岸信介

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日本の旗 日本の政治家
岸 信介
きし のぶすけ
Nobusuke Kishi 01.jpg
1961年頃に撮影
生年月日 1896年11月13日
出生地 日本の旗 日本山口県吉敷郡山口町
(現山口市
没年月日 1987年8月7日(満90歳没)
出身校 東京帝国大学
(現・東京大学
前職 商工省官僚
所属政党 翼賛政治会→)
護国同志会→)
(無所属→)
日本再建連盟→)
自由党→)
(無所属→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 正二位
大勲位菊花大綬章
法学士(東京帝国大学・1920年
親族 曾祖父・佐藤信寛
祖父・佐藤信彦
父・佐藤秀助
兄・佐藤市郎
弟・佐藤榮作
娘婿・安倍晋太郎
甥・佐藤信二
孫・安倍晋三
孫・岸信夫
配偶者 妻・岸良子
サイン KishiN kao.png

日本の旗 第56-57代 内閣総理大臣
内閣 第1次岸内閣
第1次岸改造内閣
第2次岸内閣
第2次岸改造内閣
任期 1957年2月25日 - 1960年7月19日
天皇 昭和天皇

内閣 石橋内閣
任期 1957年1月31日 - 1957年2月25日

日本の旗 第86-87代 外務大臣
内閣 第1次岸内閣
石橋内閣
任期 1956年12月23日 - 1957年7月10日

内閣 東條内閣
任期 1943年10月8日 - 1944年7月22日

日本の旗 第24代 商工大臣
内閣 東條内閣
任期 1941年10月18日 - 1943年10月8日

その他の職歴
日本の旗 衆議院議員
1942年5月1日 - 1943年)
1953年4月20日 - 1979年9月7日
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岸 信介(きし のぶすけ、1896年明治29年〉11月13日 - 1987年昭和62年〉8月7日)は、日本政治家官僚位階正二位勲等大勲位旧姓佐藤(さとう)。

満州国総務庁次長、商工大臣第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、外務大臣(第8687代)、内閣総理大臣(第5657代)、皇學館大学総長(第2代)などを歴任した。

東條英機内閣大東亜戦争開戦時の重要閣僚であったことから極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留された。しかし、即時停戦講和を求めて東条内閣を閣内不一致で倒閣した最大の功労者であること[1]などの事情が考慮されて不起訴のまま無罪放免されている。他の戦争指導者同様、公職追放は免れなかったが、それも東西冷戦の影響による米国の方針変更によりサンフランシスコ講和条約発効とともに解除されている。

昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望され[2]、満州においては「二キ三スケ」と称され[3]、A級戦犯被疑者および60年安保の苦境をも乗り切った昭和戦後は「昭和の妖怪」と呼ばれた。

概要[編集]

東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入省、同省廃止後は商工省にて要職を歴任した。建国されたばかりの満州国に渡ると、国務院の高官として実業部次長や産業部次長など要職を歴任し、「満州開発五か年計画」などを手がけた。その後、日本の商工省に復帰すると次官に就任した。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣となった。なお、東條内閣の閣僚を務める間も、商工省の次官や軍需省の次官を兼任していた。

その経歴から、太平洋戦争後にA級戦犯被疑者として逮捕されるが、不起訴となり公職追放。公職追放解除後に政界に復帰すると弟も属する吉田自由党に入党するも吉田茂と対立して除名され、日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となった。石橋内閣にて外務大臣に就任。首班である石橋湛山の病気により石橋内閣が総辞職すると、後任の内閣総理大臣に指名され、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の成立に尽力した。

首相を退任してからも影響力を行使し、「昭和の妖怪」とも呼ばれつつも、自主憲法制定運動に努め続けた。

正力松太郎などとともに中央情報局(CIA)から資金提供を受けていたとされる。2007年に米国務省が日本を反共の砦とするべく岸信介内閣池田勇人内閣および旧社会党右派を通じ、秘密資金を提供し秘密工作を行い日本政界に対し内政干渉していたことを公式に認めている[4][5][6][7][8]

第61 - 63代内閣総理大臣佐藤栄作は実弟、第90・第96代内閣総理大臣安倍晋三外孫である。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

山口県吉敷郡山口町八軒家(現山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる(本籍地は山口県熊毛郡田布施町[9]。信介が生まれた時、曽祖父の佐藤信寛もちょうど山口に来ており、非常によろこんで、早速“名付親になる”といって自分の名前の一字を取って「信介」という名が付けられた[10]。数え年3歳になった頃、父親の秀助は勤めをやめて、郷里に帰り、酒造業を営むようになった[11]

秀助、茂世(もよ)夫妻は、本家のある田縫のすぐそばの岸田で造り酒屋を営んだ(佐藤家は酒造の権利を持ち、母が分家するまでは他家に貸していた)[12]

学生時代[編集]

岡山市立内山下小学校から[13][14]岡山中学校に進学したが、叔父の松介が肺炎により急逝したため2年と1ヶ月足らずしかいることが出来なかった[15]。山口に戻り、山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)に転校。中学3年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。

1914年大正3年)、山口中学を卒業。間もなく上京して高等学校受験準備のため予備校に通った[16]が、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば映画(当時は活動写真といった)や芝居を見に行ったりした[17]第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だった[18]が、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄三輪寿壮とは常に成績を争った。

1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部に入学。法学部の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで、難なく合格した[19]。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった[10][20]我妻栄と2人で法律学の勉強に精を出し、昼食後や休講時などに、大学の運動場の片すみや大学御殿下の池の木などで、最近聞いた講義の内容や、2人が読んだ参考書などについて議論を戦わせた。

このころ岸は北一輝大川周明の思想に魅了され[21]、上海で大川に説得されて帰国[22]した牛込の北を訪ねている。特に北について岸は「大学時代に私に最も深い印象を与えた一人」と認め、「おそらくは、のちに輩出した右翼の連中とはその人物識見においてとうてい同日に論じることはできない」と語っている[23]

1920年(大正9年)7月に東京帝国大学法学部法律学科(法)を卒業。上杉慎吉興国同志会に属し、上杉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めたが、岸は官界を選んだ。優等生であった岸が内務省ではなく二流官庁と思われていた農商務省に入省したことは意外の念をもって受け止められ、同郷の政治家で両省に在職経験のある上山満之進はこの選択を叱責したという。

農商務官僚(商工官僚)時代 - 満州国時代[編集]

農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、伊藤文吉(首相伊藤博文の養子)から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当四十五円を給す」という辞令をもらった[24]。同期には平岡梓(作家・三島由紀夫の父)、三浦一雄吉田清二などがいたが、入って間もなく、岸は同期生およそ20名のリーダー格となった[25]

