竹下登
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たけした のぼる
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1988年、スキポール空港にて
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| 生年月日 | 1924年2月26日 |
| 出生地 | 島根県飯石郡掛合村 |
| 没年月日 | 2000年6月19日(満76歳没) |
| 死没地 | 東京都港区 |
| 出身校 | 早稲田大学商学部 |
| 前職 | 掛合中学校教員 |
| 所属政党 | 自由民主党 |
| 称号 | 正二位 大勲位菊花大綬章 商学士(早稲田大学・1947年) 名誉博士(中国人民大学・1994年) |
| 親族 | 竹下儀造(祖父) 竹下勇造(父) 武永貞一(伯父) 竹下亘(異母弟) DAIGO、影木栄貴(孫) |
| 配偶者 | 竹下直子(後妻) |
| サイン | |
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| 内閣 | 竹下内閣 竹下改造内閣 |
| 任期 | 1987年11月6日 - 1989年6月3日 |
| 天皇 | 昭和天皇 今上天皇(明仁) |
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| 内閣 | 竹下内閣 |
| 任期 | 1988年12月9日 - 1988年12月24日 |
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| 内閣 | 第2次中曾根内閣 第2次中曾根第1次改造内閣 第2次中曾根第2次改造内閣 |
| 任期 | 1983年12月27日 - 1986年7月22日 |
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| 内閣 | 第1次中曾根内閣 |
| 任期 | 1982年11月27日 - 1983年12月27日 |
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| 内閣 | 第2次大平内閣 |
| 任期 | 1979年11月9日 - 1980年7月17日 |
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その他の職歴
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(1976年1月19日 - 1976年9月15日) |
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(1974年11月11日 - 1974年12月9日) |
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(1971年7月5日 - 1972年7月7日) |
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(1958年 - 2000年6月2日) |
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(1951年 - 1958年) |
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竹下 登(たけした のぼる、1924年〈大正13年〉2月26日 - 2000年〈平成12年〉6月19日)は日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。
島根県議会議員、衆議院議員(14期)、内閣官房長官(第35・38代)、建設大臣(第38代)、大蔵大臣(第84・86・87・90代)、内閣総理大臣(第74代)、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第12代)などを歴任した。
目次 |
概要[編集]
自由民主党の最大派閥であった経世会の創設者。総理大臣としてはふるさと創生1億円、消費税導入などを行った。リクルート事件により総辞職したが、その後も政界に甚大な影響力をほこった。
昭和最後の内閣総理大臣であり、平成改元の際の内閣総理大臣でもある。
来歴・人物[編集]
生い立ち[編集]
