元帝 (東晋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
元帝 司馬睿
東晋
初皇帝
王朝 東晋
在位期間 318年 - 322年
姓・諱 司馬睿
景文
諡号 元皇帝
廟号 中宗
生年 276年
没年 322年
瑯邪恭王・司馬覲
夏侯光姫
年号 建武317年 - 318年
大興318年 - 321年
永昌322年 - 323年

元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝河内郡温県の人。司馬懿の曾孫に当たる。祖父は瑯邪武王司馬伷、父は瑯邪恭王司馬覲。生母は夏侯光姫(字は銅環、魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安王司馬渾がいる。

目次

生涯 [編集]

15歳で西晋の琅邪王に封じられる。304年、当時権勢を誇っていた成都王司馬穎の討伐に参戦するが失敗、保身のために洛陽を離れ琅邪に戻った。

司馬穎が司馬越により殺害された直後に、司馬越により307年に安東将軍・都督揚州諸軍事となる。その頃西晋の衰退を予測した近侍の王導の献策に従い、建業に赴く。その際、賢人を厚くもてなし江東をよく平定したといわれている。

311年懐帝の捕虜となり平陽に連れ去られ、跡を継いだ愍帝が即位すると、丞相・大都督中外諸軍事となり政務・軍事の全てを取り仕切るようになる。

316年匈奴系である趙漢劉聡による侵攻を受け、愍帝が捕らえられて西晋が完全に滅亡すると(永嘉の乱)、当時、安東将軍として建業に在していた司馬睿は、江南の貴族や豪族たちの支持を得て、晋皇室最後の生き残りとして東晋を建国し、その初代皇帝として即位した。これが、元帝である。

しかし亡命政権である東晋の皇帝権力は微弱であり、元帝のもとで宰相となった王導、そしてその従兄に当たる王敦らに軍権を牛耳られることとなった。当時の評語「王と馬と天下を共にす」は、東晋における琅邪王氏の権勢を物語っている。このため元帝は、腹心である前漢の末裔である劉隗刁協を要職に就けて、琅邪王氏の権力を徐々に排除しようと画策した。だが、322年逆に王敦に反乱を起こされ、刁協と重臣であった戴淵らを殺害され、劉隗は匈奴系の石趙に逃亡してしまった。しかし王敦にも東晋を滅ぼすまでの力は無く、同年のうちに王敦の軍権を認めるという条件で元帝と和睦する。

それからほどなくして、元帝は48歳で病死した。

異説 [編集]

北斉で編纂された『魏書』は、東晋の正統性を認めておらず、の司馬睿(司馬「叡」表記)で呼んでいる。また、牛金の隠し子と主張している[1]

脚注 [編集]

注釈 [編集]

引用元 [編集]

  1. ^ 晋書』元帝本紀が引く「玄石図」という石の表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という文章が記されていた。そのため司馬懿(司馬睿の曾祖父)は牛氏(牛金のこと)を深く恨み、牛金に毒酒を飲ませて殺害した、という内容である。さらに、司馬懿の曾孫の司馬覲の妃の夏侯光姫は「小役人の牛氏(牛金とは別人。孫盛『晋陽秋』によれば、名は牛欽)と密通して、東晋の初代皇帝になる司馬睿を生んだ」とされる逸話がある。引き続き 『晋書』以前の『魏書』(北魏書)にある「僭晋司馬叡伝」に「司馬睿は夏侯光姫と晋将・牛金が姦通して生まれた子である」という記録が残っているとされるが、時代が合致しない。牛金が司馬懿に毒殺されたことも、東晋の初代皇帝の元帝が牛氏の血筋を引く確証性は乏しく、司馬睿自身が牛金の隠し子とする逸話は真偽の程は不明。

宗室 [編集]

子女 [編集]

関連項目 [編集]