アメリカ合衆国の経済史
アメリカ合衆国の経済史(アメリカがっしゅうこくのけいざいし)では、主に17世紀にヨーロッパ人が現在のアメリカ合衆国となった地域に入ってきてからの経済の歴史を概説する。アメリカにできた植民地は初めのうちなんとか成長して13の小さな独立した農業経済を持つものとなり、これらが1776年に合同してアメリカ合衆国となった。その後の230年間でアメリカ合衆国は巨大で統合され工業化された経済に成長し、世界経済の4分の1以上を占めるものとなった。その要因の主要なものとして、大きく統一された市場、成長を支援する政治と法律の仕組み、高度に生産的な広大な農地、莫大な資源(特に木材、石炭および石油)および物資や人的資源において創業家精神と投資への関わりが挙げられる。その経済は高い賃金を保ち、世界中から数多い移民を惹き付けた。技術と製造の発展が大きな役割を果たした。
[編集] 植民前史
アメリカ州の先住民族は、ヨーロッパ人が到着するまでアメリカ州以外との接触がほとんど無く、種族の間で交易がある程度だった。その経済の仕組みは、イロコイ連邦の場合など狩猟採集と農業の様々な組合せだった。農産物としては既にトウモロコシが広く栽培されていた[1]先住民族の経済はヨーロッパ人の到来とその結果として疫病が入り、ヨーロッパ製品の流入、毛皮貿易に関連したヨーロッパ人との交易関係、武器の獲得と戦争への関与、土地の喪失および居留地での拘束というように大きく変えられていった[2]。
1492年、クリストファー・コロンブスがスペイン国旗の下でアジア発見のために出航して、たまたま「新世界」に到着した。続く100年間、イギリス人、スペイン人、ポルトガル人、オランダ人およびフランス人探検家がヨーロッパから新世界に航海し、金、富、宗教的利益、名誉および栄光を探った。しかし、北アメリカの荒野は初期探検家達にほとんど栄光をもたらさず、金もあまり見つからなかったので、大半はここに居住することが無かった。北アメリカに定着するための人々がやって来たのはだいぶ遅くなった。1565年に現在のアメリカ合衆国内となるフロリダ州セントオーガスティンにスペインの植民地が造られ、その後の1607年、バージニア州ジェームズタウンに、小さな一団の開拓者がイギリスの恒久的開拓地を建設した。
[編集] 植民時代
初期の開拓地は簡単には自立できなかった。ジェームズタウンの場合、最初に到着した者の半数は病気と飢えのために最初の冬を越せなかった。その後も少なくとも3年間は本国からの補給に頼る状態が続き、放棄寸前までいった。1520年にニューイングランドに作られたプリマス植民地にしても、最初の冬を越すことが大変だったのは同様であり、その中で先住民族との関係を築き、トウモロコシの栽培方法などを習って飢えを凌ぐ途を探った。どちらの植民地もイギリス本国には植民地から上がる収益を期待して投資した者達の存在があり、その見返りになるものはなかなか見つからなかった。そうした中でジェームズタウンでは、ジョン・ロルフが西インド諸島から持ち込んだタバコの栽培に成功した。これがイギリスにむけて出荷されて評判を呼び、換金作物の目処が着いた。
初期開拓者は様々な理由でアメリカに来ていた。マサチューセッツ湾植民地のピューリタンはニューイングランドで浄化された宗教を生み出そうと望んだ。バージニア植民地のような他の植民地は主に事業創造として植民地を建設した。アメリカ合衆国となった地域にイギリスが植民地化して成功したことには、特許会社を使ったことが大きく寄与した。特許会社は一群の株主(通常は商人と裕福な土地所有者)が個人的経済利益を追求し、恐らくはイギリスの国としての目標にも適うことを欲して作ったものだった。民間部門が会社の財政を担い、国王がそれぞれの計画に経済的な権利と政治・司法の権限を与える特許あるいは認可を発行した。しかし、植民地は概して直ぐには利益を生まなかったので、イギリス人投資家達はしばしばその植民地特許を開拓者達に渡した。当時は認識されていなかったものの、この政治的意味合いは大きなものだった。植民地の者達は自分達で生計を立て、自分達の社会を作り、つまりは自分達の経済の仕組みを作っていくままに任された。
初期植民地で成功したのは毛皮用動物の捕獲と交易から得られたものだった。しかし植民地全体では主に小さな農園で自給自足で暮らす者が多かった。数少ない都市やサウスカロライナおよびバージニアの大規模プランテーションの中では、幾つかの生活必需品や事実上贅沢品の全てがタバコ、米およびアイのような輸出品との見返りに輸入された[3]。
このような中で後のニューヨークが発展を始めた。当初、オランダ人がマンハッタン島に交易所を作り、1625年にニューアムステルダムと呼び始めた貿易の中継点だったが、イギリスが1664年に占領して、ニューヨークと改名した。天然の良港とハドソン川水系を抱えたこの地域は、内陸でビーバーの毛皮とヨーロッパ製品を交換して運び出し、大西洋貿易に船積みすることで発展して、1660年頃の人口1,000人が1690年には6,000人、独立後の1790年には3万人を越えるまでになっていった[4]。
開拓地を開いていくためには、労働力が必要だった。初期にはかなりの数のヨーロッパ人が年季奉公として連れてこられた。年季奉公から人種を区別した奴隷制への移行は徐々に進んだ。アフリカからの奴隷輸入は18世紀に入って急増し、1720年のサウスカロライナ植民地では人口の65%が奴隷だった[5]。ロードアイランド植民地のニューポートは奴隷貿易(三角貿易)の上で重要な港となった。
[編集] 独立へ
植民地が成長するにつれて補助的な製造業が発展した。特化された製材所や製粉所の様々な形が出現した。開拓者達は漁業船隊を作るための造船所を作り、時には貿易用船舶を造った。また、小さな鉄鋳造場も作った。18世紀までに、地域による発展の方向性が明白になった。ニューイングランドの植民地は造船や船舶の運用による貿易、捕鯨を初めとする漁業に依存して富を作るようになった。メリーランド、バージニアおよび両カロライナのプランテーション(多くは奴隷を労働力に使った)はタバコ、米およびアイを育てた。中間にあるニューヨーク、ペンシルベニア、ニュージャージーおよびデラウェアは一般の穀物や毛皮を輸出した。奴隷は例外として一般的生活水準は高く、実際にイギリスのものよりも高かった。イギリス人投資家達が撤退したので、植民地の人々の中にいる起業家に可能性が開けた。
1770年までに、アメリカの植民地はイングランド王ジェームズ1世(在位1603年-1625年)の時代以来、イギリスの政治に支配的だった勃興する自治の動きの一部となるために経済的にも政治的にも準備が出来上がった。イギリスとの間で税金やその他の事項に関する論争が起こった。フランスとの長い戦争で経済的にも疲弊したイギリスは、重商主義を推し進める対象としてアメリカ植民地に自国製品やイギリス東インド会社が輸入した茶などを押し付けようとした。このためにアメリカでは一つの産業にもなっていた密貿易を取り締まったり、高い関税を押し付けて自国商品のみが売れるようにしたうえに、印紙法などを制定して課税強化を図った。13植民地のアメリカ人はイギリス人としての権利を要求し、代表なくして課税なしという立場を採ったが、イギリスはこれを否定した。アメリカ人はイギリス製品のボイコット運動を起こし、イギリス商船に積まれていた茶を投棄する事件まで起こした(ボストン茶会事件)。この紛争がアメリカの独立に繋がり、イギリスとの全面戦争となり、遂には新しいアメリカ合衆国として政治的独立と主権を確保した。
17世紀や18世紀のイギリスの政治的動揺に似て、アメリカ合衆国の独立革命(1775年-1783年)は「生命、自由および財産に関する不可分の権利」をスローガンに戴いた中産階級の勃興によって政治的にも経済的にも支えられた。この言葉はイギリスの哲学者ジョン・ロック『市民政府二論』(1690年)から援用されたものだった。イギリスと政治の世界で分離することは植民地人多数の当初目標ではなかったかもしれないが、独立と主権国家すなわちアメリカ合衆国が最終的結果になった。それは成長の時代だった。
独立戦争を担った大陸軍兵士への給与、食料、防備、兵装、兵器やその他の装備に対する財政的な責任は、各邦にその調達ともども割り当てられた。各邦はこの義務を果たすやり方が異なっていた。戦争中は財政を保つことや兵士の士気を保つことが常に問題であった。この時点ではまだ13植民地がそれぞれ独立した邦という色彩が強く、1781年3月1日から大陸会議を引き継いだ連合会議でも、課税権を持たず、対外通商および諸邦間の通商を規制する権限、常備軍を保持する権限もなかった。また各邦からの拠出金によって運営されていたために、連合規約の時期のアメリカ合衆国の財政基盤は脆弱なものであった。輸入税が独自の歳入源として挙げられたが、それを実現するための各州の賛成は得られなかった。このような時期にロバート・モリスが財政最高責任者となり、1782年に合衆国に設立許可された最初の金融機関、バンク・オブ・ノースアメリカを創設した。モリスは歳出を減らす幾つかの改革を行い、競争入札の利用、出金手続の締め付け、および連邦政府が各邦と金や物資の負担を分け合うよう要求することで政府の支出を大きく減らした。