島根県飯石郡掛合村(現・雲南市)に父・竹下勇造、母・唯子の長男として生まれた。竹下家は300年つづいた旧家で、江戸時代には庄屋を務め、幕末の1866年から[1]代々造り酒屋を営んでいる[2]。登は竹下家12代当主である[3]。
1941年(昭和16年)、旧制島根県立松江中学校を卒業する。
旧制松江高等学校を受験するも失敗し、1年間の浪人生活をおくったのち、早稲田第一高等学院に入学。
1944年(昭和19年)4月、早稲田大学商学部に入学。その直前の3月、素封家の娘・竹内政江と学生結婚をする[4]。
1944年(昭和19年)8月、軍隊に入ると同時に、陸軍特別操縦見習士官の第四期生に志願する[4]。飛行第244戦隊に在隊。
1945年(昭和20年)3月、実母・唯子が41歳の若さで京都の病院で死亡[5]。
1945年(昭和20年)5月、妻・政江が自殺。妻の自殺理由に関する噂は生涯、竹下を苦しめた。自殺する少し前、舅・勇造による執拗な“干渉”に思い悩んでいた政江は、竹下に相談するため、わざわざ島根から上京していたが、竹下は「お前のほうに問題がある」と逆に叱責したという[6]。
1946年(昭和21年)1月、遠縁にあたる遠藤直子と結婚。同年11月、大学在学中掛合村の農地委員に立候補し、当選。戦後の農地解放に地主生まれでありながら率先して取り組む。
1947年(昭和22年)9月、早稲田大学商学部を卒業する、商学士(早稲田大学)。
帰郷[編集]
郷里・島根に帰り1947年(昭和22年)12月より地元掛合中学校の代用教員(英語科)となる。後日内閣総理大臣に就任した際に「元中学校の英語教師が日本の総理大臣になる」と世界中のマスコミに報道され、外国で英語でスピーチを行ったこともあるが、実際の英語力は時代背景もあるがお粗末なものだったらしい。
かたわら、青年団活動に身を投じた。岩瀬達哉著『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』77ページに当時の教員仲間の証言がある。元同僚教師は「そもそも竹下先生が代用教員となったのは、青年団運動をやるためだったと聞いています」、「普通、青年団の活動というのは一日の仕事を終えた夕方からはじまるものです。竹下先生はそれまでの間何をするでもなくブラブラしていた。大学まで出て昼間から遊んでいたのでは何かと世間体が悪い。ですから当時掛合中学の校長だった鹿田三郎さんが心配して代用教員の職を世話したのです」と述べている。その時の鹿田校長は竹下に「ここらは田舎だからDDTとPTAの違いが分かれば良い」と、代用教員になることを依頼したという。
のちに竹下の側近として活躍した野中広務とは既にこの時代に知り合っている(野中と時間を打ち合わせして同じ山陰本線の夜行列車で上京したこともある。また野中の妻は竹下の掛合中学校の代用教員時代の教え子の一人である)。ほかにも鳥取県の野坂浩賢や千葉県の浜田幸一とも青年団活動を通じて親しくなり、国会活動の際には党派をこえた友情関係があったとされる。
政界への進出[編集]
奥出雲の山林大地主である田部長右衛門(第23代)(1959年より島根県知事を3期12年務めた)より、強い支援を得て政界へ進出。島根県議会議員2期を経て、島根県全県区から第28回衆議院議員総選挙に34歳で立候補し、1958年(昭和33年)5月に初当選。同じく初当選を飾った金丸信、安倍晋太郎とは終生深い信頼関係を築く。その後も衆議院議員総選挙で、連続14回当選した(最後の選挙区は小選挙区制になっての初の選挙で島根2区から出馬)。
自民党内では佐藤派、後に田中派に所属。師とあおいだ佐藤栄作と、佐藤派五奉行の1人で早大雄弁会の先輩でもある橋本登美三郎の寵愛をうける。1964年(昭和39年)11月に佐藤内閣が誕生すると、内閣官房長官に就任した橋本の推薦で内閣官房副長官となり、次代をになうニューリーダーとして次第に頭角をあらわす。
また、長女・一子が金丸信の長男・康信に嫁ぎ、金丸信との盟友関係はより一層強固なものとなった。この結婚は佐藤栄作の妻・寛子のすすめによるという。
1971年(昭和46年)7月、就任当時歴代最年少となる47歳で第3次佐藤内閣の内閣官房長官として初入閣。田中内閣でもふたたび内閣官房長官となる。その後も三木内閣で建設大臣、第2次大平内閣で大蔵大臣を歴任した。中曽根内閣では4期連続して大蔵大臣に就任。在任中は1983年(昭和58年)2月からのハイテク景気で日米貿易摩擦が多くなり、1985年(昭和60年)にはドル高是正のために先進5カ国の「プラザ合意」にくわわり、バブル景気がはじまることになる。
新派閥経世会の誕生[編集]
