西園寺公望

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日本の旗 日本の政治家
西園寺 公望
Kinmochi Saionji 2.jpg
大勲位菊花章頸飾を佩用した西園寺(1928年昭和3年〕)
生年月日 1849年12月7日
(旧暦嘉永2年10月23日
出生地 山城国京都
没年月日 1940年11月24日(満90歳没)
死没地 静岡県庵原郡興津町
(現 静岡市清水区)
出身校 ソルボンヌ大学
所属政党 立憲政友会
称号 従一位
大勲位菊花章頸飾
公爵
親族 徳大寺実則
加藤泰秋義兄
相良頼基(義兄)
相良頼紹義弟
西園寺八郎婿養子
高千穂宣麿
鷹司煕通義甥
島津忠重(義甥)
西園寺一晃(曾孫)
サイン SaionjiK kao.png

内閣 第2次西園寺内閣
任期 1911年8月30日 - 1912年12月21日
天皇 明治天皇

日本の旗 第12代 内閣総理大臣
内閣 第1次西園寺内閣
任期 1906年1月7日 - 1908年7月14日
天皇 明治天皇
大正天皇

日本の旗 第10代 文部大臣
内閣 第3次伊藤内閣
任期 1898年1月12日 - 4月30日

日本の旗 第9-10代 外務大臣
内閣 第2次伊藤内閣(文相兼任)
第2次松方内閣(文相兼任)
任期 1896年5月30日 - 9月22日

日本の旗 第7代 文部大臣
内閣 第2次伊藤内閣
第2次松方内閣
任期 1894年10月3日 - 1896年9月28日

その他の職歴
日本の旗 貴族院議員
1890年2月 - 1940年11月24日
Flag of Niigata Prefecture.svg 第2代 新潟府知事
1868年10月28日 - 1869年2月20日
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1871年1880年、パリ留学時代

西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日1849年12月7日) - 昭和15年(1940年11月24日)は、日本公家政治家教育者位階勲等爵位従一位大勲位公爵雅号は陶庵、不読、竹軒[1]

新潟府知事などを経て、貴族院議員(貴族院侯爵議員、のちに貴族院公爵議員)を務め、貴族院副議長に就任した。第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、その後成立した第2次松方内閣でも引き続き文部大臣と外務大臣を務めた。第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。第4次伊藤内閣では班列として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。

その後、伊藤博文の後継として立憲政友会総裁に就任した。桂太郎の後任として内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣第2次西園寺内閣を組閣した。なお、第1次西園寺内閣では、文部大臣臨時兼任や外務大臣臨時兼任なども務めている。西園寺と桂とが交互に政権を担当したことから、この時代は「桂園時代」と称された。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇昭和天皇を輔弼した。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生(幼名美丸:よしまる、美麿とも)。4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。幼少時には、住まいが御所に近く、年齢も近かったことから、祐宮(後の明治天皇)の遊び相手として度々召された。

幕末・明治維新[編集]

西園寺には、岩倉具視三条実美のような幕末期における政治的功績はほとんどなかった。ただ鳥羽・伏見の戦いがはじまると、朝廷ではこれを徳川家島津家の私闘と見なす意見が出る中にあって、積極的な関与・主戦論を主張し岩倉ら倒幕派公卿に注目された。王政復古の際は三職の1つ、参与を務める。

以後の戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、奥羽征討越後口大参謀として各地を転戦する。その後は新潟府知事などを歴任した。また公卿の中で初めて散髪洋装で宮中に参内し、大原重徳ら未だ多く残る攘夷派公卿の怒りを買ったエピソードも自著(『陶庵随筆』)で披瀝している。

官を辞した西園寺はフランス留学を考えるようになり、東京長崎でフランス語の勉強を始めた。東京では前原一誠と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」(『金毘羅利生記』の主人公・田宮坊太郎に由来)と名乗ったこともあった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。やがて大村益次郎の推薦によって明治4年(1871年)、官費(のちに減額を申出ている)でフランスに留学した。

フランス行きの船内では、地球が球体であることを得心したり、白人少年に別れのキスを求められて戸惑うといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。

