沖縄返還

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沖縄返還(おきなわへんかん)とは、1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄琉球諸島及び大東諸島)の施政権アメリカ合衆国から日本に返還されたことを指す。日本国とアメリカ合衆国との間で署名された協定の正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」である。 日本の法令用語としては沖縄の復帰(おきなわのふっき)という[1]

背景[編集]

日本復帰署名運動(1954年)
ジョン・F・ケネディ大統領とロバート・マクナマラ国防長官

第二次世界大戦講和条約で、1951年に署名された日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)では、アメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされ、1952年4月28日に発効した。そこでアメリカは、「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままであった。

1950年6月25日北朝鮮韓国に軍事進攻したことにより朝鮮戦争が、1960年12月に南ベトナム解放民族戦線南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始したことでベトナム戦争がおこるなど、1950年代から1960年代にかけて東西冷戦が過熱する中で、アメリカは施政権下においての自治から、ソ連中国、北朝鮮などの東側諸国に対しての抑止力を持った軍事基地、そしてフィリピンタイの基地と並ぶベトナム戦争の爆撃機拠点および後方支援基地としての重要性の方向に変わっていく。

アメリカ軍はその間にも施政権を元に各地に半ば力ずくで基地や施設を建設し、またアメリカ軍兵士による悪質な事故、殺人を含む事件が頻発し県民の死傷者も相次いだ。このころから県民はアメリカの施政に落胆し本土復帰(日本復帰)を訴え、県民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こし、1960年には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。なお、ベトナムへの軍事介入を拡大したジョン・F・ケネディ大統領や、ケネディを継いでベトナム戦争を泥沼化させたリンドン・B・ジョンソン大統領は、エドウィン・O・ライシャワー駐日大使などによる沖縄の本土復帰についての助言を受けたにもかかわらず、沖縄返還を全く考慮しなかった。

日本の第3次佐藤内閣1970年に予定される日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約延長と共に本土復帰を緊急の外交課題としたが、70年安保延長反対を唱える日本社会党日本共産党は本土復帰を訴えつつも、安保と同列の沖縄返還論に反発した。さらに一部の新左翼学生運動、各種労働組合は反安保・反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。

1970年12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、アメリカ軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃からアメリカ軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上沖縄県をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。

返還へ[編集]

佐藤栄作とリチャード・ニクソン

1969年に行われた日米首脳会談で、ベトナム戦争終結とアメリカ軍のベトナムからの撤退を公約に掲げ前年の大統領選挙に当選したリチャード・ニクソン大統領が、ベトナム戦争の近年中の終結を鑑みて、安保延長と引き換えに沖縄返還を約束したが、公選の行政主席である屋良朝苗や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、アメリカ軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し1971年沖縄返還協定調印、その後1972年5月15日に日本へ復帰した。

内閣総理大臣・佐藤栄作はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込みに関する秘密協定など、冷戦下で東側諸国との対峙を続けるアメリカの要求を尊重した。なおアメリカ軍がベトナムから全面撤退したのは、沖縄返還の翌年の1973年3月29日であった。

また、日本への返還に際し、日本政府は返還協定第7条にもとづき「特別支出金」として総額3億2000万ドルをアメリカ政府に支払った。「特別支出金」の内訳には、琉球水道公社琉球電力公社琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設や琉球政府庁舎あるいは航空保安施設、航路標識などのアメリカ軍政下で設置された民生用資産の引き継ぎの代金1億7500万ドルが含まれていた。日本政府は取り決めに従いこの対価を支払った[2]

近隣国の懸念[編集]

沖縄の地政学的な有用性から、韓国が日本に対して、また台湾(中華民国)はアメリカ合衆国に対し、東アジアの安全保障体制への沖縄返還が及ぼす影響や懸念を表明していた[3]

時の韓国大使・金山政英は、韓国大統領・朴正煕の「沖縄基地が核を含め現状のまま自由発進の態勢にあることが絶対に必要だ」との言葉を、また台湾はアメリカ公使リチャード・リー・スナイダーが訪台した際に「米国は対外的に負っている義務をどのように守ろうとするのか」迫ったことを、ともに外務省公電が伝えている[3]

返還後の沖縄[編集]

沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律に基づいて1972年6月25日に沖縄県議会選挙が行われた。また、他の都道府県同様に沖縄県庁沖縄県警のほか、各自衛隊航空自衛隊海上自衛隊陸上自衛隊)なども置かれたが、自衛隊は日本軍の後身と見られたことから、隊員が住民から迫害を受けたほか、住民票を交付されなかったり隊員の子弟が学校に入学できないなどの人権侵害を含む社会事件が発生した。また近年においても、県内のマスメディアで自衛隊を恣意的に扱っているなど、差別的な感情があるとする意見もある[4]

また、1978年7月30日には車両の通行が左側通行に切り替えられ(730)、本土同様の道路交通法が適用されるようになった。

返還後は道路・病院・学校など公共投資に力が入れられ、また数々の優遇税制や特例や諸税の免除が実施され、本土並みの生活水準への到達が官民一体となって目指されている。精力的な公共投資によりインフラ面ではほぼ本土並み(軌道交通を除く)となったものの、産業の育成が立ち後れ、国内外の大規模な製造拠点の誘致にも至っていない。返還から30年以上経つ現在でも、1人あたりの県民所得が全国下位(2008年までは最下位)のままである。

返還前は就職難から県外への移住者が多く、人口が減少していた時期もあったが、復帰後は逆に本土からの移住者(Uターン者を含む)が大幅に増え、沖縄県の出生率が比較的高い(2010年度の合計特殊出生率は1.87人)こともあいまって人口は堅調な増加が続いている(沖縄県の人口統計を参照)。特に2000年代後半からは、子育て世代の若い夫婦や定年後の中高年を中心に沖縄移住がブームとなっている。2005年以降、日本の人口は減少しているが、沖縄県が人口減に転じるのは2025年頃と、日本の全都道府県で最も遅いと予測されている。一方で経済体質は、2010年現在に至るまで公共事業とアメリカ軍基地、観光が柱となっており、多くの安定した雇用を確保することが出来る大規模な製造業などの有力な地域産業は依然十分に育っていない。ただし2008年のリーマンショック以降の製造業の衰退のため、本土各県の所得水準の低下が著しく、相対的に沖縄県の所得水準が上がりつつあり、2009年には県民所得最下位から脱却した。また、沖縄県では他府県から離れた沖縄の地理的条件が不利になりにくいIT産業の振興に力を入れており、沖縄県出身者の地元志向の強さを狙って、人材流動の激しい本土ではなく、沖縄でのIT開発拠点を作ろうとする動きも一部に見られるようになってきた。

2012年にNHKが実施した、沖縄県民を対象にした世論調査では、本土復帰についてと肯定的な回答(「非常によかった」「まあよかった」)が合わせて78%だった[5]

課題[編集]

沖縄返還は実現したものの、課題は多く残されている。2010年現在も米軍専用施設面積の約74%が沖縄県に集中し、沖縄本島の19.3%が基地に占められる(県全体の基地の割合は10.7%)。たびたび引き起こされるアメリカ兵による事件が日米地位協定によってうやむやにされることも県民感情を逆撫でする。1995年平成7年)の沖縄米兵少女暴行事件の際は大規模な抗議行動が行われた。2009年に成立した鳩山由紀夫政権は、宜野湾市市街地にある普天間基地を県外に移転することを事実上の選挙公約としたが、就任後は鳩山首相の発言が二転三転し、最終的に公約を破る形で辞任している。

復帰時に経済の「本土並み」がスローガンとして掲げられたが、振興政策は公共事業を中心とした建設業の投資に偏り、道路や箱物ばかりが立派になったと揶揄される。日本で最も安い地域別最低賃金が設定されている県のひとつで、失業率と人口あたり倒産件数は全国最高レベル(ただし人口比の起業件数も全国で最も多い)。本土からの移住者が増えているにもかかわらず、1人あたりの県民所得は全国最低となっている(ただし2009年には高知県のほうが低くなっている)。

かつて本土復帰運動と同時に、琉球独立運動が存在した。現在でも独立運動は存在するが、県民の間で大きな支持を得るには至っていない。2006年(平成18年)の沖縄県知事選で琉球独立党(現・かりゆしクラブ)の候補は6,000票ほどを獲得したにとどまった。また、2007年(平成19年)に琉球大学法文学部の林泉忠准教授が行った調査によると(2005年度より毎年実施)、独立の是非を問う質問に「独立すべき」と答えたのは20.6%(2005年度24.9%)となった(詳細は当該項目を参照の事)。

脚注[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]