村山富市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 村山 富市 (むらやま とみいち) ![]() |
|
|
|
|
|---|---|
| 在任期間 | 1994年6月30日 - 1996年1月11日 |
|
|
|
| 生年月日 | 1924年3月3日(85歳) |
| 出生地 | |
| 出身校 | 明治大学専門部 政治経済科卒業 |
| 学位・資格・称号 | 陸軍軍曹 桐花大綬章 名誉博士(明治大学) |
| 前職 | 大分県議会議員 |
| 世襲の有無 | 無 |
| 選挙区 | 旧大分県第1区→ 大分県第1区 |
| 当選回数 | 衆8回 |
| 党派 | 日本社会党 (自由民主党・新党さきがけ) |
| 没年月日 | |
村山 富市(むらやま とみいち、1924年3月3日 - )は、日本の政治家。第81代内閣総理大臣(在任1994年6月30日 - 1996年1月11日)。社会民主党名誉党首。
大分県大分市議会議員、大分県議会議員、衆議院議員、衆議院物価問題等に関する特別委員長、日本社会党国会対策委員会委員長、日本社会党委員長、社会民主党党首、社会民主党特別代表を歴任。
階級は陸軍軍曹(第二次世界大戦終結時)。勲等は桐花大綬章。明治大学より名誉博士の名誉学位を受ける。学校法人明治大学顧問、明治大学校友会名誉会長。2009年現在、大正生まれとしては最後の内閣総理大臣である。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 国会議員当選まで
1938年、東京に出て、働きながら東京市立商業学校に学んだ。1944年、学徒動員で石川島造船所に配属された。同年、成人し徴兵検査を受け、学徒出陣で陸軍歩兵部隊(都城)に入隊した。1945年8月15日、幹部候補生として陸軍軍曹の階級で終戦を迎えた。1946年、旧制明治大学専門部政治経済科を卒業した。
1955年、大分市議会議員選挙に日本社会党から立候補し、当選(以後当選3回)。1963年、大分県議会議員選挙に支持者の後援で立候補し、当選(以後連続3回当選)。1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選(同じ自治体議員経験者たる社会党新人代議士に竹村幸雄)。以降、当選8回。官公労、教育行政を中心に、地元政界にも深く影響力を発揮した。
[編集] 国会対策委員長から党委員長へ
1991年4月、土井たか子に代わり田邊誠が日本社会党委員長に就任すると、村山は日本社会党国会対策委員長に就任した。1992年のPKO国会では、国会対策委員長として陣頭指揮を執って粘り強く抵抗したものの、6月に自公民3党の多数で成立した。国会対策委員長として国会運営に携わったことから、自民党の梶山静六、公明党の神崎武法ら、各党国会対策委員長とのパイプを持つに至った。1993年1月、田邊誠に代わり山花貞夫が日本社会党委員長に就任したが、村山は国会対策委員長に留任した。
同年7月、第40回衆議院議員総選挙で自由民主党は過半数を得られず、日本社会党は議席をほぼ半減させた。8月、日本社会党を含む8会派により非自民連立政権である細川連立内閣が発足した。山花貞夫は政治改革担当大臣として入閣したものの、総選挙での敗北の責任を取り委員長辞任を表明した。後任には委員長代行久保亘と村山が有力視されるが、委員長選挙への立候補を久保が辞退した。9月に行われた委員長選挙では、無投票当選阻止を図って立候補した翫正敏を大差で破り、村山が社会党委員長に当選した。当選後、書記長には久保亘を起用した。
[編集] 自社さ連立政権発足
1994年4月、細川護熙内閣総理大臣が辞任を表明した。連立与党は、次期首班に新生党党首羽田孜(細川内閣で副総理兼外務大臣)を推すことで合意し、国会で羽田が首相に指名された。
しかし、新生党、日本新党、民社党などが日本社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表した。この院内会派成立により、「改新」は連立与党内で日本社会党を大きく上回る最大勢力となる。村山はこれに強く反発して日本社会党の連立離脱を表明。羽田内閣は少数与党で発足し、戦後2番目の短命内閣となった。羽田政権下、社会党内では、久保亘、佐藤観樹、上原康助、赤松広隆らが連立復帰を主張する一方、山口鶴男、大出俊、野坂浩賢らは連立離脱を支持した。
6月25日、羽田内閣が総辞職し、日本社会党を巡り自由民主党、連立与党が協議を行う中、自由民主党総裁河野洋平が日本社会党委員長首班の連立政権を打診し、新党さきがけを含めた自社さ共同政権構想に合意した。しかし、自民党総裁経験者である海部俊樹が「社会党委員長を首班に支持できない」と主張し、それに中曾根康弘も同調し、連立与党は海部俊樹を統一候補に指名した。6月29日、首班指名が行われるが、衆議院で過半数に達せず、決選投票となった。その結果、村山が指名決選投票で海部を破って内閣総理大臣に指名され、自社さ連立政権内閣が発足した。1947年に成立した片山哲以来47年ぶりの社会党首班内閣誕生となった。
[編集] 総理大臣在任中
