清和政策研究会

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清和政策研究会(せいわせいさくけんきゅうかい)は、自由民主党の派閥。 略称は清和会(旧名でもある)。近年会長職が廃止され集団指導体制となっていたが、2009年2月5日に町村信孝が会長に復帰した。同じ代表世話人であった中川秀直谷川秀善の2名は引き続き代表世話人を務める。通称、町村派(福田派→安倍派→三塚派→森派→町村派)。

自民党内で1955年保守合同時の旧民主党(岸信介鳩山一郎派)の流れを汲む。旧民主党の「反吉田」路線を起源に持つため、親米である一方、憲法改正・自主防衛議論に積極的であるなど比較的タカ派色が強く、冷戦期には反共親韓親台の傾向が強かった。一貫して自民党の有力派閥だったが、ポスト佐藤で福田赳夫田中角栄に敗北して以来、旧自由党系の平成研究会宏池会などの諸派に比べると非主流派に甘んじることが多かった。

同派が主流派として実質的に政権の中枢を担うようになるのは小泉政権発足以降である。

目次

[編集] 歴史

[編集] 結成~福田赳夫時代

「十日会」(岸信介派)の分裂を受けて1962年に結成された福田赳夫を中心とする「党風刷新連盟」が起源。1970年11月に時の首相・佐藤栄作に勧められ「紀尾井会」として福田派が派閥として正式に旗揚げされた。

1972年まで7年に及んだ佐藤栄作政権の後継を巡る、いわゆる「ポスト佐藤」の争いにおいて、佐藤の意中の人は福田であったが、政権末期に田中の猛追を受け、結局総裁選で敗れた。この挫折を機に、領袖福田のもと、田中派と「角福戦争」と呼ばれる激しい派閥抗争を繰り広げたが、福田自身が「派閥解消」論者であり、必ずしも派閥活動に積極的でなかったこともあって、三大派閥の中で伸び悩み、1976年に悲願の福田赳夫政権誕生にこぎつけるものの2年後には大平・田中連合の前に総裁選で敗北した。

なお、1972年、総裁選で敗れた直後に保利グループ園田派(旧・森(清)派)を統合して「八日会」へと名称変更、1976年末、福田内閣の発足にあたり派閥解消を提唱、率先して八日会を解散したが、福田退陣後に再結成の機運が高まり、1979年1月に清和会を結成した。出典は、東晋元帝諸葛恢の統治を「政清人和(清廉な政治で自ずから人民を穏やかにした)」と称賛した故事による(『晋書』諸葛恢伝)。この旧「清和会」は略称ではなく正式名称である。後に自由革新同友会石原派・旧中川派)を吸収する。

グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)内に事務局を設置し、同ホテルで毎年1回春頃に政治資金パーティーを開催することが慣例となっている。

[編集] 安倍派四天王と会の分裂

安倍晋太郎が派閥会長であった際、派閥内の三塚博加藤六月塩川正十郎森喜朗の4人の実力者を称して安倍派四天王と呼んだ。竹下派七奉行と比較される。その後、安倍の後継会長を三塚・加藤が争い(この抗争は両者の名を取って「三六戦争」と呼ばれる)、森の支持を得た三塚が1991年6月、清和会会長に就任した。

同年、三塚は総裁選に出馬するが、加藤がこれに反し、竹下派の推す宮澤喜一支持を表明した。そのため加藤は同年10月に三塚派を除名され、政眞会を結成、のちに自民党も離脱することとなる。加藤の離脱後、三塚を支持した、森、塩川、小泉、玉澤徳一郎中川秀直等と、加藤を支持したものの清和会に残った亀井静香平沼赳夫中川昭一尾身幸次町村信孝等の間にしこりが残ったと言われている。

[編集] 森喜朗の派閥継承と亀井静香の離脱

三塚派に移行してからは、森グループと、急速に派内での発言力を増していた亀井静香グループとの対立が激しくなる。1994年11月、自民党の下野に伴い呼びかけられた派閥解消で、清和会は解散し、派閥に代わって結成が認められた政策集団として「21世紀を考える会・新政策研究会」を結成した。三塚は同会の会長にそのまま留任した。

1998年、森グループ主導により、三塚派の独自候補として小泉純一郎自民党総裁選出馬を決定したことに亀井グループが反発。異議を唱えるが押し切られ、総裁選後に森が党幹事長に就任したことで派の分裂が決定的となる。同年9月に亀井グループは三塚派を離脱した。その後、12月に森が三塚から派閥を継承する。

