきた。従来は、どの程度の罪状に対して死刑を適用するか、罪状による適用範囲の重複はあるが、最高裁は概ね以下のような基準を示していた。
- 3人以上殺害した場合は、死刑の可能性が高い。
- 2人殺害した場合は総合的に判断し、死刑か無期刑か有期刑か量刑判断が決まる。
- 1人殺害した場合は、有期刑や無期刑の可能性が高い。ただし犠牲者は有力家か有名人の場合、死刑の可能性が高い。
これに前述の永山基準をはじめ、情状酌量の余地、主犯かどうか、反省の有無、再犯の可能性、更生の見込みといったものを考慮にいれて実際の量刑が決まる。ただし死刑の適用は裁判所の裁量であり、実際には当てはまらない判例も多い[1]。
また、運用は時代背景とともに変遷がある。警察庁や法務省の統計によれば第二次世界大戦後の殺人率は1954年をピークに長期的に減少傾向であるが、殺人・犯罪に対する厳罰化を求めるマスメディアの報道・世論の影響で、2人殺害にも死刑判決が数多く出されるようになり、更には、1人殺害の事件でも死刑判決が出されるケースが見られるようになった。
[編集] 統計
1990年代以前は、犠牲者の人数が1人の場合には死刑になることはそれほど多くなかったが(詳細は日本における死刑囚の一覧を参照)、2000年代以降は犠牲者が1人でも死刑になるケースが見られるようになった。例えば、2004年の奈良小1女児殺害事件では被害者遺族の処罰感情を重視し、被害者が1人であるにも関わらず死刑判決が下されている。2007年の長崎市長射殺事件の一審判決においても民主主義に対する挑戦とし、被害者が1人の殺人事件で死刑判決が下された(2009年9月29日二審福岡高裁は無期懲役判決。現在上告中)。
1947年~1963年と1966~1970年は毎年10人以上に死刑確定判決があり、1949年には第二次世界大戦後では最多の77人に死刑確定判決があった。また、1960年代以降の略取・誘拐事件では、身代金目的で誘拐し人質を殺害した場合は、被害者が一人であっても死刑が宣告された(例として 吉展ちゃん誘拐殺人事件等)。その一方、死刑確定判決は1971~1987年と1989~2003年は10人未満、死刑執行は1977~1989年は1~4人、1990~1992年は0人、2000~2006年は1~4人だった。
[編集] 前科との関係
加害者に傷害や強盗といった刑法犯の前科がある場合には死刑になる可能性が高くなる。死刑事件に限らず、一般に刑事裁判の量刑判断において前科の有無は欠くことのできない考慮要素であるから、こうした傾向は当然と言えば当然である。一方で前科がなく、計画的犯行でなかった場合、死刑判決が回避される傾向にある。
仮釈放中の無期懲役受刑者による強盗殺人事件について福山市女性強盗殺人事件で最高裁は1999年12月10日に「別の強盗殺人罪で仮釈放中に再び強盗殺人を犯したケースは死刑が相当」であるとして、累犯による刑加重であるとして下級審が下した無期懲役判決を破棄し高裁差し戻し、死刑の適用を求める判決を出している。
また無期懲役ではないが殺人の前科があり、その後強姦した女性が告訴した事を逆恨みした結果殺人を犯した者について、死刑が確定して4年後という比較的早期に処刑されている(詳細は「JT女性社員逆恨み殺人事件」を参照されたい)。
[編集] 未成年の死刑
少年法51条1項により、18歳未満の年齢で犯罪行為を行った少年に対しては死刑に処することができない(死刑相当の場合は無期懲役が下される)と規定されており、これまでは、少年法が適用される20歳未満の者についても死刑判決が回避される傾向にあり、前述の永山基準の枠組みでは誰が見ても死刑以外に選択肢がない場合だけ死刑が出来るという基準であった。
しかし、光市母子殺害事件の最高裁判決は「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」とし、犯行時18歳であっても「原則として死刑適用」という新たな判断の枠組みを提示した。
[編集] 例
- 1人殺害の事件でも死刑判決が出た近年の例
- 2009年の闇サイト殺人事件:被害者が1人の殺人事件で一審で被告人3人のうち2人の被告人に死刑判決。(1人は控訴せず死刑判決が確定したが、もう1人は控訴し二審は無期懲役)
- 死刑になった事件で被告人に前科があったものの例
- 人違いバラバラ殺人事件、三島女子短大生焼殺事件、長崎市長射殺事件(二審は無期懲役)、奈良小1女児殺害事件:いずれも被害者が1人
- 大阪地下鉄短大生強盗殺人事件[2]:被告人に殺人罪の前科があり、無期懲役の仮釈放中の凶行であったと認定されている。
- 計画的犯行でなかった事件で死刑判決が出なかった例
- 江東マンション神隠し殺人事件では、検察も被害者遺族の処罰感情や過去に被害者が1人でも死刑判決が出た事例を挙げて極刑を求めたが、一審・二審ともそれを退け無期懲役が言い渡され確定した。二審の東京高裁は、検察の被害者が1人の死刑判決の事例に対し、「残虐性の程度や被告の犯罪傾向の深さなどに違いがあり、同様に死刑を選択すべきとの根拠にならない」と述べた[3]。殺害を最初から意図していなかったこと、証拠隠滅で遺体をバラバラにしたのは殺害後であったこと、そして被告人の性格は異様であったとしても逮捕歴がなかったことから、刑事法学者からは裁判官が死刑判決が出しにくい事件だったと指摘されている[4]。
- 共犯者の強い支配の下に置かれていたために複数人の殺害を実行したにもかかわらず死刑とならなかった例
[編集] 高齢死刑囚の処刑
日本では死刑を求刑できる最高年齢については明文化はされていない。
日本では高齢を事由に死刑囚の恩赦ないし死刑執行猶予が決定されたことはなく、実際に2001年に名張毒ぶどう酒事件の死刑囚が75歳の時に胃がんになって手術したときも刑の執行停止は行われていない。80歳以上で獄死した死刑囚も存在する。
それに対し懲役刑受刑者の場合は「年齢70年以上であるとき」(刑事訴訟法482条2項)には検察官の指揮によって「自由刑の裁量的執行停止」(刑事訴訟法482条)できる。
2006年現在、戦後最高齢での死刑は2006年12月に執行された77歳(秋山兄弟事件の死刑囚)と75歳の死刑囚である。このケースの75歳の死刑囚は遺言で身体の衰えによって立つこともままならない状態であったと述べている[6]。彼は車椅子を日常使っていたことから、刑場に車椅子で連れていかれたといわれているが、実際はどのようであったかは不明である。なお、それまでの戦後最高齢は生涯で10人を殺害した古谷惣吉の70歳(1985年5月31日執行)であった。
今後は死刑確定から年数が経過している高齢死刑囚の執行が増える事が指摘されている。帝銀事件の平沢貞通が82歳で死刑決裁が行われた前例があるためである。
高齢死刑囚の例として、他に以下のものがある:
- 2007年12月にも74歳の死刑囚の死刑が執行された。
- 死刑の言い渡しであるが、一審であるが78歳の男性に死刑判決が出されたことがある。これは1989年に発生した熊谷養鶏場宿舎放火殺人事件の実行犯に対するものである。保険金目当ての首謀者からの依頼で放火したものであるが、13年後の2002年に事件の真相が判明し逮捕されたが、実行犯が殺人罪で懲役20年で服役し仮出所中の犯行であったため死刑が言い渡されたものである。ただし2006年に首謀者が無期懲役なのに死刑というのは均衡失するうえに83歳と高齢であるとして無期懲役に減刑されている[7]。
- 帝銀事件の平沢貞通は、逮捕時56歳で死刑が確定したのは63歳の時であったが、冤罪の可能性が強く指摘された事件であり、死刑執行が諸般の事情で延ばされていた。実際に死刑の執行が法務大臣の決裁直前までいった事が複数あり、最後に死刑執行が上申されたのは平沢82歳の1974年11月であったという。ただし当時の浜野清吾が決裁を渋ったことで見送られたという[8]。その後は平沢の死刑執行の可能性はなくなったといえ、1978年7月に当時の瀬戸山三男法務大臣は「86歳になっている人をいまさら(執行に)ひきだすのは大変なことだ」と消極的な姿勢をしめしており[9]、平沢が獄死する日を待っていたといえる。
- 2011年3月に、79歳で死刑判決が確定した死刑囚がいる。72歳だった2003年9月に広島県比婆郡東城町(現:庄原市)で91歳女性を、73歳だった2004年12月に岡山県井原市で蕎麦屋店主の76歳男性を強盗目的で殺害したもので、高齢者による同じ高齢者を殺害したものであった。二審で逆転死刑が言い渡された。
[編集] 犯行の残虐性との関係
「犯行態様が極めて残虐であり、共に同等の責任を負うべきである」として共犯2人が死刑になる場合(例:福岡病院長殺人事件)もある。
ただし、何が「残虐」で、何が「残虐」でないかは極めて主観的な問題であり、客観性に乏しく、個別の事件で基準の違いが大きすぎるため、公正さが欠けている部分がある。また、同じような罪状であっても厳罰化と寛容化といった時代的要因(その時代における社会の空気・雰囲気)も重要な判断材料として存在するため、時期や裁判官の思想信条によって判断のバラつきがある。
「被害者遺族が極刑を求めるのは当然」というステレオタイプで語られる場合が多いが、実際のところは極刑を求めない被害者遺族も一定数存在する(国内における著名な活動家として、松本サリン事件の被害者である河野義行など)。
しかも、当該事件における被害者遺族の感情がどのようなものであれ、同種の事案において過去の判例と量刑に大きな差が生じることは、公平かつ平等な裁判という観点からは望ましくない。したがって、裁判官にとっては難しい判断が要求されているといえる。
[編集] その他の傾向
- 金銭がらみの殺人:保険金目的殺人や営利誘拐殺人などでは被害者1人でも死刑(例として吉展ちゃん誘拐殺人事件など、ただし甲府信金OL誘拐殺人事件のように死刑を免れた事件も複数ある)になることが多いため、金銭がらみの殺人犯は極刑になる場合が多い。
- 心神喪失者の行為:被害者4人以上でも新宿西口バス放火事件(死者6人)や深川通り魔殺人事件(死者4人)、西成区麻薬中毒者殺人事件(死者4人)では、「心神喪失者の行為は罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」という刑法39条に拠って、加害者の犯行時は心神耗弱であったことが認められ、法律上の刑の減軽として刑法68条1号の規定により、無期懲役の判決が確定する場合もある。
- 一家心中:大量殺人であっても一家心中を企てて生き残った親については極めて軽微な刑で済まされる場合[10]すらあり、中には心神喪失を理由に不起訴処分になった事例すらある。
- 母親が子供を殺害した場合:死刑にならない場合が殆どであり、子供に障害がある場合には、殺害された子供には責任がないにもかかわらず、執行猶予になるケースも散見される。また同様に寝たきりの者を介護していた親族が殺害した場合には、情状酌量によって起訴猶予される場合すらある。このように、保険金からみでなければ家庭内の殺人については「情状酌量」され死刑が適用されることはまずない。
- 公判における態度:公判のなかで被告人が反省の弁を述べなかったり、犯罪の共謀者と罪のなすり付け合いをしている場合も死刑判決が出るケースが多い。前述の人違いバラバラ殺人事件では控訴審で証人を刺した事で逆転死刑となった。
- 共犯:1979年に発生した福岡病院長殺人事件は、殺害を実行した2人が院長1人を殺害した事件であったが、凶悪な累犯を重ねた共犯として、ともに同等の厳しい責任を認定し死刑が確定した。
- 強盗殺人や強姦殺人:被害者が1人でも死刑となるケースがある。
[編集] その他
2004年に死刑判決が確定した警察庁広域重要指定118号事件では犠牲者2人に対し犯行グループ6人のうち3人(死刑求刑は5人)の死刑が確定しており、犠牲者数よりも多い人数の被告人に対して死刑が宣告されるケースも見られつつある。 戦前に発生した最悪級の殺人事件であるが東京市電運転手連続殺傷事件(死者7人負傷者10人)でも無期懲役が判決されている。また、地下鉄サリン事件の実行犯である林郁夫は担当車両で2人を殺害したが、自首が情状酌量の要素として認められたためか、死刑ではなく無期懲役を求刑され、求刑通りの判決となっている(サリンを製造しただけで殺害実行や事前謀議には一切関わっていない土谷正実や地下鉄サリン事件の散布実行犯として担当車両で1人の死者も出さなかった横山真人が死刑判決を受ける中で、林郁夫は地下鉄サリン事件の散布実行犯としては唯一死刑を免れている)。そのため刑事裁判では犠牲者数だけで機械的に死刑が適用されるわけではなく、判例に依拠しつつ犯罪の性質も含めて臨機応変に判断していると言える。
死刑確定判決は2004年は14人、2005年は11人、2006年は21人、2007年は23人、2008年は10人、死刑執行数は2007年は9人、2008年は15人に増加している[11]。
[編集] 死刑執行までの過程
[編集] 死刑判決
死刑判決では、被告人の心理状態を考慮し主文朗読が後回しにされることが多い。(通常の刑事裁判では、主文を先に朗読した後に判決理由の朗読が続く)。
このため、判決公判の冒頭に主文朗読がなされずにまず判決理由の説明が行われることは、「死刑の可能性が非常に高い」と裁判の当事者や報道機関等が判断する材料となる(例外もある)。この場合、マスコミ速報では「厳しい判決」「極刑が予想される展開」などと報じられる。
[編集] 死刑確定者の拘置
死刑の言渡しを受けた者は、その執行に至るまで刑事施設に拘置される(刑法11条2項)。死刑の言渡しを受けて拘置されている者を死刑確定者という(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律第2条11号)。この拘置の法律上の位置づけは「死刑の執行行為に必然的に付随する前置手続」であって刑の執行そのものではない(昭和60年7月19日最高裁判決)。法理論上、死刑とはあくまでも絞首の執行そのものをいい(刑法11条2項)、執行に至るまでの拘置は特殊な拘禁状態であり、死刑確定者は刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律でいう「受刑者」にも含まれていない(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律の「受刑者」とは懲役受刑者、禁錮受刑者又は拘留受刑者をいう、同法第2条4号)。
死刑が執行されるまでの間、死刑確定者は刑場を有する以下の刑事施設に拘置される(刑法11条2項)。
- 札幌刑務所(拘置は札幌拘置支所)
- 宮城刑務所(拘置は仙台拘置支所)- 東京拘置所に刑場が設置される前は、宮城刑務所で死刑を執行しており、「仙台送り」が死刑の代名詞となっていた時代もある。
- 東京拘置所
