非核三原則
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非核三原則(ひかくさんげんそく)は、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という、日本政府の三つの原則[1]。
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[編集] 経緯
60年安保改定を控えた岸内閣の頃から日本の核政策が議論されるようになった。背景には米ソ冷戦と冷戦時代の核競争がある。
1957年5月7日の参議院で、岸信介総理は「自衛権の範囲内であれば核保有も可能である」と答弁し、5月15日[2]政府の統一見解として「原水爆を中心とする核兵器は自衛権の範囲に入らないが、将来開発されるものなどをことごとく憲法違反とするのはいきすぎである」と表明。1959年3月2日の参議院予算委員会でも「防衛用小型核兵器は合憲である」との判断を明らかにしていた。
国際情勢は1962年のキューバ危機を経て池田内閣の1963年8月14日に部分的核実験禁止条約に調印、翌1964年6月15日に批准。やがて60年代末から米ソデタントとなる。
1967年12月11日の衆議院予算委員会において日本社会党委員長の成田知巳が、アメリカ合衆国から返還の決まった小笠原諸島へ核兵器を再び持ち込むことへの可能性について政府に対して質問した際、佐藤栄作内閣総理大臣が、日本は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という三原則を示した[3]。佐藤栄作は、翌1968年1月30日の施政方針演説においても、この三原則を含めた核政策の4本柱を表明(非核三原則、核廃絶・核軍縮、米の核抑止力依存、核エネルギーの平和利用)[4]。
その後、返還後の沖縄においても同原則が適用されるのかという問題に関して三木武夫外務大臣は当然適用されると主張したのに対し、返還交渉がこじれる事を危惧した佐藤栄作が三木発言を非難するなどの紆余曲折があった[5]。佐藤栄作は、最終的に沖縄にも適用させるべきという決断を下している。これを受けた沖縄返還協定の付帯決議として1971年11月24日の衆議院本会議決議として「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」[6]がなされた。1972年10月9日の閣議で核の脅威に対してはアメリカの核抑止力に依存すると決定。
「核兵器を持たず、作らず」の日本独自の核兵器の保有・製造に関する2項目については、1955年に締結された日米原子力協力協定や、それを受けた国内法の原子力基本法および、国際原子力機関(IAEA)、核拡散防止条約(NPT)等の批准で法的に禁止されている。ただし、非核三原則は法律ではないため、非核三原則の最後の原則である「核兵器を持ち込ませず」には法的な拘束力はない。
この非核三原則を示したことによって佐藤栄作は1974年にノーベル平和賞を受賞した。
[編集] 歴代内閣
佐藤内閣以降の歴代の内閣総理大臣は、施政方針演説等において[7]この三原則を遵守することを表明[8]している 。
衆議院において非核三原則を遵守する旨の決議がおこなわれているが、実際に守られているかどうかは疑わしい点が多い。実際、「持ち込ませず」に関しては、ジーン・R・ラロック国防情報センター所長(退役海軍少将)の証言、ライシャワー駐日大使の発言など、それに反することを過去の日本政府がおこなったとする証拠も存在する(→#核の持ち込み)。
アメリカは、自国艦船の核兵器の搭載について「肯定も否定もしない」という原則を堅持しているが、日本に寄港する米軍艦船が核兵器を保有していないとは軍事の常識としてあり得ないとされる(上述。ラロック証言より)。これについて日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」としているが、これは逆に「協議を申し出るか否かは米軍の自由であり、協議抜きで内密に持ち込む」可能性をも物語っている。また政府は後述「核兵器持ち込み密約」の存在を、アメリカ国立公文書記録管理局で存在が確認された2009年現在も否定し続けている。
また、反核政策により核兵器を搭載していると思わしきアメリカ艦艇の寄港を拒否したニュージーランドは、その際に、日本を出港したアメリカ艦艇がそのままニュージーランドへ寄港を希望した場合の対処について、苦慮したと言われる(現在までそのような問題は生じていない)。
[編集] 日本への核の持ち込み
2008年11月9日放映の『NHKスペシャル』「こうして“核”は持ち込まれた~空母オリスカニの秘密~」において、非核三原則が表明される前である朝鮮戦争時の1953年にアメリカ海軍の航空母艦オリスカニーが核兵器を搭載したまま日本の横須賀港に寄港していたことが明らかになった[9]。また、岸信介政権当時に結ばれた、持ち込みを黙認する密約の情報は外務省中枢と北米局・国際法局で文書にして管理された。