普仏戦争敗北と第二帝政の崩壊、かわって樹立された革命政府パリ・コミューンとドイツ軍によるその鎮圧という、混乱の真っただ中のパリに到着した西園寺は、以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想、文化を吸収していった。その間、後にフランスの首相となるクレマンソーや、留学生仲間の中江兆民松田正久らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。ソルボンヌ大学で勉学に勤しむ一方で随分と遊蕩もし、フランス人女性にもたいそう人気であったと伝えられる。また、金銭が尽きると二束三文のナマクラを正宗と偽って売りつけていた(いわゆる「西園寺正宗」)。なお、第一次世界大戦後のパリ講和会議1919年)に日本の全権特使として出席した西園寺とパリ留学時代を同じ下宿で過ごした親友クレマンソーとの友情は、講和会議での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。

パリ留学で自由思想を学んだ西園寺は自由民権運動に傾倒し、明治14年(1881年3月18日には、自由党結党に向けて創刊された『東洋自由新聞』の社長となり、中江兆民、松田正久らと共に発行に携わる。西園寺が自由民権運動に加担することは政府や宮中で物議を醸し、右大臣の岩倉具視が働きかけた明治天皇の内勅により退社を余儀なくされ、東洋自由新聞は4月30日発行の第34号にて廃刊に追い込まれた。この時の西園寺はあらゆる圧力に屈することはなかったが、天皇の内勅がでると呆気ないほど簡単に身をひいてしまった。この事件での彼の行動は、彼の生涯にわたる世界観・政治観を端的に表しているともいえる。

西園寺はフランスで身に付けたリベラルな思想と名門公家の責務として皇室の藩屏たらねばならない意識というある意味で相反するものを共に有していた。そして、この相反する二つを整理し融合したことから独特な世界観・政治観を持つ政治家へと成長した。このことは時に彼を優柔不断に見せたが、後述する天皇への諫言は極めて適切であったといえ、西園寺の政治家としての真骨頂を感じられる。西園寺は絶対天皇制の持つ、やがては皇室の存続をも危うくさせる危険性を早くから見抜いていた。

政治家としての西園寺[編集]

西園寺の政治家としてのキャリアは明治15年(1882年)、伊藤博文の憲法調査のためにヨーロッパを歴訪した際、それに随行したことにはじまる。ヨーロッパで伊藤の知遇を得た西園寺は、明治27年(1894年)に第2次伊藤内閣の文部大臣として初入閣を果たし、明治33年(1900年)には立憲政友会旗揚げに参画した。明治36年(1903年)には伊藤の後を受けて政友会総裁となり、明治39年(1906年)と同44年(1911年)の2回にわたって内閣総理大臣に任命される。

西園寺は思想的にリベラルを自称し、衆議院での多数派政党が内閣を組織する憲政の常道を慣例にした。またフランス留学の影響からか親欧米的で、軍部などから国家主義に反する者として「世界主義者」と非難されることもあった。西園寺は政治力がなかったという見方をされることがあるがこれは事実とは異なり、山縣有朋の死後は政治力で彼を上回るものは当時の日本には存在しなくなった。宮中・財界との姻戚関係を背景に、西園寺は元老として宮中と国務、軍部の調整役を務め、日本の政治をリードし続けた。また、文部大臣在任中に教育勅語の改訂を試みるなど昭和初期の国家主義的政治家とは一線を画す言動を散発的に見せるが、軍部の勢力拡大に抵抗したものの、彼だけの力では戦争回避を成し遂げることはできなかった。

西園寺は立命館大学に寄贈した扁額に「藤原公望」と西園寺家の本姓で名前を記したように、自らが千年以上皇室とともにあった藤原氏の末裔であるという自覚を持っていた。また、幼い頃から皇室に親しんでいたこともあって、「皇室の藩屏」という意識が強く、それが政治姿勢となっていた。すなわち絶対的な権力を持つが故に誤謬が許されない天皇の親政に反対し続けた。これは田中義一張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の上奏の不一致を昭和天皇に叱責され内閣が総辞職した際、西園寺が天皇に累を及ぼすということを口実にして、天皇による田中への叱責に反対していたことから見ても明らかである。また、「立憲君主として、臣下の決定に反対しない」という昭和天皇の信条は西園寺の影響とする向きもある。しかしながらこの姿勢は一方で、皇道派将校の反感をも招いた。