- 名古屋拘置所
- 大阪拘置所
- 広島拘置所
- 福岡拘置所
拘置所により若干異なるが、死刑確定者は執行までの間、便器・流し台・机・寝具等が収納された3畳ほどの居室(第二種独房と呼ばれる)の中で逃走・自殺・自傷防止用のカメラに24時間監視されながら生活をする。居室の窓と鉄格子の間は小さな穴の開いた金属板やルーバーなどの遮蔽版で覆われる房が殆どであり、外の景色はほとんど見えず、換気も大変悪く、ほとんどの拘置所には冷暖房装置もない。
起床は午前7時、就寝は午後9時だが、カメラで監視を行うため、明かりを暗くする減灯処置が行われ、消灯は行わない。運動は夏期は週2回、夏期以外は週3回、入浴は夏期は週3回、夏期以外は週2回。運動はベランダかコンクリート床の所で30分程度で、縄跳びのみ支給される。入浴は着替えも含め15分程度。但し最近は、拘置所側が規定を拡大解釈することによって、これより多い場合もあるという。それ以外は居室の中で座って過ごす。食事は朝食が午前8時、昼食が午前11時半、夕食は午後4時半に支給される(食事の味付け、量は個人差があり評価はまちまちだが、生野菜がないためビタミン不足になりがち。そのため、親近者からの差入れか、申請して果物類を購入して摂取する)。
希望すれば、封筒貼り等の軽作業(贖い)もすることができ、賞与金を得ることができる(最高、月に4~5千円位)。
[編集] 外部との交通
外部交通は信書の発受と面会に限られる。
信書は1日に1通発信することができる。内容については検査される。
面会は1日に1回許可され、内容は記録される。面会時間は長くとも30分以内と決められているが、実際は長くて10~15分程度しかなく、短いときには5分程度で話を打ち切るよう催促される。
面会できる相手は次のいずれかに限られている。
- 親族・婚姻関係の調整、訴訟の遂行、事業の維持その他の死刑確定者の身分上、法律上又は業務上の重大な利害に係る用務の処理のため面会することが必要な者
- 面会により死刑確定者の心情の安定に資すると認められる者
- 前記に掲げる者以外の者から面会の申出があった場合において、その者との交友関係の維持その他面会することを必要とする事情があり、かつ、面会により刑事施設の規律及び秩序を害する結果を生ずるおそれがないと認める者に限られている。
家族以外の友人やジャーナリスト、NGOスタッフなどが面会を申請しても、許可されるかどうかは当該刑事施設の取り扱いによって異なるものと思料される(取材を目的とした面会は一切許可されず、ジャーナリストなどが面会する場合は「面会したことを記事にしない」という趣旨の誓約書を書かされる)。
このため、家族と疎遠になっている場合などには、何年間も誰とも面会できない者もいる。また、死刑確定者の支援者らが養子縁組などを行い、家族として面会を求めた場合も拒否される(群馬3女性殺人事件の死刑囚とその養親。面会のためだけに養子縁組となり、家族という形で面会することを刑事施設側が拒否したのは合憲とする、という判例が出された)。
このような外部交通の制限について日弁連は報告書で、国際人権規約に反するとしている。
[編集] 検察送致
死刑判決が確定すると、判決謄本と公判記録は当該死刑確定者の死刑を求刑した検察庁に送られる。高等検察庁の検事長、あるいは地方検察庁の検事正は、これらの書類をもとに、死刑確定者に関する上申書を作成し法務大臣に提出する。
上申書は、法務省刑事局に回される。同時に検察庁から刑事局に裁判の確定記録が運ばれる。刑事局総務課は資料が全て揃っている事を確認し、刑事局担当の検事が記録を審査する。
死刑執行には法務省刑事局の局付検事による確認作業ともいえる「死刑執行起案書」の作成が必要であるためである。確定死刑囚について裁判に提出しなかった証拠記録を送付するよう命令したうえでを作成したうえで、まず検事長が法務大臣に死刑執行に関する上申書を提出したうえで、法務省刑事局が、最終的に法務大臣に上申する。この法手続きは司法権が下した生命を奪う刑罰を適用する判断を行政権が再度チェックするために設けられたものであるため「第4審」[12]とも呼ばれている。この時の手続きで法務官僚が死刑執行に問題ないと判断した死刑囚に対し法務大臣の執行命令書の署名を求める。この確認作業において官僚の裁量権のなかに主観的判断が介在するといわれている。
通常、死刑該当犯罪の場合、その裁判資料は膨大なものであるから審査には時間がかかる。特に、刑の執行を停止しなければならない件、非常上告の有無の件、再審の件、恩赦に相当するかどうかの件は慎重に確認される。
審査の結果、死刑執行に問題がないと判断されると、検事は死刑執行起案書を作成する。死刑執行起案書は刑事局、矯正局、保護局の決裁を受け、これらの決裁の確認の後、「死刑執行命令書」として大臣官房へ送られる。ここまで、膨大な資料の確認と決裁のため、相当な時間がかかるが、この間に死刑確定者が妊娠した場合や、精神に異常をきたした場合は、書類は刑事局に戻される。
死刑執行命令書は官房長の決裁を経て、法務大臣の下へ届く。本来であれば法務事務次官の決裁が必要だが、法務大臣と法務省の事務方代表である法務事務次官の決裁が食い違っては、政治的問題になるので、法務事務次官の決裁は、法務大臣の決裁を経た案件だけに行われる。
日本の刑事裁判では一般的に三審制であるが、このように死刑に関しては最高裁の後の法務大臣の死刑執行の署名する前段階で、さらに法務省刑事局で検事による裁判記録の審査がおこなわれ、健康状態に問題があったり、また冤罪の可能性があるなど執行に障害のある死刑囚が排除されていくため、死刑案件については事実上の四審制であると表現[13]されることもある。
[編集] 執行命令
現在、日本において死刑執行を最終判断するのは法務大臣となっている。刑事訴訟法475条第1項は「死刑の執行は、法務大臣の命令による。」と定める。この命令は、判決確定の日から6ヶ月以内にしなければならないが(刑事訴訟法475条第1項本文)、上訴権回復、再審の請求、非常上告、恩赦の出願・申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は算入されないこととなっている(刑事訴訟法475条第2項但書)。
[編集] 執行準備
法務大臣が署名、押印して執行命令書が作成されると、刑事施設の長に届けられ、5日以内に死刑が執行される(刑事訴訟法476条)。法律(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律178条2項)の規定により、日曜日、土曜日、祝日法に定める休日、12月29日から1月3日までの間は死刑の執行は行われない。
また、一度に死刑が執行されるのはひとつの刑事施設で一人が基本であるが、二人が時間をおいて執行された例も多数あるほか、基本的に共犯二人が死刑囚の場合には同日に死刑が執行される(前述の福岡病院長殺人事件や夕張保険金殺人事件など多数例外もある)。ただし、後述の田中伊三次が同時に23人に執行命令を出した際は、全員の死刑に1ヶ月以上かかっており「5日以内に死刑」は刑事施設の準備により遅れる場合がある。
執行予定日は、死刑確定者やその家族・マスコミ・被害者の家族等、外部には一切知らされない。過去においては当該死刑確定者に前日または前々日に執行の予定を告げ、死刑確定者の希望する食事をできる限りの範囲で与え、特別の入浴や親族との面会を許可し、同囚や宗教教誨師や担当刑務官らを交え「お別れ会」を行うこともあった。また「お別れ会」の開催は後述の玉井策郎大阪拘置所所長(当時)が1956年に読売新聞の紙面で公開した秘密録音で明らかになった。
しかし、近年では、死刑確定者には当日の朝に執行を告げられ、午前中に執行される傾向にある。なぜ事前通知が行われないかであるが、死刑通告を前日等に通達すると、執行前に自殺されたり、または執行官が病気などを理由として休むことが多いためといわれている。この事前通知を行わない対外的な理由としては「死刑確定者の心情の安定のため」としている。実際に1975年10月3日に福岡拘置所で死刑執行当日の朝に、前日死刑執行を通知されていた死刑囚が左手首を剃刀で切り付け自殺している。以来、死刑囚に対し死刑執行を前日に通知しなくなったとされる。
この告知方法については、毎朝、執行が予定されていない日においても、死刑確定者に不要な恐怖を与えて残虐であると内外から批判が強い。また、防御権の行使・遺言の伝達・家族間の別れの挨拶等を行うことも不可能になるため、死刑廃止国や死刑反対団体から強く批判されている。
また、執行を担当する刑務官についても執行当日に職務命令が通知されるという[14]。これは刑務官に事前に知らせると、情報漏洩の危険があるためである。また当日欠勤するからという話もあるが真偽不明である。担当する刑務官は通院中の者や新婚の者、妻が妊娠中の者などは除外され、残りの者から選抜されるという。
死刑執行の日、死刑確定者の独房には死刑確定者の抵抗に備え、特別警備隊と呼ばれる、頑強な刑務官で構成された一隊が送られ、首席矯正処遇官(処遇担当)より死刑確定者にこれから死刑を執行する旨が伝えられる。時間は午前9時から11時の間が通常であると言われている(旧刑法附則1条では「午前十時前」とされていた)。淡々と従う者、抵抗を試みる者、恐怖で茫然自失となる者、泣き叫びながら命乞をする者、反応は様々だという。ここでは遺書を書く時間や、室や荷物を整理する時間は全く与えられず、即座に特別警備隊により刑場へ連行される。
[編集] 執行施設
死刑を執行するための装置の概要は、絞罪器械図式(明治6年太政官布告第65号)に定められており、この布告については死刑の執行方法の基本的事項を定めたものとして法律と同一の効力を有することが最高裁判決によって確認されている[15]。ただし、現行の執行施設は絞架踏板式のうち地下絞架式と呼ばれるもので、絞罪器械図式の別紙図式である「絞架全図」に定められた地上に設けるものと若干異なるが、上の最高裁判決で奥野健一裁判官は「現に行われている地下絞架式の執行方法は前記布告六五号の図解するところに比し、むしろ被執行者の精神的苦痛を軽減し、執行の公開主義から密行主義への推移に沿う合理性を備えているものであって、右布告六五号に準拠していないとは言いえない。」と補足意見として述べている[16]。
2010年8月27日に報道公開された東京拘置所の刑場で説明する。刑場は教誨師と面会を行う教誨室、拘置所長から執行を正式に告知され目隠しと手錠がかけられる前室、死刑が執行される執行室(前室と執行室は青いカーテンで仕切られている)、死刑囚が立たされる踏み板(床板)を開けるボタンがあるボタン室、拘置所長らが執行を見届ける立会室などから構成される。
刑事訴訟法上、死刑は、検察官、検察事務官及び刑事施設の長又はその代理者の立会いの上、これを執行しなければならない(刑事訴訟法477条1項)。また、検察官又は刑事施設の長の許可を受けた者でなければ、刑場に入ることはできない(刑事訴訟法477条2項)。
死刑には拘置所長、立会検事、検察事務官、首席矯正処遇官(処遇担当)、首席矯正処遇官(教育担当)、医官2名、刑務官5名以上、宗教教誨師が立ち会う。検事の立会いは刑事訴訟法に規定されているが、推理小説家の佐賀潜は著書[17]の中で検事時代の1944年に長崎刑務所浦上支所で執行された場に、担当でもないのに興味本位で立ち会った体験を述べており、実際には多くの者が立ち会う場合もあるようだ。
祭壇は教誨室と前室の2ヶ所にあり、死刑確定者の信仰する宗教に応じて、仏教、キリスト教、神道の祭壇を選ぶことができるほか無宗教も選択できる。
教誨室では宗教教誨師が最後の説教・説法を行う。その後前室に連行され、ここで拘置所長が死刑執行指揮書を読み上げる(執行の正式な告知)。その後、死刑確定者は拘置所長や刑務官らと別れの挨拶を行うのが一般的である。死刑確定者を落ち着かせるために拘置所長・首席矯正処遇官(教育担当)・宗教教誨師が講話を行う。
祭壇には供え物の生菓子が置いており、首席矯正処遇官(教育担当)から最後の飲食をすすめられる。しかしそれに手をつける死刑確定者は極めて稀である。拘置所長が死刑確定者に最後に言い残したいことはないか尋ねる。遺言があれば教誨室で遺言を残すことができ、希望があれば遺書を書くこともできるが、時間は限られており、実際は前もって用意しておくことが多い。
一通り終わると死刑確定者は執行室へ連行される(宗教教誨師が仏教系の場合、執行までの間、読経が行われるという)。死刑執行の基本的事項については絞罪器械図式(明治6年太政官布告第65号)による。刑務官らは目隠しと、腕の拘束(手錠)、足の拘束を迅速に行い、執行室に連行されると、踏み板(踏み板にはビニールテープと思われる大小2つの赤い枠が囲ってある)の上に立たされ、首にロープがかけられ(ロープの頚に当たる部分は革で覆われている)、長さを調節する。これらは死刑確定者を立たせた状態で行うが、2006年12月25日に東京拘置所で執行された75歳の死刑囚は身体機能の低下により車椅子を日常的に使用しており、座らせて行われたとの情報がある。
拘置所長の合図により、ボタン室で待機する3人の刑務官により同時に3つのボタンが押される。実際に踏み板が開くボタンは1つだが、刑務官の精神的苦痛に配慮して、2つはダミーとなっている。また、どのボタンがダミーなのかは一切不明である。床板が開き死刑確定者は執行室の下へ落下する。なおこの手順は死刑確定者が従順な場合であり、激しく抵抗する者などは前記の儀式を省略し刑務官らの力により刑場に引き立て処刑という事になる。
[編集] 死刑執行
概ね日本の死刑確定者は、取り乱すことなく淡々と死に臨むと言われているが、執行の実態を証言する者は殆どおらず、信頼にたる資料も少なく、詳細は不明である。名古屋高等検察庁時代に死刑執行に立ち会った三井環元検察官が語ったところ[18]によれば、死刑囚の表情は顔も白布に覆われており確認できなかったといい、最後の肉声も立会人のいる部屋にある防音ガラスの為か読経以外は聞こえなかったが、合図も無く首が吊られたため抵抗はなかったという。またその様子は、「不謹慎であるが、奇妙な『美しさ』を感じた」という。尚、その時執行された死刑囚の身体は30分間ぶら下げられていたが、「法的根拠はないんですよ」と言われたという。
死刑は絞首により行われると定められているが、実際は縊首(いしゅ)である。死刑確定者は、落下した後数分から十数分、長くて20分以内には死ぬとされている。死刑確定者の中には、失禁、脱糞や射精をしている者もいるという。日本では死刑確定者に対し、死刑執行による痛みを感じさせることなく即死させる絞首刑の技術があるとされている。これは処刑台の床板が外れることで死刑確定者が落下し、その衝撃で延髄損傷・頸骨骨折が起き、死刑確定者は意識を失うとの説がある。