1985年(昭和60年)2月、派閥領袖の元首相・田中角栄に反旗をひるがえすかたちで、金丸らの協力を得て田中派内に勉強会「創政会」を結成。当初はなかなか煮え切らない竹下の態度を周囲は心配したが、田中との会談中「俺がもう一回やってからお前がやれ」との発言に決意を固めたといわれている。反田中派の動きに激昂した田中の猛烈な切り崩しに遭うも、田中はそのさなかに脳梗塞で倒れる。
やがて田中派内部は派閥会長の二階堂進派と創政会派、そして派内融和の中間派の三つにわかれる。その後、二階堂と竹下はしのぎを削るが二階堂は高齢で資金力が乏しく、また田中の威光が弱まった結果、中間派を取り込んだ竹下は1987年(昭和62年)7月、「経世会」(竹下派)として正式に独立。竹下派には田中派141人のうちの118人が参加し党内最大派閥の領袖となった。田中の意に反した竹下派への参加を潔しとしない田中派メンバーは徹底的に追い詰められ、田中派会長の二階堂を中心とする少人数のグループ(二階堂グループ)へと転落した。
このときのメンバーだった橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、羽田孜、そして田中側近の小沢辰男に近いことから当初参加せず後から参加した奥田敬和、口が軽いとみられ早稲田の後輩ながら誘われなかった渡部恒三は後に竹下派七奉行と呼ばれた。後の幹部に野中広務、綿貫民輔、村岡兼造らがいた。また、のちに民主党代表となる鳩山由紀夫、岡田克也も若手として所属していた。
このころ新人代議士となった武村正義・石破茂は田中派新人候補として衆院選出馬を希望したが滋賀県全県区山下元利・鳥取県全県区平林鴻三がそれぞれの選挙区で田中派現職としていたため、武村には福田派幹部安倍晋太郎を、石破には中曽根派幹部渡辺美智雄を紹介し国政進出のチャンスをあたえた。
内閣総理大臣[編集]
経世会を結成した1987年(昭和62年)の11月に、中曽根康弘首相の裁定により安倍晋太郎、宮澤喜一の2人をおさえ第12代自民党総裁、第74代内閣総理大臣に就任した。
首相としては初の地方議会議員出身者で、同時に初の自民党生え抜き(初当選は保守合同後初の総選挙:1958年5月)であった。また竹下は昭和最後の総理大臣でもあった。
首相時代の答弁は「言語明瞭・意味不明瞭」と評され、回りくどい表現が多いことで有名だった。
おもな施策では、全国の市町村に対し1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて地方交付税として一律1億円を支給するふるさと創生事業を実施。また、野党や世論に強硬な反対意見が多かった税制改革関連法案を強行採決で可決し、日本初の付加価値税である消費税を導入。日米貿易摩擦の懸案の一つだった牛肉・オレンジについて、日米間の協議で輸入自由化することで合意の3点があげられる。
事件では1988年(昭和63年)にリクルート事件が発覚し、政治不信が高まった。竹下自身の疑惑も追及され、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が1989年(平成元年)4月26日に自殺している。
こうした状況のなか世論の反発を受け、支持率がついに3.9%に落ち込むまでにいたり、財界も石原俊(経済同友会代表幹事、日産自動車会長)らが公然と竹下の退陣をせまり、1989年(平成元年)6月3日に内閣総辞職に追い込まれた。内閣総辞職直前には竹下登邸周辺でデモもおきた。この竹下邸は旧佐藤栄作邸である。
総理大臣退任後[編集]
首相辞職後も表向きは「玉拾いに徹する。」といいつつも、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一という歴代の内閣誕生に関与するなど、政権に強い影響力を持っていた。しかし、1992年(平成4年)に東京佐川急便事件が発覚。1987年(昭和62年)の総裁指名に関連したほめ殺しで知られる皇民党事件が報道されるなど、ますます政界不信が高まり自民党支持がへる原因となった。
1992年(平成4年)10月、東京佐川急便からの5億円闇献金事件の責任を負って金丸信が議員辞職、竹下派会長辞任に追いこまれると、後継会長に小渕恵三を推す派閥オーナーの竹下と、羽田孜を推す会長代行の小沢一郎の主導権争いは激しくなった。竹下は中立を守っていた参議院竹下派に対する多数派工作などをおこない、小渕を強引なかたちで後継会長にすえた。これに反発した小沢、羽田らが新派閥・改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂状態となった。この派閥は1993年(平成5年)6月に自民党から離脱し、新生党となった。そして同年7月18日の総選挙で自民党は過半数割れし、新生党、社会党、日本新党など非自民8党連立による細川内閣が誕生。
