ロッキード事件

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全日本空輸のL-1011トライスター(中央)
全日本空輸のL-1011トライスター(中央)
最高裁判所判例
事件名: 外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反被告事件
事件番号:昭和62年(あ)第1351号
1995年(平成7年)2月22日
判例集: 刑集49巻2号1頁
裁判要旨
  1. 日本の刑事訴訟法上、刑事免責の制度を採用しておらず、刑事免責を付与して獲得された供述を事実認定の証拠とすることを許容していないものと解すべきである以上、アメリカ連邦法上に基づいて行われた嘱託証人尋問調書については、その証拠能力を否定すべきである。
  2. 特定機種の選定購入の勧奨は、一般的には、運輸大臣の航空運輸行政に関する行政指導として、その職務権限に属するものというべきである。
  3. 内閣総理大臣が行政各部に対し指揮監督権を行使するためには、閣議にかけて決定した方針が存在することを要するが、閣議にかけて決定した方針が存在しない場合においても、内閣総理大臣の地位及び権限に照らすと、流動的で多様な行政需要に遅滞なく対応するため、内閣総理大臣は、少なくとも、内閣の明示の意思に反しない限り、行政各部に対し、随時、その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導、助言等の指示を与える権限を有する。
大法廷
裁判長:草場良八
陪席裁判官:園部逸夫 中島敏次郎 可部恒雄 大西勝也 小野幹雄 三好達 大野正男 千種秀夫 高橋久子 尾崎行信 河合伸一
意見
多数意見:園部逸夫 可部恒雄 大西勝也 小野幹雄 大野正男 千種秀夫 尾崎行信 河合伸一(以上8名全部の論点について)、1.については全員一致
意見:草場良八 中島敏次郎 三好達 高橋久子(以上4名2.3.について)
反対意見:なし
参照法条
運輸省設置法28条の2、3条、4条、憲法38条、72条 、刑事訴訟法248条 、146条 、317条 、1条 、226条、内閣法4条 、6条 、8条

ロッキード事件(ロッキードじけん)とは、アメリカ航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件

この事件では日本やアメリカ、オランダヨルダンメキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、本項では、「総理の犯罪」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。

目次

[編集] 事件概要

田中角栄(左)とアメリカのリチャード・ニクソン大統領
田中角栄(左)とアメリカのリチャード・ニクソン大統領

この事件は、国内航空大手の全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、自由民主党衆議院議員で(当時)前内閣総理大臣田中角栄が、1976年7月27日受託収賄外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕された事件である。

政治家では田中以外に佐藤孝行運輸政務次官(逮捕当時)や橋本登美三郎運輸大臣が逮捕されたほか、全日空の若狭得治社長やロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ、CIAと深い関係にあった児玉誉士夫や、児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出し、また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の疑獄を代表する大事件となった。

事件は1976年2月にアメリカ合衆国上院で行われた上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)における公聴会にて発覚しており、アメリカとの間の外交問題にも発展した。

事件の発覚に先立ち、月刊誌「文藝春秋1974年11月号掲載の立花隆による「田中角栄研究~その金脈と人脈」や児玉隆也による「淋しき越山会の女王―もう一つの田中角栄論」にて金権体質が指摘されたことが反響を呼び、田中は1974年11月26日の自民党総裁辞任表明へ追い込まれた。同年12月9日には首相を辞職している。

なお、田中の辞職を受けて行われた党内実力者の話し合いにより、椎名悦三郎自民党副総裁椎名裁定で、「クリーン三木」と呼ばれる三木武夫が首相に就任した。椎名は田中の将来の復活を鑑みて、本格政権になると思われた有力候補の福田赳夫大平正芳を回避し、「暫定政権」の含みを持たせて少数派閥の三木を選んだとされており、実際に田中はその後も自民党内で大きな影響力を持ち続けていた。

[編集] 経緯

[編集] トライスターの販売不振

1970年11月に初飛行し、1972年4月に運行が開始されたL-1011 トライスターは、ロッキード社初のジェット旅客機として同社の威信をかけて開発されたもので、中二階の客室、貨物室構造にエレベーターが設置された他、自動操縦装置については軍用機のトップクラスメーカーとしてのノウハウが生かされ、当時としては他に例がないほどの先進的な装備が施されていた。

しかし、ジェット旅客機メーカーとしての実績が先行していたマクドネル・ダグラスDC-10や、1970年に初就航し既に多くの発注を受けていたボーイング747との間で激しい販売競争にさらされており、またL-1011 トライスターに搭載するロールス・ロイス社製ターボファンエンジンRB211」の開発が難航[1]、これによるロールス・ロイス社の破産や国有化などの混乱によって遅れをとり、日本においても既に全日空のライバルである日本航空がマクドネル・ダグラスDC-10の大量発注を決めたほか、他国においても発注が伸び悩むなど苦戦していた。このため、このような状況を解消すべくロッキード社が各国の政治家や航空関係者に様々な働きかけを行なっていた。