1994年7月、第130回国会にて所信表明演説に臨み、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した(後述)。
1995年1月、兵庫県南部地震に伴う阪神・淡路大震災発生時、政府の対応が遅いと批判され、内閣支持率の急落につながった(後述)。3月には「オウム真理教」幹部による地下鉄サリン事件が起こった(後述)。その後、公安調査庁の調査結果を尊重し、オウム真理教への破壊活動防止法適用を公安審査委員会に申請した。
5月10日、自由民主党幹事長森喜朗が「村山総理は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言し、総理大臣官邸での村山との会話を洩らした。この発言を受け読売新聞社が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。その結果、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受け、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。
6月9日、衆議院本会議で自民・社会・さきがけ3会派共同提出の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(不戦決議)が可決された。
6月21日、全日空857便ハイジャック事件が発生した際には、特殊武装警察に強行突入を指示し鎮圧した(後述)。
7月、「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を発足させた(後述)。同月、第17回参議院議員通常選挙が行われた。この選挙は、非自民首相の大型国政選挙としては自民党が結党した1955年以来、初めてであった。この選挙で日本社会党は大きく議席数を減らしたため村山は辞意を漏らしたが、与党側が慰留したことから首相を続投し、内閣改造を行った。
8月15日、「『戦後50周年の終戦記念日にあたって』と題する談話」(村山談話)を閣議決定した(後述)。
1996年1月5日、首相退陣を表明した。自社さ政権協議にて、自民党総裁橋本龍太郎を首班とする連立に合意した。11日に内閣総辞職し、橋本連立内閣が発足した。
[編集] 総理大臣退任後
橋本連立内閣では入閣せず、首相退任後は党務に専念した。1996年1月17日、日本社会党委員長選挙にて秋葉忠利を破り再選された。1月19日には党名を社会民主党に改称し、初代党首に就任した。しかし、所属議員のうち30人が新党さきがけ代表幹事鳩山由紀夫が提唱した新党構想に呼応し、同年9月に社民党から離党した。衆議院解散を前に衆議院議長土井たか子を社民党党首に迎え、自らは特別代表に就任した。
11月、第2次橋本内閣にて社民党は閣外協力に転じた。その後、1997年の沖縄特別措置法案採決には与党ながら反対に回った。1998年6月、社民党が自民党との政権協議を破棄し、自社さ連立政権は崩壊した。
1999年、野中広務らと共に北朝鮮を訪問した(村山訪朝団)。2000年5月30日には衆議院本会議で、首相在任中に脳梗塞で倒れ、内閣総辞職後の5月14日に死去した小渕恵三に対する追悼演説を行った[1]。
[編集] 政界引退後
2000年6月の衆議院解散とともに政界を引退した。2006年4月、「内閣総理大臣として国政を担当しその重責を果たすとともに、多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たした」[2]功労により、桐花大綬章を受章した。
2000年10月、原文兵衛の後任として、財団法人女性のためのアジア平和国民基金の2代目理事長に就任した。2005年1月24日、村山は基金を2007年3月に解散すると宣言した。2007年3月6日、記者会見の席上、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(いわゆる河野談話)に対する内閣総理大臣安倍晋三の「私の内閣で変更するものではない発言」について触れ、「(女性のためのアジア平和国民基金は)河野談話の精神を踏まえ活動している。(安倍晋三)総理が『河野談話を継承する』と言う限り(総理を)信頼している」と述べた。同年3月31日、女性のためのアジア平和国民基金は解散した。
[編集] 村山内閣の施政
村山内閣は、55年体制下で続いてきた保革対立に終止符を打った自社さ連立政権であり、政権発足時から、戦後の政治的懸案事項に取り組んだ。
村山本人は「『当時としては』全てにおいて最良の選択だった」と振り返っている。[要出典]
渡邉恒雄は「よい意味で進歩的内閣で、社会党の反安保・反米、国歌・国旗反対を潰して、国論統一の幅をぐんと広げてくれたことが最大の功績」[3]と保守・右派・タカ派的立場から評価した。また田中康夫は「自民党と社会党のいいとこ取りしたハイブリッド内閣」と評した。[要出典]、
[編集] 施政方針
国会演説の中で村山内閣の施政方針として「人にやさしい政治」を掲げた。
[編集] 政策綱領