自民党は1994年(平成6年)の社会党との連立による村山内閣発足を機に政権に復帰。村山内閣誕生に竹下も深く関与したことからふたたび隠然たる影響力を持つようになり、村山内閣後は竹下派出身者による橋本内閣、小渕内閣を実現させた。
竹下は、1999年(平成11年)4月から体調不良のため北里研究所病院に入院、表舞台にでることは少なくなった。かわって、竹下と同じ島根県出身で「竹下の黒子」といわれていた参議院議員・青木幹雄が政界の実力者として取り上げられることが多くなった。容態は次第に悪化し、4月に小渕が倒れたとの一報を聞いたことも手伝い、引退を決意する[7]。そして2000年(平成12年)5月1日、病床で録音した竹下の引退宣言のテープを、当時の小渕派の最高幹部たちが本人不在のなかで記者会見において発表した。そこで次回の衆議院議員選挙に立候補しないことを表明し、政界からの引退を宣言した。引退表明後は議員でなくなったことで気力が失われたのか急激に弱っていったという[8]。
第42回総選挙期間中の2000年(平成12年)6月19日、北里研究所病院にて膵臓癌、発表では脊椎変形症による呼吸不全のため死去、享年76。6月21日に築地本願寺にて密葬が行われた。法名は顕政院釋登涯。選挙区地盤をゆずられた異母弟の竹下亘は錦織淳らをしりぞけ当選している。
竹下をしのび、生前交流があった関係者の好意、浄財によって、7回忌に当たる2006年(平成18年)5月、竹下登記念館が建てられた[3]。
エピソード[編集]
- 初当選した衆院選の公示日に出雲市の目抜き通りで「島根に生まれ、島根に育ち、やがて島根の土になる」と第一声を上げた。
- 口癖は「〜だわな」。これは出身地の方言(出雲弁)の影響である。
- 国会答弁などでは、はきはきと発言するが文章全体の意味がつかめないという、言語明瞭・意味不明瞭な竹下語を駆使し、野党に言質をあたえることがなかった。竹下の秘書出身で、のちに参議院のドンとよばれる青木幹雄にもこの傾向があるとされる。
- 「気配り・目配り・金配りで総理になった」といわれる人間関係の達人であり、与野党・財界・官界に幅広い人脈を持ち、どこにも敵をつくらない人物だった。他派閥の中曽根康弘によく仕え、総理時代はライバル派閥の安倍晋太郎と盟友関係を築いた。他に宇野宗佑、海部俊樹、藤波孝生、河野洋平、三塚博、武村正義、他党では村山富市、山口鶴男、矢野絢也、塚本三郎などと交流があった。「反経世会」を掲げた小泉純一郎(後に首相)とも大蔵大臣-大蔵政務次官としてコンビを組んだ間柄であり、悪い関係ではなかった。
- 早稲田大学のOB親睦会である稲龍会の名誉会長であり、母校を通じた人脈も重要だった。岡田克也の政界入りの契機となったのは、竹下が早大の後輩として親しかった岡田元也に声をかけたことである。
- 宮澤喜一は竹下に対して「あなたの頃の早稲田は無試験だったんですってねえ」などと言い放ち、温厚な竹下も「あれは許せないよ」と怒っていたという。もっとも、その話を聞いた佐々淳行が、「でも早稲田でも試験くらいあったんでしょう?」と尋ねたところ、竹下は「それがね、無試験だったんだよ」と答えた由である[9]。
- 清和会に所属していた作家石原慎太郎(竹下内閣で運輸大臣)も、(回顧録ほかの)独自の文章表現で、政治的な天才と評している。なお石原は宮澤をもっとも毛嫌いしていた。
- 1988年(昭和63年)、消費税導入が可決されるとリクルート事件の影響もあって国民から厳しい批判を浴び、内閣支持率は史上最低に落ち込んだ。しかし竹下は「消費税を導入したことは後世の歴史家が評価してくれる」と語った。実際、現在において竹下内閣の最大の功績は大平、中曽根両内閣が実現できなかった消費税導入を実現したこととするみかたが一般的である。
- 自社さ連立政権で行政要職経験もなく突然不慣れな内閣総理大臣の職を務めた村山富市にとって、同い年の竹下は党派を超えて「良き相談相手」だったことを語っている[10] (竹下は1924年(大正13年)2月26日生まれ、村山は同年3月3日生まれと1週間しか誕生日が離れていない)。竹下もまた、為替問題など村山に初歩から教えたことを述懐している[11]。
- 元社会民主党、衆議院議員の辻元清美はこれまでで一番おもしろいと思った政治家は誰かの質問に真っ先に竹下の名前をあげている。
- 佐藤政権時代、ズンドコ節の替え歌を作り「講和の条約吉田で暮れて 日ソ協定鳩山さんで 今じゃ佐藤で沖縄返還 10年たったら竹下さん トコズンドコ ズンドコ」と宴席で歌っていた。田中政権の時は佐藤の部分が「今じゃ角さんで列島の改造だ」となる。