1925年(大正14年)に農商務省が商工省農林省に分割されると商工省に配属された。その当時の上司が、吉野作造の弟で、のちに商工省の次官・大臣となった吉野信次であり、当時文書課長だった吉野と岸と臨時産業合理局の木戸幸一重要産業統制法を起案実施したとされる[26]1933年昭和8年)2月に商工大臣官房文書課長、1935年(昭和10年)4月には商工省工務局長に就任。

1936年(昭和11年)10月満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には 総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎大平正芳伊東正義十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。また、長州出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満州三角同盟」とも呼ばれた。

東條内閣の閣僚時代[編集]

内閣総理大臣東條英機(最前列中央)ら東條内閣の閣僚と岸(前から2列目左から2人目)

伍堂卓雄商工大臣が当時の商工次官だった村瀬直養の反対を押し切って岸の次官起用を決定し、1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任する。近衛文麿から第2次近衛内閣の商工大臣への就任要請された際は財界の人間にすべきとして断り、企画院総裁に星野を推薦した[27][28][29]。その後、商工大臣となった小林一三と対立、直後に発生した企画院事件の責任を取り辞任する。

1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣商工大臣として入閣。大東亜戦争太平洋戦争)中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。1943年(昭和18年)、戦局激化への対応として商工省が廃止され軍需省へと改組。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。

1944年(昭和19年)7月9日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。

同年7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の陸軍大臣参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、その矢先に岸が「サイパン陥落に伴って今後本土空襲が繰り返されるであろうから軍需次官としての責任が果たせない」として講和を要求し、ならば辞職せよと東條に迫られるも拒否して閣内不一致を現出させた[30]。岸の更迭は重臣入閣枠を空けるための既定路線であり、内閣改造を頓挫させるために岡田重臣と申し合わせて辞職を拒否したともされる[31]。これを受けて東條側近の四方諒二東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した[10][30]。この動きと並行して木戸と申し合わせていた重臣らも入閣要請を拒否[31]。東條は内閣改造を断念し、7月18日内閣総辞職となった。総辞職後も岸への怒りが収まらない東條は、次期内閣への要望を問われた際、暗に岸を指して一部の前閣僚には前官礼遇を与えないことを要請した。

1945年(昭和20年)3月11日、岸は翼賛政治会から衣替えした親東條の大日本政治会には加わらず、反東條の護国同志会を結成した。

戦犯被疑者から復権まで[編集]

1948年12月24日、内閣官房長官公邸にて内閣官房長官佐藤榮作(右)と

1945年(昭和20年)8月15日に戦争が終結した後に故郷の山口市に帰郷していた所を、日本を占領下に置いた連合国軍からA級戦犯被疑者として逮捕され、東京巣鴨拘置所に収監された。しかしながら、開戦を実質的に決めた1941年昭和16年11月29日大本営政府連絡会議の共同謀議には参加していなかったこと[32]、東条英機首相に即時停戦講和を求めて東条側からの恫喝にも怯(ひる)まず東条内閣を閣内不一致で倒閣した最大の功労者であること[33]、元米国駐日大使ジョセフ・グルーらから人間として絶対的な信頼を得ていたこと[34]などの事情が考慮されたため、東條ら7名のA級戦犯が処刑された翌日の1948年(昭和23年)12月24日、不起訴のまま無罪放免された。ただし、多くの戦争指導者同様、公職追放の身のままであり、表だって政治活動をすることは不可能なままであった。

しかしながら、巣鴨プリズン出所後の翌日には、岸の親友で財界の重鎮であった藤山愛一郎から彼が経営する日東化学の監査役を依頼され、彼から豊富な活動資金を供給されることになる。そして、年が明けた1949年には銀座の交詢社ビル別館の7階に「箕山社(きざんしゃ)」と名乗る岸信介事務所を構え、その年の暮れから「箕山社」を株式会社として正式活動させ始める[35]

この間、日本国憲法が発効した1947年には、日本を占領下に置いた連合国の主要国であるアメリカ合衆国の対日政策は、当時はじまっていた東西冷戦の中で日本を「反共の砦」とする方向に大きく舵が切られ始めていた[36]。そこへ日本周辺での冷戦の激化、すなわち、1949年10月1日蒋介石国民党政府を台湾島へ逃亡させた、ソ連の後押しを受けた中国共産党による中華人民共和国の成立・台頭、1950年6月25日朝鮮戦争の勃発と北朝鮮優位の攻勢により、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーを含めてアメリカの対日政策が大きく転換されることになる(逆コース)。このため、岸信介はじめ公職追放されていた旧体制側の人物たちが1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を機に公職追放を解除され復権して行くことになる。

保守合同[編集]

公職追放処分中の岸は、更に東洋パルプ[37]の会長などを務めていたが、サンフランシスコ講和条約の発効にともない公職追放解除となるやいなや、その1952年4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げた日本再建連盟を設立し、会長に就任した[38]1953年(昭和28年)、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけるも党内の反対が激しく入党はできず、自由党に入党、公認候補として衆議院選挙に当選して吉田から憲法調査会会長に任じられて自主憲法制定を目指すも[39]1954年(昭和29年)に吉田の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。

11月鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導。

1955年(昭和30年)10月には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同したため、これに対抗して11月に新たに結成された、自由民主党の初代幹事長に就任した。かくして「55年体制」が始まる。

なお、岸は1955年8月、鳩山政権の幹事長として重光葵外相の訪米に随行し、ジョン・フォスター・ダレス国務長官と重光の会談にも同席している。ここで重光は安保条約の対等化を提起し、米軍を撤退させることや、日本のアメリカ防衛などについて提案したが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に非現実的と強い調子で拒絶、岸はこのことに大きな衝撃を受け、以後安保条約の改正を政権獲得時の重要課題として意識し、そのための周到な準備を練りあげていくことになる。

岸内閣誕生[編集]

1956年内閣総理大臣石橋湛山(最前列中央)ら石橋内閣の閣僚と岸(最前列左)

1956年(昭和31年)12月14日、自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れた(岸251票、石橋258票)が、外務大臣として石橋内閣に入閣した。2か月後に石橋が脳軟化症に倒れ、首相臨時代理を務めた。巣鴨プリズンに一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名された。国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった(首相就任の1ヵ月後の3月21日に自民党総裁に就任)。石橋内閣を引き継ぐ形の「居抜き内閣」で前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。就任記者会見では「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と抱負を述べ、「三悪追放」が流行語にまでなった。また石橋内閣が提唱していた1千億円減税も就任直後に実施している。1958年(昭和33年)4月25日衆議院を解散5月22日総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、第2次岸内閣が発足した。