桂園時代と大正政変[編集]

明治39年(1906年)には桂太郎の後を受けて第1次西園寺内閣を組織。そののち再び桂が総理となり、桂・西園寺会談での「情意投合」によって明治44年(1911年)には第2次西園寺内閣を組織した。桂と西園寺が交互に総理を務めたこの時代を桂園時代という。政友会の幹部は桂との対抗関係を強調し、西園寺も表向きはその姿勢を見せていたが、桂に「君と僕とにて国家を背負ふて立とうではないか」[2]と言うほどポスト元勲世代である2人の政治的な関係は良好であった。また、愛妾を同伴し酒を酌み交わすなど「蕩児」としての共通部分もあったようである。

第2次西園寺内閣は基盤とする与党・政友会が衆議院で絶対多数を占めたこともあり、行財政改革に着手した。大正2年(1913年)の予算策定に向けて歳出1割減を目標としたが、陸軍は2個師団の増設を要求し、海軍もまた戦艦3隻建造を予算案に盛り込んだ。陸軍は西園寺内閣を倒してでも2個師団増設を達成すべく奔走し、内閣があくまでも拒否との方針を示すと、陸軍大臣上原勇作大正天皇に直接辞表を提出した。

陸軍大臣には直接天皇に上奏する帷幄上奏が制度上認められてはいたが、閣僚が首相を通さずに直接天皇に辞表を提出したのは前代未聞のことであった。また、陸軍が後任の陸相を送らない限り、西園寺内閣は軍部大臣現役武官制の規定によって陸相が得られないこととなって辞職するよりほかなかった。当時、陸相辞任の影響は非常に大きかったのである。

西園寺は大正天皇に呼び出され、天皇の口から直接陸相の辞表提出の件を知らされた。後任の陸相について陸軍の実力者・山縣有朋にも相談したが、山縣が後任の陸相を出す気がないことを察すると、機先を制して総辞職した。

政友会を通じて内閣総辞職の内幕が知れ渡ると国民の間に俄かに「閥族打破、憲政擁護」の気運が高まり第1次護憲運動となった。政友会は立憲国民党犬養毅らと提携し、護憲運動の陣頭に立ち、西園寺内閣の後任の第3次桂内閣と対立した。ただし、政国提携や国民に向けた演説会などには西園寺は直接関わっておらず、これらは政友会の幹部である原敬松田正久、政友会員の尾崎行雄、国民党の犬養毅らが中心となっていた。

議会はもともと政友会が絶対多数であったので、議会が開始されると政友会・国民党は内閣不信任案を提出し桂内閣は窮地に立たされた。そこで政府側では、イギリスのジョージ5世即位の際、即位直後であることを理由に自由党保守党との政争をやめるよう命令して、それを実現させた話にならい、ちょうど大正天皇が即位して間もない頃だったので、勅語を出すという形で西園寺公望に対し政争を中止するように諭した。

政友会では天皇の意思であるならそれに従うよりほかはないと、不信任案を撤回して、ひとまずは桂内閣に貸しを作ろうという意見が一時有力になった。しかし、これに政友会会員尾崎行雄が強硬に反発した。それに対して西園寺は前述のように「天皇の藩屏」としての誇りと政友会総裁としての責任の間で板挟みとなってしまう。そして、犬養毅の助言で西園寺は政友会総裁を辞任し、政友会自体はあくまでも内閣退陣を要求するということになった。このとき、海軍の山本権兵衛が政友会本部を激励のために訪れている。

結局、護憲運動の高まりで桂内閣は大正2年(1913年)2月11日に辞意を表明した(大正政変)。同日、後継首相を決めるための元老会議が開かれた。このときの会議には西園寺もはじめて元老として出席した。しかし、政友会の代表としての出席ではなかった。会議では、最初に西園寺が後継首相に推薦されたが、これを受ければ勅語に反することになるとして西園寺は固辞した。結局、後継首相には山本権兵衛が決まった。