これは1870年代にイギリスの死刑執行人ウィリアム・マーウッドが開発したロングドロップと呼ばれる絞首刑の方法と同じではないかと思われる。絞罪器械図式に定められている装置は当時のイギリスの物と酷似しており、痛みを感じないとする説の説明も酷似している。
立ち会った医官により死刑確定者の死亡が確認された後、法律(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律179条)の規定により死亡が確認されてから5分間死体はそのままの状態で置かれる。その後遺体は納棺される。刑事訴訟法第478条により死刑の執行に立ち会った検察事務官は執行始末書を作成し、検察官と執行施設の長又はその代理者とともにこれに押印・署名して、事件に関するすべてが終わる。立会人らには酒が振る舞われるという。執行に関わった刑務官らには死刑執行手当2万円が支給され(振り込みであると、刑務官は家族に死刑立会いについて気付かれるため、それを避けるよう手渡しで支給される)、午前の内にその日の仕事は終業とされ帰宅が許される。
そのまま飲みに出かけ死刑執行手当を使い切る刑務官もいると言われている。 また、罪の意識から、死刑執行手当を手に寺へ行き、死刑確定者の供養を依頼する刑務官も多いという。死刑確定者の遺体は、あらかじめ決めてあった引き受け先と24時間以内に連絡が取れれば引き取って葬儀をすることが可能であるが、実際に引き取られた死刑確定者の遺体は少ない。連絡が取れなかったり引き取りを拒否されるなどして引き受け先がない場合は拘置所で葬儀を行い、火葬場で火葬された後、拘置所の存在する自治体の墓地へ無縁仏として埋葬される。また、死刑確定者の遺言により献体とされる遺体も多いという。
なお、刑事施設の長は、所在地の市町村長に対し死亡を報告する(戸籍法90条1項)。この場合、拘置所長の個人名で「(刑事施設の所在地市町村)で年月日何時何分死亡。年月日(刑事施設の長の個人名)何某報告」と戸籍には記載され、同一戸籍内の子などのプライバシーに配慮して拘置所長による報告が一目ではわからないように配慮されている。
また、たとえ遺族が遺体を引き取っても死刑囚の葬儀を拒否される場合もあり、たとえば附属池田小事件の宅間守死刑囚は獄中結婚した妻が引き取ったが、最終的には信者ではなかった大阪市内のキリスト教の教会で行われた。
以上のような死刑執行の様子は司法当局から公式に一切公表されたことがない。司法当局は後述にもあるような秘密行刑主義を一貫として取っている為である。立ち会う者も刑事施設の長、刑務官、検察官など行政府に属する者に限定されている。そのため、実際のところはほとんど伝聞情報であり、真実に近いか不明である。そのため、これらは半世紀以上前に公開された情報や、既に退職した刑務官などの証言からもたらされたものがほとんどであるが、明治時代には現役看守が証言している事例もある。
明治40年(1907年)、京都監獄の現役看守が、刑法に関する雑誌に絞首刑執行の現場の様子を投稿しており、この中には、絞首刑の執行にあたってロープが切れたために釣り上げて死刑を執行した例と、死刑執行命令が出ているのを知らず再審請求した死刑囚を「強制を以って」処刑した例が挙げられている。この看守は、これらの事例に関して、「如斯(かくのごとき)事例を当然職務の行動なりと言う者あらば、余輩何をか語らんや」と述べている[19]。
[編集] 死刑制度に関する統計
日本は世界の主要国首脳会議出席国では、アメリカと共に死刑存置国(ロシアは死刑停止を公約している)に分類されている。
[編集] 執行までの期間
死刑判決確定後6ヵ月以内に、法務大臣が執行を命令しなければならない(刑事訴訟法475条)はずだが、実際には死刑確定から執行までそれ以上かかることがほとんどである。
刑事訴訟法の定めにもかかわらず、6ヵ月の期限内に刑が執行しない事が可能なのは、この期限が法的拘束力のない訓示規定であるという判例がある[20]事、再審の請求や恩赦の出願等に要した時間は期間に含めない事などによる。
異例の早さで死刑が執行されたといわれる附属池田小事件の宅間守元死刑囚でさえ、確定してから約1年の時間を要している。そのため、刑を執行されないまま拘置所の中で一生を終える死刑確定者もいる。
[編集] 死刑執行数
1946~1957年、1959~1960年、1962~1963年、1967、1969~1971年、1975~1976年は10以上人に死刑を執行していたが、1977~1989年は1~4人、1990~1992年は0人、2000~2006年は1~4人だったが、2007年は9人、2008年は15人、2009年は7人が執行され、著しく増加した。死刑の執行は法務大臣が最終決裁するが、1980年7月以後に就任した現職以外の歴代法務大臣39人中で死刑を執行しなかった法務大臣は12人存在し、1949年に現行の刑事訴訟法が施行されて以後で死刑の執行がなかった年度は5年存在するので、2007~2008年の執行増加が長期的に継続するとは予測できない。アメリカ合衆国は1984~2009年の期間に最少11人~最多98人の範囲で死刑を執行しているので、日本は先進国・民主政治国ではアメリカ合衆国に次いで死刑執行が多い。
鳩山法相は近年では著しく多い13人もの死刑執行を許可したが(近年の死刑執行者一覧を参照されたい)、21世紀(すなわち最近8年間)に入って死刑判決が確定したものが10人含まれており、判決確定から執行までの平均年数を押し下げている。その一方で確定10年以上が経過し、冤罪として再審請願をしていない死刑囚も数多く残されており(未執行死刑囚一覧を参照のこと)、執行命令を次にどの死刑囚に出すかについての基準に不明な点はある。この死刑執行の順番が確定順ではなく近年ランダムになってきており、2002年9月には当時の死刑囚56人のうち、確定順位36番目と37番目(いずれも1998年確定)の者に死刑が執行されたほか、2004年には確定1年未満の宅間守が処刑された。
これについて、別冊宝島『死刑囚最後の一時間』では、近年の厳罰化にともない死刑判決が激増し、死刑囚の増大に執行が追いつけなくなっている。そのため死刑囚が100人を超える状況が続いているが、法的に再審や恩赦を求めている死刑囚を処刑することは可能(過去には再審請願中に処刑したケースもあった(「長崎雨宿り殺人事件」など)。また宮崎勤死刑囚は再審請求を準備しており、その旨を弁護人から法務省に伝えてあった)であるが現在では再審請求中の死刑囚に対し執行される可能性は少ない。そのため現実に古くから確定している死刑囚はこれらの事情があるため、事実上死刑執行が「ブロック」されている。よって確定から年数がたっていなくても「やりやすいところからどんどん執行する」方針だとしている。
2009年9月に発足した鳩山由紀夫内閣、その後の菅内閣では死刑廃止を主張した経歴のある千葉景子が法務大臣に就任した。法務大臣に就任したため所属していた「死刑廃止議連」から抜け、就任での記者会見では死刑の執行命令について「慎重に検討する」とし、執行モラトリアムにするとも執行は行うとも言及はしていなかったが、2010年7月28日に2名の死刑執行の指示を出し、自ら死刑執行に立ち会った。
[編集] 死刑囚収容施設ごとの年別死刑執行の一覧(1993年以降)
| 年 | 札幌 | 仙台 | 東京 | 名古屋 | 大阪 | 広島 | 福岡 | 累計 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1993年 | 1 | 1 | 1 | 0 | 4 | 0 | 0 | 7 |
| 1994年 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
| 1995年 | 0 | 0 | 3 | 1 | 1 | 0 | 1 | 6 |
| 1996年 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 2 | 6 |
| 1997年 | 2 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 |
| 1998年 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 1 | 2 | 6 |
| 1999年 | 0 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 5 |
| 2000年 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 3 |
| 2001年 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 |
| 2002年 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 2 |
| 2003年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 |
| 2004年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 2 |
| 2005年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 |
| 2006年 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 1 | 0 | 4 |
| 2007年 | 0 | 0 | 5 | 1 | 2 | 0 | 1 | 9 |
| 2008年 | 0 | 1 | 7 | 0 | 5 | 0 | 2 | 15 |
| 2009年 | 0 | 0 | 2 | 2 | 2 | 0 | 1 | 7 |
| 2010年 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
| 2011年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 1993年以降計 | 3 | 4 | 34 | 11 | 18 | 2 | 14 | 88 |
[編集] 日本における未執行死刑囚の一覧
- 日本における収監中の死刑囚の一覧を参照されたい。
[編集] 日本における死刑執行者一覧
- 日本における死刑執行者の一覧を参照されたい。
[編集] 仮釈放
2010年現在の日本では、無期刑であっても10年を経過すれば原理的には仮釈放が可能である。
ただし、近年の厳罰化の傾向から、実際に10年で仮釈放される事は少なく、無期受刑者が新規仮釈放を受けるまでの平均収監期間は20年~30年である。 具体的には、(1999~2008年の間で)最も短かった2000年が21年2か月、最も長かった2007年は31年10か月である。
また仮釈放される可能性は低く、1999~2008年に、新規に服役を開始した無期受刑者は894人いたのに対し、再仮釈放も含めて仮釈放された無期受刑者は91人、新規仮釈放者は68人であった[21][22]。
新規仮釈放者の平均収監期間は長期化する傾向にあり、1998年は20年10か月だったが、2008年は28年10か月だった[21][22]。
こうした事情から収監中の無期受刑者は増加傾向にあり、1998年末時点の968人から2008年末時点は1711人に達している[21][22]。
2008年末の時点の無期懲役受刑者のうち、収監期間が50年以上が6人、40年以上50年未満は18人、30年以上40年未満は58人、20年以上30年未満は319人、10年以上20年未満は347人、10年未満は965人である[21]。
法務省は2009年4月1日に無期受刑者の仮釈放の審理の運用を根本的に改定し、無期刑受刑者が服役開始から30年経過した時点で仮釈放を許可するかしないか必ず審理し、仮釈放されなかった場合も、その後10年おきに仮釈放するかしないかを必ず審理するようにした。
運用を改定した理由は、裁判員制度が始まった為で、裁判員制度により 民が刑事裁判に参加し量刑を判断するのにあわせ、社会の構成員に分かりやすくなるよう運用を改めたのである。
従来の運用では、受刑者を収容する刑務所からの仮釈放の審理の申請により、地方更生保護委員会が独自の判断で審理していた為、運用の基準が不明確・不透明という批判もあり、現行の運用に変えたのである[23]。なお、2009年4月1日時点で服役開始から30年以上経過している受刑者はその時点で仮釈放の審理の対象になる。
他国の終身刑と違い、日本では仮釈放が刑自体の満了とはならず、原則として終生保護観察下に置かれる為、他国と比べて日本では比較的重い運用が行われているという意見もある。 こうした事情から、無期懲役が事実上は仮釈放の可能性が無い終身刑に近い制度になっているのが現状である。
また「死刑が廃止されると凶悪犯罪者を放置することになる」という主張もあるが、再犯の危険度が高いのであれば、仮釈放を認めなければよいだけなので、個々の犯罪者の処遇について充分考慮すればよいといえる。
また裁判員制度の導入を契機に日本でも仮釈放を認めない終身刑の導入を、死刑制度の存置、廃止の双方の立場の国会議員が検討している。
無期刑・終身刑・仮釈放の関係は、日本のマスコミでは誤解されて報道される事が多いが、法律用語としての終身刑と無期刑は同義語であり、仮釈放の有無とは関係ない。仮釈放の有無は、相対的終身刑(仮釈放あり)、絶対的終身刑(仮釈放なし)という言葉で使い分ける。
こうした誤解が原因で、諸外国における終身刑の多くが仮釈放の可能性がある相対的終身刑(日本の無期懲役に相当)であるにもかかわらず、それらを絶対的終身刑と誤解している[24]。
なお、日本の死刑廃止を主張する国会議員は死刑を一挙に廃止するのは現状では難しいとして「日本版終身刑」である絶対的終身刑の導入を主張[25]している。
ただし、法務当局は絶対的終身刑は「生きる」希望のない収監者を生み出すだけであるとして、そのような「厳罰化」は受け入れないとの姿勢を示している。[26]。
しかしながら、法務省としては1993年の後藤田正晴法務大臣による死刑執行再開以来、死刑執行が無い年を作らない方針を固持している。 法務省としては死刑の執行を国家行政機関における最高の職務権限として位置付けており、この権限の行使を不能とする終身刑の導入には否定的である。
[編集] 死刑制度の問題と議論
[編集] 死刑制度存続の是非
- 死刑存廃問題を参照されたい。
[編集] 冤罪の可能性
死刑廃止を主張する重要な論拠の一つとして誤判の可能性、冤罪による死刑執行の可能性が日本を含む世界各国において指摘されている。