1958年(昭和33年)に日米安全保障条約改定にあたり、米側は「在日米軍裁判権放棄密約事件」で露見した裁判権放棄を公式に表明するよう要求したが、国内の反発を恐れた岸はこれを拒否した。

当時の岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)の改正案を出したが、「デートもできない警職法」と揶揄され、社会党総評を初めとして反対運動が高まり、撤回に追い込まれた。また、日本教職員組合(日教組)との政治闘争においては、封じ込め策として教職員への勤務評定の導入を強行した(これに反発する教職員により「勤評闘争」が起こった)。

この他、最低賃金制や国民皆保険や国民皆年金など社会保障制度を導入し、後の高度経済成長の礎を構築した。また、鳩山とともに復古的改憲論を主張した。

安保改定[編集]

岸の総理大臣在任中の最大の事項であり、岸政権の命運に影響を与えたのは、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。

新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどった。

警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て暴力団組長の会合に派遣。錦政会会長稲川角二住吉会会長磧上義光テキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年(昭和33年)に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者も入った日本郷友会(旧軍の在郷軍人の集まり)である。「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。

最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。彼らは政府提供のヘリコプター軽飛行機トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」(『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』)。ただし岸によると、「動員を検討していたのは消防団青年団、代議士の地元支持者らである」とのことである[40]

アメリカ海兵隊のヘリコプターに乗り換えるハガティ(中央の人物)

こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。国会周辺は連日デモ隊に包囲され、6月10日には大統領来日の準備をするために来日した特使、ジェイムズ・ハガティ新聞係秘書(ホワイトハウス報道官)の乗ったキャデラック東京国際空港の入り口でデモ隊に包囲されて車を壊され、その挙句ヘリコプターで救出され避難する騒ぎになった。6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊との衝突により、デモに参加していた東京大学の学生、樺美智子がデモ隊に押しつぶされ死亡する事故が発生した。

岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」と沈静化を図るが(いわゆるサイレント・マジョリティ発言)、東久邇片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワーの訪日を中止せざるを得ない状況となった。

6月15日18日には、岸から自衛隊治安出動を打診された防衛庁長官赤城宗徳が拒否[41]。安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。6月21日には批准昭和天皇が公布した。新安保条約の批准書交換の日の6月23日、岸は閣議にて辞意を表明、7月15日、混乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。

この総辞職の一日前の14日、岸は暴漢に刺され、瀕死の重傷を負っている。暴漢は戦前に右翼団体大化会に属していた荒牧退助で、その後は大野伴睦の院外団にいた。岸側近の小川半次は、岸が大野への禅譲を匂わせながら池田が後継となったことへの憤激が動機であるとする。暴漢本人は、樺美智子とその父親樺俊雄への同情が動機であり、美智子の死亡後に俊雄と面会したことがあったという。また岸への殺意は否定している[42]

岸は「安保改定がきちんと評価されるには50年はかかる」という言葉を残している。岸が取った一連の行動については、文芸評論家の福田和也などが「本物の責任感と国家戦略を持った戦後唯一の総理」として高く評価している。

日韓国交回復[編集]

岸は首相退陣後も政界に強い影響力を保持し、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸は椎名悦三郎瀬島龍三笹川良一児玉誉士夫らと満州人脈を形成した。

日韓国交回復後、岸・椎名・瀬島らと日韓協力委員会を組織する。また両国の反共政策を推進する過程で「統一協会」とも1973年(昭和48年)より親交を持ち「国際勝共連合」結成に協力、1984年(昭和59年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際[43]、米国で脱税被疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送るなど[44]、同教団が政界へ影響力を広げるにあたって重要な役割を果たしたとされる。

中華民国・蒋介石との関係[編集]

岸は中華民国蒋介石総統とは勝共連合の設立(1954年)を通じて親密であり、1957年(昭和32年)首相就任3ヵ月後には台湾を訪問、蒋介石と会談し日華協力委員会を作った。また日本で活動する反蒋介石・台湾独立運動家の強制送還も、胸三寸で決められるほどの影響力を行使した。その蒋介石死後も岸は「蒋介石総統遺徳顕彰会」の中心として日本各地に蒋介石を讃える石碑を建立する活動を行った。古沢襄は、岸の名刺を示すだけで蒋介石や息子の蒋経国に面会できたと語っている[45]

晩年[編集]

政財界に幅広い人脈を持ち、後継者の福田赳夫田中角栄による自民党内の主導権争い(角福戦争)が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。また、御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、「自主憲法制定国民会議」を立ち上げる(1969年、現「新しい憲法をつくる国民会議」)など自主憲法論に関し積極的な発言を続けた。

1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で長女洋子の娘婿であり後年岸派を福田赳夫から継承する安倍晋太郎山口1区(当時)で落選。地元山口県での影響力低下が取りざたされる。岸は同選挙区選出の自民党議員・周東英雄の後援会長を務めていた藤本万次郎の自宅を現職総理大臣である佐藤栄作と二人で訪れ、安倍後援会会長への就任を要請する。藤本を後援会長として迎えた安倍は1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で復活を果たし、岸の影響力も旧に復した。

1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙では、側近の1人今松治郎の秘書だった森喜朗が自民党の公認得られず無所属新人として旧石川1区で出馬する際、岸の秘書中村長芳に岸の応援を懇願してきた森の要望を快諾し、岸の応援で陣営に勢いがつき初当選を果たした森は生涯恩義を忘れていない。

佐藤政権が憲法改正などの問題に取り組まないことに苛立ち、首相再登板を模索したこともあったとされる。しかしそのために具体的な行動を起こした形跡はなく、後継者たる福田赳夫の首相就任を悲願としていた[46]1972年(昭和47年)の自民党総裁選挙で福田が田中角栄に完敗したときは、気の毒なほどに落胆していたという[47]

1974年(昭和49年)にはシンクタンクである協和協会を設立。また、1976年(昭和51年)10月には“民主主義・自由主義体制を尊重しつつ、政党・派閥を超えて、国家的課題を検討・推進する”政治団体「時代を刷新する会」を設立。1979年(昭和54年)10月7日衆議院解散を機に、地盤を吹田愰に譲り、政界引退。

1982年(昭和57年)7月14日にレフチェンコ事件が勃発した後、岸は、GHQ民政局によって1950年(昭和25年)に発禁処分にされた「戦争と共産主義-昭和政治史秘録」(三田村武夫著)を読んで大東亜戦争の真相に驚愕し、次のように言い遺した[48]