執行力の不足した連合会議ではあったが、1785年と1787年に、将来の西部発展の基礎構築にあたって重要な意味を持つ2つの条例を定めることに成功した。1785年の公有地条例は、北西部領土(オハイオ川、五大湖、ミシシッピ川に囲まれた地域)の連邦所有地の測量、分配の方法を定めたものであった。この方式は、後の合衆国憲法下の政府にも引き継がれ、公有地売却という連邦政府の重要な収入源の基礎となった。また1787年の北西部条例は、北西部領土について暫定的な統治方法を定めたものであった。北西部条例では、北西部領土に将来的に3ないし5の準州を組織して、自由人口が6万人に達したときに旧来の邦と対等の資格で連邦に加入できることも定めた。
[編集] 新国家
1787年にアメリカ合衆国憲法が採択され、国全体が一つになり、共通の市場、すなわち州間の交易には国内の関税や税金が無くなった。それでも1790年に行われた第1回国勢調査[6]では、総人口393万人(2005年の静岡県より少し多いだけ)、ニューヨーク市の33,000人が最大で、1万人以上の都市は5つしかなかった。広大な土地にこの人口では経済的にヨーロッパ列強に太刀打ちできる状態ではなかった[7]。アレクサンダー・ハミルトンは初代財務長官としてたいへん広い見解を持っており、連邦政府の権限がおよぶ範囲が大いに議論された。ハミルトンは富裕で政治に関心のある階級(政府を健全な状態に保つことに関心があった)に保有される国債を元に強い国の信用を造り上げ、また輸入品にかける関税で資金を集めた。ハミルトンは、アメリカ合衆国が多角的な船舶運用、製造および金融を通じて経済の成長を追求すべきと考えた[8]。政府の支出に資するために保護関税のような手段を提案したが、ウィスキーに掛かる税金には西部(この時代は現在の東海岸の西部山岳地)の農夫達が強く反発した(ウィスキー税反乱)。1791年には議会に働きかけて第一合衆国銀行を創設する認証を得た。その公認期間は1811年まで続いた[9]。
トーマス・ジェファーソンとジェームズ・マディスンは強い中央政府に反対した(その結果ハミルトンの経済政策大半に反対した)が、ワシントン政権で広大な権限と強い政治力を発揮するハミルトンを止めることはできなかった。しかし、1801年、ジェファーソンが大統領になり、ジェファーソン流民主主義と呼ばれるより分散的で農本的な民主主義を推進するように変わった(ジェファーソンは政治と経済の専政から庶民を守ることをその哲学とした。特に小農を「最も価値ある市民」と称賛した)。おりからのイギリスとフランスの対立に乗じて、戦争をしている両大国に食料や原材料を輸出し、国内市場とカリブ海の植民地の間で商品を輸送することから利益を生み出そうとした。マディスンはジェファーソンの後を受けて大統領となり、合衆国銀行の公認が1811年に消滅するままにさせたが、アメリカの海運に対するイギリスの干渉が続いていたことなどに端を発した米英戦争が国定銀行の必要性を証明することになり、その立場を変えた。第二合衆国銀行は1816年に、20年間の公認期間で創設された[10]。
[編集] 拡張と成長
1803年のルイジアナ買収により、西部の農夫達はミシシッピ川を重要な水路として使うことが可能となり、合衆国の西部辺境からフランス人を追い出すことで開拓者は広大な農地の拡張が可能となった。グレートプレーンズを抱えるこの地域はアメリカはもとより世界の大穀倉地帯に成長していった。
綿花は当初南部での小規模作物だったが、イーライ・ホイットニーが1793年に綿花原料から種とその他の廃棄物を分ける機械であるコットン・ジンを発明した事によって盛況となった。間もなく奴隷労働に基づく大規模プランテーションが両カロライナ州からテキサス州にかけての肥沃な土地に拡がった[11] 。
毛皮貿易で一大資産を築いたアメリカ毛皮会社の所有者ジョン・ジェイコブ・アスターは、その事業から撤退した後に、ニューヨーク市のマンハッタン地区を買占めて開発し、アメリカ合衆国では最初の大富豪になった。
1807年、ロバート・フルトンがハドソン川で外輪蒸気船クラーモント号を試運転して、オールバニまで遡った。これが蒸気船の実用化に拍車を駆けて、水上交通に急速に普及していった。1818年には帆船によるニューヨーク・リヴァプール間の大西洋定期航路が開かれ、1838年からは蒸気船も加わり、1848年から蒸気船による定期航路も開かれ[12]て、ヨーロッパへの往来が速くなり、安全性も増した。
多くの者がアメリカ合衆国中西部のより肥沃な農地に移って行った。カンバーランド・パイク(1818年)やエリー運河(1825年)など政府が創設した道路や水路によって新しい開拓者の西部への移住を促し、西部農場の産品を市場に送ることが可能になった。ヘンリー・クレイのアメリカ・システムを支持したホイッグ党は内陸の改良(道路、運河、港)、産業の保護、および強い国定銀行の創設を提案した。しかし、ホイッグ党の法制化計画は民主党に遮られた。
この時代のアメリカは保護貿易政策を強化し、国内産業の育成を進めた。1824年関税法は商品の価格に応じて35%という高い関税率を定めた。1828年関税法では鉄などの原材料の課税額を重くした。しかし、農業産品の輸出に頼っていたサウスカロライナ州など南部は、輸出ができなくなると反発し、1832年関税法でもその状況が改善されなかったために、サウスカロライナ州ではこれらの関税が州内では無効となることを宣言した。無効化の危機と呼ばれるこの紛争は、後の南北戦争の伏線となった。
アンドリュー・ジャクソン大統領(在位1829年-1837年)は、政敵の固定化した利益のためになると信じた第二合衆国銀行に反対した。ジャクソンは2期目に選ばれたときに合衆国銀行公認期間の延長に反対し、議会もこれを支持した。ジャクソンは紙幣の流通にも反対し、政府の得るべき金は金貨と銀貨で支払われるべきと要求した。1837年恐慌[6]が3年間経済の成長を止めた[13]。
鉄道は財務と進歩した管理技術を持つ都市工業国家への転換を可能にすることで、アメリカ経済に決定的な影響を与えた。鉄道が「不可欠な」ものであるかどうかを問われたとき、全ての人は事実上大変重要であることに同意したが、それではそれが無かったときどうだったろうか?ロバート・フォーゲルは代案は存在した、実現されることの無かった運河の仮想のネットワークであるとしている。存在しなかった運河と比較して、鉄道は合衆国の国内総生産 (GDP) に5%を追加しただけだと、フォーゲルは主張している(1820年代と1830年代に多くの運河が建設されたが、エリー運河は別として大半が破産した)。プラス面を見ると、鉄道は大規模な事業を運営する現代的手法を発明させ、全ての大企業が基本的に従う青写真を創出した。鉄道は最初に、管理の複雑さ、労働組合問題および競合の問題に遭遇した。これら急激な革新のために鉄道は最初の大企業となった[14]。
何度か恐慌や不況を経験しながらも[15]、19世紀中の急速なアメリカ経済の成長は留まらなかった。長期にわたる人口の増大、新しい農地への拡張および新しい工場の建設が続いた。新しい発明や資本の投入によって新しい製造業を創出し経済成長をもたらした。輸送力が改善されると常に新しい市場が開けた。蒸気船は川の交通を速く安くしたが、鉄道の発展はもっと大きな効果があり、広大な新しい領土を開発することを可能にした。運河や道路のように鉄道は初期の建設段階で土地の払い下げという形で政府の大きな援助を受けた。しかし、他の輸送形態とは異なり、鉄道は国内やヨーロッパの民間資本も大量に受け入れた[16]。
それでも成長の展望と海外投資が組み合わさり、金鉱の発見やアメリカの公的および民間の富が大きく関与したこともあって、大規模な鉄道システムを発展させることが可能になり、国全体の工業化の基礎となった。
詳細は「アメリカ合衆国の鉄道」を参照
| 1850年 | 1860年 | 1870年 | 1880年 | 1890年 | |
|---|---|---|---|---|---|
| ニューイングランド | 4,011 | 5,856 | 7,190 | 9,571 | 10,930 |
| 大西洋岸中部 | 5,123 | 10,728 | 17,542 | 25,395 | 34,458 |