- 経世会の議員は中選挙区時代に自民党同士のあらそいになった場合でも落選することが少なかった。「選挙上手」が多いことで知られていたが、これは竹下の選挙戦略を用いていたため、といわれる。竹下自身「私の専門は選挙学」と言い、周囲から「選挙の神様」と呼ばれていた。
- 総理就任後、2週間も経たないうちに首相官邸にて右翼団体幹部と面会し、一部からはその見識を問う声が上がった。
- 長年田中派の後継者と見られていながら、頭をおさえられ耐え忍んでいたため、当時NHKで放送されていたドラマになぞらえておしんと呼ばれていたこともあった。
- 孫の影木栄貴、DAIGOや妻の直子によると、総理に就任し帰宅した時の一声は「アイムソーリ、ボクソーリ」で、この台詞がお気に入りだったという。
- ジャーナリストの後藤謙次によれば、孫のDAIGOが髪を青く染めたとき、竹下は「おい後藤、ロックってのは髪を青くしなきゃできないのか」とたずねたという。
- 絶対に人の悪口をいわないことで有名だった。また、「石橋どころか二重橋でも叩いて渡る」といわれたほどの異常な慎重さでも知られる。
- 他人を絶対怒らないことでも有名。航空隊員として出征した竹下は当時すでに結婚していたが、基地を訪ねてきた妻・政江を痛罵した。しかしそれにショックを受けた政江は、島根に帰った後自殺してしまう。このことがトラウマになった竹下は以後他人を叱れなくなったという。
- リクルート事件もあって首相在任中は週刊誌を中心に金権政治批判を受けていたが、週刊誌を告訴するよう迫った側近に対し、「権力者というものはそういうことをすべきではない」と側近をたしなめた。
- 死後、元韓国大統領・金泳三が早稲田大学で行った講演の中で、日韓共催サッカーW杯の発案者が竹下であることを明らかにした。
- 竹下は国会日程、外交日程、皇室行事その他各種政治イベントの日程や政局のキーマンの選挙区事情から政治資金の出所まで細かく把握し、有利な政治日程をつくることに長けていた。自民党内の権力闘争が激化する等政局含みの情勢になって政治日程が読みにくくなっても、竹下から今後の政治日程に関する「竹下カレンダー」なるものが政界やメディアに流れ、その見通しはほとんど狂わなかった。
- 「平成」の元号を公式発表した際に使用された平成の文字を墨書した半紙を記念品として所蔵しており、20世紀末年になってバラエティ番組で所有の事実を公表した(番組に出演はせず、会場とは電話でのやりとりをしたのみであった。電話応対の声は年齢を感じさせぬほど大きく、現役当時と変わらず言語明瞭であった、その後、ふたたびバラエティ番組で映像で映された)。この平成と書かれた半紙は、孫のDAIGOが「うたばん」や「めちゃ×2イケてるッ!」などに出演した際に持ち込んでいる。「うたばん」で鑑定士にみてもらった際には「価値が高すぎて鑑定できない」といわれた。
- 書道を趣味とした。
- 昭和から平成になったときの首相であることはあまりにも有名だが、大正から昭和になったときの首相若槻禮次郎も島根県出身である。
- 昭和天皇が1988年(昭和63年)9月19日に吐血し、崩御するまでの最後の3ヶ月の間、竹下は好きなゴルフを断ち、いつでも緊急事態に対応できるようにと皇居から30分以内の場所にしか外出しなかったことを妻の直子と次女が証言している[12]。
- その影響力から、島根県を「竹下王国」と比喩されることがある。竹下本人の死後は青木幹雄にちなんで「青木王国」とも。小沢一郎の地元である岩手県が、いわゆる「小沢王国」と呼ばれるのも、これに関連する。2007年(平成19年)の参議院選挙で、景山俊太郎が落選したことにより、自民党がすべて占めていた島根県の衆参の議席の一角が崩れることになった。
- 孫の影木栄貴いわく「政治オタク」で、孫たちにも何かにつけ長々と政治や行政の話をして聞かせ、最後の入院生活で容態が徐々に悪化していくなかでも税制や選挙の話を喋り続けていたほどだったという[13]。
- 毎年娘達とその家族を富士の裾野に持っていた別荘に呼び寄せて過ごし、長いときには1ヶ月近く孫達を滞在させていた。孫たちには「周りの人にいつも感謝しなきゃいかん」が口癖だったという[13]。この別荘には安倍晋三なども訪れたことがある。竹下の出世に伴い警備が厳しくなり孫達も思うように別荘の周辺で遊べなくなったため、孫の1人である影木栄貴は当時日記でぼやいていたという[14]。
- 自宅には麻雀ルームがあり、麻雀を趣味としていた。政界の著名人を集め、よく打っていたようである。妻と一緒に麻雀を打っていた際、妻が天和を出し、記念にみんなで色紙にサインをした。その時に打っていた面子は竹下、妻、小渕恵三、川内康範である。