「知友のラジオ日本社長、遠山景久君が、某日、『岸先生、大変な本を見付けました。是非第一読下さい』と持参されたのが、この三田村武夫氏の著書であった。読む程に、私は、思わず、ウーンと唸ること屡々であった。
支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか
近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、スターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事をつとめたのだから、まことに茶番というほかはない
この本を読めば、共産主義が如何に右翼、軍部を自家薬籠中のものにしたかがよく判る。何故それが出来たのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し、考えてみれば、本来この両者(右翼と左翼)、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当時、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している。ここに、先述の疑問を解く鍵があるように思われる。
国際共産主義の目的は、この著書でも指摘しているように、大東亜戦争の終結以降は筋書どおりにはいかず、日本の共産化は実らなかったものの、国際共産主義の世界赤化戦略だけは、戦前から今日まで一貫して、間断なく続いていることを知らなければならない。往年のラストボロフ事件、又、最近のレフチェンコ事件などは、ほんの氷山の一角にすぎないのであろう。これを食い止めるには、自由主義体制を執るすべての国家が連帯して、自由と民主主義をがっちりと守り、敵の一党独裁・計画経済に対するに、複数政党・市場経済の社会を死守することである。
私は、私自身の反省を込めて、以上のことを強調したい。また、このショッキングな本が、もっともっと多くの人々に読まれることを心から望む次第である。」

死去[編集]

引退後国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価された[49]。1987年(昭和62年) 8月7日に入院先の病院で死去した。90歳没。墓は山口県田布施町及び静岡県御殿場市の冨士霊園にある。

略年譜[編集]

  • 1896年明治29年)11月13日 - 山口県吉敷郡山口町八軒家(現在の山口市)に生まれる。本籍地は山口県熊毛郡田布施町
  • 1919年大正8年)11月 - 岸良子と結婚。
  • 1920年(大正9年)
    • 7月 - 東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。外国貿易に関する事項の調査を嘱託。
    • 9月 - 外国貿易に関する事項の調査嘱託を解かれ、任農商務属、商務局勤務。
  • 1921年(大正10年)
    • 5月 - 任農商務事務官、叙高等官七等商務局勤務、監理課勤務、叙従七位
    • 11月 - 長男信和誕生。
  • 1922年(大正11年)
    • 7月 - 兼任農商務参事官、叙高等官七等、農商務事務官として山林局勤務、大臣官房文書課勤務。
  • 1923年(大正12年)
  • 1924年(大正13年)
    • 12月 - 水産局勤務。
  • 1925年(大正14年)
    • 3月 - 大臣官房文書課兼務を免ぜらる、農林事務官。
    • 4月 - 任特許局事務官兼商工書記官、叙高等官六等、大臣官房文書課勤務(兼)。
    • 7月 - 陞叙高等官五等。
    • 8月 - 叙従六位
  • 1926年(大正15年)
    • 2月、商務局兼務。
    • 4月 - 欧米各国へ出張。
    • 5月 - 米国に於ける製鉄事業の企業、組織及印度に於ける製鉄事業の情況並本国との斯業関係調査を嘱託。
  • 1927年昭和2年)
    • 4月 - 帰朝。
    • 7月 - 陞叙高等官四等。
    • 9月 - 叙正六位
  • 1928年(昭和3年)
    • 6月 - 長女洋子生る。
    • 11月 - 昭和三年勅令第百八十八号旨に依り大礼記念章を授与さる。
  • 1929年(昭和4年)
    • 4月 - 木戸大臣官房文書課長海外出張中代理、商工審議会幹事被仰付。
    • 8月 - 陞叙高等官三等。
    • 9月 - 叙従五位
  • 1930年(昭和5年)
    • 5月 - 工務局兼務、欧州各国へ出張。
    • 6月 - 任臨時産業合理局事務官兼特許局事務官兼商工書記官、叙高等官三等、工務局勤務。臨時産業合理局第一部勤務。
    • 12月 - 臨時産業合理局第二部兼務。
  • 1932年(昭和7年)
    • 1月 - 任商工書記官兼臨時産業合理局事務官叙高等官三等、工務局工政課長。臨時産業合理局第一部勤務。
  • 1933年(昭和8年)
    • 2月 - 兼任外務書記官( - 1934年3月)、通商局勤務。
    • 4月 - 工務局工業課長兼務。
    • 12月 - 大臣官房文書課長、工務局工政課長兼務。
  • 1934年(昭和9年)
    • 1月 - 製鉄事業評価審査委員会幹事被仰付、大臣官房統計課長兼務、統計主任、工務局工務課長兼務。
    • 2月 - 資源局事務官被仰付。第六十五回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。
    • 3月 - 免兼外務書記官。
    • 4月 - 叙勲五等授瑞宝章、従軍記章を授与さる。
    • 9月 - 叙正五位
  • 1935年(昭和10年)
    • 1月 - 対満事務局事務官被仰付。
    • 3月 - 第六十七回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。
    • 4月 - 商工省工務局長心得。臨時産業合理局第二部長。
    • 5月 - 任臨時産業合理局事務官兼商工省工務局長、叙高等官二等、臨時産業合理局第一部長、臨時産業合理局第二部長。
    • 12月 - 第六十八回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。
  • 1936年(昭和11年)
    • 4月 - 任商工省工務局長兼臨時産業合理局事務官、臨時産業合理局第二部長。
    • 5月 - 第六十九回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。臨時産業合理局第一部長兼務。
    • 10月 - 依願免本官竝兼官。満州重工、実業部次長として渡満。
  • 1937年(昭和12年)
    • 7月 - 産業部次長。
  • 1939年(昭和14年)
    • 10月 - 任商工次官、叙高等官二等。
  • 1941年(昭和16年)
  • 1942年(昭和17年)
  • 1943年(昭和18年)
    • 10月 - 任国務大臣、商工次官兼任、叙高等官一等。
    • 11月 - 国務相、軍需次官( - 1944年7月)。
  • 1945年(昭和20年)
  • 1953年(昭和28年)
    • 3月 - 自由党入党 。
    • 4月 - 衆議院議員( - 1979年9月)。
    • 12月 - 憲法調査会会長。
  • 1954年(昭和29年)
  • 1955年(昭和30年)
  • 1956年(昭和31年)
  • 1957年(昭和32年)
    • 2月 - 内閣総理大臣。
    • 3月 - 自由民主党大会開催、総裁に当選。
  • 1960年(昭和35年)
    • 7月 - 内閣総理大臣、自由民主党総裁退任。
  • 1974年(昭和49年)
  • 1979年(昭和54年)
  • 1987年(昭和62年)
    山口県田布施町及び静岡県御殿場市冨士霊園

メモ[編集]