一連の処理が終わると、西園寺は改めて先の大正天皇からの勅語に違反した「違勅」の罪を理由に政友会総裁の辞任を表明した。「違勅」は近代法においては存在しないが、「天皇の藩屏」である事を第一としていた伝統的な公家社会においては最も重い罪の1つであった。また、第2次内閣時代には政友会内部を掌握し、鉄道建設など地方利益の追求に熱心であった原との間に確執が生じており、総裁辞任のため「違勅」を利用したのである。政友会の幹部達はこの「違勅」の論理に困惑して西園寺を慰留したが、西園寺の決意は揺らぐことは無かった。

最後の元老[編集]

1936年3月4日宮内省を退出して定宿としていた麻布の住友別邸に戻る西園寺
坐漁荘にて

西園寺は明治の元勲に一世代遅れて、大正天皇即位のときに元老に列せられている。これを最後に新たな元老が指名されることはついになく、大正13年(1924年)に松方正義が死去すると西園寺がただ一人の元老となった。これ以後、内閣総理大臣奏薦は西園寺が内大臣との協議により行うこととなった。

昭和元年(1926年12月28日践祚直後の昭和天皇は西園寺に対し特に勅語を与え(「大勲位公爵西園寺公望ニ賜ヒタル勅語」)、これにより、西園寺は「最後の元老」として引き続き内閣総理大臣奏薦の任に当たることが制度上確定、昭和15年(1940年)1月の米内内閣までは何らかの形で首班推奏に関与し続けることになる(第2次近衛内閣については奏薦を謝絶している)。

昭和3年(1928年)、張作霖爆殺事件の顛末の報告に対し、最初に不審を抱いたのが西園寺であった。西園寺は陸軍の仕業であることに気づき、静岡県興津より上京して首相・田中義一を呼びつけ、政府としてこの問題をしっかり調べ、もし犯人が日本人であるならば厳罰に処す必要があることを申し渡している。この件に関して田中も、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきとの考えを示したが、一向に実行にいたらないので西園寺は再び調査と報告を急かしている。そのいっぽうで、昭和天皇が田中を「もう田中の話は聞きたくない」と叱責したことについては、立憲君主の立場からすればふさわしくないとして、天皇を諫めている。

昭和11年(1936年)の二・二六事件事件においては、決起将校の一部が西園寺襲撃を計画していたが、実行されなかった。襲撃を主張する者は元老西園寺を「君側の奸」の最たるものと見なしていたのに対し、否定派は西園寺を天皇とのパイプとして利用することを表向きの口実としていたとも言われる。当時西園寺は腸の不調と神経痛があって興津の別邸にいた[3]が、事件の一報が入った後は静岡県警察部長官舎に移り、5日後の3月2日まで上京することができなかった。

二・二六事件の責任をとって総辞職した岡田内閣後の混乱を収拾すべく、西園寺は秘蔵っ子の貴族院議長・近衛文麿を後継首班に推奏するが、本人は病気を理由に固辞、やむなく外務大臣・広田弘毅を推奏した。

東京駿河台の本邸の他に、静岡県御殿場町の便船塚別荘、同じく静岡県興津の坐漁荘、京都の清風荘の各別荘に隠棲し、元老として重きをなした。最晩年になると、避暑のために御殿場に滞在する以外は、年の大半を冬期が温暖な坐漁荘で過ごしている。

昭和12年(1937年)、組閣大命を受けた宇垣一成の組閣が軍部の反対により失敗すると、西園寺は元老辞退を申し出た。元老拝辞はならなかったものの、内閣総理大臣奏薦は内大臣主導で行い、西園寺がそれを追認する形式となった。

同年の第1次近衛内閣成立以降は次第に政治の表舞台から退き、反対し続けた日独伊三国軍事同盟成立の2ヶ月後の昭和15年(1940年11月24日に死去した。享年92(満90歳没)。贈従一位。

最後の言葉は「いったいこの国をどこへもってゆくのや」であったと伝えられる。期待していた近衛文麿に離反され、首相に推薦したことを最後まで後悔していたという。

昭和16年(1941年)には近衛内閣のブレーンを務める孫の公一が、ゾルゲ事件に関与したとして逮捕されている。

西園寺と教育[編集]