| 南部州 | 3,258 | 14,141 | 17,907 | 23,645 | 46,734 |
| 西部州と準州 | 2,042 | 18,240 | 39,339 | 84,142 | 99,830 |
| 太平洋岸州と準州 | 37 | 2,683 | 6,528 | 15,686 | |
| 合衆国合計 | 14,434 | 49,002 | 84,662 | 149,282 | 207,638 |
| SOURCE: Chauncey M. Depew (ed.), One Hundred Years of American Commerce 1795–1895 p 111 | |||||
産業革命は18世紀遅くに北ヨーロッパで始まり、19世紀初期にはアメリカで急速に広まった。例えば紡績機など工場生産を行うための機械は元々イギリスを始めヨーロッパで製作されたが、アメリカはこれを自国で生産できるように模倣と工夫を重ね、機械を作るための工作機械を持つ工場も現れた。1840年代後半にリボルバー拳銃を大量生産して富を築いたサミュエル・コルトは、1830年代に既に武器なればこそ必要とされる互換性のある部品という概念を持って製造を始めていた。製造ライン、大量生産の原型が既にこの時代に誕生していた。またコルトは特許権を事業にした者としても先駆的存在だった。
1846年のオレゴン条約でイギリスとの境界問題を片付け、翌年、米墨戦争に勝利したアメリカは、太平洋岸の出口をしっかりと確保した。カリフォルニアやコロラドでの金鉱発見が続き、西部は東部からの移住者で人口が急増し発展を始めた。以前から大西洋で盛んだった捕鯨が北太平洋での新たな産業になった。おりから清国との貿易を求めていたアメリカは途中にある日本に薪、水、食料の補給拠点を求めた。1853年、マシュー・ペリーの率いる黒船船隊が浦賀沖に現れ、翌年の日米和親条約で日本は開国した。
エイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれた1860年までに、アメリカの人口の16%は2,500人以上が居住する都市に住み、国の歳入の3分の1は製造業から上がった。都市型製造業は主に合衆国北東部に限られていた。綿布製品が主導的製造業であり、靴、毛織物および機械類も拡大した。多くの新しい労働者が移民してきた。1845年から1855年の間に毎年30万人ほどのヨーロッパ人が移民してきた。その大半は貧しく東部の都市に留まり、そのまた多くは到着した港湾市にとどまった[17]。
[編集] 南北戦争とレコンストラクション: 1860年代
詳細は「南北戦争の原因」を参照
北部が人口と製造業で急速に拡大していたのに対し、南部は田園地帯のままであり、資本や工業製品は北部に依存していた。奴隷を含む南部経済の利益は南部が連邦政府を支配する限りにおいてのみ政治力で保護されていた。しかし、人口の少ない南部が合衆国全体をリードしていくには限界があった。1856年に結党された共和党は工業化された北部を代表した。1860年、共和党とその大統領候補エイブラハム・リンカーンは奴隷制の拡大を終わらせ、その代わりに工業、商業および事業の拡大を要求した。1861年には保護関税の採用をうまく取り付けた。1862年、最初の大陸横断鉄道が認可された(1869年開通)。1863年、南北戦争の戦費を賄うために国定銀行制度が設立された。どの都市にも「第一ナショナル銀行」が設立され、その多くは現在も残っている[18]。
北部が南部に比べて工業が進歩していたことは南北戦争(1861年-1865年)での北部勝利を確保させたと見られている。北部の勝利で国の運命とその経済システムを封印した。奴隷労働の仕組みは廃止された。綿花の世界市場価格は急落し南部の大規模プランテーションは利益を生まないものになった。綿花1ポンドの価格は南北戦争終戦時の1ドルから、1870年代平均の20セント、1880年代の9セント、1890年代の7セントと急落していった[19]。1898年までに、1ポンド当たり5セントまで落ち込み、綿花を生産するコストは1ポンド当たり7セントだった[20]。北部の工業は南北戦争の前やその間も急速に拡大し急増した。工業資本家達は社会的および政治的事情を含み国民生活の多くの面を支配するようになった[21]。
南部の荒廃は膨大であり貧窮が続いた。白人の収入は下落したが元奴隷の収入は上がった。レコンストラクションの間、鉄道建設が大いに奨励された(多くが破産もした)が、南部は綿花への依存が続いた。元奴隷は賃労働者、小作人あるいは分益小作人になった。これには多くの貧乏白人も加わり、経済よりも人口の方が速く成長した。1940年代までは、重要な製造業と言えば両カロライナ州の繊維工場とアラバマ州の幾つかの製鉄業ぐらいだった[22]。
共和党急進派のレコンストラクション政策は、自由黒人(解放奴隷) やスキャラワグ(Scalawag, 南部の再編入を支持した南部白人) 、カーペットバッガー(Carpetbagger, 南北戦争後に南部にやってきた北部人) らが連携し主導権を持つ州で持続し、鉄道や公立学校の建設を通じた南部の産業・社会の再建と近代化を進展した。しかし彼らは1870年以後、保守的な民主党の派閥で自らをリディーマー(Redeemer, 共和党急進派に対する反動として北部に対抗した保守的な南部人) と呼ぶ反対勢力によって各州の政権を奪われることになった。
[編集] 金ぴか時代: 1865年-1900年
詳細は「金ぴか時代」を参照
南北戦争後の急速な経済成長は現代のアメリカ合衆国産業経済の基盤を造った。1880年代までにアメリカは世界でも最も強力な経済としてイギリスに追いついた[23]。
新しい発見や発明の爆発が起こり、第二次産業革命と呼ばれる大きな変化に繋がった。鉄道は格段に営業キロを延ばし、重い貨車や機関車を造り、低料金でより多くの商品や人を運んだ。冷凍運搬貨車が使われるようになった。電話、蓄音機、タイプライターおよび電灯が発明された。20世紀になるまでに、自動車が馬に曳かせる荷車に置き換わり始めた[24]。1851年に設立されたシンガー社は1867年にはイギリスに工場を建設し、ヨーロッパを市場にした。さらに1880年代までに世界中に支店網を広げて多国籍企業のはしりとなった。他にも機関車のボールドウィン社、タイプライターのレミントン社、電灯のウェスティングハウス社など19世紀中に海外で事業展開する会社が次々と現れた[25]。
これらの成功と並行して国の工業インフラも発展した。石炭はペンシルベニア州から南のケンタッキー州までのアパラチア山脈で豊富に発見された。石油はペンシルベニア州西部で発見された。大規模な鉄鉱山が中西部の北、スペリオル湖地方で開業された。鉄を生産するためのこれら2つの重要な原料が得られる場所では製鉄所が繁栄した。銅と銀の大規模鉱山も開業され、鉛鉱山やセメント工場がその後を追った[26]。
工業が大きくなると大量生産方式が発展した。フレデリック・テイラーは19世紀遅くに科学的管理法を編み出し、様々な労働者の動きを注意深く調べてその仕事をするための新しくより効率的なやり方を提案した。1910年以後大量生産はそれまでの水力に代わって工場の電化によって加速された[27]。
19世紀後半の金ぴか時代は大物実業家の時代でもあった。多くのアメリカ人は巨大な資産帝国を造り上げた実業家を理想化するようになった。その成功は、ジョン・ロックフェラーが石油に対してそうしたように、しばしば新しいサービスや製品に対する長期的潜在力を追求したことによっていた。彼等は激しい競争者であり、資産的な成功と権力を求めることでは直向きだった。ハーバート・スペンサーの社会進化論が時代の潮流となり、南北戦争後に長期間続いた共和党政権は、経済に対して自由放任を貫いたので、カルテルやトラストが強力な利益追求の手段となった。
ロックフェラーやフォード以外にも他の巨人として、鉄道で資産を築いたジェイ・グールド、金融業のJ・P・モルガン、鉄鋼業のアンドリュー・カーネギーがいた。大物実業家の何人かは当時の事業標準に対して正直だった。しかし、他の者は力、賄賂および策略を使ってその富と権力を獲得した。それが良きにつけ悪しきにつけ、事業の利益は政府に少なからぬ影響を及ぼした。モルガンはその私的および事業の生活を大きなスケールで展開した。モルガンとその仲間はギャンブルを行い、ヨットに乗り、贅沢なパーティを開き、宮殿のような家を建てた。モルガンはまた聖公会教会の指導者でもあり、世界でも最大級の美術品コレクターだった。対照的にロックフェラーやフォードのような人々はピューリタン的性格を表した。彼等は小さな町の価値や生活様式を保持した。教会に通う者として他者に責任感を持った。個人の美徳が成功をもたらすと信じた。労働と倹約が信条だった。後のその相続者達はアメリカでも最大の慈善基金を創設した。ヨーロッパの上層知的階級が一般に商業を軽蔑して見たのに対し、大半のアメリカ人はより流動的な階級構造のある社会で生活しており、熱心に資産形成という概念を抱いた。彼等は事業のリスクと興奮を楽しむと共に、事業の成功がもたらす高い生活水準とその結果としてくる権力と称賛という報酬を楽しんだ[28]。