  • 岸は3度死を覚悟をしたことがあると語っている。1度目は東条内閣時代に閣僚として東条首相と対立して閣僚辞表提出を拒否した時、2度目はA級戦犯被疑で捕まった時、3度目は安保改定の際に首相官邸でデモに取り囲まれた時の3度である。
  • 戦時中の1945年(昭和20年)、座骨神経痛を病み、郷里山口で保養中だった。ところが同年鈴木貫太郎内閣内務大臣になった同郷の安倍源基から「非常時だから何かやってくれ」「新設された(全国8ヵ所に置かれた)地方総監府の長官を引き受けてくれ」と言われた。岸は「分かった。しかし場所は山口から近い広島にして欲しい」と答えると「広島は昨夜内務省の先輩の大塚惟精を決めたばかりなので、他はどこでもいいけれど広島は困る」と言われ、この話は流れた。大塚はこの数ヶ月後広島市への原子爆弾投下で被爆死した[50][51]
  • 東京都渋谷区南平台(地区は松涛)の岸邸隣に世界基督教統一神霊協会(統一教会)があり、岸も、統一教会本部やその関連団体「国際勝共連合」本部に足を運んだ[52]。日本での「国際勝共連合」の設立の際に児玉誉士夫笹川良一と共に協力した[53]
  • 1974年(昭和49年)5月7日、東京の帝国ホテルで開かれた、統一教会の教祖文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」の名誉実行委員長となった[54]
  • 安全保障議論で吉田茂とは鋭く対立したが、親戚関係にあり、安保改定に当たっては同条約締結時首相の任にあった吉田に敬意を表し、神奈川県大磯町の別荘に隠棲していた吉田の元に度々足を運び、吉田もその都度丁重な礼状をしたため、家人をもって岸邸に届けさせたという[55]。また、皇學館大学では吉田の後任の総長を務めた。
  • 岸は内閣総理大臣として3度、通常国会で施政方針演説を行ったが、1957年(昭和32年)の石橋湛山内閣時に内閣総理大臣臨時代理として石橋総理大臣の代役で施政方針演説を行っている[56]。尚、日本国憲法下で内閣総理大臣臨時代理による施政方針演説はこの時の岸信介のみである。
  • 2010年(平成22年)6月23日に日本郵便が発行する「日米安全保障条約改定50周年」記念切手の一種に署名式の岸とアイゼンハワーの姿が描かれている[57]
  • 公職追放後、一時行方不明との報道がなされた。その間は、藤本万次郎の出身地である、祝島の藤本家で体力と英気を養い、この際に、岸と藤本の盟友関係は更に深くなり、後年、現職の周東英雄後援会長でありながら、岸、佐藤に懇願され岸の娘婿である落選中の安倍晋太郎後援会長を藤本は引き受け、当選に導くに至った。
  • 岡潔の哲学に賛同し福田赳夫と共に葦牙会に所属した。
  • 1957年(昭和32年)にオリンピック招致費用を2013年現在の価格に換算して1200億円掛かる事を懸念していた岸信介首相は、日本水泳連盟会長田畑政治に、観光収入も見込めると直談判された。[58]
  • プロ野球では巨人ファンであり、球場で観戦した事もあった[59]

栄典[編集]

家族・親族[編集]

実家(佐藤家)
佐藤家の祖先について、確証はないが、遠祖は源義経の家臣佐藤忠信であるという口伝がある。「佐藤家の祖は、およそ三百年さかのぼることができる。それ以前は、源義経の家臣佐藤忠信に発する、という口伝がある。もちろん信ずべき証はない。ただ佐藤の本家に生れ、あとで栄作と縁組することになる寛子は“子供のころから、浄瑠璃狐忠信の忠信は先祖と聞かされて”いる。義経千本桜四段目で狐の化けた忠信が静御前を守護する。この忠信は源氏車家紋をつけた衣装で舞う。佐藤家の紋所もまた同じ源氏車である」[61]という。
岸は自伝の中で「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた旧藩時代からの士族で、ことに曽祖父・信寛の威光がまだ輝いていた。また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである。」[62][63]、「佐藤の子供だというので、自然に一目も二目も置いて付き合われたので、好い気になって威張っていた傾きもあった[64]」と述べている。
  • 曾祖父・信寛長州藩士、島根県令
    佐藤家第10代当主。「この曽祖父は、佐藤家の歴史においては最も傑出した人であった。もっとも、その叔父の九右衛門は坪井家に養われて長井雅楽の一味として当時、藩政の要路にあり、非常な傑物だったといわれる。佐藤家に伝わる政治家的な性格は、この坪井九右衛門や、曾祖父の信寛によって最も顕著にあらわれた。」[65]という。
  • 祖父・信彦(漢学者、政治家)
    信彦は県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。[66]
  • 祖母・みね徳山藩[67]国広治左衛門の娘)
  • 実父・秀助(山口県庁官吏、のち酒造業
    田布施・岸要蔵の三男。佐藤家に婿入りして分家を立てた。信介の実弟佐藤栄作は父秀助について「父は非常に勉強好きな人で、寡黙な人だった。私があまり口をきかないのも、性質が父親に似たせいだろう」と述べている[68]
  • 実母・茂世(佐藤信彦の長女)
    子供たちの教育はすべて母・茂世の手で行われ、スパルタ式の教育で信介ら兄弟が泣いたりして家へ帰ろうものなら叱りつけて家の中に入れなかったという。また、佐藤家の家運が傾き貧乏になった時も「ウチは県令と士族の家柄ですからね!」と頑として挫けず、対外的な意地を張り通したという[69](武士は食わねど高楊枝)。
  • 兄・市郎(軍人・海軍中将)
  • 弟・栄作(政治家・首相)
    茂世の弟・佐藤松介(医師・岡山医学専門学校教授)の婿養子となり佐藤家本家を継ぐ。
養家(岸家)
農商務省時代(大正12年
左から良子、信和佐藤栄作、岸信介、吉田寛)
その他の親戚
吉田茂(外交官、政治家・首相)、松岡洋右満州鉄道総裁・外務大臣)など

系譜[編集]

岸家[編集]

天文24年(1555年毛利元就陶晴賢厳島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する帰化人であったという。周防長門を手中におさめた毛利は、その功績によって“ガン”を田布施周辺の代官に召し立てた。

岸家と佐藤家にまつわる余談の挿話だが、「郷里田布施の選挙戦のとき佐藤派はなんとかして岸信介にケチをつけたいと頭をひねった。思いついたのが、土地に古くから言い伝えられていた“ガン”の故事である。もともと岸家は悪代官の家系ではないか、とだれかが言い始めた。というのは、毛利元就が陶晴賢と厳島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する帰化人であったという。周防長門を手中におさめた毛利公は、その功績によって“ガン”を田布施周辺の代官に召し立てた。ところがこれが悪代官で、年貢はきびしく取り立てるし、女を囲う、金を貯める。このガンの子孫こそ、ほかならぬ“岸(がん)”ではないか、というのであった。選挙戦となると、佐藤陣営はこの昔話を“岸家”にこじつけて“岸信介は悪代官の子孫だ!”と、喚きたてた。龍太郎も最初のうちは、そうだ、そうだ、と同調していたが、しだいに照れくさくなって言わなくなった。…考えてみると信介が岸家に養子にいったのは事実だがそれ以前に信介栄作の父佐藤秀助は岸家から佐藤家へ養子に来た男である。栄作にも、そして龍太郎にも岸家の血が流れている。悪代官の子孫だ、と佐藤派の者が叫ぶたびにヘンな気がしてきたという。天にツバするとはこのことか。岸家と佐藤家は、異なるようで同じく、同じようで違う。両者“悪代官”の果てかどうかは定かでないが、この挿話は両家の関係をよくあらわしている」[70]という。