学校法人立命館中川会館の「立命館」扁額
立命館大学衣笠キャンパスの西園寺記念碑と山梔子・南天竹

文部大臣時代の西園寺は、教養ある「市民」の育成を重視し、「科学や英語や女子教育を重視せよ」と言明していた。

明治23年(1890年)には井上毅らが作った「教育勅語」に反対し、明治天皇から教育勅語改定の許可を得るとともに「第二次教育勅語」の作成に取り組んだ。この「第二次教育勅語」の草案は西園寺家から立命館大学に寄贈されて現存している。

また、以下の教育機関の設立にも関っている。

私塾立命館[編集]

明治2年9月23日(1869年10月27日)、京都御所内の私邸に「私塾立命館」を創設。当時よく見られた公家家塾同様、賓師には漢学者らを招いた。しかし「私塾立命館」の性格は他の公家家塾のそれとは異なり、むしろ一般的な教育機関の性格を備えていた。塾生には西園寺門客・家臣のみならず多くの若者が遠方からも集まり、塾は次第に内外の時事問題を議論する場になっていったと伝えられる。諸藩から集まる若い塾生の中には地方の郷士の出も多くおり、記録によれば、西園寺の側近として最後まで行動をともにする中川小十郎(後の立命館大学創立者)の郷里の人間も多くいたようである。塾はそのあり方に不穏な空気を感じた京都府庁(太政官留守官)の差留命令により1年弱で閉鎖された。明治3年4月23日(1870年5月23日)のことであった。

西園寺は私塾立命館を閉鎖させた際、大層残念に思い再興を誓う。その後を継いだのが戊辰戦争以来西園寺の家臣として仕えた丹波国郷士・中川家出身の中川小十郎だった。中川は西園寺の文部大臣および総理大臣当時の公設秘書であり、その後も終生西園寺の側近として公と行動をともにする人物である。現在の立命館大学は、中川が明治33年(1900年)に創設した京都法政学校が「私塾立命館」の名跡を譲り受け発展したもので、西園寺の私塾との間に学校組織としての連続性はない。

だが西園寺は中川の創設した京都法政学校への支援を惜しまなかった。事実、京都法政学校の学園幹事には西園寺の実弟の末弘威麿が就任、同じく実弟の住友財閥当主・住友友純からも学園に大口の寄付が行われるなど、自分の持つ政治力、人脈を用いて京都法政学校(立命館大学)に協力している。また西園寺の寄付した多数の書籍は立命館大学(旧制)が大学昇格条件を満たすために為されたものであり、現在も「西園寺文庫」として立命館大学に貴重なコレクションとして保存されている。この他にも西園寺自身および西園寺家から学園に送られた寄贈品(校地記念植樹なども含む)は数百点にも及び、これらの一部は立命館学園が「学宝」として管理している。

また西園寺は西園寺家家紋である「左三つ巴」を立命館学園が使用することを許可しており、第二次世界大戦終戦までこれを染め抜いた旗が実際に学園で使用されていた。西園寺は中川が「立命館」の名称と精神の継承を西園寺に申し出た際にはこれを大層喜び、自ら揮毫した『立命館と由緒』の大扁額を与えている。後に西園寺は「余が建設せる立命館の名称と精神を継承せる貴学」と現在の立命館大学に言及しており、彼の作った立命館が再興し、受け継がれている事を喜んだ。昭和7年(1932年)、83歳になった西園寺は人生最後の京都訪問を行う。その際、立命館大学広小路校地を訪問先の一つに選んだ。9月22日の朝、京都市上京区にある立命館大学広小路学舎を訪れた西園寺は、校舎ホールに飾ってある自筆の『立命館』の扁額に気が付くとしばらく目を留めたといわれている[4]。  この『立命館』の扁額について、後に立命館大学記念式典に出席した西園寺裕夫(西園寺公望の曾孫)はこう語っている。

曽祖父は晩年、どちらかといえば女性的な字を書いていました。しかし弱冠20歳のときに書いた『館命立』の書は大変男性的であり、迫力があったのです。この力強さは当時志していた“新しい国づくり=人づくり”への思いの表れだったのではないかと思います[5][6]

この扁額のオリジナルは、学校法人立命館総長室に掲げられている。また、学校法人立命館「中川会館」(京都市中京区)玄関にも掲げられている。

その他にも、キャンパス内には西園寺にゆかりのある品々が残されている。立命館大学衣笠キャンパス内には、昭和10年(1935年)に西園寺が立命館大学に寄贈した山梔子・南天竹が植栽されている。また、立命館大学西園寺記念館の庭園には、かつて西園寺の東京駿河台本邸に置かれ、のちに学校法人立命館に寄贈された石灯籠が設置されている。