社会党と新党さきがけが結んだ政策合意に対し自由民主党が参画し、1994年6月に「自社さ共同政権構想」として合意され、村山内閣、第1次橋本内閣の政策綱領となった。
- 日本国憲法の尊重
- 小選挙区比例代表並立制の実施
- 税制改革の前提として行政改革の断行
- 条件つきながら消費税の引き上げの方向を認める
- 自衛隊と日米安全保障条約を維持
- 国際連合平和維持活動に積極的に参加
- 国際連合安全保障理事会常任理事国参加問題には慎重に対処
[編集] 戦後の総括
[編集] 村山談話
詳細は「戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話」を参照
1995年8月15日の戦後50周年記念式典において、村山は閣議決定に基づき、日本が戦前、戦中に行ったとされる「侵略」や「植民地支配」について公式に謝罪した。
これ以後も保守系議員などにより村山談話とは見解を異にする内容のコメントが発せられ、その度に中国、韓国の政府から反発が起きた。「日本は戦後、戦時中におこなったとされる侵略行為については当事国に公式に謝罪し補償も済ませているのでこれ以上の謝罪論は不要である[要出典]」との批判がある一方、逆に「この談話は結局のところ『戦争に日本政府は巻き込まれた。悪いとは思うが仕方がなかった』という立場を表すに過ぎない」との批判もある[要出典]。
「村山」と個人名を冠して呼称されることが多いが、閣議決定を経た当時の政府公式見解であり、村山の個人的な見解ではない。
[編集] 被爆者援護法の制定
[編集] 「女性のためのアジア平和国民基金」設立
1994年8月、「従軍慰安婦問題」に関して民間基金による見舞金支給の構想を発表し、1995年7月、総理府と外務省の管轄下で「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」を発足させた。この基金により、1997年1月、韓国人元慰安婦への見舞金支給が開始された。
村山内閣成立以前、国費による損害賠償と政府の謝罪を求めた元慰安婦による訴訟が各地で起こされていた。しかし、日本政府は、他国との条約締結時にこれら諸問題は解決済みとの立場であり、国費投入による元慰安婦への損害賠償はありえないとされていた。村山が示した構想では、政府が基金を設立し資金は民間からの寄附とすることで、直接の国費投入を避けるとともに募金に応じた国民の真摯な思いが伝わるとアピールすることで、両者の主張を織り込みつつ問題解決を図る狙いがある。村山自身は、発足の経緯について「『あくまで政府補償をすべきだ』という意見があれば、他方では『戦時賠償は法的にはすべて解決済みだ。いまさら蒸し返す必要はない』、果ては『慰安所ではちゃんとカネを払っていた』といった声まで、国内外の意見の隔たりは大き」[4]く、「与党3党の間でも厳しい意見の対立があった」[4] が、「それを乗り越え一致点を見いだし、基金の発足にこぎつけた。」[4]「元慰安婦の方々の高齢化が進むなか、何とか存命中に日本国民からのおわびの気持ちを伝え、悲痛な体験をされた方々の名誉回復を図る」[4]には「いろいろ批判はあろうが、当時の差し迫った状況では、これしか方法はなかった」[4]と記している。
女性のためのアジア平和国民基金の初代理事長には原文兵衛、第2代理事長に内閣総理大臣退任後の村山が就き、約6億円の募金を集め、元慰安婦の生活支援のみならず女性の名誉尊厳一般に関する事業を展開してきた。フィリピン、韓国、台湾で支援事業を展開し、インドネシア事業終了を予定する2007年3月に解散することが、理事長である村山により発表された。
2000年9月1日、第2次森内閣で内閣官房長官中川秀直が、女性のためのアジア平和国民基金に関する記者会見を開き、同基金に対する日本政府の認識を改めて表明した。
2007年3月6日、村山は記者会見を開き、従軍慰安婦問題で日本の謝罪を求める決議案がアメリカ合衆国下院にて審議されていることについて、「(女性のためのアジア平和国民基金を通じ)歴代総理が慰安婦の方へお詫びの手紙を出したことが理解されていないのが極めて残念」と発言している。
[編集] 災害・事件への対処
[編集] 阪神・淡路大震災
1995年1月17日、兵庫県南部地震により阪神・淡路大震災が発生した際、政府の対応が遅れたことについて批判された。
- 危機管理体制
- 村山は自衛隊派遣が遅れた理由に対して「なにぶんにも初めてのことですので」と答弁し、国民から強い非難を浴び、内閣支持率の急落に繋がった。やがて対応の遅れの全貌が明らかになるにつれ、法制度をはじめとする当時の日本政府の危機管理体制そのものの杜撰さが露呈した。
- 当日朝、村山は山花貞夫ら24人の社会党離党届の方を重視しており、京都機動隊が兵庫入りした当日11時過ぎにも「山花氏は話し合いを見て欲しい」と記者にコメントしていた。
- 震災発生は午前5時46分ごろであったが、当時の官邸には、危機管理用の当直は存在しなかった。また、災害対策所管の国土庁にも担当の当直が存在しなかった。