また別の挿話で、「信介より五つ年下の良子夫人は、信介が西田布施の高等科一年の時に、尋常科一年に入って来た。養父つまり良子の父信政が亡くなった時は、良子は尋常三年、数え年10歳だった。岸家は家の構えからして古風であり、整然としており、昔からの諸式がよく維持されていた。何事によらずキチンとしていた。例えば、神棚にお灯明をあげるにも火打石を使い、マッチの火などは“汚れている”とされていたのだった。このような雰囲気は、乱雑な、そして一切かまわない、古い仕来りのほとんど残されていない佐藤家の空気とはおよそ対蹠的なものだった。」[71]という。

         鮎川弥八
┏━井上 馨     ┃         ┏━鮎川 弥一━━━━鮎川純太
┃          ┣━━━鮎川義介━━┫
┗━━━つね     ┃         ┗━鮎川金次郎
    ┃  ┏━━━なか
    ┣━━┫
    ┃  ┗━━━辰
  小沢正路     ┃
           ┣━━━田辺 譲━━━━━━━仲子
           ┃              ┃
         田辺誠民             ┃
                          ┣==┳━━岸 信夫
       ┏━岸 信政━━━━良子       ┃  ┃  (安倍)
       ┃         ┃        ┃  ┃
岸要蔵━岸信祐┫         ┣━━━┳━岸  信和 ┃
       ┃         ┃   ┃       ┃
       ┗━佐藤秀助━━岸 信介  ┗━━━━洋子 ┃
         (岸)   (佐藤)       ┃  ┃
                          ┣━━╋━━安倍晋三
                          ┃  ┃
               安倍 寛━━━━安倍晋太郎 ┗━━安倍寛信

佐藤家[編集]

佐藤氏系譜(武家家伝)

                              ┏━昭和天皇━━━━━今上天皇
                  明治天皇━━━大正天皇━┫
                              ┗━三笠宮崇仁親王━━寬仁親王
                                           ┃  ┏━彬子女王
                                           ┣━━┫
                                麻生太賀吉      ┃  ┗━瑶子女王
                                   ┃  ┏━━━━信子
                                   ┣━━┫
                                   ┃  ┗━麻生 太郎
                              ┏━━━━和子
                         吉田 茂━┫
                              ┗━━━━桜子
                         吉田祥朔      ┃
                           ┃       ┃
                           ┣━━━━吉田  寛
                           ┃
                       ┏━━━さわ
                       ┃      ┏━━━━正子
                       ┣━佐藤松介━┫
                       ┃      ┗━━━━寛子
佐藤信孝━━佐藤信立━━佐藤信寛━━佐藤信彦━╋━佐藤寛造      ┃
                       ┃           ┣━━┳━佐藤龍太郎━━━佐藤栄治
                       ┃ (佐藤)      ┃  ┃
                       ┣━池上作造 ┏━佐藤 栄作 ┗━佐藤 信二
                       ┃      ┃
                       ┗━━━茂世 ┃
                            ┃ ┃ (佐藤)
                            ┣━╋━岸  信介━━━━━━洋子
                            ┃ ┃            ┃
                         (岸)┃ ┃            ┣━━━━安倍晋三
                       ┏━佐藤秀助 ┃            ┃
                       ┃      ┗━佐藤 市郎   安倍晋太郎
            岸 要蔵━━岸 信祐━┫
                       ┃
                       ┗━岸 信政━━━━━━良子
                                (信介夫人)

資料館・旧宅[編集]

岸信介・佐藤栄作兄弟宰相の遺品展示室(田布施町郷土館)
岸信介、佐藤栄作兄弟の出身地、田布施町郷土館内に設置。国連平和賞ノーベル平和賞などの遺品や関連文書を展示し、両元首相を顕彰している。
御殿場の旧岸信介邸
所在地:静岡県御殿場市東山1082-1
岸が、晩年の17年間を過ごした邸宅(吉田五十八設計)は、2003年(平成15年)に長女・安倍洋子らによって地元御殿場市に寄贈され、土地は御殿場市の財産区が購入し観光文化施設「御殿場東山ミュージアムパーク」として整備を進め、現在は「東山旧岸邸」として一般公開されている。これらに先立ち御殿場市の市制50周年を記念し、2005年(平成17年)10月5日から10月10日まで一般無料公開された。

脚注[編集]