アメリカ合衆国政府は、自由放任とは言いながら、外に対しては産業界を保護するために繰り返し関税率の引き上げを行った。これはアメリカがGNPでイギリスを追い越して世界一となった後も、一時期を例外として第二次世界大戦が終わるまで続けられた[29]。
アメリカの労働運動は1869年の最初の意義有る労働組合であるナイツ・オブ・レイバーで始まった。ナイツは1880年代に潰れ、サミュエル・ゴンパーズの下にアメリカ労働総同盟 (AFL) として束ねられた強力な国際的組合に置き換えられた。AFLは社会主義を拒否し、雇用主達とより高い賃金やより良い労働条件について交渉した。組合の成長は1900年まで鈍かったが、その後第一次世界大戦中にピークを迎えた[30]。
この時代の西部フロンティアは1862年のホームステッド法成立や1869年の大陸横断鉄道開通もあって急速に西に移っていった。ホームステッド法は一定の条件を満たした者に160エーカー(約 65 ヘクタール)の未開墾の土地を無償で払い下げる制度だった。それまでアメリカ合衆国政府は獲得した領土を公有地として民間に売却することで財政を補ってきたが、労働運動の草分け的存在であるジョージ・ヘンリー・エバンス、北部の新聞編集者ホレス・グリーリー等が1840年代から無償化の提案を続けていた。ここへ来て財政的に安定したことや反対していた南部州が脱退したこともあって無償化に踏み切った。東部からの移住者や南北戦争の敗北であぶれた南部の住民が西部に入り、一時は無法化した地域もあった(西部開拓時代)。ホームステッド法は1976年で打ち切られ(アラスカ州のみ1986年まで)この間に払い下げられた土地は160万件、その面積は2億7,000万エーカー(108万平方キロメートル)で、アメリカの国土の10%に達した[31]。1890年には国勢調査局長が、フロンティア・ラインと呼べるものがなくなったことを国勢調査報告書に記載し、フロンティアの消滅が宣言された。歴史家のフレデリック・ターナーは、フロンティアと合衆国の民主主義・国民性を関連づけて論述した(フロンティア学説)。
伝統的な農業を近代化する改革者達は1867年に農民共済組合運動を始めた。連邦政府による土地払い下げによって各州は農業大学を創設し、農夫に近代的技術を実演して見せる農業相談員のネットワークができた。1890年代の小麦や綿花の農夫達はポピュリスト運動を支持したが、銀の自由鋳造やインフレーションの要求は失敗した。その代わりに1896年の選挙では金本位制と息の長い工業化計画を国に認めさせることになった。
[編集] 進歩主義の時代: 1890年-1920年
アメリカ合衆国史の初期段階では、大半の政治指導者は連邦政府が輸送分野を除いて民間部門に深く関わるのを避けてきた。概して自由放任主義の概念を受け入れ、法と秩序を維持すること以外、政府が経済に干渉することに反対することを原理とした。この姿勢は19世紀後半に変わり始め、小企業、農園および労働運動が彼等のために政府による干渉を求めた[32]。
世紀の変わり目までに中産階級が成長し、事業特権階級にもまた中西部や西部における農夫や労働者のやや急進的政治運動に対しても疑念を抱くようになった。進歩主義と呼ばれるこれらの人々は商習慣に対する政府の規制に賛成し、その心の中で競争と自由な創業を確保しようとした。連邦議会は1887年に鉄道を規制する法(州間通商法)を法制化し、また1890年には大会社が単一産業を支配することを妨げる法(シャーマン反トラスト法)を制定した。しかしこれらの法は、共和党のセオドア・ルーズベルト、民主党のウッドロウ・ウィルソン各大統領やその他進歩主義の見解に同調する者達が権力を握った1900年から1920年の間、厳格に執行されたわけではなかった。今日あるアメリカ合衆国の規制機関の多くはこの時代に創設された。例えば州際通商委員会や連邦取引委員会だった。マクレイカー(醜聞を暴く人)は読者に事業の規制を要求させるジャーナリストだった。アプトン・シンクレアの『ザ・ジャングル』(1906年)は1870年代に発展した巨大複合食肉加工場であるシカゴのユニオン・ストック・ヤーズの恐ろしさをアメリカ人に知らせた[33]。連邦政府はシンクレアの本に反応して、新しい規制機関であるアメリカ食品医薬品局を創設し、純正食品・薬物法と牛肉検査法を成立させた。イーダ・M・ターベルはスタンダード・オイルの独占に反対する一連の記事を書いた。このシリーズは独占を崩壊させる道筋を開いた[34]。
民主党のウッドロウ・ウィルソンが1912年に大統領に選ばれ議会も民主党が支配すると、一連の進歩主義施策を採っていった。1913年、アメリカ合衆国憲法修正第16条が批准され、合衆国で所得税が制度化された。ウィルソンは長引いていた関税や反トラストの議論を解決させ、また現在でも財務の世界を支配する事業と政府の協業の仕組み、連邦準備制度を創設した。
1913年、ヘンリー・フォードは流れ作業による組立工程を採用し、それぞれの労働者が自動車の生産において単純労働をすれば良いようにした。フォードは進歩主義の時代の発展から糸口を掴み、大変寛容な賃金、1日5ドル、を労働者に提供し、平均的な労働者が自社製品を買えなければ大量生産企業は生き残れないと主張した。しかし、賃金上昇は女性にまでは拡がらず、フォードは会社の社会科学部を拡張して労働者を観測させ、労働者が「悪質で安物のスリル」にその新しい報奨金を消費しないように仕向けた[35]。1910年に1台950ドルだった自動車は1924年には290ドルになった。1920年代には年間125万台が量産された[36]。
「第一次世界大戦」も参照
| アメリカ |
イギリス |
ドイツ帝国 |
|
|---|---|---|---|
| 人口(万人) | 9,723 | 4,565 | 6,493 |
| GNP(億ドル) | 396.0 | 132.2 | 124.9 |
| 世界工業生産比(%) | 32.0 | 13.6 | 14.8 |
| 粗鋼生産量(万トン) | 3,092 | 779 | 1,761 |
| 銑鉄生産量(万トン) | 3,088 | 1,043 | 1,676 |
| 綿花消費量(万トン) | 131 | 99 | 48 |
| 貿易額(億ドル) | 42.8 | 68.5 | 49.7 |
| 輸出額(億ドル) | 24.0 | 25.5 | 25.6 |
| 貿易依存度(%) | 10.8 | 51.8 | 39.8 |
第一次世界大戦はアメリカ経済の構造を大きく変えた。
第一次世界大戦開戦前のアメリカ経済はイギリス、ドイツを抜き世界一位の経済規模となっていたものの、内需依存であり、貿易依存度が低く純債務国[38]であった。第一次世界大戦により、ヨーロッパ諸国が軍需品生産拡大に傾斜せざるを得ない状況となり、アメリカは鉄鋼や小麦の生産量・輸出量をともに拡大させていった[39]。ヨーロッパ諸国は戦争継続のために、アメリカに投下していた資本を引き揚げ、対米債権を放棄・米国からの借款に依存せざるを得なくなり[40]、大戦後の1919年にはアメリカは132.3億ドルの対外債権を保有する[41]こととなり、結果として、貿易黒字・債権国(資本収支赤字)の国家へと変貌していった。このことは、後に第一次世界大戦の賠償金要求に伴うルール出兵を誘発することとなり、ドーズ案、ヤング案で賠償金の減額がなされていくこととなった。
第一次世界大戦継続のために、国内経済の構造に変化が見られた。生産拡大のために、戦時産業局(en)が設置され、経済統制の色を強めた[42]。生産拡大、生産効率向上、労使紛争調停のために、戦時労働局(en)が設置され、間接的に労働者の組合加入を支援する一方、AFLも戦争に協力の姿勢を見せ、労使間の歩み寄りが行われ、労働組合員数も戦前と比べて増加した。また、1916年に鉄道労働者の一日8時間労働を規定したアダムソン法(en)が翌年に合憲と判断されたことで他の産業にも、一日8時間労働が波及していった[43]。
加えて、生産拡大のために、従来、家庭にこもっていた女性が工場で働くなど社会進出が進み、戦後、アメリカ合衆国憲法修正第19条により婦人参政権が認められた。
アメリカが第一次世界大戦に要した戦費(当時の価格で260億ドルないし327億ドル相当、ヨーロッパ諸国への借款分が別に96億ドル)は連邦所得税(大戦前に改正されたアメリカ合衆国憲法修正第16条が機能する)、「自由を守るための戦争」と称した戦時国債(en)の発行によって賄われた[44]。
