東京佐川急便事件

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東京佐川急便事件(とうきょうさがわきゅうびんじけん)は、1992年10月自由民主党経世会(のち平成研究会。竹下派)会長の金丸信佐川急便側から5億円のヤミ献金を受領したとして衆議院議員辞職に追い込まれた汚職事件である。

目次

[編集] 概要

1986年暴力団稲川会会長石井進(石井隆匡)は当初、住友銀行による平和相互銀行乗っ取りを阻止する側として動いていたが、岸信介元首相からの電話により寝返り、乗っ取りに協力して多額の報酬を手にし、岩間カントリークラブ開発の所有権を得た。東京佐川急便社長渡辺広康は石井にトラブルの処理を何度も頼んだことがあり、その謝礼として石井のゴルフ場開発会社の資金調達のための銀行融資の際に数億円の債務保証をした。

1987年自民党最大派閥の長であり、次期首相最有力候補の竹下登は、当時、東京では無名の右翼団体日本皇民党稲川会系)による執拗な“ほめ殺し”攻撃(「日本一金儲けのうまい竹下さんを総理にしましょう」などという街頭宣伝)を受けていた(皇民党事件)。恩義のあるはずの田中角栄を裏切って田中派から独立したことに対する攻撃であった。竹下は自らのコネを使って攻撃を止めさせようとしたが失敗した。これに対し(右翼とのコネがある)安倍派中曽根派からは「右翼も処理できないとは、竹下は首相の器ではない」と批判されていた。これに対処するため、竹下は腹心の金丸信に相談。金丸は稲川会とのパイプがある渡辺に仲介を依頼。また魚住汎英は、この件で稲川聖城(稲川会総裁)に会いに行ったことを認めている。

佐川急便が労働法違反を繰り返しても罪にとわれず、配送区域も次々に認可を受けてスピーディに全国展開していたからくりには、自民党の議員へ多額の資金提供をする政界のタニマチとしての姿があった(その後、東京都内のホテルで竹下、金丸、渡辺、小沢一郎が善後策を協議したことが明らかになっている)。渡辺は石井に頼み、「竹下が田中角栄に謝罪をすればほめ殺しをやめる」と言う条件を日本皇民党から聞き出した。これを受けて竹下は田中邸を訪れ謝罪しようとするも、田中側から門前払いされた。が、これを境に"ほめ殺し"攻撃は中止された。

東京の高級料亭で金丸が石井に面会し感謝した。後に国会で金丸は「私が彼(石井)と会ったのは感謝の気持ちからです。もちろん、よくないとはわかっていましたが、ともかくそうしたのです。」と証言した。金丸と石井が会った数週間後の1987年11月、竹下は首相に就任。この成功により渡辺は日本のトップと強いコネクションができ、おおいに喜んだ。東京佐川急便はさらに石井と岩間カントリークラブ以外に四方八方に作った会社にも、次々と融資や巨額の債務保証を行うようになっていく。石井は「経済ヤクザNo.1」と揶揄されることになった。

1990年1月から始まったバブル経済の崩壊により返済不能確実となった巨額負債のため東京佐川急便の幹部はパニックとなった。石井は利息の支払いも滞るようになった。東京佐川急便は詳細な返済計画を石井に求めたが、それに対し石井は返済するためには更なる資金が必要と説得。東京佐川急便はさらに債務保証をした。裁判記録によると石井の子分が数週間おきに東京佐川急便を訪れ、保証を求めたことと東京佐川急便の幹部は石井の経歴を十分理解していたことが記録されている。

東京佐川急便は倒産寸前となり親会社の佐川急便に吸収され、東京佐川急便の幹部は解雇された。検察により東京佐川急便の幹部は信託義務違反で起訴された。1991年9月、石井は病死した。1992年2月、東京地方検察庁特別捜査部は渡辺社長・早乙女潤常務ら4人を特別背任容疑で逮捕。数千億単位で資金が闇社会に流れ、東京地検もヤミ献金や不正融資などの追及を続けたが結局、東京佐川急便からの政治献金の中で5億円の授受をしていた金丸信が同年9月28日政治資金規正法違反で略式起訴されただけで、他の大物議員や闇資金ルートは解明されないまま事件は闇に葬られた。金丸は政治資金収支報告書への記載漏れを認め、略式起訴による罰金で済んだものの、青島幸男が議員辞職を求めハンガーストライキを決行するなど世論が猛反発し金丸は議員辞職に追い込まれた。