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  1. ^ 工藤美代子 (2012-09-10). 絢爛たる悪運 岸信介伝 (1st ed.). 幻冬舎. pp. 205-208. ISBN 978-4-344-02238-6. 
  2. ^ 工藤美代子 (2012-09-10). 絢爛たる悪運 岸信介伝 (1st ed.). 幻冬舎. pp. 108-111. ISBN 978-4-344-02238-6. 
  3. ^ 工藤美代子 (2012-09-10). 絢爛たる悪運 岸信介伝 (1st ed.). 幻冬舎. pp. 132-133. ISBN 978-4-344-02238-6. 
  4. ^ 左派弱体化へ秘密資金 米CIA、保革両勢力に 共同通信
  5. ^ ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋
  6. ^ 角間隆 (1979). ドキュメント日商岩井. 徳間書店. 
  7. ^ 川端治 (1963). 自民党 その表と裹. 新日本出版社. 
  8. ^ 週刊文春2007年10月4日
  9. ^ 信介が物心ついて、田布施の家で、冬の夜など、兄弟姉妹が炬燵をとり囲んで、雑談などしている時、信介少年は自分だけが山口の八軒家で生まれたということにより、ちょっと仲間はずれになったような感じがしたこともあったという(吉本重義著『岸信介傳』19-20頁)
  10. ^ a b c 「黙れ兵隊」と一喝 - 古澤襄 杜父魚文庫”. 2007年8月26日閲覧。、吉本重義著『岸信介傳』20頁
  11. ^ 吉本重義著『岸信介傳』18-19頁
  12. ^ 山田栄三『正伝 佐藤栄作(上)』 23頁
  13. ^ 学校メモリアル - 岡山市立内山下小学校(沿革)
  14. ^ 岸 信介 / 全国名前辞典
  15. ^ 吉本重義著『岸信介傳』39頁
  16. ^ 吉本重義著『岸信介傳』54頁に「中央大学予備校に通い…」とある
  17. ^ 吉本重義著『岸信介傳』54-55頁
  18. ^ 吉本重義著『岸信介傳』54、55頁
  19. ^ 吉本重義著『岸信介傳』62頁
  20. ^ 『岸信介傳』62頁
  21. ^ 原彬久『岸信介 権勢の政治家』 28、29頁
  22. ^ 大川周明『北一輝君を憶ふ』
  23. ^ 『巨魁 <岸信介研究>』 37頁
  24. ^ 吉本重義著『岸信介傳』70頁
  25. ^ 『岸信介傳』 78-80頁
  26. ^ 岸信介矢吹一夫伊藤隆著、『岸信介の回想』 文藝春秋 1981年 p.13
  27. ^ 岸信介・矢吹一夫・伊藤隆著、『岸信介の回想』 文藝春秋 1981年
  28. ^ 原彬久『岸信介 権勢の政治家』
  29. ^ 原彬久『岸信介証言録』 毎日新聞社 (2003年4月) ISBN 4-620-31622-9
  30. ^ a b 福田和也 『悪と徳と岸信介と未完の日本』 産経新聞社 2012年4月 第19回『サイパン陥落』第20回『尊攘同志会』pp.228-246
  31. ^ a b 児島襄 『太平洋戦争』(下) 中公文庫 1974年7月 『フィリピンに決戦をもとめて 詰腹きらされた東条首相』pp.220-223
  32. ^ 工藤美代子 (2012-09-10). 絢爛たる悪運 岸信介伝 (1st ed.). 幻冬舎. pp. 168-169. ISBN 978-4-344-02238-6. 
  33. ^ 工藤美代子 (2012-09-10). 絢爛たる悪運 岸信介伝 (1st ed.). 幻冬舎. pp. 205-208. ISBN 978-4-344-02238-6. 
  34. ^ 工藤美代子 (2012-09-10). 絢爛たる悪運 岸信介伝 (1st ed.). 幻冬舎. pp. 284-291. ISBN 978-4-344-02238-6. 
  35. ^ 工藤美代子 (2012-09-10). 絢爛たる悪運 岸信介伝 (1st ed.). 幻冬舎. pp. 278-208. ISBN 978-4-344-02238-6. 
  36. ^ 工藤美代子 (2012-09-10). 絢爛たる悪運 岸信介伝 (1st ed.). 幻冬舎. pp. 289. ISBN 978-4-344-02238-6. 
  37. ^ 永野護がプロモートして広島県呉市に工場を建設した会社。岸が会長、社長が足立正、取締役が永野、藤山愛一郎津島寿一三好英之監査役瀬越憲作。経営がうまくいかず後に王子製紙に売却した(『岸信介の回想』97頁)。
  38. ^ 小泉・安倍・中川の“政治的DNA” 『歳川隆雄のコンフィデンシャル情報』”. 2007年8月26日閲覧。
  39. ^ 『岸信介の回想』102,103頁
  40. ^ 原彬久 『岸信介証言録』 p.292。毎日新聞社(2003年4月) ISBN 4-620-31622-9
  41. ^ 副島隆彦『日本の秘密』(弓立社、1999年、ISBN 4772703616
  42. ^ 岩見隆夫 『岸信介 昭和の革命家』「第2部終章2節"岸を刺した男"」 pp.273-278、学陽書房・人物文庫(1999年4月)ISBN 4-313-75086-X。初出は「文藝春秋」1977年11月号『満州の妖怪―岸信介研究』、同 1978年7月号『権力への野望―岸信介研究・戦後篇』。初版単行本 学陽書房(1979年)、新版 朝日ソノラマ(1994年6月)。
  43. ^ 岸信介元首相、統一教会本部で文鮮明師と会談
  44. ^ 文鮮明師のアメリカ裁判に関する岸信介元首相の意見書
  45. ^ 「昭和の妖怪」の素顔 古沢襄(杜父魚文庫)”. 2007年8月26日閲覧。
  46. ^ 原彬久『岸信介』(岩波新書 1995年1月)
  47. ^ 安倍洋子『わたしの安倍晋太郎-岸信介の娘として』(文春ネスコ、1992年4月)
  48. ^ 三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義』(自由選書、1987年1月発行)319 - 320頁
  49. ^ 日本財団図書館 「興四海野春風―2002 20年の歩み―」”. 2007年8月26日閲覧。
  50. ^ 『岸信介の回想』73、74頁
  51. ^ 『日本宰相列伝20 岸信介』85頁
  52. ^ 久保木修己『愛天愛国愛人 ─母性国家、日本のゆくえ─』(世界日報社、1996年発行)
  53. ^ 第078回国会 外務委員会 第4号 1976年(昭和51年)10月21日”. 2007年8月26日閲覧。
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  55. ^ 原彬久「ポスト小泉の麻生氏と安倍氏、祖父が争った国のかたち―闘い方が時代を占う指標に」(『朝日新聞』2005年12月15日夕刊14面)
  56. ^ 第26回国会 衆議院本会議議事録(昭和32年2月4日) 国会会議録:衆議院
  57. ^ 特殊切手「日米安全保障条約改定50周年」の発行 - 日本郵便
  58. ^ 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック~第2回オリンピック招致にかけた男たち」
  59. ^ 【4月6日】1958年(昭33) デビュー4打席4三振 その後の長嶋茂雄スポニチアネックス2008年3月25日記事
  60. ^ 『官報』 1942年07月11日 叙任及辞令 「商工大臣 従三位 勲二等 岸信介 満州国皇帝陛下ヨリ贈与シタル国境事変従軍記章ヲ受領シ佩用スルヲ允許セラル 七月六日賞勲局」
  61. ^ 山田栄三『正伝 佐藤栄作(上)』15頁
  62. ^ 『岸信介傳』 27頁
  63. ^ 岩川隆『巨魁――岸信介研究』 15-16頁
  64. ^ 岩川隆『巨魁――岸信介研究』 16頁
  65. ^ 吉本重義『岸信介傳』21頁
  66. ^ 山田栄三『正伝 佐藤栄作(上)』20頁
  67. ^ 山田栄三『正伝 佐藤栄作(上)』20頁
  68. ^ 岩川隆『忍魁・佐藤栄作研究』 19頁
  69. ^ 『岸信介傳』25、26頁
  70. ^ 岩川隆『忍魁 佐藤栄作研究』、58-59頁
  71. ^ 『岸信介傳』47頁

参考文献[編集]

著書[編集]