[編集] 狂騒の20年代: 1920年-1929年
詳細は「狂騒の20年代」および「ウォール街大暴落 (1929年)」を参照
常態に復することと高い戦時税制の終了を要求した共和党のウォレン・ハーディング大統領の下で、財務長官アンドリュー・メロンは関税を上げ、他の税金を下げ、大きな歳入超過を使って1920年から1930年までに国の負債を3分の1まで下げた。商務長官ハーバート・フーヴァーは商習慣を規制することで効率を導入するよう努めた。この繁栄の期間は当時の文化と共に狂騒の20年代と呼ばれる。自動車産業の急速な成長によって石油、ガラスおよび道路建設などの産業が刺激された。観光産業が急拡大し車を持った消費者は買い物の行動半径が拡がった。小都市が繁栄し、大都市はオフィス、工場および住宅の建設で活況を呈し、かつてない10年間を過ごすことになった。新しい電力事業が企業や毎日の生活を変えた。電話や電気が都市部を中心に普及したが、農村部ではそれほどでもなかった[45]。農夫は戦時の土地価格バブルの影響から回復出来なかったし、また、第一次世界大戦中に小麦の生産・輸出が拡大したことが尾を引いて、農産物過多による農業価格下落・農業所得減少に苦しめられた[46]。経済構造の変化からトラスト(企業合同)[47]や持株会社による事業会社買収が進められ、買収資金調達のために株式や社債が相次いで発行された[48]。また会社型投資信託が提案され、株価上昇につながった[48]。
株価上昇が続く中、1929年6月には景気はピークアウトしていき[49]、ついに10月24日、証券市場が崩壊し、1929年のウォールストリート崩壊の中で銀行が倒産し始めた[50]。
[編集] 世界恐慌: 1929年-1941年
連邦準備制度理事会は恐慌を起こしたわけではなかったが、銀行を助けることで恐慌を防ぐ努力もしなかった。脆弱な銀行システムの存在により、預金者は自分の預金を守ろうと不安に駆られ、取り付け騒ぎを起こした[51]。一旦、取り付け騒ぎが起こると銀行の連鎖破綻の可能性もあり、銀行は預金に対する準備率を引き上げた[52]。1930年から1933年3月までの間に4回の銀行恐慌[53]が発生し、その間に現金・預金比率と準備・預金比率が上昇したため、貨幣乗数は低下、ハイパワードマネーの上昇にもかかわらず、貨幣乗数とハイパワードマネーの積である通貨供給量は1933年には1929年の3分の2の水準にまで落ち込み[52][54]、物価を急激に下落させた[52]。
ハーバート・フーヴァー大統領は、貿易不振を世界恐慌の原因とみなし、貿易振興の観点からフーヴァーモラトリアムを提唱し、第一次世界大戦の賠償金の支払い猶予を提唱したが一方で、大増税法案を通して落ち込む歳入を増やそうとし、保護主義のスムート・ホーリー関税法に署名したが、これはカナダ、イギリス、ドイツなど貿易相手国の報復を呼んだ。アメリカ経済は不況に陥った。1932年までに失業率は23.6%にもなった。状況は重工業、製材業、輸出用農産物(綿花、小麦、タバコ)および工業で悪かった。ホワイトカラーや軽工業ではそれほど悪くなかった[55]。
フランクリン・ルーズベルトは1932年の大統領選のキャンペーンに「三つのR - 救済、回復および改革」(Three R's - relief, recovery and reform.)を主唱し、彼はそのスピーチの中で“ニューディール”の用語を造った。ルーズベルトは多様な助言者集団(ブレーントラスト)に大きく依存しており、彼等がニューディール政策と呼ばれる多くの計画で問題を解決していくことになった。1933年3月4日ルーズベルトが大統領に就任したその日、金融恐慌は全米に広がり、3月6日から9日までの4日間全米の銀行に休業命令が出された(バンクホリデー、モラトリアム)[56][57]。
ルーズベルトは1933年3月に大統領に就任するや否や、最初の100日間で重要法案を議会に承認させ恐慌克服に動き出した(いわゆる「百日議会」)。農家経営の安定のために農業調整法(AAA)、失業対策のためのテネシー川流域開発公社(TVA)に代表される公共事業や連邦緊急救済法(FERA)、政府が企業経営に関与し、生産調整と価格の安定化により企業経営の改善を図る一方、労働者の団結権や団体交渉権を保証した全国産業復興法(NIRA)、また、金融制度安定のために、証券業務の規制を強化した1933年証券法、商業銀行と証券業務の分離や預金救済のために連邦預金保険公社(FDIC)の創設などを規定したグラス・スティーガル法(1933年連邦銀行法)等である。
国際経済面では1933年4月19日の金本位停止[58]と平価の切り下げにより通貨価値の高騰はようやく安定を見せ[59]、1934年1月には金平価を1オンス35ドルと旧平価の59%水準に切り下げた金準備法を制定し金本位制から離脱、ドル安方向に為替を誘導し、ラテンアメリカ諸国と善隣外交を進めドルブロックを形成し、イギリスのスターリングブロック、フランスのフランブロック、日本の円ブロックに対抗していった[60]。
政府の支出はフーヴァー政権の1932年でGNP比8.0%から1936年にはGNP比10.2%に増えた。ルーズベルトが「通常」予算を均衡させる一方、緊急予算は国債で賄われ、国債は1932年GNP比33.6%からGNP比40.9%まで増えた[61]。赤字予算が何人かの経済学者、中でも著名な者はイギリスのジョン・メイナード・ケインズによって推奨された。ルーズベルトはケインズに会ったが、その推奨には注意を払わなかった。統計図表を書き続けていたケインズと会った後で、ルーズベルトは「彼は政治経済学者というよりも数学者に違いない」と注釈した。ケインズもルーズベルトの爪の形が気になるあまり自分が何を説明したかよく覚えていなかったという。
失業対策事業や公共事業への支出がアメリカ経済を回復させるだけの刺激を与えたその程度、あるいはそれが経済に悪影響をもたらしたのかが今でも議論されている。経済の健全さ全体を国内総生産で定義するならば、アメリカは1934年までに回復軌道に乗り、1936年までに完全に回復したが、1937年不況で失業率は1934年の水準まで戻った。ルーズベルトが言っているように国民の3分の1は食べ物が少なく、粗末な住居に住み、衣服も足りていなかった。図2を見ると、1936年の実質GDPは1932年のそれより34%高く、1940年の実質GDPは1932年の実質GDPより61%高くなった[62]が、失業率は徴兵令以前に9%を下回ることは無かった。
ブローダス・ミッチェルは「大半の指標が1932年夏まで悪化し経済的にも心理的にも不況の底と呼んでいいかもしれない。」と要約した[64]。経済指標ではアメリカ経済が1932年夏から1933年2月まで底を突き、その後着実に急速な回復を遂げ、それが1937年まで続いたことを示している。工業生産に関する連邦準備制度指標は1932年7月1日に最低点52.8となり、実質的に1933年3月1日の54.3まで変化は無かった。しかし、1933年7月1日までに85.5まで達した(1935年から1939年の指標を100とする。これを2005年でみれば1,342となる)[65]。
| 表2: 世界恐慌の間のデータ[66] | 1929年 | 1931年 | 1933年 | 1937年 | 1938年 | 1940年 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 実質国内総生産 (GDP) 1 | 101.4 | 84.3 | 68.3 | 103.9 | 103.7 | 113.0 |
| 消費者物価指数 2 | 100.00 | 88.88 | 76.02 | 84.21 | 82.46 | 81.87 |
| 鉱工業生産指数 3 | 109 | 75 | 69 | 112 | 89 | 126 |
| 通貨供給量 M2(10億ドル) | 46.6 | 42.7 | 32.2 | 45.7 | 49.3 | 55.2 |
| 輸出 (10億ドル) | 5.24 | 2.42 | 1.67 | 3.35 | 3.18 | 4.02 |
| 失業率 (民間労働人口に対する%) | 3.1 | 16.1 | 25.2 | 13.8 | 16.5 | 13.9 |
1 単位:10億ドル。物価水準は1929年におけるドル価値基準
2 1982年-84年を基準とした都市部消費者物価指数を1929年=100.00に換算。
3 鉱工業生産に関する連邦準備制度指標。1935年から1939年の指標を100とする。
[編集] 戦時統制: 1941年-1945年
