元帝 (東晋)

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元帝 司馬睿
東晋
初代皇帝
王朝 東晋
在位期間 318年 - 322年
都城 建康
姓・諱 司馬睿
景文
諡号 元皇帝
廟号 中宗
生年 咸寧2年(276年
没年 永昌元年閏11月10日
323年1月3日
司馬覲
夏侯光姫
陵墓 建平陵
年号 建武 : 317年 - 318年
大興 : 318年 - 321年
永昌 : 322年

元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝。宣帝司馬懿の曾孫、瑯邪武王司馬伷の孫に当たる。また、母方を通して、夏侯淵の玄孫でもある。

生涯[編集]

河内郡温県の人。西晋の瑯邪恭王司馬覲の子として洛陽に生まれる。生母は夏侯光姫(字は銅環、夏侯威の孫)。弟に東安王司馬渾がいる。15歳で琅邪王に封じられる。建武元年(304年)、当時権勢を誇っていた成都王司馬穎の討伐に参戦するが失敗、保身のために都洛陽を離れて封国の琅邪に戻った。途中、黄河の渡し場を渡るときに見とがめられて留置されそうになった。司馬穎が一族を手元にとどめて監視し、地方に自由に去ることを禁じていたからである。そこに遅れてやってきた従者が追いついて司馬睿の背中を鞭でこづきながら「貴様もいつの間にか人に疑われるほど偉い者になったものだな。早く行け」と言ってそのまま押し通った[1]

司馬穎が東海王司馬越に殺害された直後に、司馬越により永嘉元年(307年)に安東将軍・都督揚州諸軍事に任ぜられる。その頃朝廷の衰退を予測した近侍の王導の献策に従い、建業に赴く。その際に賢人を厚くもてなし江東をよく平定したといわれている。

永嘉5年(311年)、懐帝匈奴系であるの捕虜となり平陽に連れ去られ、跡を継いだ愍帝が即位すると、丞相・大都督中外諸軍事となり政務・軍事の全てを取り仕切るようになる。

建興4年(316年)、漢の劉聡による侵攻を受け、愍帝が捕らえられて西晋が完全に滅亡すると(永嘉の乱)、当時安東将軍として建業に在していた司馬睿は、江南の貴族や豪族たちの支持を得て、晋室最後の生き残りとして皇帝に即位した[注釈 1]。これが、東晋元帝である。

しかし亡命政権である東晋の皇帝権力は微弱であり、司馬睿と同じ西晋の皇族である南陽王司馬保は司馬睿に従わず、勝手に晋王を僭称した。また、元帝のもとで宰相となった王導、そしてその従兄に当たる王敦らに軍権を牛耳られることとなった。当時の評語「王と馬と天下を共にす」は、東晋における琅邪王氏の権勢を物語っている。このため元帝は、腹心である前漢の末裔である劉隗刁協を要職に就けて、琅邪王氏の権力を徐々に排除しようと画策した。だが、永昌元年(322年)に逆に王敦に反乱を起こされ、前述のの刁協や、ほかにも重臣であった戴淵周顗らを殺害され、劉隗は北方の後趙に逃亡してしまった。しかし王敦にも東晋を滅ぼすまでの力は無く、同年のうちに王敦の軍権を認めるという条件で元帝と和睦した。

それからほどなくして、48歳で崩御した。

出生に関する異説[編集]

北斉で編纂された『魏書』は、北斉が北方の王朝であることから江南の東晋の正統性を認めておらず、の司馬睿(司馬「叡」表記)で呼んでいる。また、牛金の隠し子と主張している[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 厳密には、当時、琅邪王・司馬睿の他にも、南陽王・司馬保、譙王・司馬承、西陽王・司馬羕ら幾人の晋宗室王は健在であり、また晋宗室王の何人かは混乱の中で司馬睿と共に長江を渡り東晋建立に尽力しており(五馬渡江)、東晋の時代も引き続き王室の一角を支えている。

引用元[編集]

  1. ^ 宮崎市定 『大唐帝国 中国の中世中公文庫 ISBN 4122015464、144p
  2. ^ 晋書』元帝本紀が引く「玄石図」という石の表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という文章が記されていた。そのため曾祖父の司馬懿は牛氏(牛金のこと)を深く恨み、毒酒を飲ませて殺害した、という内容である。さらに、母の夏侯光姫は「小役人の牛氏(牛金とは別人。孫盛『晋陽秋』によれば、名は牛欽)と密通して、東晋の初代皇帝になる司馬睿を生んだ」とされる逸話がある。引き続き 『晋書』以前の『魏書』(北魏書)にある「僭晋司馬叡伝」に「司馬睿は夏侯光姫と晋将・牛金が姦通して生まれた子である」という記録が残っているとされるが、時代が合致しない。牛金が司馬懿に毒殺されたことも、元帝が牛氏の血筋を引く確証性は乏しく、元帝自身が牛金の隠し子とする逸話の真偽の程は不明。

宗室[編集]

子女[編集]