大屋晋三

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日本の旗 日本の政治家
大屋晋三
おおや しんぞう
Shinzō Ōya.jpg
生年月日 1894年7月5日
出生地 日本の旗 日本 群馬県邑楽郡明和町(旧・佐貫村
没年月日 1980年3月9日(満85歳没)
出身校 東京高等商業学校(現・一橋大学
前職 帝國人造絹絲代表取締役社長
所属政党 日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 勲一等瑞宝章
配偶者 初婚・大屋茂登子
再婚・大屋政子

日本の旗 第12代 運輸大臣
内閣 第3次吉田内閣
任期 1949年2月16日 - 1950年6月28日

内閣 第2次吉田内閣
任期 1948年12月14日 - 1949年2月16日

日本の旗 第34代 商工大臣
内閣 第2次吉田内閣
任期 1948年10月19日 - 1949年2月16日

選挙区 大阪府選挙区
当選回数 2回
任期 1947年5月3日 - 1956年6月3日
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大屋 晋三(おおや しんぞう、明治27年(1894年7月5日 - 昭和55年(1980年3月9日)は、日本の政治家実業家参議院議員帝人社長、日本・ベルギー協会会長(初代)を歴任。

大屋政子の夫。

概要[編集]

大正7年(1918年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒[1]。大正7年(1918年鈴木商店に入社、同14(1925年)年、旧帝国人造絹絲(現帝人)に派遣され、昭和20年(1945年)11月には社長に就任した[1]。以来、参議院議員だった昭和22年(1947年)から9年間をのぞき一貫してトップの座に君臨し、帝人を世界的な合繊メーカーに育て上げるとともに、繊維業界のリーダーとして活躍した[1]。議員在職中は、商工、大蔵、運輸の各大臣を歴任[1]。一方で「死ぬまでやめない」が口ぐせだった社長在任は26年余に及んだ[1]

来歴・人物[編集]

生い立ち[編集]

群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣に生まれた[2]。父・央(なかば)は35歳、佐貫村尋常小学校の校長をしていた[2]。母はツネ24歳[2]埼玉県粕壁本陣杉田家の娘である[3]。家は、代々川越の松平藩士で、祖父は大屋門平といって柔術を指南していた[2]。大屋が生まれた佐貫村大字川俣は館林から利根川の岸に沿う街道筋で、明治のはじめまでは宿場として本陣もあった[3]。ここでは小学校の教員巡査が知識階級だった[4]

学生時代[編集]

小学校には数えの八ツで入った[4]。尋常の二年になった時に大輪と川俣との中間の須賀に本格的の小学校が新築されてここに移った[5]

高小の二年になる時に父が永楽村(現千代田町)の尋常小学校長に転任し、居を永楽村大字舞木に移した[6]

明治40年(1907年)、大屋は高小2年を終えた[7]。しかし家庭の事情から父のところから中学に通うことはできなかった[7]。従兄に当たる高山守衛が、前橋で歯医者として成功しており、大屋はそこに書生として住みこんで、前橋中学に通うことになった[7]

父の世話で明治45年(1912年)4月1日から長柄村尋常高等小学校の代用教員となった[8]

大正7年(1918年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 

経営者として[編集]

「テトロン」を導入し、経営危機に陥っていた帝人を瀬戸際で救ったカリスマ経営者として高い評価を受けている。

ワンマン経営の顛末[編集]

しかし、政権末期には行き過ぎた多角化が裏目に出たことと、高齢からくる経営能力の低下に加え政子夫人が経営に介入するなど、その弊害が目立つようになった。1980年に死去。夫人と共に大阪市内のお寺「法得寺」に眠る。

後継経営者の事業整理[編集]

以降の歴代経営者は安居祥策社長(2005年~相談役)まで3代にわたり、大屋時代の無謀な多角化路線の事業整理に追われ、20年近くリストラを繰り返すうち、リスクを避ける消極的な社風が定着した。

家族・親族[編集]

大屋家[編集]

群馬県邑楽郡佐貫村(現明和町)・永楽村(現千代田町)・高島村(現邑楽町)・前橋市大阪府大阪市阿倍野区東京都
  • 祖父・門平[2]
家は代々、川越松平藩士で、門平は柔術を指南していた[2]
  • 父・[2](教育者)
父は兄姉十人の末っ子だった[2]。五つくらいの時に松平藩が川越から前橋に国替えになったが、その時父は小さな大小を差して、仲間の肩に乗って利根川を渡った[2]。正規の学歴は持っていなかった[2]。しかし漢学に対する素養だけは相当にあった[2]。後半生を片田舎の平凡な小学校教員として終ったが、明治十年代の初めには西園寺公の一党として、自由民権の運動に時代の先端を切ったこともあった[3]。大屋によれば「父は物に屈託しないのんきな性格の男で、酒好きでおしゃれ、虚栄心が強く、安月給にもかかわらず気ぐらいは高かった」という[3]
母の父定八は本来は邑楽郡佐貫村大字大輪の早川家の当主で、妻との間に一人の女の子があった[3]。それが御維新のころに、何かのことで国元に妻子を残して出奔し、粕壁の杉田屋の婿に入り込み、母とその姉をもうけた[3]。その後また他に女をつくって、それに杉田屋の当主又八郎を生ませた[3]。この祖父は非常な豪傑だった[3]。品川の台場の築堤の時には、3000人の人夫を率いてその総元締をしていた[3]。豪放らいらく、親分はだで、企業家的精神に富む野心家だった[3]。母もその血を受けてか伝法なところがあった[3]
  • 兄姉3人があったが、いずれも生まれて間もなく死んだ[2]
茂登子(群馬県、大屋欽事の長女[9]
一ツ橋を受験する少し前に、最初の妻、従姉茂登子との関係ができた[10]
政子(大阪府平民[11]、弁護士・政治家森田政義の娘)
  • 長男、長女、二男、二女、三女、四女、五女[12]

関連人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』122頁
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 私の履歴書 第六集』133頁
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『私の履歴書 第六集』134頁
  4. ^ a b 『私の履歴書 第六集』135頁
  5. ^ 『私の履歴書 第六集』138頁
  6. ^ 『私の履歴書 第六集』141頁
  7. ^ a b c 『私の履歴書 第六集』144頁
  8. ^ 『私の履歴書 第六集』159頁
  9. ^ 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)オ一三七頁より
  10. ^ 『私の履歴書 第六集』166頁
  11. ^ 『人事興信録』 7版、モ三三
  12. ^ 『第十六版人事興信録(上)』お68-69頁より

外部リンク[編集]


公職
先代:
小沢佐重喜
日本の旗 運輸大臣
第12代:1949 - 1950
次代:
山崎猛
先代:
吉田茂
日本の旗 商工大臣
第32代:1948 - 1949
次代:
稲垣平太郎
先代:
泉山三六
日本の旗 大蔵大臣
(臨時代理)1948 - 1949
次代:
池田勇人