浄土宗

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  1. 伝統宗派としての浄土宗。浄土宗諸派の総称としての浄土宗。鎮西派西山派に分かれる。
  2. 近現代の教団としての浄土宗。知恩院を総本山とする仏教教団。浄土宗白旗派を中心とする浄土宗系教団。

浄土宗宗務庁(地図

浄土宗(じょうどしゅう)は、日本仏教宗旨のひとつで、法然を開祖とする。本尊阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。教義は、専修念仏を中心とする。浄土専念宗とも呼ばれる。浄土真宗の別称もある(親鸞を開祖と仰ぐ浄土真宗とは別である)。

概要[編集]

承安5年(1175年)、法然は43歳の時に、善導撰述の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって専修念仏の道に進み、叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えをひろめた。この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる[1]

その『観経疏』にある立教に至らしめた文言は、

一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故
(意訳)一心に専ら弥陀の名を称えいつでも何処でも時間の短い長いに関係なく常にこれを念頭に置き継続する事が往生への道である。その理由は弥陀の本願に順ずるからである。

「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏帰依(南無)しますの意。阿弥陀佛の選択によって、浄土宗における念仏はここから始まったと言っても過言ではない。

法然撰述の『選択本願念仏集』が、浄土宗の根本聖典となっており、教義の集大成となっている。

日常勤行で読まれる法然の「一枚起請文」は、死の直前に書かれ、浄土宗の教えの要である称名念仏の意味、心構え、態度について、簡潔に説明している。

歴史[編集]

法然在世時の歴史は、法然の生涯を参照。

法然の没後、長老の信空が後継となったものの、証空弁長幸西長西隆寛親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。

嘉禄3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった(嘉禄の法難)。事の発端には、法性寺の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、『選択本願念仏集』は禁書扱いを受け、東山大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は壱岐国に、隆寛は陸奥国に配流されている。法然の遺骸は、太秦広隆寺の来迎房円空に託され、1228年安貞2年)に西山の粟生野で荼毘に付された。

その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた長西の九品寺義の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団はその没後(親鸞の曽孫である覚如の代)に浄土真宗として事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、他にも嵯峨二尊院湛空知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。

一方、関東においても鎌倉幕府によって念仏停止などの弾圧が行われたが、後には西山派は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷に拠点を築いた。また、鎮西派を開いた第2祖弁長の弟子第3祖良忠下総国匝瑳南条荘を中心とし関東各地に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。その他、鎌倉にある極楽寺真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院(鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは江戸時代とも言われ、その初期については諸説がある)。だが、西山派は証空の死後、西谷流・深草流・東山流・嵯峨流に分裂し、鎮西派も良忠の死後に第4祖良暁の白旗派の他、名越派・藤田派・一条派・木幡派・三条派に分裂するなど、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になる。

その後南北朝時代から室町時代にかけて、鎮西派の中でも藤田派の聖観良栄、白旗派の聖冏聖聡が現れて宗派を興隆して西山派及び鎮西派の他の流派を圧倒した。特に第7祖の聖冏は浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとして「五重相伝」の法を唱え、血脈・教義の組織化を図って宗門を統一しようとした。第8祖の聖聡は増上寺を創建し、その孫弟子にあたる愚底松平親忠に乞われて大樹寺を創建した。

応仁の乱後、白旗派の手によって再興された知恩院は天正3年(1575年)に正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。さらに松平親忠の末裔である徳川家康江戸幕府を開いたことによって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。特に知恩院の尊照と増上寺の存応は、家康の崇敬を受けた。元和元年(1615年)に寺院諸法度の一環として浄土宗法度が制定され、知恩院が門跡寺院・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」が設置された。これにより浄土宗は幕府の手厚い保護を受けることになる。なお、このとき西山派に対しては別個に「浄土宗西山派法度」が出されている。

江戸幕府が倒壊したあと、廃仏毀釈の混乱のなかから養鸕徹定福田行誡らによって近代化が図られ、白旗派が名越派などを統合する形で鎮西派が統一され、現在の浄土宗の原型が成立する。第二次世界大戦後は金戒光明寺を中心とした黒谷浄土宗、知恩院を中心とする浄土宗本派が分立するが、1961年の法然750年忌を機に浄土宗本派が復帰、1977年に黒谷浄土宗も復帰した。現在の宗教法人としての「浄土宗」の代表役員は宗務総長、責任役員は内局と呼ばれている。

一方、西山派は現在も宗教法人浄土宗とは別個に西山浄土宗(総本山粟生光明寺)・浄土宗西山禅林寺派(総本山禅林寺)・浄土宗西山深草派(総本山誓願寺)の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(本山一心院)の勢力も存在する。

浄土宗寺院特徴[編集]

本尊

  • 阿弥陀如来

脇侍

祖師・高僧像

  • 左…善導大師
  • 右…法然上人
  • 注)下記二名は鎮西派(浄土宗)。
  • 注)下記一名は西山派(西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派)。

主要経論[編集]

経典

浄土宗宗歌[編集]

  • 「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」

この宗歌法然上人二十五霊場十八番月輪寺詠歌からとったものである。

主要寺院[編集]

鎮西派[編集]

総本山

http://www.chion-in.or.jp/

大本山

http://www.zojoji.or.jp/
http://www.kurodani.jp/
http://www.jodo.jp/290004/03/
http://www.jozan.jp/
http://www.zendoji.jp/
http://park16.wakwak.com/~komyo-ji/
http://www.daihongan.or.jp/
  • (本堂)定額山善光寺(長野市)
http://www.zenkoji.jp/

西山派[編集]

浄土宗西山禅林寺派総本山

  • 永観堂 禅林寺…(正式名称)聖衆来迎山無量寿院禅林寺(京都市左京区永観堂町48)
http://www.eikando.or.jp/

西山浄土宗総本山

http://www.komyo-ji.or.jp/

浄土宗西山深草派総本山

http://www.fukakusa.or.jp/

関係学校[編集]

大学[編集]

中学校・高等学校[編集]

脚注・出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]