1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻を開始したことにより、第二次世界大戦の火蓋が切られた。この年アメリカは欧州で始まった戦争よりニューヨークの万国博覧会で浮かれていた。GMのつくった未来都市館は来場客の関心を集め、この時アメリカ人はいまだ中立政策と孤立主義を志向していた。ルーズベルトは中国大陸と大西洋で対枢軸国むけの武器支援を続けていたが、1941年12月7日(日本時間12月8日)日本が真珠湾を攻撃したことにより日本と、ついで12月11日に宣戦布告を受けることで公式にドイツと開戦となった。戦時中、軍需生産委員会は国全体の生産能力を軍需優先となるように調整した。大衆消費財工場から転換されたところが多くの軍需品の注文を受けた。例えば自動車製造会社はタンクや飛行機を作り、アメリカ合衆国を「民主主義の武器庫」にした。国民所得の上昇を抑え、乏しい消費財がインフレを起こさせないように、新しく創設された価格管理局が住居の賃貸料を統制し、砂糖からガソリンまでの消費財を配給し、他にも価格上昇を抑えるように努めた[69]。
600万人の女性が加工生産分野で職を得た。その大半は軍需品を生産するために急遽作られた仕事だった。軍隊でも男性に取って代わる女性がいた。これら働く女性達は『リベット工ロージー』のような小説の登場人物で象徴された。戦後男性が軍隊任務から戻ってくると多くの女性は家事仕事に戻った。国民は郊外に目を向け、新居に対する抑えられた欲求が遂に解き放たれた[70]。
戦中経済は多くの異なる条件で運営されるので平和時のものと比較するのは不可能である。その条件とは例えば巨額支出、価格統制、債券販売、原材料統制、新築と新車の禁止、配給制度、コストプラス利益保証、奨励金付きの賃金および1,200万人の徴兵が挙げられるものの、結果として第二次世界大戦は、恐慌の苦しみからアメリカを解放した。軍需品の生産拡大とそれに伴う財政出動の結果、終戦時の1945年の実質GDPは開戦時の1939年と比べて約88%増大し[62][71]、失業率は急速に低下し、1943~1945年の平均で労働力の2%以下にまでなり、1945年には1.2%にまで低下した[72]。
[編集] 戦後の繁栄: 1945年-1973年
第二次世界大戦の終戦から1970年代初期までの期間はアメリカ資本主義の黄金時代だった。
大統領経済諮問委員会が1946年の雇用促進法によって設立され、客観的経済分析を行って国内と国際の経済政策について幅広い発展と推進に関する助言を行った。この委員会は最初の7年間で政策決定における5つの技術的提案を行った。
- 経済の「循環モデル」から「成長モデル」に置き換えること
- 経済の数値目標の設定
- 財政的歯止め理論と完全雇用予算の適用
- 課税に関するより大きな柔軟性を必要とすることの認識
- 低い総需要の実現によって構造問題としての失業の概念を置き換えること
1949年、委員長のエドウィン・ノースと委員のレオン・カイザーリングとの間に論争が持ち上がった。ノースは「大砲かバターか」という選択をするしかないと信じたが、カイザーリングは経済が拡大すれば生活水準を犠牲にすることなく大きな防衛予算を賄えると主張した。カイザーリングはトルーマンの強力な助言者であるディーン・アチソンやクラーク・クリフォードの支持を取り付けた。ノースは委員長を辞任し、赤字予算と「浪費される」防衛費の予算増加の危険性を警告した。カイザーリングが委員長を引継ぎ、トルーマンのフェアディール提案や、1950年4月にアメリカが必要とするより大きな軍隊は生活水準に影響しないし、「我々の経済の自由な性格を転換」させる危険性は無いと主張する国家安全保障会議決議第68号の経済部分に影響を与えた[73]。
1953年から1954年にかけての不況の間[68]、アーサー・バーンズが主宰する経済諮問委員会は伝統的な共和党の修辞法を採用した。しかし国の為の超党派経済政策としてケインズ経済学を打ち立てることになる景気循環対策の手法を支持した。特に不況に反応する経済諮問委員会案、すなわち公共事業計画を加速し、金融を緩和し、また減税を行うという案を作る時にはアーサー・バーンズやニール・J・ジャコビーが重要だった。
1950年代のアメリカは、冷戦の中で経済成長が持続するなか、社会構造の変化を生みだすこととなった。
農業機械の導入による合理化の進展により、農業人口が1940の17%から1960年にはわずか6%にまで減少、黒人が農業から締め出され都市へ移動し都市化が進展した[74]。結果として、1960年代の公民権運動へとつながっていく。
冷戦が続き軍需産業が潤う中で、1957年にスプートニク・ショックが起こった。宇宙開発でアメリカがソビエト連邦に先を越された事件だった。これがその後の宇宙開発競争に繋がり、情報通信・制御技術が飛躍的に発展して、その後の経済効果を生んだ一方、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が1961年の大統領退任演説において指摘した、軍産複合体による政財間の癒着構造を生むこととなった[74]。
ホワイトカラー層がブルーカラー層を数の上で凌駕し始めたこと、加えて生活水準が向上し、技術革新とコストダウンも相俟って結果として住宅・自動車・家電製品といった耐久消費財が普及し、大衆消費社会が本格化し[74]、アメリカ的生活様式という言葉まで生まれた。その姿は第二次世界大戦の前や戦時中に全盛となったハリウッド映画、さらには普及し始めたテレビに流れる映像によって世界中に知られるようになり、多くの国ではアメリカに少しでも追いつくことがその経済目標になった。一方で、1962年にマイケル・ハリントンがその著書『もう一つのアメリカ』で指摘したように「この国におよそ5,000万人の貧民がいる[75]」状況も注目され、リンドン・ジョンソン大統領(在位1963年-69年)のときに「貧窮との戦い」が宣言された。貧困率は1959年の22.4%から1973年は史上最少の11.1%に減少した。1980年代から2010年の期間は11%台から15%台の範囲内で推移し[76]、2010年の貧困者数は4618万人(人口の母数が増えているので貧困率が同じでも貧困者数は増える)である[76]。
ジョン・F・ケネディ大統領は1961年に就任したときにアメリカ史の中でも最大の減税法案を成立させた。満期になった戦時公債2,000億ドルおよびG.I.法案が教育の行き届いた労働人口を手当てした。中産階級が膨張し、また国内総生産や生産性も上がった。合衆国は経済成長のある種黄金時代を経験していた。この成長は経済階級の全てによく分散され、この時代の労働組合の強さに繋がり、組合員数は大規模経済成長の半ばにある1950年代でそのピークを迎えた。リンドン・ジョンソン大統領は「偉大なる社会」創設を夢見て、メディケイドやメディケア(高齢者向け医療保険制度)のようなその目的にそった多くの新しい社会改革を始めた。連邦政府はこの10年間に私企業の研究開発を助成し、それから出てきたもので著名なものがARPANET(後のインターネット)だった[77]。
[編集] インフレの悲哀: 1970年代
1960年代後半、この凄まじい経済成長が減速していることが明らかだと見る者がおり、1970年代になると誰の目にも明らかになってきた。スタグフレーション(景気沈滞下のインフレ)がアメリカを捉え、政府はリチャード・ニクソン大統領の下で賃金と価格の統制を試みた。ブレトン・ウッズ協定が1971年から1972年に掛けて崩壊し、ニクソンは連邦準備制度の金の窓口を閉鎖し、合衆国は金本位制から完全に離れた。ジェラルド・フォード大統領は「今こそ、インフレを倒せ」(Whip Inflation Now)というスローガンを打ち出した。労働生産性が1974年には前年比マイナス1.5%、翌1975年には前年比マイナス1.0%にまで鈍化し、1976年になりようやくプラスに転じた[78]。1976年、ジミー・カーターが大統領に当選した。カーターは後にさらに大きな経済変動の時代を到来させたと大いに非難されたが、この状況はカーターのやれる範囲を超えていたと指摘する者もいる。物価はうなぎ登りに上昇した。労働生産性の成長はマイナスではないものの、微々たるものであった。金利は高止まりし、プライムレート(最優遇貸出金利)は1981年1月に20%に達した。アート・バックウォルドは、1980年が地方の銀行よりもマフィアに借りた方が利子が安くなる歴史的な年になると皮肉った[79]。
失業率は1975年から1979年にかけて着実に減少していたが、その後急速に上昇し始めた。
この期間は環境問題や消費者運動が高まった時期でもあり、政府は新たな規制や職業安全衛生管理局、消費者製品安全委員会およびアメリカ合衆国原子力規制委員会など規制を行う組織を設立した。
