オイルショック
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オイルショックは、1970年代に二度あった、原油の供給逼迫および価格高騰と、それに伴う経済混乱のことを指す。石油危機、石油ショック、オイルクライシス(oil crisis)とも称される。英語圏では、禁輸措置に力点を置いて"oil embargo"と呼ばれることもある。
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[編集] 第一次オイルショック
[編集] 発生
1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これをうけ10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げることを発表、翌日10月17日には、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、原油生産の段階的削減を決定した。またアラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国は10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(アメリカやオランダなど)への石油禁輸を相次いで決定した。さらに12月23日には、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、1974年1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げる、と決定した。
[編集] 対策
当時の日本は中東の政治に深く関わってはおらず、イスラエルを直接支援したこともなく、中立の立場であった。しかし、最大のイスラエル支援国家であるアメリカ合衆国と強固な同盟関係にあった日本では、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、急遽三木武夫副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外すように交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。
さらに石油価格の上昇は、エネルギーを中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かした。日本でも、ニクソン・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃。前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレが発生していたが、オイルショックにより相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレが加速されることとなった。国内の消費者物価指数で1974年は23%上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれた。インフレ抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資などを抑制する政策がとられた。結果1974年は-1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。
[編集] 影響
1973年(昭和48年)11月16日 石油緊急対策要綱を閣議決定、「総需要抑制策」が執られる。結果、日本国内の消費は低迷し、大型公共事業が凍結・縮小された。
- トイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動(トイレットペーパー騒動)、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生した。
- 競争力を失った「構造不況業種」を縮小させ、成長分野に資源を振り向ける「積極的調整政策」。素材産業の不振、加工組立産業の成長。
- 雇用調整(新規採用の停止、残業時間の短縮など)
- テレビの深夜放送の休止。特にNHKは教育、総合両方ともに23時以降の放送を休止と日中(総合ではUHFテレビ試験放送を含め月~金曜日の15時~16時台前半。なお、国会中継や高校野球中継が行われた場合は休止時間帯でも放送されていた。教育では14時30分~17時30分の内1~3時間)の放送休止。(その当時のNHKにおける休止アナウンスの録音)なお、民放5社が深夜放送の自粛を決定したのは、1973年12月14日。
- 紙資源の不足から、週刊誌や漫画雑誌の頁数が軒並み削減され、小冊子程度の枚数となる。
- 優良企業の銀行離れが進む。間接金融から直接金融(株式発行など)、内部資金依存へ
また、省エネルギー対策の一環として深夜の電力消費を抑制しようと、前述の深夜放送休止のほか、ネオンサインの早期消灯やガソリンスタンドの日曜休業などの処置が取られた。
日本の国産旅客機YS-11の生産中止はオイルショックの影響だと一部で語られることがある。確かにYS-11の生産中止の時期は第一次オイルショックと重なるが、すでに、1970年末の政府決定により生産が中止されていたので、これは誤りである(正確には約20機分の追加生産用の資材調達が中止になった)。
他に、本州四国連絡橋3ルートの着工延期の指示が下った。起工式5日前の事であった。その後、計画された3ルートのうち、1ルート(瀬戸大橋)のみ、着工が1975年に決定した。
[編集] 第二次オイルショック
1979年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定し、原油価格が上昇(余談だが、4段階目の値上げについては総会で合意が形成できなかった)。第一次オイルショック並に原油価格が高騰した。
しかし、第一次での学習効果、省エネルギー政策の浸透(深夜のテレビ番組放送の自粛や、第一次同様のガソリンスタンドの日曜祝日休業などが行われた)、企業の合理化効果などにより、日本経済に対する影響は第一次オイルショックほどひどいものにはならなかった。また第一次の頃ほど値上げは長引かず、イランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。
[編集] オイルショックの与えた影響
先進国の経済が中東の石油に極端に依存していることが明白となった。中東以外での新しい油田開発、調査が積極的に行われるようになった。原子力や風力、太陽光など非石油エネルギーの活用の模索、また省エネルギー技術の研究開発への促進の契機ともなった。石油の備蓄体制を強化することも行われた。また、モータリゼーションの進展により自動車の燃料消費が石油消費に高比率を占めていたことから、鉄道をはじめとする公共交通機関を再評価する動きが出た。
フランスのジスカール・デスタン大統領の発案により、1975年に第一次オイルショック以降の経済の回復を主たる議題とした第1回先進6カ国首脳会議(サミット)がフランスのランブイエ城で開催された。
インフレ傾向を強めていた先進国経済は、オイルショックによりスタグフレーションに突入。1971年のニクソン・ショックと合わさり戦後世界経済の成長体制は破壊された。工業化による投資で対外債務を膨張させていた南米やアフリカなどの開発途上国は石油輸入コストの急上昇で債務返済を遅延することとなり、国際金融問題となった。
石油輸出国は、輸出価格の急騰により政治・経済両面でのパワーを持つこととなった。輸出対価として得たドル(オイルダラー)は世界金融市場の中で存在感を強めた。湾岸諸国は莫大な歳出が可能となり、福祉の充実を達成した。
[編集] 第三次オイルショック
などの理由により、2004年頃から2008年秋頃にかけて、(目立った供給減少を伴わない)原油価格の高騰が続いた。これを第三次石油危機などと呼ぶものもいる[1]。2008年2月にはニューヨークの商業取引所の原油先物市場で1バレル=100米ドルを突破した。
その中で最も大きな理由と指摘されているのは、余剰マネーとしての投機的資金が原油の「現物」や「先物」を買い占めていることである。世界の金融市場から見ると原油の市場規模は相対的に小さいものだが、そこに住宅サブプライムローン問題に端を発した米国不景気から投機的資金が原油市場に流れ込めば、「先物」としての原油価格が急騰するのも当然のことである。(ただし、本来投機とはリスクをより少なくする目的でおこなうものであり、価格が暴落しているときに買い占め、価格が高騰してるときに売り払うことが多い)
事実、原油先物相場が史上最高値を更新し続けているなど原油価格高騰を受けて、石油が関係している製品の値上げも相次ぎ、昨今のサブプライムローン問題などにより、さらなる原油価格高騰および値上げ幅の上昇を招いていた。
その後、サブプライム問題が世界的な景気の後退を引き起こし余剰マネー自体が乏しくなるに至り、2008年9月下旬頃よりわずか2ヶ月で原油価格は半分程度にまで大きく落ち込むこととなった。
それでも2009年現在、ガソリンスタンドや灯油の販売業者等の小売価格水準が第三次オイルショック以前よりも高騰しているのが現状であり、一部の老齢世帯・低年収世帯等は冬場になってもストーブの利用を控えたり、車による外出の制限、航空機を利用する際の価格高騰など、依然影響が強く続いているのが現状である。
[編集] 出典
[編集] 関連項目
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