- 当時、歴代在任日数最長の内閣官房副長官として官邸に重きをなしていた石原信雄は、「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度の未整備な状態では、村山以外のだれが内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった。」[5]と述懐、擁護している。なお石原信雄は後に安倍内閣で「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」の座長をつとめる。
- 連立内閣に対する内閣官房や官僚の忠誠度の低さも問題点として指摘されている。震災後、後藤田正晴に指示された佐々淳行が、村山を含む総理官邸メンバーの前で危機管理のレクチャーを行ったが、村山以外の政務、事務スタッフは皆我関せずの態度を取ったため、佐々が厳しく戒めたという。また、村山が震災直後に国民に向けて記者会見を開こうとしていたが、内閣官房スタッフから止められていた、との逸話も佐々の著書[6]で紹介されている。
- 法制度上の問題
- 自衛隊出動命令の遅れは、法制度上、地元・兵庫県知事貝原俊民の要請がなければ出動できなかった点が挙げられる。当日午前8時10分には、防衛庁・陸上自衛隊姫路駐屯地から兵庫県庁に対し出動要請を出すよう打診されている。また午前10時前には自衛隊のヘリコプターを飛ばし被災地の情報収集を行っている。しかし、貝原が登庁したのはその後で、さらに現況の把握に時間が費やされた。最終的に、貝原の命令を待たず兵庫県参事(防災担当)が出動要請を午前10時10分に行い、その4分後の午前10時14分には自衛隊が出動している。
- 2007年、東京都知事石原慎太郎は「神戸の地震の時なんかは、(自衛隊の派遣を要請する)首長の判断が遅かったから、2千人余計になくなった」[7]と発言し、地方公共団体の対応の遅れを指摘した。だが、貝原は「石原さんの誤解。たしかに危機管理面で反省はあるが、要請が遅れたから死者が増えたのではない。犠牲者の8割以上が、発生直後に圧死していた」[8]と反論しており、派遣要請の遅れと犠牲者数の増加には直接の関係ないとしている。(ただし神戸市のホームページには、震災発生直後(震災当日午前中)に亡くなった方は全死者の2-3割とのデータが掲載されていた。しかしこの騒動の後このデータが削除されており、その上8割圧死発言についても公的なデータが無い為疑問が残る。一方で兵庫県監察医による調査では犠牲者の死亡推定時刻の8割以上が6時頃となっている。)また、兵庫県防災監に震災後就任した斎藤富雄によれば、石原の指摘は「全く根拠のない発言で、誠に遺憾」[8]と指摘している。
- 復興対応
- 震災直後、村山は国土庁長官小澤潔に代えて小里貞利を震災対策担当相に任命し復興対策の総指揮に当たらせる。また下河辺淳を委員長とする震災復興委員会を組織し、復興案の策定を進めた。
- 被災者への支援として、16本の法律を改正、および、制定し、被災者に対する税負担の軽減等を図った。
- 問題点と反省点
- 震災など危機管理対応への各制度が未整備であった。
- 村山自身は、震災への対応を振り返り「初動対応については、今のような危機管理体制があれば、もっと迅速にできていたと思う。あれだけの死者を出してしまったことは、慚愧に堪えない。1月17日の朝は毎年、自宅で黙とうする。亡くなられた方のめい福を祈り、残された家族の幸せを願っている。」[9]と語っている。また、「初動の発動がね、遅れたということについてはね、これはもう弁明の仕様がない」[10][11]とも語っている。田中秀征は「震災のショックが大きすぎて、二人きりになると必ず『辞めたいと漏らした』」という。「『首相の資格がない、限界だ』というのを、なだめすかして、何とか続けさせた1年(1995年)だった」[12]と語っている。
「兵庫県南部地震」、「阪神・淡路大震災」、および「貝原俊民」も参照
[編集] オウム真理教に対する破壊活動防止法適用申請
1995年(平成7年)3月20日、地下鉄サリン事件が発生した。村山は法務大臣前田勲男、国家公安委員会委員長野中広務、警察庁長官國松孝次、内閣官房長官五十嵐広三ら関係幹部に徹底捜査を指示、陣頭指揮を執る姿勢を見せ、事件捜査について「別件逮捕等あらゆる手段を用いて」と発言した。
地下鉄サリン事件等一連の事件を起こしたオウム真理教に対し破壊活動防止法適用が検討され、公安調査庁が処分請求を行った。公安審査委員会は破壊活動防止法適用要件を満たさないと判断し、適用は見送られた。
1952年に公布された破壊活動防止法は、暴力主義的破壊活動を行った団体に対し、規制措置を定めた法律である。当初は日本共産党や日本赤軍など共産主義勢力の拡大を防止する目的もあったことから、社会党[13]はじめ55年体制下の野党各党は、従来法の適用に極めて慎重な立場をとっていた。 オウム真理教への破壊活動防止法適用には自民党の後藤田らからも異論が出るなど賛否両論が噴出したが、法務大臣の宮澤弘、国家公安委員長の野中と協議した村山は、公安調査庁の調査を尊重すると決断し、公安審査委員会への処分請求に道を拓いた。 地下鉄サリン事件の捜査に関し「別件逮捕等あらゆる手段を用いて」との発言が、人権派弁護士たちから大きな反発を受けるなど賛否両論となった。