[編集] 森・小泉政権と自民党内最大派閥への躍進

森喜朗が三塚の後継会長となった1998年末に、かつての清和会の名称にちなんで会の名称を清和政策研究会と改称し、2000年に森が首相に就任し総裁派閥となった。森が自民党総裁在任中は党内の慣例に従い形式的に派閥を離脱したため、そのあとを受けて、小泉純一郎が2000年4月から清和政策研究会会長に就任し森内閣を支えた。派閥を継承した森は同じく発言力を増しつつあった小泉と組むことによって混乱していた派の体制を立て直す事に成功した。

森退陣後の小泉内閣では引き続き総裁派閥(小泉自身は派閥離脱)となり主流派として勢力を伸張し、2005年衆議院選挙で、平成研究会(旧橋本派・現津島派)を抜き、党内第一派閥へと躍り出た。

2006年、小泉総裁退任に伴う自民党総裁選挙では有力候補として安倍晋三福田康夫が挙がったが、安倍と福田は同じ森派出身であり、その森派はかつて安倍・福田の父親が領袖である派閥であったことも注目され、安倍と福田の二人が立候補をすれば第一派閥である森派の分裂も予想された(安福戦争)。しかし、福田が不出馬を宣言したため派閥分裂の危機は回避され、9月に安倍が総裁に選出された。

2006年10月19日、森は派閥会長を退任し、町村信孝が同派会長に就任。その後、10月26日、派閥総会で森は同派名誉会長に就任した。この町村への派閥委譲は、幹事長に就任したもう一方の実力者中川秀直とのバランスを考えてのことである。派閥名は町村派となった。なお、その影響力や行動などから領袖退任以後も森が事実上の派閥のオーナーと考えられている。

2007年7月の参院選の結果、参院側でも津島派を抜き名実共に最大派閥となった。

[編集] 集団指導体制への移行

同年9月、福田康夫が総理総裁になり森・小泉・安倍・福田の4代連続で総理総裁を輩出する。また町村が福田内閣の官房長官に就任したことにより、派閥会長職を廃して代わりに代表世話人を置くことを決定。代表世話人には町村・中川秀直・谷川秀善(参院)の3人が就き、集団指導体制となる。官房長官という要職での入閣により閥務に比重が置けない町村と、党幹事長を辞任して派閥に復帰した中川の派内での処遇を考慮した結果の措置である。報道では派閥名は町村派から変更はない。

2007年参院選で自民党が敗北するも、清和政策研究会が参議院でも党内第一派閥となったことから、数を減らした他派閥に配慮して無派閥議員の派閥勧誘を行うことを自粛していた。他派閥が派閥勧誘を行ったのを待ってから、無派閥議員への派閥勧誘を行っている。

2008年3月、総理総裁就任以来派閥を抜けていた安倍が「相談役」として復帰。安倍復帰前からの相談役としては衛藤征士郎らがいる。一方、小泉は総理総裁就任以来未だに派閥に復帰していない。

2008年9月、福田総裁退任に伴う自民党総裁選で中川が自派閥から小池百合子を擁立する一方、森や安倍や町村は安倍・福田政権を支え続けた麻生太郎を支持したため、派閥分裂が表面化した。なお、町村信孝も有力な総裁候補ではあったものの、安倍・福田と2代に渡って政権運営に失敗したことから、清和会から総裁候補を擁立することは自粛された。中川による小池擁立は、この原則にも反するものである。麻生内閣発足に伴い幹事長ポストに細田博之を送り込む。町村は官房長官を離任したが、派閥は集団指導体制のままであった。

[編集] 町村会長体制への復帰

2009年1月に入り、2011年からの消費税増税を目指した麻生政権に対し、中川は「その瞬間に判断する」などと本会議での造反をちらつかせ抵抗した。一時は決裂の様相も見られたが、結局税調幹部でもある町村が、増税実施時期を明記しない形での中川との妥協案を作成し対立は収束したが、政権に反対した動きは森、安倍などの怒りを買い、中川を代表世話人から外す考えが示された。

2009年2月5日の派閥総会で森が提案した人事案は、町村を会長に昇格させ、中川と谷川を代表世話人として続投させるというものであった。中堅、若手の一部からは反対する声もあったが、最終的に人事案は了承され、町村が会長に復帰することになった。[1]