西園寺が没した昭和15年(1940年)に立命館大学は、創立とその後の教育に大きく貢献した西園寺公望を立命館学園の「学祖」とする法人決議を行った。西園寺家と立命館大学の交流は現代も続いており大学の行事に西園寺家の人々が出席している。

明治法律学校[編集]

明治13年(1880年)、フランス留学中に西園寺と仲間同士だった岸本辰雄宮城浩蔵矢代操らが創設した明治法律学校(後の明治大学)の講師に迎えられ行政法を担当したと言われている[7]

京都帝国大学[編集]

1894年(明治27年)、文部大臣に就任した西園寺が「高等教育の拡張計画」を立案。第一項に、東京帝国大学と相呼応して国家の需要に応じられる高等教育機関を京都にも設置することの必要性を挙げた。これに基づいて省内に設置した京都帝国大学「創立準備委員」が明治30年(1897年)「京都帝国大学ニ関スル件」(大学設置令)を公布し、京大創設の流れが固まった。当時、文部省専門学務局勤務から文部大臣秘書官として西園寺文部大臣直属となり、西園寺の私設秘書でもあった中川小十郎が、京都帝国大学初代事務局長に任命され大学業務を総括した。

日本女子大学[編集]

明治34年(1901年)、女子大学設立の援助を求め頻繁に中川小十郎邸を訪れていた成瀬仁蔵を後援し、日本女子大学校の設立発起人、創立委員に就任。中川を日本女子大学校創立事務幹事嘱託に置いた。

人物・逸話[編集]

  • 参内する時以外はほとんど常に和装だったが、一方で開明派・親英米派の重鎮でもあり、外交について「英米と一緒に采配の柄を握っていなくてはならない。采配で振り回される側になってはならない」と述べた。
  • 伊藤博文や井上馨に負けず劣らずの大変な女好きであり、花柳界では「お寺さん」として有名な通人であった。
  • 生涯権力や金銭に対する執着は乏しかった。この淡白な性質は上級公卿に生まれた育ちの良さからくるものであったといえよう。この点で終生の政敵・山縣有朋とは対照的であった[要出典]
  • 明治2年(1869年)、フランスへの留学生に推薦してくれた大村益次郎に礼を言うため彼の旅館を訪れる直前、親友の万里小路通房が駆け込んできて長談義となり、その間に益次郎は襲撃されるという事件が起こっている。
  • 明治30年(1897年)、前年まで外務大臣を務めた陸奥宗光が、山縣有朋を中心とする藩閥の打倒と議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが」と言って、周囲の見る目も痛わしいほどに落胆したという[要出典]

年譜[編集]

清水区興津清見寺町に復元された興津坐漁荘の海岸側外観
西園寺の国葬

※日付は明治5年まで旧暦

栄典[編集]

外国勲章等
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1888年(明治21年)2月25日 バチカンの旗 バチカン Order Pius Ribbon 1kl.png ピウス9世勲章英語版グラン・クローチェ[8]
1888年(明治21年)5月9日 Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国 Ord.CoronaFerrea - GC.png 1等鉄冠勲章英語版[9]
1891年(明治24年)3月16日 オランダの旗 オランダ NLD Order of the Dutch Lion - Grand Cross BAR.png オランダ獅子勲章英語版[10]
1891年(明治24年)10月15日 ドイツの旗 ドイツ帝国 Ord.Aquilarossa-GC.png 赤鷲第一等勲章英語版[11]
1894年(明治27年)3月8日 Flag of the Ottoman Empire.svg オスマン帝国 Order of the Medjidie lenta.png 一等メディジディー勲章英語版[12]
1896年(明治29年)3月17日 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 POL Order Orła Białego BAR.svg 白鷲勲章英語版[13]
1896年(明治29年)11月10日 スペインの旗 スペイン王国 ESP Charles III Order GC.svg カルロス3世勲章英語版グランドクロス[14]
1906年(明治39年) イギリスの旗 イギリス帝国 UK Order St-Michael St-George ribbon.svg 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス (GCMG)
1907年(明治40年)10月23日 フランスの旗 フランス共和国 Legion Honneur GO ribbon.svg レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[15]
1907年(明治40年)10月30日 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 RUS Order of St. Alexander Nevsky BAR.png 聖アレクサンドル・ネフスキー勲章大綬章英語版[16]