- 血液型はB型。
略歴[編集]
- 1941年(昭和16年) - 島根県立松江中学校卒業
- 1942年(昭和17年) - 第一早稲田高等学院入学
- 1947年(昭和22年) - 早稲田大学卒業
- 1951年(昭和26年) - 島根県議会議員選挙に初出馬して当選。
- 1958年(昭和33年) - 第28回衆議院議員総選挙に出馬し、島根全県区でトップ当選。
- 1964年(昭和39年) - 内閣官房副長官(第1次佐藤内閣、第1次佐藤第1次改造内閣、1966年7月まで)
- 1971年(昭和46年) - 内閣官房長官(第3次佐藤改造内閣、1972年7月まで)
- 1974年(昭和49年) - 内閣官房長官(第2次田中角榮第2次改造内閣、1974年12月まで)
- 1976年(昭和51年) - 建設大臣(三木内閣、1976年9月まで)
- 1978年(昭和53年) - 衆議院予算委員長(第87回国会)
- 1979年(昭和54年) - 大蔵大臣(第2次大平内閣、1980年7月まで)
- 1982年(昭和57年) - 大蔵大臣(第1次中曾根内閣、第2次中曾根内閣、第2次中曾根第1次改造内閣、第2次中曾根第2次改造内閣、1986年7月まで)
- 1985年(昭和60年) - プラザ合意
- 1986年(昭和61年) - 自由民主党幹事長(1987年10月まで)
- 1987年(昭和62年)
- 1988年(昭和63年) - 大蔵大臣(竹下内閣、1988年12月まで)
- 1989年(平成元年) - 6月3日 内閣総辞職
- 1992年(平成4年) - 経世会分裂
- 1999年(平成11年) - 4月、変形性脊椎症のため入院。
- 2000年(平成12年)
受賞歴[編集]
栄典[編集]
家族・親族[編集]
- 祖父 - 儀造
- 父 - 勇造(酒造業、政治家元島根県議会議員)。明治33年(1900年)6月生 - 昭和59年(1984年)3月没
- 実母 - 唯子
- 異母弟 - 三郎(株式会社「竹下本店」代表取締役社長[1][15])
- 異母弟 - 亘(NHK記者から登の秘書となり、登の引退後、地盤を継ぎ政治家となった)。昭和21年(1946年)11月生 -
- 異母妹(医師に嫁ぐ)[5]
- 前妻 - 政江(旧姓竹内)
- 後妻 - 直子(島根県、銀行員遠藤捨次郎の娘)。大正15年(1926年)9月生 - 平成22年(2010年)9月没
- 長女 - 一子(山梨県、政治家金丸信の長男康信の妻)
- 次女 - まる子(毎日新聞政治部記者をへて竹下の秘書をつとめた内藤武宣[16]の妻)
- 三女 - 公子(竹中工務店創業者一族で同グループ内のTKリアルティ専務取締役に就いた竹中祐二の妻、ゴルフグッズなどの販売会社「株式会社たけみ会」代表取締役[17])
- 孫 - 次女まる子の娘にあたる漫画家の影木栄貴と、その弟でミュージシャンのDAIGO(内藤大湖、BREAKERZ)は孫。竹下の初孫にあたる長女一子の娘はかつて「幽木遊貴」のPNで従妹の影木と同人誌活動をおこなっていた。ほかに一般人の孫(男子)が2名。
- 遠縁 - おなじ島根県出身の加藤辨三郎(元協和発酵会長)は遠縁にあたり、「おじさん」「登」と呼びあっていたという[18]。
系譜[編集]
家系[編集]
江戸時代、竹下家は山林大地主田部家傘下で庄屋(現在の村長)を務めた関係から、慶応2年(1866年)酒造りの権利である「酒座」を同家から譲り受けた[19]。日本三大山林王としての田部家の財力は、島根を支配するとまで称されていた[20]。 戦前の竹下家は「田部家の“中番頭”」ではあったものの、掛合地区では圧倒的な権勢を誇っていた[21]。戦後の農地解放で、竹下家が手放した農地と山林は、『掛合町誌』によれば合計約五百六十九反(十七万七百坪)に上っている[21]。これは、掛合地区で3番目に多く農地と山林を手放した地主であった[21]。
- 祖父・儀造
- 父・勇造
- 島根県出雲市今市町出身[23]。武永貞一(武永明文舎印刷工場経営主[24])の弟[23]、竹下儀造の養子[23]。
- 父・勇造は、昭和16年(1941年)掛合村の名誉村長を務め[22]、昭和17年(1942年)島根県議会議員となった[22]。戦後公職追放が解かれた後、掛合町の教育委員長を17年にわたって務めた[22]。
- 勇造は、妻唯子を失った寂しさからか、何かと政江に“干渉”したという[25]。竹下後援会の「きさらぎ会」の元幹部によれば、「勇造さんは、敗戦を意識して自暴自棄になっていたのかもしれないが、その執拗な“干渉”は、毎夜のように政江さんを悩ましていました[25]。政江さんは、ノイローゼ状態となり、睡眠薬を手放せなくなっていたのです[26]」という。