冤罪で刑を執行された場合の損失が回復不能である事は死刑に限ったものではないが、死刑の場合他の刑罰と違い、冤罪の被害者が存命中に被害賠償や名誉回復をする事が不可能である。元最高裁判事の団藤重光は『死刑廃止論』で、その違いがわからない人について、「主体的な人間としてのセンスを持ち合わせない」と述べている。
1949年に第二次世界大戦以前の刑事訴訟法に代わって現行の刑事訴訟法が施行されて以後も、冤罪または冤罪の可能性が高い死刑確定判決と死刑囚が存在した。例として以下のものがある:
- 死刑判決が確定し死刑囚になったが、冤罪の可能性が高いと判断されて執行されずに再審で無罪になったもの:免田事件、松山事件、島田事件、財田川事件
- 死刑判決を受けたが冤罪の可能性が高いと判断されて執行されずに天寿を全うしたもの:帝銀事件、三鷹事件、牟礼事件、波崎事件、三崎事件
- 死刑判決を受けたが冤罪の可能性が高いと判断されて執行されていないもの:名張毒ぶどう酒事件、袴田事件、川端町事件。
- 藤本事件では死刑執行から40年以上経過した2005年になって国の検証会議が「到底、憲法の要求を満たした裁判であったとはいえまい」として不正裁判による誤判であったと指摘している[27]。
2009年現在では、法務省は冤罪の疑いがあり再審請求中の死刑囚については、死刑の執行は法務大臣の決裁が必要であること、および、冤罪で死刑を執行した場合は無期刑や有期刑を執行した場合と比較して、非難が大きいので、死刑囚が再審で無罪判決を受けるか、または、死刑囚が天寿を全うして死ぬまで執行しない運用をしている[28]。
[編集] 厳罰化傾向の高まり
第二次世界大戦終結後の1940年代後半から1960年代は現在と比較して、殺人、誘拐、傷害、強姦、強盗などの暴力犯罪の発生率が高く、死刑や無期懲役の確定判決も暴力犯罪発生率に比例して高かった。1970年代以後は経済の発展と社会保障制度の整備により生活水準が向上し、暴力犯罪の発生率が減少し、死刑や無期懲役の確定判決も暴力犯罪発生率に比例して減少した。
「犯罪被害者の権利確立」「被害回復制度の確立」「被害者の支援」を訴える全国犯罪被害者の会の活動や、光市母子殺害事件といったマスメディアを席巻した凶悪事件を契機として、犯罪被害者や家族ないし遺族への心理的ケアの問題が以前にもましてクローズアップされている。そのため世論の犯罪者に対する動向が厳罰化への傾向が強まっているとされている。特に1990年代の日本において凶悪事件が続発したため、死刑存置派が「被害者感情」を前面に主張したことも厳罰化の一因がある。
この流れを受け、検察は1997年から1998年にかけて「裁判所の量刑は軽すぎ国民感情とかけ離れている」と批判し、検察側の死刑求刑に対し2審の高等裁判所が無期懲役を宣告した5事件を最高裁に上告した。最高裁は5事件のうち4事件については、検察の上告を棄却したが、1992年に広島県福山市で発生した、友人と共謀し87歳の女性を殺害し、奪った貯金通帳で現金を引き出した仮釈放中の無期懲役受刑者による福山市女性強盗殺人事件について「別の強盗殺人罪で仮釈放中に再び強盗殺人を犯したケースは死刑が相当」と最高裁は1999年12月10日に二審判決を破棄し広島高等裁判所に審議を差し戻した[29]。最高裁が2審の無期懲役判決を「軽い」として破棄したのは永山事件以来2人目の事であった。そのため、仮釈放中の殺人犯が再び殺人をした場合には死刑が宣告される最高裁判例が確定した。なおこの被告人であるが、差し戻し審で死刑判決を受け、最高裁が2007年4月に上告を棄却したため死刑囚となった。
暴力犯罪発生率は1940年代後半~1950年代のピーク時から現在まで長期的に減少傾向であるが、2004年の刑法改正により有期懲役刑の上限年数が20年から30年に引き上げられ、2000年代以後危険運転致死傷罪、児童虐待の防止等に関する法律、児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律、配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律、ストーカー行為等の規制等に関する法律が新たに制定された。2004年~2008年は死刑確定判決が10件以上、2007年の死刑確定判決は23人であり1961年以来47年ぶりに20人を超えた。2003年~2006年は無期懲役確定判決は100件以上に増加し、2006年の無期懲役確定判決は史上最多の135人になった[11]。この流れは1970年代からアメリカ合衆国で始まった「犯罪者の治療よりも隔離を」と主張する「正義モデル」と呼ばれるモデルを日本の司法当局が取り入れたためである。このモデルでは犯罪者を無害化するのは不可能であり刑務所に長期間拘禁すべきである、また究極的無害化の策は生命体としての存在を除去する、死刑である[30]。日本においても1980年代ごろまで見られた温情主義的な判決はなくなり、被害者が死亡しなかったとしても無期懲役[31]判決が出される場合もある。
警察庁と法務省は警察白書や犯罪白書において、殺人、誘拐、傷害、強姦、強盗などの重大な暴力犯罪の発生率は、第二次世界大戦終結後の混乱期・復興期だった1940年代後半~1950年代をピークに長期的に減少傾向であると犯罪統計を公開しているが、マスメディアや評論家のなかには、社会や政治の現状を批判する観点から、厳罰化を要求する人たちは犯罪の一般抑止の観点から、政府の公開情報である犯罪統計の時系列の推移に照らして事実と正反対である、「凶悪犯罪の増加」、「治安の悪化」、「少年犯罪の悪化」、「外国人犯罪の急増」などの認識を事実であるかのように主張している。
「従来の量刑基準なら無期懲役だった事件でも、死刑が言い渡されるようになっており、厳罰化を求める世論の影響ではないか」との指摘がされている。「平成12年(2000年)の改正刑事訴訟法施行により、法廷で遺族の意見陳述が認められたことが大きいと思う。これまでも遺族感情に配慮しなかったわけではないが、やはり遺族の肉声での訴えは受ける印象がまったく違う」とコメントしている現役裁判官もいる[32]。
日本弁護士連合会によると、1983年の永山事件判決以降、被害者1人で死刑が確定した被告は26人。身代金目的誘拐や仮釈放中の事件が大半を占め、死刑にしないケースが主流だった。しかし、2009年3月18日に出された闇サイト殺人事件での名古屋地裁判決では、被告人3人のうち、2人に死刑判決を出された。この事件では被害者遺族が3人の死刑を求める署名を行い、31万5876人の賛同を得たと陳述した。弁護人は「被害感情を刺激する恐れがある」と考え、何も言えなかった[33]。
2009年から導入された裁判員制度では、日本が世界で唯一の参審制裁判で国民が死刑を選択できる国[34]であるため、凶悪事件、特に死刑を適用できる事案に対する厳罰化感情が無視できない影響を与えるとの指摘がある。その一方で被害者感情に応える為とはいえ、近代刑罰がいさめる応報的な復讐を国家が率先して行うようになっているとの批判もまた存在する。また同様に死刑制度を初めとする厳罰主義を採っているアメリカ合衆国が社会条件が日本と大きくかけ離れているとはいえ、凶悪犯罪の減少に必ずしも成功していない事実もある。
[編集] 男女格差
戦後1人殺害の例で死刑判決が出されたのは全て男性であり、女性に死刑判決が出された例はない。1人殺害の例では中年・若年の男性に対して死刑判決が集中しているが、中でも若年者はまだ更生の可能性があるとの指摘が出されている。前科の有無も判決に影響されることがある。
女性殺人犯の場合、金銭目的で配偶者・親族や知人を殺害する例が多く、毒・薬物等を使用する場合が多く見られる。親族や配偶者を殺害する場合などは更生はほとんど期待できないとの指摘がある。一方女性殺人犯は前科がある割合は少ない傾向がある。
殺害方法の残虐性も死刑判決を選択した理由によく挙げられるが、女性殺人犯が多く使用する毒・薬物等も一部は非常に苦痛を伴うため、遺体の損傷状況や殺害手法よりも、あくまで被害者の苦痛が考慮されるべきとの指摘が出されている。
[編集] 女性死刑囚
詳細は「女性死刑囚」を参照
1945年以降、日本において約900人に死刑判決が出されたが、そのうち女性死刑囚は2012年現在13人にすぎない。また戦後1人殺害で女性に死刑判決が出されたのは2例(1951年確定の菅野村強盗殺人・放火事件と1991年確定の自殺偽装夫殺害事件)しかない。また日本では男性と女性による共犯で凶悪犯罪を犯した場合、裁判では男性が主犯で女性が従犯と判断されやすい傾向があるため、長崎・佐賀連続保険金殺人事件や北九州監禁殺人事件では一審では男女ともに死刑判決が言い渡されたが、二審では女性の従犯的要素を認めて女性のみ無期懲役判決に減刑した実例がある。しかし長崎・佐賀連続保険金殺人事件では犯行の目的である保険金受取は、女性しか実行できず、殺害においても夫と息子に睡眠薬を調合し食事に混ぜ、殺害にも直接関与したため従犯という位置付けを認めず、一審では死刑判決が出されている。二人殺害に直接関与して死刑にならない稀なケースとなった。
[編集] 秘密主義
日本の法務省は刑務所などの刑事施設や刑罰の執行状況などの情報をなるべく公開していない。とりわけ死刑執行に関しては秘密主義(行刑密行主義)が貫かれてきた。
マスコミや被害者の家族等を死刑の執行に立ち合わせることはない。
司法当局は以前は『死刑囚の家族の心情に配慮する』ためとして、死刑執行の事実を公式に認めなかったため、白書による総数のみの発表であり、かつては報道機関が情報を摑めなかった為に死刑囚の命日すら不明のケースもあった。
死刑の執行予定が公表されないことに加え、従来は執行後も死刑確定者の氏名や罪状等、多くの情報が公表されなかった[35]。 特に死刑執行に関しては、日本弁護士連合会がこの秘密主義を非難する声明を出し続けている。
日本では、2007年まで法務当局が処刑の事実(執行者の氏名等)を公式に発表することがなく、死刑囚に対し処刑の日の朝まで告知しない秘密主義をとっていた為、2006年末の執行では、欧州連合から強く批判された。
この方針に対し法務省は、事前に死刑執行日が判ると、本人の心情の安定が害されるほか、死刑執行反対の抗議行動[36]が起きる問題があるからだという[37]。
ただし先述の通り1970年代ごろまでは、一部の刑務所で死刑執行を前日に対象者に告知する事も行われていたようである。しかし死刑執行直前の死刑囚がカミソリ自殺する事件があったため[38]、拘置所の責任を回避するため現在では死刑執行を知らせないのは死刑囚の精神の安定のための措置と主張される場合もある。しかし、毎朝いつくるか判らない死刑執行通達におびえた上に、そしてある朝突然に(朝食の後の午前9時だという[39])死刑執行を告げ、家族や弁護人とも最期の別れをさせずに死刑を執行する慣習に対して、死刑賛成派でも日本の死刑執行の秘密主義に対しては批判的な見解も多い。
近年の傾向として執行日が国会閉会中の木・金曜日に偏っていることが言われる。連続した平日に5日かけて執行準備が行えるという理由のほかに、国会での追及を避けること、続く休日にあえて執行を取り上げて追及するマスコミが少ないことも理由になっているはずだという批判が存在する。
さらに近年は法務大臣の辞任間際に死刑執行命令がなされる傾向がある。これは法務大臣も人であり職務の執行とはいえ死刑執行の署名を嫌がることから、検察側から催促がかかりだす辞任直前まで執行命令がなかなか出されないことによると言われている。
また反対派は日本における最近の死刑執行は、ほぼ例外なく、国会閉会直後、年末[40]、閣僚の交代時期、重大ニュースの発生時期[41]など国民の関心が分散しやすい時期に、政府側が意図的に死刑の存廃が議論となることを避けて執行していると主張する。
ただし近年は国会の開催中であっても、法務当局が『国民の死刑存置支持率』が高いとして死刑執行が行われるようになっている[42]。実際に、2007年から2008年の鳩山法相による死刑執行は全て国会開催中の平日であった。
賛成派は死刑執行の手順上、法務大臣の辞任直前に執行書に署名が行われることは手続き上の結果であり、死刑執行日の多くが木曜日ないし金曜日に行われるのは、刑場の準備に時間がかかるためであると主張している。実際に死刑執行命令書が法務大臣から通達されるのは処刑5日前(例外もあるとみられる)とされ、その間に処刑設備の調整に時間が掛かるためである。なお法律上は元旦と大晦日、大祭祝日は死刑の執行は行えないと規定されているほか、土曜日と日曜日の執行も以前から行われていない。
また、別の凶悪事件が起きた直後にも執行されることも多い。これは、死刑に賛成する世論の最も強い時期に執行することにより死刑批判をかわせること、および凶悪犯罪の結果は悲惨な死であるということを国民に知らしめる一般予防効果を狙うことが理由であるといわれている。
2006年には年末も押し迫った時期の月曜日かつクリスマスに執行された。このときは法務大臣の辞任間際でもなかったことから、法務省が執行ゼロの年を作りたくなかったのでは、との見方がある。この日が選択されたのは天皇誕生日や役所の御用納めを除外したためといわれている。なお、このときには一挙に4人の死刑が執行されているが、この時には当時75歳の車椅子を使っていた身体障害者の死刑囚、しかも刑確定後に拘置所で拘置中にキリスト教に改宗した死刑囚を処刑し、キリスト教にとって特別な日であるクリスマス当日であったことから、欧州諸国からは野蛮と批判されたほか死刑存置論者である藤井誠二ですら批判している。
この秘密主義を改善するとして、1998年には当時の中村正三郎法務大臣が『死刑の執行は裁判所の判決に基づいて法務省が行う行政行為だ。行政の情報公開を進める為にも、また、死刑制度を正しく議論する為にも、死刑の執行の有無については国民に知らせるべきだ』と述べ、同年11月以降はマスメディアに対し「本日、死刑確定者に対し死刑を執行した」と事実が公開(実名は公表されないが報道機関の取材で判明する)された。以後死刑執行の部分公表が慣例化された。
特に死刑執行に熱心だった長勢甚遠法務大臣は、2007年8月には「国会閉幕中」「内閣改造前」「首相外遊中」という死刑反対派が指摘する執行条件が揃っていたため3名の死刑が執行された。また長勢は周囲に「任期中二桁を執行する」と漏らしており、法務省も「執行を増やすことが大切」という状況[43]だったといわれ、実際に任期1年未満で10人の死刑執行命令書に署名した事になり、その意味では公約は果たしていたといえる。次の鳩山邦夫法務大臣が2007年12月から誰に死刑を執行したかを実名で明らかにする事をはじめ、2008年2月には法務大臣自身の記者会見で死刑囚の罪を批判すると共に実名を公表したが、死刑囚に事前に死刑執行を伝えないことに対する批判についての改善が行われているかは不明である。