2007年3月17日、「地下鉄サリン事件被害者の会」が編んだ『私にとっての地下鉄サリン事件』に手記を寄せた。同書には國松や『アンダーグラウンド』を書いた村上春樹らも寄稿している。
[編集] ハイジャックへの警察特殊部隊投入
「全日空857便ハイジャック事件」も参照
1995年6月、羽田発函館行の全日空857便(乗員乗客365人)がハイジャックされ、「サリンを所持している」という犯人がオウム真理教教祖で前月に逮捕・勾留されていた麻原彰晃の釈放を政府に要求した。
村山は国家公安委員長の野中や運輸大臣の亀井静香と協議し、ハイジャック犯との交渉には一切応じない方針を固め、SAP(Special Armed Police、特殊武装警察)の実戦投入を指示した。
SAPに対し突入を指示した後、村山は「もしも死者が出たら白装束で遺族の下にお詫びに行く覚悟だ」と発言し、野中は「その際は私も同行する」と発言した。
しかし、機内の様子について収集した情報からオウム信者ではないと判断。警視庁警備部第六機動隊特科中隊(SAP)は突入に加わらず、後方支援に回り、北海道警察本部機動隊対銃器部隊と函館中央署員の突入を支援。犯人を逮捕した。軽傷者が1名であった。
サリンとされた物質はただの水であり、ハイジャック犯はオウム真理教とは全く無関係の精神疾患で休職中の東洋信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)の行員であった。
当時の警察庁は特殊部隊であるSAPの存在自体を極秘としており、実戦投入後もその存在が公にされることはなかった。1996年、警察庁は北海道警察本部、千葉県警察本部、神奈川県警察本部、愛知県警察本部、福岡県警察本部に部隊を増設し、警視庁、大阪府警察本部のSAPとともに、正式に「特殊急襲部隊」(Special Assault Team、通称SAT)の呼称を与え、正規部隊として公表した。
[編集] 外交
羽田内閣から村山内閣への移行は政権交代だが、外交方針は従来の日本政府のものを基本的に継承し、行政の継続性を保っている。
[編集] 対米国
村山内閣成立時、「日本に共産主義[13]政権が誕生した」[14]と日本以外のメディアに報じられたため、懐疑論が根強くあった。
アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンは当初、社会党出身の内閣総理大臣に警戒心を持っていた[要出典]。1994年の第20回先進国首脳会議(ナポリ・サミット)前の会談にて、村山が自らの生い立ちから今の政治信条に至る過程を話し、米国の占領統治下で戦後民主主義に触れ政治家を志したと語ったため、これを聞いたクリントンは警戒心を解いたといわれる[要出典]。
[編集] 日米安保の維持
1994年7月20日、第130回国会での所信表明演説にて「自衛隊合憲」、「日米安保堅持」と明言し、それまでの日本社会党の政策を転換し、日米安全保障条約体制を継続することを確認した。
この際、演説用原稿では「日米安全保障体制を維持」となっていたのを、所信表明演説では村山が「日米安全保障体制を堅持」[15][16][17]と読んだことが注目された。
これは村山の出身政党である社会党にとっては“コペルニクス的転回”であった。トップダウンで決定した背景から独断専行と批判も受けたが、党は追認している。ただし、村山は社会党右派に属しており、政策転換への抵抗感も比較的薄かったといわれている。
[編集] 内政
[編集] リサイクル法の制定
[編集] 水俣病患者救済
[編集] 成田空港問題への対応
1991年11月から15回にわたって開催された「成田空港問題シンポジウム」と、引き続き1993年9月から12回にわたって開催された「成田空港問題円卓会議」での結論を受け、村山は1995年、これまでの空港問題の経緯について地元に謝罪した。これにより第二期工事への用地買収に応じる地主も現れた。その後、1996年に未買収地を避ける形で暫定滑走路を建設する案が計画された。村山ら政府の謝罪に加え、中立委員らの度重なる働きかけにより、成田空港反対派住民の強硬姿勢も次第に和らぎつつある。
「成田国際空港#歴史」も参照
[編集] 宗教法人法の改正と創価学会との対立
オウム真理教の地下鉄サリン事件を受けて、村山は文部大臣島村宣伸に指示し宗教法人法の改正案を第134回国会に提出した。審議に際し、自由民主党、日本社会党、新党さきがけの与党3党が、創価学会名誉会長池田大作や創価学会会長秋谷栄之助の証人喚問を要求したため、野党の新進党、公明が反発した。公明所属議員や旧公明党に参加していた新進党所属議員らが、参議院宗教法人特別委員長佐々木満を監禁したり国会議事堂でピケッティングを行ったりして採決阻止を図ったことから、国会が空転する事態に発展した。最終的に秋谷を国会に参考人召致したうえで改正宗教法人法を成立させた。