同年3月5日の総会で森が最高顧問から安倍と同じく相談役につくことが決まり、町村会長のもとでの新体制が固まった。

[編集] 歴代会長

初代清和会会長
福田赳夫
会長 派閥呼称 期間
1 福田赳夫 福田派 1979年 - 1986年
2 安倍晋太郎 安倍派 1986年 - 1991年
3 三塚博 三塚派 1991年 - 1998年
4 森喜朗 森派 1998年 - 2000年
5 小泉純一郎*1 2000年 - 2001年
6 森喜朗 2001年 - 2006年
7 町村信孝 町村派 2006年 - 2007年
- 町村信孝
中川秀直
谷川秀善*2
2007年 - 2009年
8 町村信孝 2009年 -

※1 森が総理大臣就任期間の留守役
※2 3人の「代表世話人」による集団指導体制

[編集] 現在の構成

[編集] 役員

会長 代表世話人 事務総長 事務総長代理 相談役
町村信孝 中川秀直
谷川秀善(参院)
中山成彬 木村太郎 森喜朗
衛藤征士郎
安倍晋三

[編集] 衆議院議員

森喜朗(13回、石川2区 伊藤公介(9回、東京23区 玉澤徳一郎(9回、比例東北) 中川秀直(9回、広島4区
衛藤征士郎(8回・参院1回、大分2区 尾身幸次(8回、比例北関東) 町村信孝(8回、北海道5区 坂本剛二(6回、比例東北)
杉浦正健(6回、愛知12区 長勢甚遠(6回、富山1区 中山成彬(6回、宮崎1区 細田博之(6回、島根1区
宮路和明(6回、鹿児島3区 安倍晋三(5回、山口4区 小野晋也(5回、愛媛3区 小池百合子(5回・参院1回、東京10区
塩谷立(5回、静岡8区 大野松茂(4回、埼玉9区 嘉数知賢(4回、沖縄3区 木村太郎(4回、青森4区
下村博文(4回、東京11区 高市早苗(4回、奈良2区 谷畑孝(4回・参院1回、大阪14区 山本拓(4回、福井2区
石崎岳(3回、北海道3区 高木毅(3回、福井3区 谷本龍哉(3回、和歌山1区 中野正志(3回、比例東北)
馳浩(3回・参院1回、石川1区 松島みどり(3回、東京14区 松野博一(3回、千葉3区 三ッ林隆志(3回、埼玉14区
山本明彦(3回、愛知15区 吉野正芳(3回、福島5区 奥野信亮(2回、奈良3区 佐藤錬(2回、比例九州)
柴山昌彦(2回、埼玉8区 鈴木淳司(2回、愛知7区 谷川弥一(2回、長崎3区 中山泰秀(2回、大阪4区
並木正芳(2回、比例北関東) 西村明宏(2回、宮城3区 西村康稔(2回、兵庫9区 萩生田光一(2回、東京24区
早川忠孝(2回、埼玉4区 宮下一郎(2回、長野5区 赤池誠章(1回、比例南関東) 新井悦二(1回、埼玉11区
稲田朋美(1回、福井1区 大塚拓 (1回、比例東京) 岡部英明(比例北関東) 小川友一(1回、東京21区
越智隆雄(1回、東京6区 亀岡偉民(1回、福島1区 北村茂男(1回、石川3区 木挽司(1回、兵庫6区
関芳弘(1回、兵庫3区 杉田元司(1回、比例東海) 高鳥修一(1回、比例北陸信越) 土井亨(1回、宮城1区
中根一幸(1回、比例北関東) 松本文明(1回、東京7区

(計62名)

[編集] 参議院議員

南野知惠子(3回、比例区) 山崎正昭(3回、福井県 鈴木政二(3回、愛知県 世耕弘成(3回、和歌山県
谷川秀善(3回、大阪府 橋本聖子(3回、比例区) 松村龍二(3回、福井県 山本一太(3回、群馬県
岩城光英(2回、福島県 若林正俊(2回・衆院3回、長野県 伊達忠一(2回、北海道 礒崎陽輔(1回、大分県
岡田直樹(1回、石川県 神取忍(1回、比例区) 岸信夫(1回、山口県 北川イッセイ(1回、大阪府
末松信介(1回、兵庫県 中川雅治(1回、東京都 中山恭子(1回、比例区) 中村博彦(1回、比例区)
西田昌司(1回、京都府 古川俊治(1回、埼玉県 丸川珠代(1回、東京都 森雅子(1回、福島県
山谷えり子(1回・衆院1回、比例区) 山本順三(1回、愛媛県 義家弘介(1回、比例区)

(計27名)

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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