死刑執行は国会審議において死刑執行について追及されることを避けるため、国会閉会中に行われる傾向があった。しかし、2007年4月27日(金曜日)には通常国会開会中でありながら3人の死刑が執行された。このことは長勢甚遠法相(安倍内閣)が就任後2回目の死刑執行を行ったこととともに、異例なこととされた。
さらに、鳩山邦夫法相(福田康夫内閣)の執行命令により、臨時国会開会中の2007年12月7日に死刑が執行され、ここで日本国憲法下の法務大臣の命令によるものとしては初めて死刑被執行者の名前、犯罪事実、執行場所が公表された。執行された者の名前の公表に踏み切った理由について、法務省は「死刑が適正に執行されていることについて国民の理解を得るために情報公開が必要と考えたことなどから、慎重な検討を踏まえ、法務大臣が氏名、犯罪事実、執行場所を公表するとの判断をした」としている。2009年3月13日、法務省は幼女連続誘拐殺人事件の宮崎勤元死刑囚らに対する死刑執行命令書の開示請求に応じ、命令書を全面開示した。公開された命令書によると、2008年6月13日付で、当時の鳩山邦夫法相が当時の東京高検検事長だった樋渡利秋に対して「裁判言い渡しのとおり執行せよ」と命じている(その後、実際に宮崎元死刑囚は2008年6月17日、東京拘置所で死刑を執行された)。法務省は「死刑執行命令書の開示請求では、死刑囚のプライバシーに配慮し、一部を黒塗りにしてきたが、鳩山法相以来は全面的に開示している」と述べている[44]。後に鳩山は「宮崎の凶悪性が際立っていたから命令を出した」と明かしている。
[編集] 国外逃亡犯と死刑
日本で犯罪を犯した外国人犯罪者が死刑廃止国へ逃亡した場合、日本が死刑存置国であることを理由に犯罪者の引渡しが拒否される場合もある。
東京で日本人女性を殺害し海外逃亡したイラン人が死刑廃止国のスウェーデンで拘束された事例[45]では、両国間で犯罪人引渡し条約がないため、スウェーデンの国内法を根拠に日本側が任意の引渡しを要請した。しかし1994年に同国政府は死刑にしない保証をしないかぎり応じないとされた。この事件は判例に準拠すれば死刑になる可能性が少ないケースであったが、裁判を行う前に死刑にならないことを100%確実に保証することは日本政府として不可能であったため、結局引き渡されず、スウェーデンにおいて代理処罰され、1995年に禁固10年の判決を受けたという。
また、死刑存置国によって死刑の適用について差異があることも少なくないが、福岡一家4人殺害事件(2003年)では犯人の中国人3人のうち2人が母国の中国に逃亡し1人が日本で逮捕され、日本では死刑を宣告され現在上告中であるが、中国で拘束された2人については死刑と無期懲役に別れ、しかも死刑は執行されている。この判決が分かれた点について日本では一部に政治的判断があったのではないかとの憶測もあるが、同じ死刑適用事件であっても国家間の運用に差が生じているといえる。同様な事件の多摩市パチンコ店強盗殺人事件(1992年)では、犯人の中国人3人のうち2人は死刑が確定しているが、主犯格は現在も逃亡中であり、中国で身柄が拘束された場合死刑になる可能性が高いが、もし前述のように死刑廃止国で拘束された場合、どのような刑罰になるかは予測が付かないといえる。
現在のところ、日本と逃亡犯罪者引渡し条約があるのはアメリカと韓国だけであるが、今後国際犯罪が増える場合、カナダのように死刑適用の可能性のある犯罪者の引渡しの拒否を明言している国に逃亡した場合、捜査の障害になる危惧もある。
[編集] 裁判員制度と死刑
2009年に始まる裁判員制度により、死刑判決の可能性のある事案を国民が裁判官とともに審理することになる。そのため死刑廃止に向けた活動を行っている団体などから、国民の間で死刑制度の存廃について議論がより深く広がることが期待されている。ただ、裁判員法第18条の規定[46]にもとづき、死刑の適用が問題となる事件においては死刑を前提とした量刑の判断について質問(具体的には死刑に対する考え方などにも)を行い、不公平な裁判をするおそれの有無を判断すると規定されたこと[47]から、一方的な裁判員選定が行われる可能性がある。実際にアメリカでは陪審員の選考に際し検察・弁護側双方が恣意的な選定を行っていることが問題になっている。
日本の裁判員制度では、裁判員として参加する国民が有罪か無罪かとともに量刑を多数決(9人中5人以上)で決定[48]。そのため、場合によっては国民が同じ国民に対して死刑を宣告する形式となる。そのため日本ように国民が裁判官として参加する参審制(陪審制は無罪か有罪かを判断するもので、通常は量刑までを決定しない)を採用する国で死刑を宣告できるのは世界唯一(ほかの参審制導入国は欧州諸国の死刑廃止国のみ、死刑制度存置国では韓国で2008年に裁判員制度が始まったが死刑は凍結中)である。2審では従来どおりの職業裁判官による公判が行われるが、裁判が1審で確定した場合、一般国民が死刑を宣告したことになる。そのため一般国民が場合によっては「人殺し」になる危険性があり、死刑制度を廃止した上でなければ裁判員制度を導入すべきではないとの指摘が死刑廃止論者側[49]から提示されている。
[編集] 死刑と終身刑の導入
終身刑には、仮釈放の可能性がある「相対的終身刑」と仮釈放の可能性がない「絶対的終身刑」が存在する。無期刑は終身刑と別名の同義語であり、刑期の無期・有期の質と、刑の執行の減免処遇の一つである仮釈放の有無は別の独立した要素である。司法の専門家はそのことを知っているが、日本では多くのマスメディアの報道が、終身刑は仮釈放の可能性が無く、無期刑は仮釈放の可能性が有り、終身刑と無期刑は異なる刑であると誤った解釈を流布しているので、情報の真偽やバランスを検証しない一般の人間は、前記の間違った解釈により、仮釈放の可能性が無い終身刑だけを終身刑と認識し、誤った解釈が標準になっている。そのため、諸外国における終身刑の多くが仮釈放の可能性がある相対的終身刑(日本の無期懲役に相当)であるにもかかわらず、それらを絶対的終身刑と誤解している[50]。
無期刑は仮釈放が刑自体の満了とはならない(原則として終生保護観察下に置かれる)ため、他国の終身刑と比べて日本では比較的重い運用が行われているとする認識もある。そのため無期懲役が事実上は仮釈放の可能性が無い終身刑に近い制度になっている現状がある。また死刑存置派が主張する「死刑が廃止されると凶悪犯罪者を放置することになり」との主張もあるが、死刑を免れ無期懲役になった犯罪者も再犯の危険度があれば収監されているといえるため、個々の犯罪者の処遇について充分考慮すればよいといえる。また裁判員制度の導入を契機に日本でも仮釈放を認めない終身刑の導入を、死刑制度の存置、廃止の双方の立場の国会議員が検討している。
日本の死刑廃止を主張する国会議員は、積極的支持と消極的支持を合わせると日本国民の大部分が死刑制度支持を支持している現状では、今すぐに死刑を廃止することは難しいと考えて、「日本版終身刑」である絶対的終身刑の導入を主張[51]している。この終身刑に対し、法務省や2008年8月に法務大臣に就任した保岡興治は死刑制度は存置を主張する一方、「人を牢獄に一生縛り付ける刑罰は残酷である」、「生きる希望のない収監者を生み出すだけである」として、そのような「厳罰化」は受け入れないと反対を表明している[52]。
2008年3月に死刑廃止を推進する議員連盟が、裁判員による死刑適用について「死刑という重い判断はより慎重に決定されるべきだ」として全員一致を条件とする裁判員法改正案を作成した。この法案は2009年から施行される裁判員制度では原則多数決で量刑が決定するが、死刑判決だけは全員の賛同を必要とし、もし反対者がいれば仮釈放のない終身刑に自動的に可決するというものである[53]。なお、アメリカ合衆国の陪審員制度も全員一致が評決の条件となっている場合が多い。2008年5月には仮釈放される可能性のある無期懲役の存在を問題視する死刑存置派の国会議員と共同で、前述の裁判員制度改正案と仮釈放を認めない懲役刑の新設を盛り込んだ刑法改正法案「重無期刑の創設及び死刑制度調査会の設置等に関する法律案」の国会提出を目ざした。この法案は死刑を廃止した場合に導入する最も重い刑として導入しようとする死刑廃止派と、死刑と現行の無期懲役との間に少なからずギャップがあるという点を問題視する死刑存置派の、双方のコンセンサスが得られた為といえる。ただし、その法案を国会に提出しても可決され成立する見込みが無いので、現実にはその法案は国会に提出されなかった。
死刑存置派の一部には「無期懲役の場合には仮釈放される可能性があり、一生涯牢獄に繋がれるわけではない」との主張があるが、懲役刑の執行を法律上管理し仮釈放の運用にあたり意見を述べる立場にある検察庁は「悪質事件の無期懲役案件」に関して、仮釈放の申請がなされた場合であっても同意しない旨の運用をするための通達(いわゆる「マル特無期」))[54]があるため、現実に日本では終身刑が既に行われているとの報道があった[55]。
現在の日本では「仮釈放の可能性が無い終身刑はなく、無期刑は10年を経過すれば仮釈放を許可することが可能」であり、1990年代後半以後の無期受刑者の処遇について法務省が公開している資料を検証しない人々の中には「無期受刑者は服役して10年経過すれば仮釈放になる事例が多いので死刑との差が著しい」という、1990年代後半以後の無期受刑者に対する処遇についての事実に反する認識もしている人も多数存在する。
現実には、1999~2008年に、新規に服役を開始した無期受刑者は894人、再仮釈放も含めて仮釈放された無期受刑者は91人、新規仮釈放者は68人、受刑中に死亡した無期受刑者は121人、新規仮釈放者の平均収監期間が最も短かった2000年は21年2か月、新規仮釈放者の平均収監期間が最も長かった2007年は31年10か月、新規仮釈放者の平均収監期間は長期化する傾向であり、1998年は20年10か月だったが、2008年は28年10か月だった[21][22]。1990年代後半以後は、無期刑が確定して無期受刑者になる人数と比較して仮釈放を許可される無期受刑者は著しく少数で、収監中の無期受刑者は1998年末時点の968人から2008年末時点は1711人に増加している[21][22]。2008年末の時点の無期懲役受刑者のうち、収監期間が50年以上が6人、40年以上50年未満は18人、30年以上40年未満は58人、20年以上30年未満は319人、10年以上20年未満は347人、10年未満は965人である[21]。
法務省は2009年4月1日から、全ての無期刑受刑者に対して、服役開始から30年経過した時点で仮釈放を許可するかしないか必ず審理し、30年経過の時点で仮釈放を許可されなかった場合も、その後10年経過するごと(服役開始から40年・50年・60年経過した時点)に仮釈放を許可するかしないか必ず審理するように、無期受刑者の仮釈放の審理の運用を根本的に改変した。改変する理由は、無期刑受刑者の仮釈放の厳格化(収監期間の長期化)でも緩和化(収監期間の短期化)でもなく、国民が刑事裁判に参加し量刑を判断する裁判員制度が始まるので、社会の構成員に分かりやすい運用を実現するためである。更生保護法では、全国8か所にある地方更生保護委員会は、独自の判断で個々の受刑者の仮釈放を審理できるが、2009年3月31日以前では受刑者の仮釈放の審理の運用は、受刑者を収容する刑務所からの仮釈放の審理の申請により審理の対象にしていたのが現実であり、仮釈放の審理の運用の基準が不明確・不透明との批判もあったので、受刑者を収容する刑務所からの仮釈放の審理の申請と併用して、服役開始から30年経過時とその後10年経過時ごとに全ての無期受刑者に必ず仮釈放の審理をする運用に改変した[23]。2009年4月1日時点で服役開始から30年以上経過している受刑者はその時点で仮釈放の審理の対象になる。
[編集] 海賊の死刑
2009年6月19日に成立した海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律には最高刑で死刑があるため、 他の死刑存続国ですら死刑が適用される法律が減少する中で日本は死刑が適用される法律が増えた希有な国となった。 海賊に対する裁判には非常に複雑な国際問題を孕んでおり(その船舶の国籍や犯行があった時に当該船舶が航海していた場所によって、裁判権を持つ国が変化する問題)、日本の船舶上で海賊による殺人が発生した場合には裁判が国際問題にまで発展する可能性がある。
[編集] 執行方法の妥当性
現在、絞首刑は、首にロープをかけて死刑を執行される者(以下「受刑者」)を落下させ、空中に吊り下げる方式でほとんどが行われ、日本も明治6年(1873年)以来、この方法を採用している。ところが、この方式の絞首刑では、落下直後に受刑者の首が切断されたり、またはそれに近い状態まで切断される例が世界各国で報告されている。(詳細は絞首刑を参照。) このように、首が切断あるいは切断に近い状態になるケースがあるということは、英国では1953年に提出された議会への報告書[56]の中で取り上げられた。最近でも、2007年1月15日にイラク・バクダッドで処刑されたサダム・フセインの異父弟バルザン・イブラヒム・アル=ティクリティ(バルザーン・イブラーヒーム・ハサン)の例があり、首がちぎれて血だまりができた様子を撮ったビデオが一部の報道関係者に公開されている[57]。
通常、絞首刑では、ロープが伸び切った瞬間に受刑者の首を作用点として頭と胴体とを上下に引っ張る力がかかる。体重が重く落下距離が長いほど、受刑者の首にかかる力は大きくなる。この力が弱ければすぐに死亡することはなく、受刑者は数分もしくはそれ以上の時間をかけて窒息死することになる。逆に、首への衝撃がある程度強ければ、頸椎の骨折、脊髄の切断、及び首の動脈の損傷などが原因でごく短時間のうちに意識を失うものと考えられている。但し、この場合でも、落下の瞬間から心停止まではやはり数分以上の時間を要する。受刑者を落下させる目的はここにある。この首にかかる力が、首全体が耐えうる限界を超えた場合に、引きちぎられて首の切断が起きる。(法医学者の研究によると、どのくらいの力が加わると首が切断されるかまで判明している[58]。)
このため、絞首刑を採用している国・軍隊では、執行方法を調整して首の切断を防止しようと努めてきている。その一例として、絞首刑を採用していた当時の英国や米陸軍では、首にかかる力を制限するために、受刑者の体重に応じた落下距離を定めて、落下表(drop table)公式ドロップテーブルを作成していた[59]。英国は死刑そのものを廃止し米陸軍も今では絞首刑を採用していないが、この落下表は現在でも絞首刑を採用している国などで採用されている[60]。