なお、村山は創価学会の政治活動に極めて批判的な政治家として知られている。俵孝太郎らが創価学会の政治活動に批判的な「四月会」を発足させた際、村山は日本社会党委員長の肩書きで同会の設立総会に出席している。1996年1月の総理退任の際には、総理大臣官邸にて与党3党の幹部らに「三党の連立は守ってほしい。それが自分の希望だ。この国を創価学会の支配下にあるような政党に任せることはできないからだ」[18]と語っている。また、村山内閣、および、村山改造内閣には、前述の島村をはじめ、亀井静香、与謝野馨、桜井新、高村正彦、平沼赳夫、野中広務、大島理森ら、創価学会の政治活動に批判的な「憲法20条を考える会」の主要メンバーが多数入閣している。
「宗教法人法」、「政教分離」、「オウム真理教」、「創価学会」、「真理党」、「公明党」、および「新進党」も参照
「四月会」、「憲法20条を考える会」、および「政教分離を貫く会」も参照
[編集] 官邸機能の強化と政治主導
官邸入りした村山は、内閣総理大臣、内閣官房長官、内閣官房副長官を除くと総理大臣官邸のスタッフは全て官僚であることに危機感を抱いた。「官邸っていうのは単に行政をやる庁ではなくて政治的な判断をやる庁でもある」[19]と考えた村山は、官邸内に「もう少し政治家の発言、意見というものがあっていい」[19]との理由から「内閣総理大臣補佐」のポストを設置した。内閣総理大臣補佐は与党3党に所属する国会議員の中から選ぶこととし、中川秀直、早川勝、錦織淳、戸井田三郎らを任命した。選任された内閣総理大臣補佐は、首相の演説や答弁などへの意見具申や政治課題に関する情報収集を担当した。この内閣総理大臣補佐のポストは首相の私的な相談役との位置づけだったが、後に内閣法が改正され「内閣総理大臣補佐官」のポストが法制化された(内閣法第19条)。
[編集] 軍事
[編集] 在沖縄米軍基地問題
[編集] 政治思想
村山は、社会党党内では自治労右派、政権構想研究会、水曜会に所属しており、一貫して社会党右派として活動してきた。ただし村山内閣成立後、小沢一郎らと連携を目指し自社さ連立政権に批判的な勢力を「社会党右派」、自社さ連立政権を支持する勢力を「社会党左派」とマスコミが便宜的に呼称したため、村山が社会党左派であるかのような誤解が生じた。なお、村山内閣で入閣した浜本万三、大出俊、山口鶴男らはいずれも社会党右派に属している。
[編集] エピソード
- 首相在任中、妻が持病(腰痛)のため公務に同伴できない状態だったため、秘書をしていた娘が同行した。
- 首相在任中、親日国であるパラオ独立1周年式典の際に、祝電を送らなかったためにクニオ・ナカムラ大統領をひどく落胆させた。
- 首相就任直後、イタリアのナポリで開かれた先進国首脳会議に参加した。出発前、元内閣総理大臣宮澤喜一が「通訳がいるので、言葉のことは心配いりませんよ」[20]等のアドバイスをした。
- 首相在任中は、首相経験者で同い年の竹下登元首相が村山のよき相談相手になっていた。
- サミット開会前のレセプションで腹痛と下痢を起こして中座、翌日も一部の会議を欠席するなどし、関係者を心配させた。海外訪問の経験が少ない村山は、滞在中は現地の飲食物に非常に注意しており、滞在先の総領事公邸で出された食事にしか手をつけなかった。しかし会談前に首脳が屋外で歓談した際、ウェイターが差し出した桃ジュースにうっかり手を出してしまい、それにあたってしまったと後に述懐している。同日夕刻のレセプションの頃にはすでに体調が悪く一切料理に手をつけていない[21]。八幡和郎などは、外務省などが村山の健康管理を充分におこなっていなかったと批判している。
[編集] 人物像
- 現在のところ大正生まれ最後の総理大臣経験者であるが、今後大正生まれの政治家が総理大臣になる可能性は低いため、村山が大正生まれ最後の総理大臣になる可能性が高い。また旧日本軍への従軍経験を持つ総理大臣という点に関しても同じことがいえる。
- 2009年現在、親が政治家ではない総理大臣は村山が最後となっている(森喜朗の父は国会議員ではなかったが地元の町長を務めていた)。
- 身長は173cmあり、大正生まれの日本人男性としては高身長の部類に入る。
- 血液型はO型。
- 現在の閣僚資産公開制度が始まった1987年以降、村山の資産は歴代総理中の最下位で、明治時代に建造された自宅の時価が「数十万円台」と発表されたため、清貧というイメージを持たれた[22][23][24]。
- 政権発足後の8月、周辺が夏休みの計画を立てようとすると、「わしは年中無休の漁師の出身。いらん」。周辺がそんなことをすれば世界の行政府の物笑いの種になると説得した。その後「では民宿に泊まりたい」と希望したので、周辺がいくつかの民宿を探したが、「総理が泊まりたい? 冗談はやめてくれ」とどこもまじめに取り合わず、結局、箱根の高級旅館で過ごすことになった。
- 日本テレビ『進め!電波少年』の企画で松村邦洋が自慢の眉毛を切るという企画に了承した。
- 村山をモデルとしたマスコット「とんちゃん人形」を社会党が発売した。
- 2005年7月16日、大分県大分市の市道交差点で、村山自身が運転する乗用車で、自転車に乗った小学4年生男児に接触事故を起こし、男児の両腕に怪我を負わせた。業務上過失傷害容疑で書類送検されたが、事故は示談。同年7月24日、大分地方検察庁は村山を起訴猶予処分とする決定を下した。
- 2007年、第21回参議院議員通常選挙にて「村山が比例区に立候補するのか」との問い合わせがあり、関係者を困惑させた。原因は、大分県選挙区無所属候補の松本文六が、村山とのツーショットの選挙ポスター5000枚を張り出したためと見られている[25]。