東京佐川から金丸信へ行われた5億円の政治献金を巡り、検察への徹底抗戦を主張した小沢に対し、同じ経世会の梶山静六は収支報告書への申告漏れを認めて早期の事態収拾を図ることを求めた。以前より関係が悪かった小沢と梶山の対立はここに至って決定的となり(一六戦争)、経世会内部の亀裂も深刻化、金丸失脚後の派閥後継を巡る内部抗争のきっかけとなった。

このほか東京佐川急便から1億円を受け取っていた新潟県知事金子清が同年9月辞職。翌1992年2月、新潟県出身の日本社会党衆議院議員吉田和子(党中央執行委員・党国民生活局長)のパーティー券を東京佐川急便が500万円分購入していたことが発覚し、ヤミ献金疑惑が浮上。吉田はすべての党役職を辞任。また同月、東京佐川急便から新潟県選出の日本社会党衆議院議員筒井信隆(「ニューウェーブの会」事務局長)への献金が発覚。筒井もすべての党役職を辞任した。

1992年11月26日、衆議院予算委員会は竹下を証人喚問した。しかし竹下は渡辺とホテルで会談したことは認めたものの、「私という人間の持つ一つの体質が今論理構成されましたような悲劇を生んでおる、これは私自身顧みて、罪万死に値するというふうに思うわけでございます。」等と述べて答えをはぐらかした。また事件に関し社会党が竹下らの証人喚問を要求したことに対し、自民党は筒井・吉田、更に多額の借入金など東京佐川急便との不明朗な関係が問題化していた日本社会党参議院議員安恒良一比例代表)ら11名の野党議員の証人喚問を要求し対抗。結局筒井・吉田・安恒らは喚問されずに終わった。しかし事件の真相を明らかにしようとせず、泥仕合を演じ続ける自民党、社会党双方への批判の声が上がり、既成政党への疑念と政治不信が高まった。

1993年2月17日、衆議院予算委員会は小沢を証人喚問したが、渡辺・竹下らのホテルでの会談について、「私はお茶くみをしていただけで話の内容は知らない」と述べてその場にはいたが自分は給仕に過ぎなかったと強調し、関与を全面否定した。金丸の5億円献金の授受の事実も配分も「全く知らない」と答えるのみであった。竹下・小沢の証人喚問はいずれも不発に終わった。一方安恒に対する疑惑も広がりを見せ、社会党は安恒に離党と議員辞職を勧告。しかし安恒はこれを拒否し続けたため、ついに1993年3月、安恒は同党規律委員会により除名処分となった。同年4月には安恒の1億円以上の所得隠しが発覚、東京佐川急便からのヤミ献金との疑いが持たれたが、その後はっきりしないまま終わった。

この事件は別の見方をすると、最初の10数年は同郷であった佐川急便会長佐川清と渡辺の結びつきがグループ成長の大きな原動力であったが、政治家との結びつきを利用し(偶然にも、田中角栄、佐川、渡辺は同郷)力をつけてきた渡辺に危機を抱いた佐川が、渡辺の排除をねらい巧妙に仕掛けた罠であった。その後、当疑惑事件の証人喚問に招致された佐川が、病気を理由にし数年にわたり引き籠もったのは、金沢の佐川急便金沢店の最上階にある特別室であったという。

[編集] 影響

この事件は1988年リクルート事件などとともに政界にも多大な影響を与えた。

自民党・社会党双方に対し疑惑が持たれた重大事件であったにも拘らず、事の真相が一向に明らかにならなかったことから既成政党への批判の声が高まり、政治不信が深まった。金丸の失脚により自民党経世会金丸直系だった小沢・羽田孜渡部恒三らは、経世会の内部抗争に敗れ「羽田グループ」(改革フォーラム21)を旗揚げしたものの、梶山静六自民党幹事長就任などにより党内非主流派に転落し、経世会を離脱し羽田派を結成した。