- 竹下家関係者は勇造について「勇造さんは、いまでいう“逆玉”ですわ[27]。家つきの娘と結婚して、気楽な生活を楽しんでました[27]。家業の酒造りは、奥さんと番頭さんにまかせっきりで、政治談議をはじめると尽きることがない[27]。ですから、朝はいつも11時前には起きてきたことがない[27]。“まだ寝ちょって起きない”といってよく起こしたものです[27]」と述べている。
- 実母・唯子
- 「たいへん進歩的な人だったようで、当時、松江中学の教師をしていたマルキストの福本和夫の影響を強く受け、先祖代々つたわっていた“日の出正宗”という酒の名前を“大衆”という名に変えてしまい、二級酒しか造らせなかったという人である。“人のために生きろ”というのが口癖で、竹下もその薫陶を受けて育った。幼少の頃から政治的環境にあったというべきだろう」と評されている[28]。
- 後妻・直子
- 直子は、竹下家とは親戚筋にあたる遠藤捨次郎、周子を両親に大正十五年九月に出生[29]。両親はともに島根県人だったが、銀行員だった父の任地の関係で、直子自身はほとんど東京で暮らしている[29]。島根には、学生の頃、“夏休みなどにおじいちゃん、おばあちゃんのところに帰るぐらい”だったと、雑誌の対談で語っているが、実は、戦時中竹下家に疎開していたことがあった[29]。竹下の父・勇造の兄と、直子の母・周子の姉が結婚していることもあって、竹下が早稲田大学第一高等学院の受験に上京したときは、直子の家に泊まるなど、両家の交流は比較的頻繁に行われていた[29]。
- 長女・一子
- 結婚について、神一行 (2002, p. 191)によれば、「この結婚話を持ってきたのは佐藤栄作夫人の寛子だった。康信が早大卒業後、NHKの放送記者をしているころだ。一度の見合いで話は即座に決まった。」という。晩年の金丸信の介護を献身的に務めていた。
- 現在は山梨県南アルプス市の特別養護老人ホーム「白根聖明園」の施設長を務める[30]。
杉山寧━━瑤子 ┃ 平岡定太郎 ┏平岡公威 ┃ ┃(三島由紀夫) ┣━━平岡梓 ┃ ┃ ┃ ┃ 永井岩之丞━━━夏子 ┣━━┫ ┃ ┃ 橋健三━━━倭文重 ┃ ┃ ┗平岡千之 ┃ 近藤三郎━━近藤晋一 ┃ ┃ ┏夏美 ┣━━━┫ ┃ ┗久美 ┏寿美 ┃ 竹中藤右衛門━━╋竹中宏平━━竹中祐二 (14代) ┃ ┃ ┗竹中錬一 ┃ ┃ ┃ 米内光政━━━━和子 ┏公子 (元首相) ┃ 嶋崎均 ┃ ┃ ┃ ┏築子 ┃ ┃ ┃ ┗直子 ┃ ┣━━━┫ ┏竹下登 ┃ ┃(元首相)┃ ┏竹下勇造━━━━╋竹下三郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗武永貞一 ┗竹下亘 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣まる子 ┏栄子(影木栄貴) ┏雅子 ┃ ┣━━━┣男━━━男 福田正━━━━━┫ ┃内藤武宣 ┗大湖(DAIGO) ┗和子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 小沢佐重喜━━━━小沢一郎 ┃ ┗一子 ┣━━━女(幽木遊貴)━━━子 金丸信━━━金丸康信
語録[編集]
- 「汗は自分でかきましょう、手柄は人にあげましょう」
- 「組織しつつ選挙し、選挙しつつ組織する」(選挙学の要諦を表す標語)
- 「歌手1年、総理2年の使い捨て」
- 「一内閣一仕事」
- 「我が道を行く」(生家の清酒の銘柄にもなっている)
- 「参議院を笑う者は参議院に泣く」
著書[編集]
- 『素晴らしい国・日本—私の「ふるさと創生論」』講談社、1987年10月、ISBN 406203719X
- 『証言・保守政権』読売新聞社、1991年11月、ISBN 4643911085
- 『竹下登 平成経済ゼミナール—数字で見る戦後の日本』日経BP出版センター、1995年12月、ISBN 4822740390
- 『政治とは何か—竹下登回顧録』講談社、2001年1月、ISBN 4062105020
脚注[編集]
- ^ a b “すっぴんの造り酒屋(出雲誉)竹下本店”. ティーエム21. 2011年7月14日閲覧。
- ^ 神一行 2002, p. 185.
- ^ a b 竹下本店 竹下登記念館
- ^ a b 岩瀬達哉 2002, p. 20.
- ^ a b 岩瀬達哉 2002, p. 18.
- ^ 岩瀬達哉 2002, p. 66.
- ^ 影木栄貴 2009, p. 67.
- ^ 影木栄貴 2009, p. 68.