[編集] 規制緩和とレーガノミックス: 1974年-1992年
規制緩和の動きはニクソンが辞任したときに始まり、フォード、カーターおよびレーガンの政権下で超党派の動きとなった。最も重要なのはエネルギー、通信、輸送および金融分野からニューディール政策の規制を取り去ることだった。預金と貸付の規制を急いで緩和し、一方連邦保険はそのままだったことで、預金・貸付危機となり政府は推計で1,600億ドルを失った。
レーガン政権下における双子の赤字(財政出動(グラフ紫色表示、プラスに寄与)・純輸出(グラフ黄色表示、貿易赤字のためにマイナスに寄与))は寄与度分解でもはっきりと表れている。
1981年、ロナルド・レーガンが財政拡張政策であるレーガノミックスを導入し、連邦所得税の累進課税率を25%下げた。インフレ率は1980年の年13.5%から1983年の年3%まで劇的に低下したが、これは短い景気後退と、連邦準備制度のポール・ボルカー議長が通貨供給量と利率を締め付けたことによっていた。実質GDPは1980年から1982年に収縮した後、成長を始めた。失業率は上がり続け、1982年後半に10.8%にも達したが、その後急速に下降し、レーガン政権末期の1989年1月には5.4%のレベルになった。レーガン政権を批判する者は、レーガンが大統領である間に上流社会経済階級と下流社会経済階級のレベル格差が拡がったという事実を指摘することが多い。レーガンの政策で生まれた国債は3倍(1981年の9,300億ドルから1988年の2兆6,000億ドル)と記録的なレベルに達したことも指摘している。20世紀後半のレーガン以前のどの大統領もGDPに占める国債の比率を減らしていた。財政赤字に加えて、アメリカは巨額な貿易赤字も始まった。また1986年の税制改革法が成立したのはレーガンの2期目だった。副大統領ジョージ・H・W・ブッシュが1988年アメリカ合衆国大統領選挙でレーガンの後継者に選ばれた。ブッシュ政権の初期経済政策は基本的にレーガン政策の継続だったが、1990年代初めに妥協に走り、議会民主党との協議で増税を行った。ブッシュの任期は中庸の形で終わり、障害を持つアメリカ人法のような規制法に署名し、NAFTA(北アメリカ自由貿易協定)の交渉を行った。1992年、ブッシュと第3の政党候補者ロス・ペローが民主党のビル・クリントンに敗れた[80]。
1960年代末から1970年代初めにおける脱工業化の時代到来により、収入の不均衡はかつてない位に劇的に増加したが、同時にアメリカ合衆国の消費者は1970年代のインフレで多くの物を買えなくなった。1968年、合衆国のジニ係数(国民所得分配係数、0.5を超えると不平等格差が大きく問題となる)は0.388[81]となって日本の0.381にほぼ等しく、イギリス (0.368) やカナダ (0.331)より高かった。しかし、その後の規制緩和とグローバル化で合衆国の会社がその製造や重工業を低賃金である第2、第3世界へ移したことで、アメリカにおける所得の不均衡は劇的に増大した。2005年、合衆国のジニ係数は0.466[81]に達し、マレーシアやフィリピンの0.461と同じ水準となり、中国 (0.44)よりかなり上となった。1960年代以降、共和党と民主党の政権によって採用された経済政策、特に「自由貿易」と「市場開放」に対する批判は、これらの政策が貿易や合衆国における生産コストに恩恵を与えたものの、合衆国の中産階級からその繁栄を取り去ったと言っている。しかしこの期間、消費者はかつてなかったほど多くの製品や商品を低価格かつ高品質で買っていた。
1970年代以降、日本の自動車や家電製品がアメリカ国内でシェアを伸ばし、1980年代に入ると小型低燃費で品質が向上した日本車の輸出拡大によりアメリカの自動車産業は壊滅的な打撃を受けた。半導体を巡る対立がもっとも深刻で、基幹産業である鉄鋼・ガラスなども壊滅的打撃を受けた。デトロイトでは人口流出が続きピーク時から半減し、人口の8割が黒人となった。対日貿易赤字が拡大する中で、牛肉等の畜産物や米・柑橘類の農産物に係る日本の関税に対する批判が高まり、ジャパンバッシングと呼ばれる反日キャンペーンがおこり、1988年に施行されたアメリカ合衆国の「包括通商・競争力強化法」(スーパー301条)は不公正な貿易慣行や輸入障壁がある、もしくはあると疑われる国を特定し、輸入品に対する関税引き上げという強力な報復制裁措置を行うというものだった。1989年7月14日の日米首脳会談の席上、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が宇野宗佑総理大臣に日米構造協議を提案し実現した。
また、1980年代前半にはインフレ抑制策のために、高金利政策を採用していたことからアメリカとそれ以外の国の内外金利差が拡大し、ドル高傾向となっていた。そのため、1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルでG5(日米英独仏)の蔵相が集まり、過度のドル高を是正することが決定された(プラザ合意)。
[編集] ニューエコノミー: 1990年代-2007年
1990年代は物価の安定とともに、FF金利は5%近傍でほぼ安定していたが、ITバブル崩壊後、FRBはFF金利を2004年まで段階的に引き下げていった。その後、景気の過熱とともにFF金利を引き上げたものの、サブプライム問題発生後、FRBはFF金利を急激に引き下げ、2008年12月にはゼロ近傍となっている。
また、消費者物価指数(総合)は2007年-2008年の世界食料価格危機、原油価格高騰により2008年夏頃までは上昇していたが、原油価格バブル、穀物価格バブルがはじけ、効果が剥落すると急激にインフレ率は低下している。
詳細は「ニューエコノミー」および「アラン・グリーンスパン」を参照
1990年代、国債は75%増加し、名目GDPは69%増え、株式市場はスタンダード・アンド・プアーズ総合500種株価指数で3倍以上に成長した。
1994年から2000年まで実質GDPは増加し、インフレは適度に抑えられ、失業率は5%以下に落ち、ドットコム景気と呼ばれる株式市場の活性化に繋がった。1990年代後半は宣伝の行き届いたハイテクとドットコム会社の株式新規公開で特徴付けられる。しかし、2000年までに株式評価の明らかなバブルが起こり、2000年3月からは市場が1990年代の成長の50%から75%にまで落ち込んだ。経済は2001年に入っても悪化し、実質GDP成長率はわずか0.7%増[62]に留まり、失業率や企業破綻は確実に増加し、また不況の引き金を引いたのはしばしば2001年アメリカ同時多発テロ事件だと言われている。
2001年から2007年まで、アメリカ合衆国中で過熱した住宅市場によって、アメリカ経済の強さに関する安全性に偽りの神話が作られた。この住宅ブームとバブルについてその責の幾らかはクリントン政権によるものと主張する者が多い。ニューヨーク・タイムズはクリントン政権が1990年代後半にサブプライム融資を強く推進したことに関して、「住宅抵当権で国内最大の引受け機関であるファニー・メイ(アメリカ政府支援の住宅投資機関)がクリントン政権からの高まる圧力の下に収入が中下層の人々に抵当権付貸付を拡大してきた」という記事を載せた。[82]
1995年、クリントンはカーターによる1977年の地域社会再投資法を変更し、赤線引き(特定地域の住民には融資しないなどの投資差別)を規制し強化した。これは長年65%程度に留まっていた持ち家率を上げるためになされたと多くの者から受け取られた。その結果は財政制度によってよりリスクの大きい貸付に大きな投資を促すことになった。1993年から1998年の305の都市における貸付傾向に関する2000年の財務省調査では、地域社会再投資法による貸主から4,670億ドルの抵当権付貸付が中下層収入者やその周辺に注ぎ込まれたことを示していた[83]。
さらにビル・クリントンの下でホワイトハウスは重要な規制を外しもした。ワシントン・ポストは次のように書いていた。
1999年、ついにクリントン政権は1933年のグラス・スティーガル法の一部を撤廃した。この法は利潤と不正行為の紛争を防止するために商業銀行と投資銀行の財務制度をその事業に応じて分離したものだった。この法は連邦預金保険公社1929年のウォールストリート崩壊の結果として生まれ、金融会社の一部にあった多くの不法行為を暴くことになった。1999年の撤廃により、実質的に銀行の自由な領域を増やし、銀行が証券事業に再度参入することを許し、銀行の分類による違いを取り去った。この操作の結果をワシントン・ポストは次のように書いた。
ファニー・メイとフレッディ・マックは紙幣を印刷する免許を得たに近い状態となった。この2社は政府が返済を保証するという概念を元に市場利率よりも低い利率で金を借り、市場利率で返済する抵当権付貸付をその金で購入した[84]。