[編集] 他者への評価
- 一萬田尚登
- 大分県議会議員時代の村山は、他の大分県議や市町村長らとともに、大分出身である時の大蔵大臣・一萬田尚登に大分県への新産業都市指定を陳情した。ところが一萬田からは「国家全体を考慮して可否を判断すべき問題であり陳情には左右されない」とたしなめられてしまった。村山はそんな一萬田に失望するどころか、逆に感銘を受けたという[26]。
- 細川護煕
- 細川内閣当時、細川護煕の記者会見が深夜に行われることが度々あった。特に重大な発表[27]ほど深夜に行われることが多く、そうした折には一夜明けるとマスコミや野党ばかりか、与党にも大きな驚きを与えることがあった。当時連立与党の社会党委員長だった村山は、細川のことを「深夜に騒ぐ男じゃのう」と評していた。
- 梶山静六
- 村山が日本社会党国会対策委員会の委員長を務めていた際、自由民主党では梶山静六が国会対策委員会の委員長を務めており、国会運営を巡り両者は度々対立した。その後、梶山は2000年の第42回衆議院議員総選挙目前で死去し、村山は第42回衆議院議員総選挙に出馬せず衆議院議員を引退した。その際、村山は梶山について「決めたことはきちっと守る、そして実行する」[19]と評しており「お互いの信頼関係はあった」[19]と回顧している。なお、村山と梶山は、両者とも陸軍軍曹を経験し地方政界を経て国政に進出したという共通点がある。
- 広瀬勝貞
- 2007年3月、広瀬勝貞の大分県知事選挙出陣式にて、この選挙は「当落を問う選挙ではない」[28]とスピーチし、広瀬の「圧倒的な勝利」[28]の実現を聴衆に訴えた。
[編集] スポーツ
- 水泳
- 趣味を聞かれ、「漁師の息子だから泳ぎは得意だ」。
- ラグビー
- 村山の母校は、ラグビーが盛んな明治大学である。村山は早稲田大学出身の河野と森に東京大学出身の武村を加えて、ラグビーの早明戦を観戦したこともある。
「早明戦」も参照
- 野球
- 1994年、オリックスのイチローが日本で初めてシーズン200本安打を達成した際、総理コメントを発表した。試合が行われていたグリーンスタジアム神戸では、コメントを読み上げる村山の姿が大スクリーンに映し出された。
- 同シーズン終了後、イチローはオリックス監督の仰木彬らとともに答礼として官邸を訪問、村山にサイン入りバットなどを贈っている[29]。
- 相撲
- 同郷の大分県出身の力士・大関 千代大海とも親交がある[30]。
[編集] 略歴
- 1924年 - 誕生。
- 1944年 - 石川島造船所配属。
- 1944年 - 陸軍歩兵部隊入隊(最終階級:陸軍軍曹)。
- 1946年 - 旧制明治大学専門部政治経済科卒業。
- 1955年 - 大分市議会議員選挙当選(当選3回)。
- 1963年 - 大分県議会議員選挙当選(当選3回)。
- 1972年 - 第33回衆議院議員総選挙当選(当選8回)。
- 1991年 - 日本社会党国会対策委員長。
- 1993年 - 日本社会党委員長。
- 1994年 - 内閣総理大臣。
- 1996年 - 社会民主党党首。
- 1996年 - 社会民主党特別代表。
- 2000年 - 財団法人女性のためのアジア平和国民基金理事長。
- 2006年 - 桐花大綬章受章。
[編集] 著作
[編集] 著書
- 『村山富市が語る「天命」の五六一日』(村山富市 著、ベストセラーズ、1996年)ISBN 4584182485
- 『村山内閣総理大臣演説集』(村山富市 述、内閣総理大臣官房監修、日本広報協会、1998年)
- 『そうじゃのう… ― 村山富市「首相体験」のすべてを語る』(村山富市 談、辻元清美インタビュー、第三書館、1998年)ISBN 480749810X
- 『若者と語る』(後藤田正晴、村山富市、岡野加穂留述、明治大学政治経済学部 編、明治大学政治経済学部、2002年)
- 『我的奮闘歴程(村山富市 著、王雅丹 訳、2005年)
[編集] 寄稿
[編集] 出演
- 『男はつらいよ 寅次郎紅の花』(山田洋次 監督、松竹、1995年): 本人役
- 『八月のかりゆし』(高橋巖 監督、ギャガ・コミュニケーションズ、2002年): リウボウ役
[編集] 関連文献
- 『官かくあるべし ― 7人の首相に仕えて』(石原信雄 著、小学館、1997年) ISBN 9784094020311
- 『聴け!日本無罪の叫び―戦後五十年決議と被告・村山富市』
- (中根真太郎著、日本出版放送企画、1998年)ISBN 9784795253391
- 『後藤田正晴と十二人の総理たち』(佐々淳行 著、文藝春秋、2006年) ISBN 4163681205
- 『村山富市 ― その軌跡と使命(清原芳治著、大分合同新聞文化センター、2006年)
[編集] 脚注
- ^ 衆議院での与党第一党党首経験者への弔辞は野党第一党党首が行うのが慣例であり、本来なら民主党代表の鳩山由紀夫が行うはずだが、小渕の遺族側が拒んだため、野党の党首経験者で首相経験もある村山が例外的にこれを行った。