  • 『現代法学全集(23) 保険業法・取引所法・税法・担保附社債信託法』(南正樹星野直樹栗栖赳夫共著、日本評論社、1928年)
  • 『日本戦時経済の進む途』(研進社、1942年)
  • 『岸信介の回想』(文藝春秋、1981年/文春学藝ライブラリー、2014年10月)。後者は文庫判
  • 『二十世紀のリーダーたち』(サンケイ出版、1982年)
  • 『岸信介回顧録――保守合同と安保改定』(廣済堂出版、1983年)、ISBN 433150171X
  • 『我が青春――生い立ちの記・思い出の記』(廣済堂出版、1983年)、ISBN 4331501728
    • 岸信介の後援会誌『風声』に昭和28年第2号から昭和31年第11号にわたって連載された「我が生い立ちの記」の全文から成るもの。
  • 『耐雪―岸信介幽窗の詩歌集』(山口県田布施町郷土館 研究紀要別冊 2001年
  • 『岸信介証言録』(原彬久によるインタビュー、毎日新聞社、2003年/中公文庫、2014年11月)、ISBN 4620316229
  • 『保守政権の担い手 私の履歴書日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫〉、2007年、(文庫再刊)
  • 『青年に望む』 自民党発行のブックレット
  • 『日本の進路と安保条約』 自民党発行のブックレット

伝記研究[編集]

  • 岸信介伝記編纂委員会編 『人間岸信介 波瀾の九十年』(岸信介遺徳顕彰会、1989年)
  • 安倍洋子「父岸信介の素顔」 『中央公論』 1987年10月号
    • 『わたしの安倍晋太郎 岸信介の娘として』 文春ネスコ、1992年
  • 伊藤整「岸信介氏における人間の研究」:『中央公論』 1960年8月号
  • 岩川隆 『巨魁 岸信介研究』 (ダイヤモンド社 1977年/徳間文庫 1982年/ちくま文庫 2006年)
  • 岩見隆夫 『昭和の妖怪 岸信介』 (朝日ソノラマ、1994年/「岸信介 昭和の革命家」学陽書房〈人物文庫〉、1999年/中公文庫、2012年)
  • 太田尚樹 『満州裏史-甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』(講談社、2005年/講談社文庫、2011年)
  • 大日向一郎 『岸政権・一二四一日』 (行研〈政権シリーズ〉、1985年)-公的な政権概説
  • 北康利 『叛骨の宰相 岸信介』(角川書店、2014年)
  • 工藤美代子 『絢爛たる悪運 岸信介伝』(幻冬舎、2012年) ISBN 978-4-344-02238-6
  • 小林英夫 『「昭和」をつくった男 石原莞爾、北一輝、そして岸信介』 (ビジネス社、2006年)
  • 現代思想 特集岸信介-戦後国家主義の原点 2007年1月号』 青土社、小林英夫・道場親信ほか
  • 塩田潮 『岸信介』 (講談社、1996年)/『「昭和の怪物」 岸信介の真実』 (ワックブックス、2006年)
  • 高橋正則 『昭和の巨魁 岸信介と日米関係通史』(三笠書房、2000年)
  • 中村隆英宮崎正康編 『岸信介政権と高度経済成長』(東洋経済新報社、2003年)
  • 中村長芳「岸信介に仕えた35年」:『文藝春秋』 1987年10月号に所収
  • 西部邁「声なき声の人 - 岸信介論」:『ニヒリズムを超えて』145-153頁に所収、(ハルキ文庫、1997年)、ISBN 9784894563629
  • 原彬久 『岸信介―権勢の政治家』 (岩波新書、1995年)
  • 福田和也 『悪と徳と―岸信介と未完の日本』(産経新聞出版、2012年)、月刊『正論』2003年2月号より断続連載。
  • 細川隆一郎『日本宰相列伝 20 岸信介』(時事通信社、1986年)
  • 山田栄三 『正伝 佐藤栄作 (上下)』(新潮社、1988年)
  • 吉本重義 『岸信介傳』 (東洋書館、1957年)
  • 荒井荒雄 『原理運動の謀略と自民党―岸信介原罪論』(青村出版社、1976年)
  • 池田慎太郎 『日米同盟の政治史―アリソン大使と「1955年体制」の成立』(国際書院、2004年)
  • 城下賢一「岸信介と保守合同(1・2)」『法学論叢』157巻3・5号(京都大学法学会、2005年)
  • 坂元一哉 『日米同盟の絆―安保条約と相互性の模索』(有斐閣、2000年)
  • マイケル・シャラー “America's Favorite War Criminal: Kishi Nobusuke and the Transformation of U.S.-Japan Relations”(日本政策研究所)
    • 『「日米関係」とは何だったのか 占領期から冷戦終結後まで』(市川洋一訳、草思社、2004年)
  • 春名幹男 『秘密のファイル―CIAの対日工作 (上下)』 (共同通信社、2000年/新潮文庫、2003年)
  • ティム・ワイナー “Legacy of Ashes:The History of the CIA”
    • 『CIA秘録 (上下)』(藤田博司ほか訳、文藝春秋、 2008年/文春文庫、2011年)
  • 渡辺昭夫編『戦後日本の宰相たち』(中央公論社、1995年/中公文庫、2001年)ISBN 9784120024955
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年) 180-181頁
  • 神一行 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 (角川書店、2002年)、61-75頁

その他[編集]

  • 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 (光文社、2000年、354頁)

関連項目[編集]

人物[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代:
石橋湛山
日本の旗 内閣総理大臣
第56・57代:1957年 - 1960年
次代:
池田勇人
先代:
日本国憲法下で初
日本の旗 内閣総理大臣臨時代理
1957年
石橋内閣
次代:
伊東正義
1980年・第2次大平内閣
先代:
重光葵
日本の旗 外務大臣
第86・87代:1956年 - 1957年
次代:
藤山愛一郎
先代:
創設
日本の旗 国務大臣(無任所)
1943年 - 1944年
次代:
廃止
先代:
左近司政三
日本の旗 商工大臣
第24代:1941年 - 1943年
次代:
東條英機
党職
先代:
石橋湛山
自由民主党総裁
第3代:1957年 - 1960年
次代:
池田勇人
先代:
結成
自由民主党幹事長
初代:1955年 - 1956年
次代:
三木武夫
先代:
結成
日本民主党幹事長
初代:1954年 - 1955年
次代:
自由民主党
学職
先代:
吉田茂
皇學館大学総長
第2代:1968年 - 1987年
次代:
篠田康雄
第55代
石橋湛山
5657
1957年 - 1960年
第58代
池田勇人

伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衛

寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一

濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎

阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王
幣原喜重郎
吉田茂

片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮

三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曽根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹

宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎

安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
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菅直人
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