一方、わが国の絞首刑では、受刑者の首の切断を防止するための規程をおいた法律は存在せず、同趣旨の通達や命令の存在も明らかになっていない。落下表の使用はおろか存在すらも不明である。執行方法に各国間で特段の差はないのであるから、わが国の絞首刑でも受刑者の首の切断は起こり得ると言える。
実際に死刑執行の際に首が切断されるようなことがあれば、憲法第36条(残虐な刑罰の禁止)に違反した執行であると解釈される可能性が高いが、現在のところ死刑は合憲であるとの最高裁判決がある。
また、憲法第31条は、法律の定める手続によらなければ生命を奪われないこと(適正手続の保証)を定めている。まず首が切断されるような死刑は刑法第11条の定める「絞首」ではありえない。つまり、法律の定めていない執行方法を用いた死刑と言える。次に首が切断されれば、法律の定める「絞首」ではありえなりから、それを防ぐための規定は(それが本当に首の切断を防ぐことができるかどうかは別の話だが)、死刑の執行方法の種類を特定するために法律に明記されるべき内容(法律事項)である。ところが、わが国の法律には規定されていない。最後に最高裁の判例[61]によって現在も有効であるとされている明治6年太政官布告65号は、受刑者を「地ヲ離ル凡一尺」まで落下させるように定めている。現在の刑事施設は刑場の床が開いて受刑者が落下する構造になっており、例えば東京拘置所では刑場の床から下の階の床まで約4mあるとされている[62]ことから、受刑者は約3.7m落下することになる。前述のティクリティ(体重80㎏足らず)の例などでは、2.4m程度の落下で首の切断が起こることからすると、わが国の死刑に関する規定をそのまま実行すると絞首刑のさいに受刑者の首が切断されてしまいかねない。つまり定められた手続の中に適正でない内容があるのがわかる。
実際に日本でも、太政官布告65号が施行された明治6年以降に、首がほとんど切断された事故が発生していたことが報道されている。明治16年(1883年)7月6日の小野澤おとわという人物の絞首刑執行の際、「刑台の踏板を外すと均(ひと)しくおとわの体は首を縊(くく)りて一丈(いちじょう)余(よ)の高き処(ところ)よりズドンと釣り下りし処、同人の肥満にて身体(からだ)の重かりし故か釣り下る機会(はずみ)に首が半分ほど引き切れたれば血潮が四方あたりへ迸(ほとばし)り、五分間ほどにて全く絶命した」[63]、「とわが肥満質にて重量(おもみ)のありし故にや絞縄がふかく咽喉に喰込みしと見え鼻口咽喉より鮮血迸(ほとば)しり忽地(たちまち)にして死に就たるにいとあさましき姿なりし。稍(やや)あって死体を解下(ときおろ)されたれど絞縄のくい入りてとれざる故、刃物を以て切断し直に棺におさめられ」た[64]と、当時の新聞にその様子が描かれている。
[編集] 法務大臣による死刑執行命令
法務大臣によっては死刑執行に対する思想の相違によって対応が異なってくる。苦悶しながら署名する法務大臣も少なくなく、たとえば犬養健は死刑執行命令書への署名がきらいで、できるだけ回避したうえ、どうしても決裁しなければならなくなっても、即決せず3,4日は待たせたという[65]。一方で、積極的な法務大臣も多く、犬飼の後任の加藤鐐五郎と小原直は半年弱の間に死刑執行命令書の決裁を積極的に行った為、1954年当時未執行だった1948年と1949年ごろの死刑確定囚32人の死刑が執行された[66]。また、田中伊三次は記者の前で一度に23名の死刑執行命令書に署名し記事化することを要求している。中垣國男は在任中33名の死刑執行命令を出したが、死刑囚個人に支援団体が組織されていた藤本事件や小松川事件の死刑囚を早急に処刑したほか、反対派に阻止されたが平沢貞通の処刑準備をした。
近年では、宮澤内閣で法務大臣を務めた田原隆のように「国民の多数が死刑を支持している」と述べ、自身は死刑執行命令を下すこともあり得るという考えを示したにもかかわらず、1年の在任期間の間に死刑執行しなかった(本人は法務官僚から死刑執行命令書の署名を求められなかったと弁明)大臣もいる。内閣総理大臣であった吉田茂も第2次吉田内閣発足時に1ヶ月法務総裁(後の法務大臣)を兼務していたが、1947年10月に官房長が死刑執行命令書に決裁を求めたところ、チラッと目を通しただけで「これは専任大臣ができてからにしてくれ」と署名を拒否している[67]。また自己の信念で死刑執行を拒否した法務大臣もいる。たとえば戦後の1964年と1969年および1990年から1992年までは死刑執行が行われなかった。そのうち1964年は、当時の賀屋興宣法務大臣(在任1963年7月-1964年7月)が元A級戦犯であり、収容されていた巣鴨プリズンにおいて東條英機元首相らA級戦犯7名が絞首刑に処されるのを見送ったうえに最期の叫びも聞いたため心情的にできなかったという。後者の1969年は当時の赤間文三法務大臣が「勘弁してくれ。今度、俺にお迎えがきたらどうする」などと発言して署名を拒否した。
1990年代初期のモラトリアム(死刑執行一時停止)は長谷川信から梶山静六、左藤恵、田原隆と歴代の法相に引き継がれていた。長谷川は病気で倒れるなど(辞任直後に死去)の事務方の混乱や、1991年に今上天皇の即位の礼が執り行われる(大正天皇と昭和天皇の大礼の際には死刑囚の大量恩赦が行われたが、行われなかった)事情もあったが、特に自分が浄土真宗の住職であるという信仰上の信念から、死刑執行命令書に署名しなかった左藤恵(在任1990年12月-1991年11月)の例がある。しかし1993年3月26日に3人の死刑が執行され、このモラトリアムは終わった。当時の警察官僚出身の後藤田正晴が「法秩序、国家の基本がゆらぐ」(国会答弁)として再開させた。これは死刑執行が途絶えることで事実上死刑制度が廃止になることを危惧した法務官僚の意向があったともいわれている。
近年では弁護士出身で真宗大谷派の信徒である杉浦正健法務大臣(在任2005年10月-2006年9月)が、就任直後の会見で「私の心や宗教観や哲学の問題として死刑執行書にはサインしない」と発言したものの、1時間後には記者会見を開いて撤回した。結局、杉浦法相は死刑執行することなく任期を終えたが、職務を執行しないのであれば法務大臣を受けるべきではないとの強い批判があり、以後の法務大臣任命に影響を与えた[68]。
杉浦の後任である長勢甚遠は、2006年12月25日に4人の執行書にサインした。「執行を1年でも途絶えさせてはならない」という法務省の強い意向が、異例の年末の執行になったとされる[69]。
[編集] 執行が遅れる事に関する議論
法務大臣の署名には必ず赤鉛筆が使われるが、これが行われない限り、死刑執行は不可能である。この為、死刑確定から執行まで平均で7年6か月かかっている。
大半の大臣は署名を嫌がるといわれる。また、在任中に信条、宗教上の理由などで執行命令書の署名を行わなかった大臣もいる(賀屋興宣、左藤恵など)。近年では、2005年に法務大臣に就任した杉浦正健が就任記者会見で「(死刑執行命令書に)私はサインしない」と法相としては異例の発言をし物議を醸した(ただし1時間後に発言を撤回している。尚、杉浦法相は在任期間中、一度も執行命令書にサインをしていない)。一方で、1992年に法相に就任した後藤田正晴は「法相が責任を回避したら国の秩序が揺らぐ」と語っており、また、2001年に法相に就任した森山真弓は「執行しないと決めている人は法相を引き受けるべきではない」と述べており[70]、法相という立場にある以上、刑法及び刑訴法で規定された責務を果たすべきという主張も少なくない。
例外的ではあるが、死刑の執行に積極的な大臣も存在した。田中伊三次は法務大臣就任後、知り合いの記者に「死刑が執行されるところを見に行こう」と誘い、相談した刑事局総務課長から叱責されたり、「これから死刑執行命令書のサインを行うので写真を撮ってくれ」と、数珠を片手にポーズを構えたが、あまりの悪趣味に産経新聞を除く記者クラブの記者らに呆れられたといわれている。これは翌日(1967年10月17日)の朝刊一面で報じたのは産経新聞だけだったためである。また、反対に裁判資料を持ち込み悩みながら熟読し判断を下した大臣もいた。
旧刑事訴訟法下でも執行にかなりの時間を要していたが、死刑執行が遅れると、待つ恐怖が長くなって残酷であり、新憲法の趣旨にも反すると考えられた為、現在の刑事訴訟法が制定された際が判決確定から6か月という規定が作られた。しかし結果的には、この規定をもってしても判決確定から執行までの期間が6か月以内になることはなかった。
この6ヶ月という期間が経過しても処刑されない点について昭和二十年代後半にすでに問題になっており、1953年6月19日に朝日新聞に掲載された「たまった死刑囚84人、部内に執行促進論 再審や恩赦請求を乱用」の記事によれば、死刑囚が死刑執行阻止を狙い、再審請求や恩赦出願を濫発するので法務当局内部に再審請求を行える回数を制限すべきだとする議論があることを伝えているが、そのなかで「昭和24年に最高裁で確定した死刑囚が残されている」と指摘しており、当時は「4年」も長い拘置期間とされていた。
その後1950年代以降は精神の異常を疑われたまま死刑判決を受けた者や、冤罪が疑われながら死刑判決を受けた者については、更に執行が避けられる傾向が顕著になり(著名なものに帝銀事件があるが、藤本事件のように執行された例もある)、外部交通が制限されるなか、長年にわたり何度も再審請求を繰り返して、最終的に無罪となった元死刑確定者も存在している。もっとも、1960年代から1980年代にかけて新規の死刑確定囚が多くなかった事実もある。
また、死刑が確定したのちに、何らかの理由により刑が執行されなかった場合、確定後30年をもって刑そのものが免除となる(刑法32条)。ただし死刑確定者が刑法11条2項に基づき刑事施設に継続して拘置されることによって、免除までの期間は中断される(最高裁昭和60年7月19日決定)(帝銀事件#死刑確定後参照)。例として名張毒ぶどう酒事件がある。
大臣の性格により様々であるが、法務省当局としては「死刑無し」の前例をできる限り作らないように、大臣の任期終了前には相当な催促が行われるという。ただし、もちろん、主義主張に無関係もしくは不明ながら任期が短い等の経緯により、結果として在任中死刑執行を一人も行わなかった法務大臣も、第二次世界大戦後に複数存在する。
[編集] 鳩山法相の死刑執行増大方針
鳩山法相は在任期間中13人もの死刑を執行したが、これに対し朝日新聞は2008年6月18日付夕刊「素粒子」欄で「永世死刑執行人 鳩山法相」「2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」と揶揄した。これに対し鳩山は「人の命を絶つという極刑を実施するのだから、心境は穏やかではない。しかしどんなにつらくても社会正義のためにやらざるを得ない。宮崎勤死刑囚らにも人権も人格もある。司法の慎重な判断、法律の規定があり、苦しんだ揚げ句に執行した。死に神に連れていかれたというのは違うと思う。(記事は)執行された方に対する侮辱だ」と朝日新聞に強く抗議し、「私を死に神と表現することがどれだけ悪影響を与えるか。そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が世の中を悪くしていると思う」と朝日新聞の報道姿勢を批判した。これに関して朝日新聞には「法相は職務を全うしているだけ」「死に神とはふざけすぎ」など、多くの抗議が寄せられ、朝日新聞は「法相の名誉を中傷する意図はなかった」」「表現の方法や技量をもっと磨かねば」と弁明[71][72]している。
また全国犯罪被害者の会も「一日も早い死刑執行を待ち望んできた被害者遺族も死に神ということになり、(報道によって)今回ほど侮辱的で、感情を逆なでされる苦痛を受けたのは初めて」とする抗議文と公開質問を朝日新聞社に送った[73]という。なお1ヶ月後に全国犯罪被害者の会は不適切な表現であり死刑執行数が多い事を批判したものではなかったとの朝日側の謝罪を受け入れた[74]が、鳩山は退任前の会見で「サイバンインコ[75]は留任、死に神は辞任」という発言をしており、なおも不快感をしめしていたという[76]。
[編集] 歴代法務大臣の死刑執行命令数
以下は歴代の法務大臣のうち、1980年以降の死刑執行命令数の一覧である。
[編集] 日本における死刑の歴史
[編集] 平安時代以前
詳細は「死罪 (律令法)」を参照
世界各国の社会と同様に日本において古代から死刑が行われていたのは間違いない。「古事記」の仁徳天皇記によれば、叛乱を企てた弟夫婦を山部大楯連に命じて討たせたが、その時山部がその妻女鳥がしていた玉釧を死体から奪い、妻に与えていたのを咎められ、処刑(方法は不明)されたとの記述がある。無論どこまで真実を書き表しているかは明らかではないが、日本の史書で「死刑」の単語が使われた最も古い事例である。また最初に刑罰として明らかに斬首にされたのは、巫女に淫らな行為をしたとして雄略天皇に処断された凡河内直香である。その後中国の影響を受けた律令法が整備され、刑罰の一つとして死刑制度が形成された。
[編集] 平安時代
平安時代には、嵯峨天皇が弘仁9年(818年)に盗犯に対する死刑を停止する宣旨(弘仁格)を公布した。死刑を全面的に停止あるいは廃止する法令が出されたことは無いものの、死刑の範囲が縮小するとともに実際に執行されることがなくなり、やがて全面的な死刑の停止が先例(慣習法)として確立されたと考えられている。
死刑相当の罪に対しては一旦太政官や刑部省において死罪の判決が出されても、執行の権限を持つ天皇の名において流罪への減刑が適用され、災害や朝廷内の出来事ごとに恩赦が出されたために、判決が下された後に釈放されるケースも多かった(また、八虐のように連坐・除名・没官などが付随する場合には、これらの処分は厳格に適用されていた。また、流罪に減刑されて現地に送られた後は非常赦と呼ばれる特別な恩赦が出ない限りは赦免されなかったから、交通が未発達な当時においては死刑に匹敵する威嚇効果があった)。また薬子の変以降、中央での政争が武力によって解決されることはなくなった。
平安時代は、不殺生を説く仏教が特に重んぜられた時代であり、特に穢れ思想は貴族階級に浸透していた。また怨霊信仰によって、天変地異や疫病などの災いの原因を怨念や祟りと考えた時代でもあり、そのことからも死刑は避けられ、政争においても血が流されることはなかったのである。
近代欧州から現代の国連決議まで、すべての死刑廃止論は平時のみの死刑廃止であり、戦時にまで死刑廃止を貫徹したのは平安時代の珍しい特徴である。ただし、これは京の中央政界のみでの現象であり、承平天慶の乱など続発する地方の戦乱への対処では、追討対象者は殺害されることが普通であった。承平天慶の乱では、討ち取られた平将門と藤原純友の首が京で晒し首となっている。また985年には盗賊の藤原斉明が検非違使によって近江で撃ち殺され、さらし首にされた記録がある。