系譜[編集]

西園寺家
藤原公実の子・通季を始祖とし、西園寺の家名は通季の曾孫の公経が建立した寺の名前に由来している。

系図[編集]

西園寺・徳大寺の両家は藤原公季を始祖とする藤原北家閑院流の家系である。ただし血筋的には東山天皇の6世孫である。実系を指標に見ると以下のようになる。

東山天皇━閑院宮直仁親王━鷹司輔平━政煕━政通━徳大寺公純━西園寺公望

家族・親族[編集]

実父は右大臣徳大寺公純、実母は千世浦斐子(宇佐神宮社家末弘氏の正親盛澄の娘)、兄に3度にわたって侍従長となり、内大臣宮内大臣も務めた徳大寺実則。弟に学校法人立命館理事の末弘威麿住友財閥を継いで第15代住友吉左衛門を襲名し長く財界に君臨した住友友純(隆麿)がいる。

正妻はない(明治13年、京都祇園井筒屋(現・祇園辰巳NEXUS)の芸妓江良加代(当時18歳)を東京へ連れてきて結婚しようとするも、親族の反対に遭い断念した)。一説には、西園寺家の守神は弁才天であるため嫉妬深く、西園寺家は代々正妻はもたないという家憲があった。

しかし、3人の女性を事実上の妻とした。最初の妻は新橋芸者・玉八(小林菊子)で、一人娘のをもうけた。新は旧長州藩主毛利元徳の八男・八郎を婿に迎え、公一不二男など三男三女を産んだ。2番目の妻・中西房子(新橋・中村屋のふさ奴)との間には一女・園子(高島正一に嫁ぐ)をもうけた。西園寺家の女中頭・奥村花子は、パリ講和会議に同伴させたことで話題となった。最晩年に奥村が女児を出産するが、公望は頑として自分の子として認めず、入籍させなかった。

また、親友である光妙寺三郎の遺児、東屋三郎を引き取って養育した。

著書[編集]

  • 『陶庵随筆』(1903年〔明治36年〕10月・新聲社/中公文庫、1990年、復刊2004年)
    雑誌『世界之日本』に執筆した随筆をまとめたもの。表題の随筆のほか「懐舊談」、「欧羅巴紀遊抜書」も収録。かつて西園寺邸で書生をしていた国木田独歩による編。

脚注[編集]

  1. ^ 京都市北区等持院ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32)
  2. ^ 『原敬日記』1909年(明治42年)11月9日。
  3. ^ 『西園寺公と政局 第五巻』pp.1-9
  4. ^ 『京都日出新聞』1932年9月23日夕刊、文春新書「元老西園寺公望」
  5. ^ 立命館校友会総会
  6. ^ RS 学園通信 "All Rits 立命館校友大会"
  7. ^ 岩井忠熊『西園寺公望 - 最後の元老』 岩波新書、2003年、ISBN 4004308291
  8. ^ 『官報』第1398号、「叙任及辞令」明治21年3月1日。
  9. ^ 『官報』第1457号、「叙任及辞令」明治21年5月11日。
  10. ^ 『官報』第2491号、「叙任及辞令」明治24年6月22日。
  11. ^ 『官報』第2491号、「叙任及辞令」明治24年10月26日。
  12. ^ 『官報』第3208号、「叙任及辞令」1894年03月13日。
  13. ^ 『官報』第3815号、「叙任及辞令」1896年03月21日。
  14. ^ 『官報』第4019号、「叙任及辞令」1896年11月19日。
  15. ^ 『官報』第7299号、「叙任及辞令」明治40年10月26日。
  16. ^ 『官報』第7303号、「叙任及辞令」明治40年10月31日。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


公職
先代:
桂太郎
桂太郎
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第12代:1906年1月7日 - 1908年7月14日
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第13代
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第13代
桂太郎
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1911年8月30日 - 1912年12月21日
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