その後、非核三原則が表明された後の大平正芳・橋本龍太郎・小渕恵三など一部の内閣総理大臣や外務大臣にのみ、官僚の判断で伝えられ彼らもまた密約を了承していたアメリカの文書が2009年5月に確認されている[10][11][12][13][14][15][16][17][18][19][20][21][22][23][24][25][26][27][28][29][30][31][32][33][34][35][36][37]。
[編集] 脚注
- ^ 三省堂「大辞林 第二版」。web版[1]
- ^ イギリスがクリスマス島で初の水爆実験に成功した日。
- ^ 1967年12月11日予算委員会議事録
- ^ 1948年1月30日衆議院本会議議事録
- ^ その後、三木武夫は自由民主党総裁選挙に佐藤栄作の対抗馬として出馬している。
- ^ 1971年11月24日衆議院本会議議事録
- ^ 参議院議員立木洋君提出核兵器廃絶に関する質問に対する答弁書[2]
- ^ 2002年5月30日、福田康夫内閣官房長官がオフレコとして「非核三原則は、国際情勢が変化したり、国民世論が変化したり、国民世論が核をもつべきだとなれば、変わることがあるかもしれない」「核兵器は理屈から言って持てる」「政策判断として持つのはやめるというのが非核三原則」という歴代内閣の流れを覆すかの様な発言をして物議を醸した。なお石原慎太郎がこの時に激励の電話を入れた上で『諸君!』1970年10月号に載せた論評「非核の神話は消えた」の全文コピーを送っている。
- ^ こうして“核”は持ち込まれた~空母オリスカニの秘密~
- ^ 報道:核持ち込み密約、外務次官ら管理 首相、外相の一部に伝達(共同通信、2009年5月31日)
- ^ 社説:日米核密約証言 もはや言い逃れはできない(琉球新報、2009年6月2日)
- ^ 報道メモ:「核密約」報道と記者会見(北海道新聞東京編集局国際部の高田昌幸ブログ、2009年6月3日)
- ^ 社説:【日米核密約】いつまで隠し続けるのか(高知新聞、2009年6月4日)
- ^ 社説:日米核密約/政府は真実を語るときだ(神戸新聞、2009年6月8日)
- ^ 論説:核持ち込み密約 政府は国民に真実を明かせ(長崎新聞、2009年6月13日)
- ^ 社説:日米核密約 まだ隠し続けるつもりか(西日本新聞、2009年6月14日)
- ^ 報道:核通過優先で5海峡の領海制限 元外務次官証言(共同通信、2009年6月21日)
- ^ 解説:国家のうそ、政策にゆがみ 政府は真相開示を(中國新聞/太田昌克共同通信編集委員、2009年6月22日)
- ^ 社説:領海幅制限 うその連鎖断ち切る時だ(琉球新報、2009年6月24日)
- ^ 社説:日米密約―また崩れた政府の 「うそ」(朝日新聞、2009年6月30日)
- ^ 社説:核持ち込み密約 詭弁はもう通用しない(毎日新聞・社説、2009年6月30日)
- ^ コラム:引き継がれた密約(毎日新聞コラム「余録」、2009年6月30日)
- ^ 社説:核持ち込み密約 「うそ」はつき通せない(新潟日報、2009年6月30日)
- ^ コラム:うそつきは泥棒の始まり…(西日本新聞コラム「春秋」、2009年6月30日)
- ^ コラム:ディープスロート(愛媛新聞コラム「地軸」、2009年6月30日)
- ^ 社説:核持ち込み 政府は密約の存在を認めよ(読売新聞・社説、2009年7月1日)
- ^ 社説:冷戦史の断面映す村田氏の「密約」証言(日本経済新聞、2009年7月1日)
- ^ 社説:日米密約 政府は早急に説明せよ(信濃毎日新聞、2009年7月1日)
- ^ 社説:[核持ち込み密約] 「うそ」謝り真相説明を(南日本新聞、2009年7月1日)
- ^ 社説:日米「密約」 歴史の検証こそ不可欠だ(西日本新聞、2009年7月2日)
- ^ 社説:[核密約]「同盟の嘘」を認めよ(沖縄タイムス、2009年7月2日)
- ^ 主張:核「密約」論議 問うべきは核の傘の信頼(産経新聞、2009年7月3日)
- ^ 社説:核持ち込み 政府は密約を認め全容を示せ(愛媛新聞、2009年7月4日)
- ^ 社説:日米核密約 政府の「詭弁」は崩れた(北海道新聞、2009年7月6日)
- ^ 社説:核持ち込み密約 国民の前に真相明らかに(山陽新聞、2009年7月6日)
- ^ 報道・解説: 「非核三原則修正:74年、核艦船寄港の容認検討…大河原氏」「密約が支える非核三原則 米国依存の矛盾、今も」(毎日新聞、2009年7月8日)
- ^ デスク日記:日米間の「密約」が注目されている(西日本新聞、2009年7月7日)
[編集] 文献
- 不破哲三「日米核密約」新日本出版社 ISBN 9784406027465
- 中馬清福「密約外交」文藝春秋(文春新書) ISBN 4166602918