- ^ 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち』(文春文庫)
- ^ 引退議員が政治に喝! 東京放送『票決ライブ2000』
- ^ 『政治とは何か―竹下登回顧録』
- ^ 『ドキュメント 昭和が終わった日』(佐野眞一/文藝春秋)より
- ^ a b 影木栄貴 2009.
- ^ 『踊る!さんま御殿』2010年3月9日放送分より
- ^ 竹下本店 会社概要
- ^ 神一行 (2002)には「内藤武宜」と表記されているが「内藤武宣」が正しい
- ^ デコ・デ・グリーン物語
- ^ 『「天下取り」の人脈・金脈・戦略』69頁
- ^ 岩瀬達哉 2002, p. 71
- ^ 岩瀬達哉 2002, p. 70
- ^ a b c 岩瀬達哉 2002, p. 74
- ^ a b c d 岩瀬達哉 2002, p. 75
- ^ a b c 『新日本人物大観』(島根県版) 人事調査通信社 昭和32年(1957年) タ…267頁
- ^ 『新日本人物大観』(島根県版) 人事調査通信社 昭和32年(1957年) タ…141頁
- ^ a b 岩瀬達哉 2002, p. 25
- ^ 岩瀬達哉 2002, p. 25,26
- ^ a b c d e 岩瀬達哉 2002, p. 69
- ^ 神一行 2002, p. 186.
- ^ a b c d 岩瀬達哉 2002, p. 28
- ^ リベラルタイム社刊「月刊リベラルタイム 2007/09/03発売号」より
参考文献[編集]
- 『田部長右衛門(朋之)先生追悼録』 1981年 12、59頁
- 花岡信昭・小林静雄著 『竹下登・全人像』 行研出版局 1987年 ISBN 4905786630
- 塩田潮著 『実録 竹下登』 講談社 1987年 ISBN 4062037580
- 浜田幸一著 『日本をダメにした九人の政治家』 講談社 1993年 ISBN 406206779X
- 岩瀬達哉 『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』 新潮社〈新潮文庫〉、2002年。ISBN 4101310319。
- 神一行 『閨閥―特権階級の盛衰の系譜』 角川書店〈角川文庫〉、2002年、181-196頁。
- 小林吉弥著 『竹下登 不敗の人間収攬術』 講談社 2001年 ISBN 4062108917
- 清宮龍著 『盛田昭夫・竹下登・フルシチョフ 指導者達の素顔』 善本社 2002年 ISBN 4793904173
- 鈴木健二著 『「天下取り」の人脈・金脈・戦略』 政界出版社 1983年
※著者は元NHKアナウンサーの鈴木健二とは別人の毎日新聞政治部記者(当時)。 - 影木栄貴著 『エイキエイキのぶっちゃけ隊』 新書館 2009年
- 影木栄貴著 『エイキエイキの裏ぶっちゃけ隊』同人誌 2009年
- 影木栄貴著 『エイキエイキの裏ぶっちゃけ隊Z』同人誌 2010年
- 『新訂 現代日本人名録2002』 日外アソシエーツ 2002年
- 御厨貴著 『知と情 宮澤喜一と竹下登の政治観』 朝日新聞出版 2011年 ISBN 4022508477
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 歴代総理の写真と経歴 竹下登
- 竹下本店 - 竹下の生家が経営する「株式会社 竹下本店」のサイト
- 竹下登
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 中曽根康弘 |
第74代:1987年 - 1989年 |
次代: 宇野宗佑 |
| 先代: 金子一平 渡辺美智雄 宮澤喜一 |
第84代:1979年 - 1980年 第86・87代:1982年 - 1986年 第90代:1988年(兼任) |
次代: 渡辺美智雄 宮澤喜一 村山達雄 |
| 先代: 三木武夫(臨時代理) |
第38代:1976年 |
次代: 中馬辰猪 |
| 先代: 保利茂 二階堂進 |
第35代:1971年 - 1972年 第38代:1974年 |
次代: 二階堂進 井出一太郎 |
| 先代: 斎藤邦吉 |
1964年 - 1966年 |
次代: 木村俊夫 |
| 議会 | ||
| 先代: 小此木彦三郎(代理) |
1978年 - 1979年 |
次代: 田村元 |
| 党職 | ||
| 先代: 中曽根康弘 |
自由民主党総裁 第12代:1987年 - 1989年 |
次代: 宇野宗佑 |
| 先代: 金丸信 |
自由民主党幹事長 第23代:1986年 - 1987年 |
次代: 安倍晋太郎 |
| 先代: 結成 |
経世会会長 初代:1987年 |
次代: 金丸信 |
| 第73代 中曽根康弘 |
第74代 1987年 - 1989年 |
第75代 宇野宗佑 |
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