ビル・クリントンがホワイトハウスに居た間に強制された投資とグラス・スティーガル法の撤廃はサブプライム融資の幾何級数的な成長に大きく影響し、2007年から2008年の金融危機の伏線となったと主張する者が多い。
[編集] 2008年の金融危機
「世界金融危機 (2007年-)」および「:en:Automotive industry crisis of 2008–2009」を参照
2008年、予想を超えた経済恐慌がアメリカと全世界を襲った。最も重大なことはカリフォルニア州とフロリダ州における住宅バブルが弾けたことであり、また住宅価格や建設業界が崩壊したことである。数多くのモーゲージ(抵当権、平均して20万ドル)がCDO(債務担保証券)と呼ばれる証券となり世界中で再販された。多くの銀行や巨大ファンドが数千億ドルを借金してこれらの証券を買っており、その価値が不明で誰も買おうとしないために今や「毒物」となった。アメリカ合衆国とヨーロッパの大銀行が次々と崩壊した。2008年5月、ベアー・スターンズはJPモルガン・チェースに買収され傘下に入った。また、9月15日にはリーマン・ブラザーズは6,130億ドルの負債を抱えて倒産[85]、それを受けてバンク・オブ・アメリカはメリルリンチを吸収合併した。有数の保険会社AIG、トップ銀行のシティグループおよび2つの最大抵当権会社が政府の救済を仰いだ。ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーは投資銀行から銀行持株会社に転換を発表し当局の規制を受けながらも生き残りを模索した。合衆国議会は7,000億ドルの救済資金を拠出し(TARP)、資産家と連邦準備制度は金融システムを支えるために数兆ドルを投入したが、景気減退を覆すまでにはならなかった。連邦資金が投入されたにも拘わらず、銀行は貸付政策を劇的に引き締めた。例えば自動車ローンを得ることも難しくなった。政府は初めて大銀行の主要株主になった。株式市場は40%急落し、資産を10兆ドル減らした。住宅価格は国中で20%低下し、さらに3兆ドルを減らした。2008年遅くまでに困窮は金融や住宅部門以外にも拡がり、特にビッグスリーと言われる自動車産業(ゼネラルモーターズ、フォードおよびクライスラー)は倒産の瀬戸際にあり、小売り部門がかなりの弱さを示した。7,000億ドルの問題資産救済プログラムを批判する者は、銀行にばらまかれたその金の大半が行方不明であり、銀行もこの問題を隠していると、怒りを露わにしている。
バラク・オバマ大統領は、財政支出と税金を削減することで8,000億ドルから9,000億ドルを刺激する法案である2009年のアメリカ再生および再投資法を裏書きした。この計画は経済不況の時に財政支出が個人消費の落ち込みを相殺するというケインズ理論に基づいている。そうでなければ個人消費の落ち込みが永続化し、労働時間や失業という生産資源が浪費されるというものである。批評家は、政府が民間部門から金を借りなければならないために、個人消費の落ち込みを相殺できないと主張している(押し出し効果)。しかし、大半の経済学者はこの押し出し効果がゼロかそれに近い金利であり、経済が停滞気味の時の問題であるとは考えていない。刺激効果に賛成する者は将来のインフレの可能性とそのような大規模支出によって国債が増える問題を指摘してもいる。
[編集] 統計
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アメリカ合衆国年ごとの経済データ |
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[編集] 脚注
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- ^ 1917年の粗鋼生産量は4,517万トン、小麦の生産量は2,591万トンに増大した。また、輸出量では小麦は707万トンに増大した。金額ベースでは鉄鋼1.2億ドルから6.5億ドルに、小麦は8,900万ドルから3.3億ドルに増大し、物価上昇を勘案した実質ベースでも2~3倍は増大している(長沼・新川(1991)pp.15-16、38-39)。
- ^ Eichengreen (1992) (Eichengreen (1996)p.84 Table 3.3.)によると各国の米国への負債状況は以下の通り
各国の借款状況(単位:100万ドル) 1915年1月1日~
1917年4月5日1917年~1919年 フランス、イギリス 2,102 7,157 ロシア、イタリア 75 1,809 カナダ、オーストラリア 405 - ドイツ 8 0 欧州の中立国 12 344 その他 72 126 合計 2,672 9,436 - ^ 長沼・新川(1991)p.17
- ^ 長沼・新川(1991)p.19
- ^ 長沼・新川(1991)pp.20-21
- ^ 長沼・新川(1991)pp.18-19
- ^ 電気を取り入れた家庭の割合は戦前の6軒に1軒から1929年には7割まで普及したが、農家ではわずか9%が電気の恩恵を受けたにすぎなかった(長沼・新川(1991)pp.24-25)
- ^ 農産物の輸出比率は大戦中には28%まで上昇したが、1920年代には15%まで低下した(長沼・新川(1991)p.30)。
- ^ 長沼・新川(1991)pp.25-27
- ^ a b Galbraith(1954)(村井訳(2008)pp.79-110)
- ^ FRB発表の鉱工業生産指数は6月には126だったが、10月には117にとどまっている(Galbraith(1954)(村井訳(2008)p.149)。
- ^ George Soule, The Prosperity Decade: From War to Depression, 1917–1929 (1947)
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- ^ a b c Abel and Barnanke (2005)(伊多波他訳(2007)pp.803-807)
- ^ Friedman and Schwarz (1963)(Friedman and Schwarz (2007) pp.25-64) によると、経営破綻した商業銀行の預金額が増加したのは以下の4局面である。第1は1930年10月にミズーリ州、インディアナ州、イリノイ州、アーカンソー州、ノースカロライナ州といった農業地域での銀行の連鎖破綻から始まり12月に商業銀行である合衆国銀行(en)の経営破綻、第2は1931年3月頃からの銀行の連鎖破綻に加えてオーストリアの最大の商業銀行であるクレディトアンシュタルト(de、en)の閉鎖が欧州経済に悪影響を及ぼしたこと、第3に1931年9月にイギリスが金本位制から離脱したこと、第4には1932年第4四半期頃からの全米に波及した銀行の連鎖破綻である。
- ^ Friedman and Schwarz (1963) (Friedman and Schwarz (2007) p.15)
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- ^ 「大恐慌期のデフレーションとその終焉」(堀雅博 財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」August―2002)表1-1等参照。[3]
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年の実質GDPを数式内では
と表記し、
は暦年を表す。1939年から1945年の6年間の成長率は

となる。また、6年間の平均成長率は
![\left( \sqrt[6]{\frac{rGDP_{1945}}{rGDP_{1939}}}-1 \right)*100=11.1%](//upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/math/b/7/a/b7abe87c3516f30481a7ec8a50cf0fde.png)
となる。 - ^ Abel and Barnanke(2005)(伊多波他訳(2007)p.422)
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[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
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