平安末期には武士が台頭し、自力救済の思想が一般的となる。武士の時代の到来を告げた保元の乱の戦後処理として死刑が復活した。後白河天皇に源為義らを斬罪に処すよう提言した信西の言葉には「おほくの凶徒を諸国へわけつかはされば、定而猶兵乱の基なるべし。(中略)若重てひがごと出来りなば、後悔なんぞ益あらん」(保元物語巻之二「為義最後の事」より)とあり、兵乱の防止を目的として死刑を復活させたことが記録されている。
保元の乱で処刑されたのは武士だけで、武家における私刑(源為義が源義朝に、平忠正が平清盛にそれぞれ預けられた)という形式がとられたが、平治の乱では貴族である藤原信頼が斬首となり、ついに中央政界における死刑が復活するのである。ただし、この信頼の処刑についても、「公卿」に対する処刑の復活という点では画期的だが、あくまでも武装しての「戦闘員」としての役割に対する死罪とする考え方もある(『保元・平治の乱を読みなおす』(元木泰雄))。また、公家社会でも公卿への死刑に対する反発が強く、以後の公家法においても死刑に関する規定はみられず、建永の法難の際に後鳥羽上皇が法然の弟子を処刑した際も、側近武士による私刑の体裁を取った(「『建永の法難』について」『鎌倉時代の権力と制度』(上横手雅敬))。後の平家一門や、承久の乱に連座したものたちについても同様のことが言え、戦乱時における「武士だけ」の処刑という伝統はその後も続いていた。
嵯峨天皇の宣旨から保元の乱の起こった保元元年(1156年)まで、338年の間、全国的に平時死刑は廃止され、京においては平時・戦時例外なく死刑執行は停止されていた。前近代においてこれほど長期間死刑が行われなかった例は世界史上ほかに存在しない。
[編集] 中世
鎌倉時代、鎌倉幕府は死刑の種類について、絞と斬の2種類に定めていたが、地方においては鋸挽、磔、獄門なども行われていた。
また鎌倉・室町時代には全国的に統一された絶対的な司法権が確立せず、各荘園・公領が独立した司法権・刑罰権を有するようになった。そのため、弱小な荘園・公領に所属する者が強大な荘園・公領に所属する者から害を与えられた時には泣き寝入りになることが多く、小荘園・公領はそれに対抗するために小荘園・公領同士で同盟を結んで大荘園・公領に対抗し、人的被害が生じた場合は再犯の防止を目的として同じ程度の被害が生じるように相手の荘園・公領に生贄を要求した。同じ荘園からの再犯を防止するためには相手の荘園に同じ程度の被害が生じれば事足りるため犠牲は犯人である必要はなく、荘園・公領の中の下層階級の者や被差別民を遺族の上位身分への引き立てを引き換えとし、犯人の代わりに差し出すことが多かった。一つの事件を「死んで解決した人」であることから「解死人」(げしにん)と呼ばれるようになり、後の「下手人」との呼び方につながっていった。また、中世末期に惣村の自治的結合(一揆)が強まると、惣村もまたこうした主体を担うようになっていく。
鎌倉・室町から戦国時代にかけて世の中が戦乱に巻き込まれるようになるにつれ、社会の過酷さを反映して磔、串刺、牛裂・車裂、釜茹で(盗賊石川五右衛門の処刑が有名)などのように刑罰も苛烈になっていった。
経済犯に対して死刑が適用されたり、謀反などの重罪に対して連座制が適用されたり、領主の世俗的権威とは独立した権威を説くキリシタンや一向宗徒等の宗教勢力に対して、根絶と見せしめのために残虐刑が多用されたり、というように、領国の治安強化や粛清のために死刑を多用する戦国大名たちが現れた。一方では、自力救済による私的刑罰権を制限するため、喧嘩両成敗の原則が分国法などで制度化されるようになった。豊臣秀吉は喧嘩停止令で私戦を禁止したほか、刀狩令により百姓身分の武器使用を規制し、惣村における自力救済を否定した。
[編集] 江戸時代
酷刑の傾向は江戸時代初期まで続いたが、あまりに残虐な刑罰はやがて廃止された。武士に対しては切腹または斬首、武士でない階級には磔、鋸挽、火罪、下手人、死罪、獄門が適用された。切腹は武士としての名誉を尊重する形式であり、斬首は不名誉刑として不名誉な罪に対し行われた。
江戸時代の刑罰も軽罪犯に対して死刑を適用し、重罪に連座制を採用するというように治安目的の傾向を強く読み取ることができるが、密通に生命刑が予告されていたり、同じ生命刑の中でも親殺し(尊属殺人)や主殺しは一段重く罰せられていたことなどから、死刑が当時の文化や身分秩序の維持を目的として行われていた面があることも読みとれる。
8代将軍徳川吉宗のときに定められた公事方御定書によって死刑の種類は火刑、獄門、死罪、切腹などに限定され、残虐なやり方による死刑を制限する方向へとつながった。ただし公事方御定書は江戸町奉行のみが閲覧を許される秘法であったため、罪刑法定主義による死刑が行われていたわけではない。
なお、尾張藩主徳川宗春は統治期間中に領内において死刑を廃止している。彼の思想を記した「温知政要」では、死刑について「取り返しの付かない刑罰」であるとし、その運用は慎重の上に慎重を重ねるべきと述べている。
また江戸期になって法制化された敵討(仇討ち)は、肉親を殺害された遺族が相手に復讐する為に行われる私刑であったが、これを許されたのは武士階級のみであり、対象も尊属を殺害した者であり子弟の場合には許されなかったほか敵討は決闘であるため、敵とされる側であっても「返討ち」が許されていた。
[編集] 近代
明治政府は成立当初、江戸時代の立法を準用していたおり、引き続き江戸時代の刑罰が実施されていた。しかし、欧米の近代法の影響を受けて各法典が整備されていくと、刑罰の簡略化と残酷な刑の廃止、罪刑法定主義の担保がなされていった。
1870年(明治3年)に暫定刑法である新律綱領を定め、死刑を「斬罪」と「絞首」の2種類に限定。この綱領では刑法典の出版と頒布が初めて認められ、罪刑法定主義が担保された。また1880年(明治13年)にはフランス刑法典を基本に日本社会の特性を加味して刑法(旧)が制定され、絞首のみに死刑執行方法が限定された。この刑法によって江戸時代と比較して死刑が適用される犯罪は大きく限定されることになった。また例外として大日本帝国の兵士に対して適用された陸海軍軍法(陸軍刑法および海軍刑法)は最高刑として銃殺刑による死刑が存在した。
近代日本において死刑制度廃止法案が帝国議会に提出されたのは1900年のことで、安藤亀太郎、高須賀穣、根本正らが共同提出した。これは当時欧州の死刑廃止論の影響を受けた小河滋二郎ら実務派が主張していたことが背景にあるが、大きな社会的潮流になることはなかった[81]。
1908年には現行刑法が施行され、現在まで幾度かの改正が行われているが、基本的には現在と死刑が適用される犯罪は変わらない。しかしながら死刑適用犯罪として皇室に関する罪のうち、天皇及び皇族を殺害もしくは危害を加えようとする大逆罪は、生命を奪うまで至らず未遂(予備も含む)であっても死刑のみが適用されていた。そのため幸徳事件では24名が、虎ノ門事件と桜田門事件では1名ずつ(朴烈事件は死刑判決を受けたが恩赦された)が死刑になった。戦後になってGHQにより国民主権の理念に反するとの判断から廃止された。以上のことから、死刑の適用事件は日本においても他の近代諸国と同様に大幅に限定されるようになってきているといえる。
[編集] 戦後から現代へ
1945年、日本は第二次世界大戦(太平洋戦争もしくは大東亜戦争とも呼称)に敗北したため、連合国の占領政策のもと従来の法制度を民主的に改革することが求められた。刑事政策関係では従来の刑事訴訟法が比較的厳格な法手続きを尊重する英米法に倣ったものに改正されたが、死刑制度自体は存続していた。この時期には戦後の混乱期の凶悪犯罪の増加という背景もあり、死刑の宣告及び執行は多かったが、従来の自白偏重主義の捜査方法が行われていたため、後年問題となった冤罪事件が数多く生じていた。
1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法施行後の1948年3月12日に最高裁判所は死刑制度の存在と憲法の規定は矛盾したものではなく是認しているとの判決を出し死刑は合憲であるとした(死刑制度合憲判決事件 [82])そのため、現在でも日本においては死刑制度存置の根拠のひとつとされている。なお、現在では殆どふれられることはないが「大野意見」という死刑制度に否定的な少数意見も付けられている。同年11月11日に日本国憲法下で初めて死刑が執行された。
また、戦後アメリカ軍によって日本から分離統治(1945年~1972年)されていた沖縄県では、日本の刑法が適用されていたため死刑制度(ただし東京の最高裁判所に上告できないため事実上二審制)があり、実際に死刑判決も出されているが、琉球列島高等弁務官に死刑の執行や恩赦の権限が与えられていたため、無期懲役に減刑した場合(泊母子殺人事件)もある。
死刑囚の恩赦であるが、現在ではまず行われないが、1952年のサンフランシスコ平和条約発効による恩赦では、殺人犯のみで死刑が確定していた者のうち13人が無期減刑されている。また個別恩赦で戦後11人が恩赦されているが、この中には戦時中に樺太で発生した強盗殺人事件の死刑囚のように、ソ連軍が樺太に侵攻したため裁判記録が事実上消滅し死刑起案書が作成できない為に減刑されたもの、少年法の改正(死刑にすることの出来る年齢が18歳以上に引き上げ)で犯行時17歳の死刑囚が無期減刑になった例がある。
戦後日本の国会で死刑廃止法案が提出されたのは1956年と1965年の2度あるが、いずれも成立することはなく現在に至っている。これは、この時期イギリスの国会で死刑制度の是非が議論されていた影響もある。1956年の際には「刑法の一部を改正する法案」として羽仁五郎参議院議員らが中心となって提出されたもので、現職の刑務官や所長らの現場から死刑廃止が根強く主張された。それによれば、自ら犯した犯罪に対する贖罪への感情が生じている死刑囚を業務のためとはいえ殺したくないというものであった。
読売新聞1956年4月13日付けの紙面には、当時の大阪拘置所所長で後に死刑廃止論者として有名になった玉井策郎によって、死刑の実態を告発する為に強盗の際に警察官を射殺した死刑囚の執行までの53時間を秘密録音した実況が一面で掲載された。それによれば、死刑囚の肉親との最期の面会、同囚との別れの茶会、そして死刑囚最期の言葉と辞世の句を残した後、死刑執行が行われた場面で終わるというものであった。なおこの時の録音はテレビ朝日の『ザ・スクープ』のなかで1996年に放送したほか、文化放送も2008年に特番『死刑執行』で放送されている。
朝日新聞1965年1月16日の社説[83]には「殺人が国家の名において許され、そして残されている場合がたった二つある。戦争と死刑である。(中略)極刑がなくなれば、だれでも容易に殺人のような罪を犯すであろうと見るのが普通の見解である。しかし、一段と深く考えたなら、いかなる権力も、いかなる理由も、人を殺してはならぬという制度が確立してはじめて、人の生命に手を触れてはならぬという信念が、全ての人の心に芽生えるのである」として、死刑制度廃止に賛成する主張を行っている。これに対し死刑存置論[84]からは、おせんころがし殺人事件などで8人を殺害して、別々の裁判で2度の死刑判決が確定した栗田源蔵を引き合いに出し『世の中には特殊な極悪人がおり、淘汰する以外にない犯罪者がいるのだ』[85]として、社会防衛上必要であるとする死刑制度存置の理由として矛先に挙げられた。結局、この法案は廃案になった。
次の1965年3月の時[86]には、当時の日本社会党の参議院議員ら39名が提出した。この時期に提出されたのは西側欧州諸国で立法府による死刑廃止が検討されていたこともあるが、帝銀事件といった死刑囚の冤罪が疑われる事件が続出していたことが背景にある。また1968年4月に国会に連合国による占領時代に死刑判決を受けた未執行死刑囚を対象にした再審特例法案が提出された。この法案の主旨は前述のように冤罪の疑われた死刑囚に再審の途を彼らにその機会を与えるものであったが、この法案が成立することはなかった。ただし、何人かの死刑囚に対しては恩赦で無期懲役に減刑されたが、これは死刑廃止論の象徴となっていた戦後初めて死刑判決を受けていた女性死刑囚(子供を養うために僅かな金銭を強盗し放火殺人した事件、精神異常と結核が亢進し廃人状態だった)を恩赦する政治判断があったとの指摘もある[87]。なお、死刑囚が無期懲役に減刑されたのは1975年6月(福岡事件の死刑囚1人)を最後に行われていない。
これら死刑制度廃止の動きに対して、法務省は総理府(現在の内閣府)が行った世論調査の結果、日本の国民世論が死刑制度存置論が多数であるとして、死刑制度を維持すべしであるとして現在に至るまで死刑制度を廃止すべきではないとの立場を取り続けている。
なお、1946年以降2007年3月までの死刑確定者(自殺・獄死・恩赦減刑を除く)は728人で、それまでに死刑に処せられた者は627人、この時点での未執行者は101人であった[88]。また2009年現在、女性被告人で死刑が確定したものは10人(恩赦減刑1人、獄死1人、執行3人)であり、日本において死刑が適用される凶悪犯はほぼ男性であるといえる。
日本は1989年に国連で採択された死刑廃止条約(国際人権規約の市民的及び政治的権利に関する国際規約の第二選択議定書」)に未署名・未批准である。一方、死刑廃止を求める運動が活発化しており、1994年には亀井静香議員などを中心とする超党派の議員連盟「死刑廃止を推進する議員連盟」も発足している。また、1989年11月から1993年3月までの3年4か月の間は死刑執行が行われなかった。
2000年代からは被害者及び被害者遺族の権利や心情を重視する考え方や、厳罰化による犯罪の抑止を求める考え方などが支持を集めている。日本において犯罪件数そのものは減少傾向にあるが、附属池田小事件や和歌山毒物カレー事件など、凶悪犯罪に対する市民感情、いわゆる体感治安の悪化も厳罰化の追い風となっている。近年においては光市母子殺害事件の被害者遺族の死刑要求運動の影響で死刑制度維持に賛成する世論が高まった。また、裁判でも死刑判決が増加する傾向にある。なお、死刑の執行は、1993年4月に後藤田正晴法務大臣(当時)が復活させて以降、2008年現在まで毎年行われている。鳩山邦夫は法務大臣に就任以来、13人に対して死刑執行を命令した。2008年の執行数は15名にのぼり、これは1975年の17名以来の多さである。
2008年10月28日に麻生太郎内閣の森英介大臣の下、福岡拘置所にて飯塚事件死刑囚の死刑執行が成された。この事件については、足利事件と同様に冤罪の可能性が否定できず、元死刑囚の弁護団が再審準備をしているという[89]。この執行を含め、森大臣下では3回計9人に対して死刑が執行された。これにより、確定死刑囚は101人となり、1993年3月の執行再開以降の執行数は82人となっている。[90]