1993年6月18日、社会党・公明党民社党社会民主連合から宮沢内閣不信任案が上程され、小沢・羽田・渡部のほか奥田敬和石井一藤井裕久熊谷弘ら羽田派を中心とする自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。これに対し宮沢内閣は日本国憲法第7条第3号により衆議院を解散(嘘つき解散)、第40回衆議院議員総選挙が行われることになった。この機をとらえ、同年6月21日、武村正義鳩山由紀夫田中秀征ユートピア政治研究会に参加していた議員が自民党を離党し、政治改革などを掲げて新党さきがけを結党した。

このことが羽田・小沢派の議員にも自民離党を決断させる一因となり、6月23日、羽田・小沢らは「政界再編」「政治改革」を呼号し新生党を結成、小沢が代表幹事に就任した。この動きに対し、宮沢内閣の官房長官であった河野洋平は6月23日夕方の定例記者会見にて、東京佐川急便事件の顛末を踏まえ「政治不信を招いたのは離党した人達ではないのか」と小沢らを厳しく批判、清和会など他派閥幹部からも小沢らを批判する声が上がった。また評論家の立花隆は6月24日付『朝日新聞』朝刊に寄稿し、疑惑の渦中にあった当人である小沢が「政治改革」を掲げて新生党を結成したことについて「ちゃんちゃらおかしい」と酷評した。

しかし小沢・武村らと気脈を通じた細川護煕(旧田中派出身)率いる日本新党が候補者を大量擁立し、新生党・新党さきがけに同調したことなどにより日本新党を中心とした「新党ブーム」が起こり、一部マスコミの扇動的な報道や、小沢の疑惑を追及しないとする意図的な情報操作[1]もあり世間の趨勢は「自民党が悪い」「政権交代を」という雰囲気に流れた。結果、自民党は過半数を獲得できず野党に転落。また社会党は支援団体の連合の方針転換(左派議員を支援しない)や上野建一衆議院議員の辞職(1992年3月、ゴルフ場開発会社からの不明朗な資金提供疑惑のため引責辞職。のち離党し新社会党書記長)も重なり、55年体制成立以来最低の70議席と惨敗。それに対し日本新党・新生党・新党さきがけが躍進、宮澤喜一内閣は総辞職、8政党・会派連立による細川内閣が成立し、ここに1955年鳩山一郎内閣から38年の長きに渡り続いた55年体制は幕を閉じた。東京佐川急便事件を契機として55年体制は崩壊、政界再編は実現した形となったが、事件の渦中にあった小沢ら経世会出身者が中心勢力となった新生党が総選挙後細川内閣の主導権を握り、羽田、藤井ら同党議員5名が外務大臣大蔵大臣通商産業大臣農林水産大臣防衛庁長官の重要閣僚ポストを得て入閣、さきがけは「隠れ竹下派」と言われた武村が内閣官房長官、経世会出身の鳩山由紀夫が内閣官房副長官となり、首相の側近ポストを占めて首相官邸を掌握、「政権交代」とはいうものの実際には旧田中派人脈に連なる政治家達が実権を握る政権となった。また社会党は選挙敗北にも拘らず細川内閣の与党となり、連立与党中最多の6名の閣僚を送り出した。こうした情勢変化の結果、以後この事件の政界ルートの真相追及はなされぬまま終わった。

一方佐川急便グループはこの事件により東京佐川急便の救済目的など、急遽グループの地域法人を合併するなどを行った。東京佐川急便はのちの佐川急便東京支社、その後佐川急便関東支社となり2007年3月21日より本社直轄下の関東・営業部となった。その後別件で2002年に北海道急便以外の地域法人の合併を完成させている。

[編集] 事件の名称について

この事件は当初からしばらくは単に「佐川急便事件」と呼ばれることが多かったが、2001年奈良県内において、再び佐川急便が関係する贈収賄事件が発生したため、当事件を「東京佐川急便事件」奈良の事件を「奈良佐川急便事件」と呼ぶようになった。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 椿事件参照。
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