- ^ 「日本の勲章・褒章(賞勲局)」内閣府、2006年。
- ^ 「平成の九宰相」渡邉恒雄述、伊藤隆・御厨貴・飯尾潤インタビュー・構成『渡邉恒雄回顧録』中央公論新社、2000年。
- ^ a b c d e 村山富市「慰安婦問題『河野談話を継承』こそ重要」『朝日新聞』朝日新聞社東京本社、2007年4月5日、15面。
- ^ 石原信雄『官かくあるべし―7人の首相に仕えて』小学館、1997年。ISBN 9784094020311
- ^ 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち』文藝春秋、2006年。ISBN 4163681205
- ^ 「『震災で判断遅く犠牲者』発言兵庫県知事『失礼だ』」『朝日新聞』43460号、朝日新聞社東京本社、2007年4月10日、38面。
- ^ a b 「石原氏『神戸の震災は首長の判断遅く2千人余計に死亡』」『朝日新聞』朝日新聞社東京本社、2007年4月9日。
- ^ 磯辺康子「神戸新聞Web News 震災10年を語る」神戸新聞社、2004年7月14日。
- ^ 『時事放談』TBS、2004年11月14日。
- ^ 「イラクと新潟〜危機管理を考える〜」『時事放談』TBS。
- ^ 田勢康弘『総理の座』文藝春秋、1995年。
- ^ a b 当時の日本社会党は社会民主主義政党を標榜しており、共産主義政党や社会主義政党ではない。その英文表記も「Social Democratic Party of Japan(日本社会民主党)」で、現在の社会民主党の英文党名と全く同一であった。
- ^ 村山が国会で内閣総理大臣に指名された際、日本国外のマスメディアは村山の詳細な情報を持ち合せておらず、各社で情報が錯綜したとされている。
- ^ 「第130回国会――本会議――第1号」『衆議院会議録情報 第130回国会 本会議 第1号』国立国会図書館、1994年7月18日。
- ^ 「第130回国会――本会議――第1号」『参議院会議録情報 第130回国会 本会議 第1号』国立国会図書館、1994年7月18日。
- ^ 「第百三十回国会における村山内閣総理大臣所信表明演説」『Speech of Prime Minister Murayama in 130th session of the Diet』内閣官房内閣広報室、1994年7月18日。
- ^ 加藤紘一「創価学会問題、総選挙、再編のゆくへ――これが激突の焦点だ――『一龍対決』で何が起こるか」『【加藤紘一】 「創価学会問題、総選挙、再編のゆくへ」』加藤紘一事務所、1996年。
- ^ a b c d TBS, STREAMING VIDEO NEWS, JNN, 2000.
- ^ 「政財界、宮沢氏悼む声 ― 首相経験者ら相次ぎ弔問」『朝日新聞』43538号、朝日新聞社東京本社、2007年6月29日、4面。
- ^ マスコミ報道では「側にいた大食漢の武村蔵相につられて食べ過ぎたため」「食べ慣れないオリーブ油を多量に使ったイタリア料理を食べたため」など諸説が飛びかっていた。
- ^ ただし大分県には時価総額で9300万円の山林を所有していた。
- ^ 村山内閣成立に伴い、自宅は観光名所となり、観光バスに乗った団体客が訪れた
- ^ また、『ニュースステーション』で村山の弟が記者会見する際の会場にされた。
- ^ 「『身内』で奪い合い」『朝日新聞』朝日新聞東京本社、2007年7月18日。
- ^ 「私の履歴書」『日本経済新聞社』日本経済新聞社。
- ^ コメ市場の部分開放、河野洋平との政治改革関連法案の修正合意、国民福祉税構想など。
- ^ a b 「大分でも知事選告示 ― 新たな争点も浮上」『選挙・大分でも知事選告示 新たな争点も浮上』日本インターネット新聞、2007年3月24日。
- ^ このとき、バットを握った村山はイチローの振り子打法の素振りを披露してみせたが、その軸足が左右逆だったため、イチローから「軸足をしっかりと」と指導を受けた。マスコミによってはこのイチローのコメントに引っ掛け「日本社会党の大胆な政策転換により村山の軸足が定まらない」と揶揄した。
- ^ 『スーパーテレビ情報最前線』日本テレビ放送網。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 羽田孜 |
第81代:1994年 - 1996年 |
次代: 橋本龍太郎 |
| 党職 | ||
| 先代: 改称 |
社会民主党党首 初代 : 1996年 |
次代: 土井たか子 |
| 先代: 山花貞夫 |
日本社会党委員長 第13代:1993年 - 1996年 |
次代: 改称 |
| 先代: 大出俊 |
日本社会党国対委員長 第22-25代:1991年 - 1993年 |
次代: 野坂浩賢 |
| 歴代内閣総理大臣 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 第80代 羽田孜 |
第81代 1994年 - 1996年 |
第82・83代 橋本龍太郎 |
||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||