[編集] 都市伝説
「10分経っても絶命しなければ新しい名前と戸籍が与えられて裏口からこっそり釈放される」という都市伝説があるが、まったくの虚偽である。これは海外の絞首刑の失敗事例からきたもので、当該事例では実際には恩赦で懲役刑に減刑されている。[91]
死刑確定者の中にはこの話を信じて必死に10分間息を止める練習をする者もいたという[92]が、後述のとおり絶命前に絞縄を解かれることはなく、法令上もありえない。(また、日本の執行方法では、頚椎の損傷により死に至る。)なおアメリカ合衆国では不備で死刑の執行が失敗した場合、時期を置いて再度執行されるという。
日本においては、明治26年(1893年)に、執行の猶予を求めて号泣しその場を動かない死刑囚を、看守らが引き立てて絞首刑を執行したものの、一度ならず二度までもロープが外れ、その場でやり直しの執行がされたケースが当時の新聞に報道されている[93]。
[編集] 参考文献
- 重松一義『死刑制度必要論』(信山社)
- 植松正著・日髙義博補訂『新刑法教室I総論』(成文堂)
- 板倉宏『「人権」を問う』(音羽出版)
- 植松正「死刑廃止論の感傷を嫌う」法律のひろば43巻8号〔1990年〕
- 井上薫『死刑の理由』(新潮文庫) 永山事件以、死刑確定した43件の犯罪事実と量刑理由について記されたもの。
- 竹内靖雄『法と正義の経済学』(新潮社)
- 坂本敏夫『元刑務官が明かす 死刑はいかに執行されるか―実録 死刑囚の処遇から処刑まで』 日本文芸社
- 坂本敏夫『死刑のすべて―元刑務官が明かす』文春文庫
- 郷田マモラ『マンガで見る日本の死刑執行』
- 団藤重光『死刑廃止論』(有斐閣)
[編集] 関連項目
- 死刑囚
- 生き返った死刑囚
- 死刑執行 - 文化放送におけるラジオ番組。
- 死刑制度合憲判決事件 - 2011年現在もこの判例によって、死刑が合憲であるという根拠になっている。
- 永山則夫連続射殺事件 - 死刑の基準となる永山基準が示された。
[編集] 脚注
- ^ 3人以上殺害して心神耗弱や情状酌量を理由に無期懲役などに減刑されて死刑を逃れた事例や、一家心中を意図して家族全員を殺害して一人のみ生き残った場合であっても死刑にならなかった事例がある。また近年は犯罪に対する厳罰化を求める世論から、1人殺害の事件であっても、その殺害が凶悪・残虐なものであったりした場合などは死刑の判決を下す傾向が強くなっている。
- ^も参照
- ^ MSN産経ニュース (2009年9月10日). “「矯正の可能性ある」 江東バラバラ事件の被告、二審も無期懲役判決”. 2009年9月10日閲覧。
- ^ 朝日新聞2009年2月19日朝刊。
- ^ “北九州監禁連続殺人、Y被告の無期懲役確定へ”. 読売新聞. (2011年12月14日) 2011年12月14日閲覧。
- ^ 『インパクション』156号
- ^ 養鶏場殺人、死刑を破棄/「首謀者と均衡失する」
- ^ 村野薫『死刑はこうして執行される』講談社 2006年 206頁
- ^ 朝日新聞1978年7月6日
- ^ たとえば、1949年5月20日付の毎日新聞によれば、生活苦から子供3人を殺害し、死にきれずに自首した母親に対し、裁判所が懲役3年執行猶予5年という事実上無罪に近い判決を出した事に対し、子供を親の私有物視する封建思想として参議院法務委員で追求され、裁判について国政調査権による調査の是非について司法と立法府が争った事実が記録されている。
- ^ a b 法務省>犯罪白書>平成20年版>第2編 犯罪者の処遇>第3章>第1節 終局裁判>1裁判確定人員 [1]
- ^ 別冊宝島1525『日本タブー事件史3』26頁
- ^ 別冊宝島「日本タブー事件史3」26頁
- ^ 別冊宝島「死刑囚最後の1時間」10頁
- ^ 最高裁昭和36年07月19日大法廷判決刑集第15巻7号1106頁
- ^ 最高裁昭和36年07月19日大法廷判決刑集第15巻7号1106頁
- ^ 佐賀潜「刑法入門」
- ^ 別冊宝島「死刑囚最後の1時間」74頁
- ^ 『監獄協会雑誌』第20号2号(明治40年)127~135頁木名瀬礼助氏「刑法改正案に就ての所感」 全文のテキスト
- ^ これについては現状説明のための後付けではないかとの意見もある
- ^ a b c d e f g 法務省>保護局フロントページ>無期刑受刑者の仮釈放の運用状況等について>無期刑の執行状況及び無期刑受刑者に係る仮釈放の運用状況について 平成21年9月 2010年10月17日閲覧
- ^ a b c d e 法務省>保護局フロントページ>無期刑受刑者の仮釈放の運用状況等について>無期刑受刑者の仮釈放に係る勉強会報告書 2010年10月17日閲覧
- ^ a b 法務省>法務省の概要>各組織の説明>内部部局>保護局>無期刑受刑者の仮釈放の運用状況等について>無期刑受刑者に係る仮釈放審理に関する事務の運用について(通達) 2010年10月17日閲覧
- ^ 世界の終身刑
- ^ 亀井静香『死刑廃止論』 花伝社 28頁
- ^ 中国新聞 2008年2月2日朝刊
- ^ ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書・「藤本事件の真相」(PDF)
- ^ 読売新聞 2008年10月10日版>死刑>第1部>執行の現実 法務省幹部(匿名)の発言として、「再審や恩赦の請求は法的には死刑執行を停止する理由にはならないが、法務省が冤罪を疑っている死刑囚の再審請求の場合は、冤罪で死刑を執行することはあってはならないという観点から、死刑執行の検討対象から除外してきた。その結果として死刑確定後の拘置が20年~30年以上の期間になり、高齢による身体の病気や老衰、拘置による精神の病気や知能の衰退などにより、死刑囚が天寿を全うすることを待つ処遇をしている事例もある」と表明した。(但し、福岡事件や飯塚事件のように執行された例もある) 2009年8月31日閲覧
- ^ 野村二郎『日本の裁判史を読む事典』自由国民社、2004年 235~236頁
- ^ 「アメリカの刑事司法」有信堂高文社
- ^ たとえば2002年1月17日に宇都宮裁判所は連続強盗強姦事件の48歳の被告人を無期懲役判決を下している。強姦の被害者は3人で、従来なら有期刑の可能性もある事例であった
- ^ 「死刑宣告、過去最多45人 世論が厳罰化後押し」 産経新聞2006年12月30日。
- ^ 『毎日新聞』2009年3月16日号夕刊名古屋版 曲がり角で:18日・闇サイト殺人判決/下 被告の父も「極刑妥当」
- ^ 日本と同じ裁判員制度を導入している韓国も死刑存置国であるが、死刑執行が1997年から凍結されている
- ^ ただし昭和初期までは死刑が執行されるたびに官報に公示されていたと言われている。第141回国会参議院法務委員会平成9年11月13日議事録 中の原田政府委員発言を参照。
- ^ アメリカでは死刑が執行される刑務所前で死刑存置派、廃止派双方の集会が行われることが少なくない
- ^ 佐久間哲『現代死刑囚ファイル』自由国民社 26頁
- ^ 免田事件の元死刑囚が死刑執行日に自殺した死刑囚がいたことを証言している。
- ^ アメリカ合衆国では原則として前日までに死刑執行が通知され、最後の食事は酒類以外の死刑囚の好きな料理が出される慣習があるという
- ^ 21世紀には入ってから2001年に2名、2006年に3名が執行
- ^ 2002年9月18日に当時の小泉純一郎首相が北朝鮮訪問した日に2名の死刑執行が行われたため
- ^ 中国新聞 2008年2月2日朝刊
- ^ 2007年8月23日朝日新聞夕刊
- ^ ユーザーの質問に専門記者が答えるウェブサイト「回答する記者団」の運営者である佐藤裕一の請求に応じ、幼女連続誘拐殺人事件の宮崎勤元死刑囚らに対する死刑執行命令書を全面開示した(出典:「死刑命令書を全面開示 宮崎元死刑囚「執行せよ」」2009年3月13日付産経ニュース)。
- ^ 佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』191頁~192頁
- ^ 裁判所がこの法律の定めるところにより不公平な裁判をするおそれがあると認めた者は、当該事件について裁判員となることができない。
- ^ 参考資料5 不公平な裁判をするおそれに関する質問の具体的イメージ - 「裁判員の参加する刑事裁判に関する規則」の公布について(最高裁判所)
- ^ 量刑決定は多数決によって行うが、職業裁判官1名の賛成が必ずなければならないとされる。そのため、市民裁判官全員が賛成しても職業裁判官一人が賛同しなければ、決定できないとされている
- ^ 週刊朝日 2007年12月26日号 団藤重光のインタビュー記事より
- ^ 世界の終身刑
- ^ 亀井静香『死刑廃止論』 花伝社 28頁
- ^ 中国新聞 2008年2月2日朝刊
- ^ 毎日新聞 2008年3月5日朝刊
- ^ 『最高検通達を撤回させよう!「悪質事件」の無期懲役囚、検察が仮釈放を「制限」』 監獄人権センター。
- ^ http://www.jca.apc.org/cpr/2002/kensatu.html
- ^ 「死刑に関する英国審議会(1948~1953)報告書」(HER MAJESTY’S STATIONARY OFFICE「ROYAL COMMISSION ON Capital Punishment 1949-1953 REPORT」1953年
- ^ The New York Times, 2007.1.16
- ^ ヴァルテル・ラブル医学博士ら(オーストリア・インスブルック大学)「Erhangen mit Dekapitation Kasuistik - Biomechankik(頭部離断を伴った縊死 事例報告、生体工学)」1995年
- ^ 「Procedure for Military Execution」1959年 米陸軍省
- ^ The "Long drop" or measured drop method
- ^ 昭和36年7月19日大法廷判決(刑集15-7-1106)
- ^ [死刑]執行の現実(2)絞首、130年続く『読売新聞』2008年10月5日
- ^ 『読売東京新聞』1883年7月7日
- ^ 『東京絵入新聞』1883年7月7日
- ^ 朝日新聞1955年12月29日
- ^ 朝日新聞1955年12月29日
- ^ 朝日新聞1953年6月19日
- ^ 後藤田大臣以降、死刑執行命令書に署名しなかった法務大臣として高村正彦法務大臣がいたが、杉浦大臣以降就任した法務大臣が例外なく署名しているため。また同様に死刑制度廃止を主張している連立与党の公明党から法務大臣の起用はありえないとの指摘もある
- ^ 「<死刑執行>4人に 安倍政権で初 1年3カ月ぶり」 毎日新聞、2006年12月26日。
- ^ 読売新聞社会部『死刑』(中央公論新社、2009年、p.72)
- ^ 朝日新聞2008年6月21日朝刊
- ^ 2008年6月22日 毎日新聞
- ^ YOMIURI ONLINE「犯罪被害者の会、朝日新聞の「死に神」表現に抗議文」2008年6月25日、2008年6月30日閲覧
- ^ 朝日新聞2008年8月2日
- ^ 福岡高等検察庁が作成した裁判員制度の広報キャラクター。鳩山はこのキャラクターの着ぐるみを着用し検察庁の統一広報キャラクターに抜擢した
- ^ 『内閣改造へ「サイバンインコは留任、死に神は辞任」鳩山法相』産経新聞2008年7月25日12時10分配信
- ^ 退任後の1997年に参議院比例代表で繰り上げ当選し、参議院議員を翌年まで勤めた
- ^ のち民間人(法務大臣在職中の第22回参議院議員通常選挙で落選)
- ^ 柳田稔の舌禍辞任の後、内閣官房長官仙谷由人が法務大臣を兼任。
- ^ 環境大臣兼防災担当大臣だった松本龍が復興対策担当大臣に転任した後、法務大臣江田五月が環境大臣を兼任。
- ^ 「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大辞典」、東京法経学院出版、2002年、312頁
- ^ 判決の要旨は以下の通り(最(大)判昭和23年(1948年)3月12日刑集2巻3号191頁)
- 事件
- 判決
- 上告を棄却(死刑確定)
- 「死刑は合憲である」
- 「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。…日本国憲法第13条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している」で始まる。
- 「死刑は残虐でない」としているが「ただ、死刑といえども、他の刑罰の場合におけると同様に、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有すると認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶり・はりつけ・さらし首・釜茹でごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されるとするならば、その法律こそは、まさに日本国憲法第36条に違反するものというべきである」に違反するものというべきである」として、残虐な執行方法については違憲としている。
- ^ 別冊宝島「いのいよは何か?」2008年、31頁より引用
- ^ 第024回国会 法務委員会公聴会 第2号
- ^ 村野薫『戦後死刑囚列伝』宝島社125頁
- ^ 「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大辞典」、東京法経学院出版、2002年、311頁
- ^ 佐久間哲、「死刑に処す-現代死刑囚ファイル-」、自由国民社、2005年
- ^ 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』宝島社 2007年
- ^ 朝日新聞2009年6月5日朝刊
- ^ 姉妹殺害犯ら3人死刑執行、半年ぶり 読売新聞 2009年7月28日
- ^ 「河合修治訳『殺人紳士録』中央アート出版」に、イギリスで1884年に死刑囚が、絞首台の落とし戸が湿気のために膨張し、重量がかかると戸が開かなくなったため、3度も開かず停止されたという事例が紹介されている。結局、彼は減刑され22年後に出所し、結婚しアメリカに渡り1933年に病死したとされる。
- ^ 合田士郎「そして、死刑は執行された」
- ^ 『読売新聞』1893年8月1日 全文のテキスト
[編集] 外部リンク
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