[編集] DC-10の仮発注

マクドネル・ダグラスDC-10
マクドネル・ダグラスDC-10

このような状況下、全日空においても高度経済成長に伴う旅客数増加に対応すべく1972年を目途に「次期大型旅客機」として大型ワイドボディ機の導入を考えており、1969年に社長へ就任した大庭哲夫を中心に選定作業が進められていた。候補となった3機のうち、L-1011 トライスターは上記のようにエンジンの開発が遅れたために納入が1974年頃になってしまうことから選択肢から外れた。また、ボーイング747SRは当時の全日空の企業規模からすると大きすぎると判断され(後に乗客数の増加に対応するため1979年に導入した)、最終的に残ったマクドネル・ダグラスDC-10を3機、日本における販売代理店の三井物産を通じて1970年5月に仮発注した。

しかし同月、発注を推進していた大庭社長が「M資金関連の詐欺事件に巻き込まれた」という趣旨の怪文書を流された挙句、株主総会の直前に不可解な形で社長の座を追われることとなり、元運輸次官の若狭得治が大庭の後釜に就いた。

その後の1971年2月に、橋本登美三郎運輸大臣が「日本の航空会社によるエアバス(大型ワイドボディ機を指す)の導入は1974年以降にすることが望ましい」と発言したことを受け、同年3月31日運輸省から同様の趣旨の行政指導が行われた為に導入自体が延期されたものの、1972年初頭には、全日空がマクドネル・ダグラスDC-10を正式発注することが確実になり、実際に引き渡し予定のマクドネル・ダグラスDC-10がロングビーチの工場で完成している状態であった。

[編集] 不可解なトライスター発注

イギリスのエドワード・ヒース首相
イギリスのエドワード・ヒース首相

しかしその後、若狭社長によって急遽L-1011 トライスターを再度「次期大型旅客機」の選択肢に乗せることが提案され、若狭社長を中心に全日空社内で検討が進められた結果、マクドネル・ダグラスDC-10の正式発注が土壇場で覆され、10月30日に若狭社長自らの手によって、同社がL-1011トライスターを発注したことが発表された。

また、この発注に先立つ1972年9月1日ハワイホノルルで行なわれた日米首脳会談において、カリフォルニア州選出で地元のバーバンクにロッキード社の本拠地を抱えるニクソン大統領より、田中首相に対して全日空へのL-1011 トライスター機の購入を働きかけたという噂が上がった。なおこの際に田中首相は小佐野が所有するホテルに宿泊している。

その上、同月に東京で行われた日英首脳会談でも、イギリスエドワード・ヒース首相が田中首相に対して、イギリスのロールス・ロイス社製ジェットエンジンを搭載したL-1011 トライスター機の購入を強力に働きかけていたことが、2006年に公開されたイギリス政府の機密文書で明らかになった(なお、ライバルのマクドネル・ダグラスDC-10にはロールス・ロイス社製のジェットエンジンは搭載できない)。

[編集] チャーチ委員会

F-104J
F-104J

全日空にL-1011トライスターが納入された約2年後の1976年2月4日に、アメリカ合衆国上院で行われた多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)公聴会で、大手航空機製造会社のロッキード社が、全日空をはじめとする世界各国の航空会社にL-1011 トライスターを売り込むため、同機の開発が行なわれていた1970年代初頭に各国の政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いていた事が明らかになった(全日空への工作費は約30億円だったと言われる)。

なお、この公聴会上では、1950年代後半に行なわれていた同機の航空自衛隊への売り込みに際して、1958年の時点で航空自衛隊がグラマン社のG-98J-11を採用することがいったん決まっていたにも拘らず、土壇場でロッキード社のF-104を正式採用することになった件につき、ロッキード社が日本の政界への賄賂として多額の資金を児玉に渡していたことが併せて明らかにされている。また、トライスター機の導入とほぼ同時に進められていた航空自衛隊の次期対潜哨戒機の選定に関しても、国産機を採用するという当初の方針が、田中首相の判断によりロッキード・P–3Cの導入へと急転換されたことが分かっている。

[編集] 明らかになっていく「工作」

丸紅本社
丸紅本社

さらにその後公聴会において、ロッキード社のアーチボルド・カール・コーチャン副会長とジョン・ウイリアム・クラッター元東京駐在事務所代表が、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し1972年10月に「(全日空へL-1011 トライスターを売り込むための)コンサルタント料」として21億円あまりを渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の丸紅などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを証言した。

また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人のシグ片山が経営するペーパー会社や、児玉の元通訳、福田太郎が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。

さらに1970年、全日空の大庭社長を追い落とすために児玉が傘下の総会屋を使って怪文書を流したことや、1972年、当時社会的問題となっていた大阪伊丹空港の騒音問題に絡み、児玉の関連会社の手によって空港周辺の住人に対してL-1011 トライスター機の騒音の低さを訴えたパンフレットが数万部単位で配布されるなど、ロッキードからの資金を受けた児玉による様々な方面からの活動がマスコミの調査によって明らかになっている。

[編集] 衆議院予算委員会

チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭社長や渡辺副社長、大庭元社長、丸紅の檜山廣会長や大久保利春専務、ロッキード社の鬼俊良日本支社支配人などが証人喚問され(なお「病床」にあった児玉誉士夫は病院で臨床取調べを受けた)、この模様は全国にテレビ中継された。

[編集] 捜査

[編集] 捜査開始

その後、三木武夫首相がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて直々に捜査の開始を指示、同時にアメリカのジェラルド・フォード大統領に対して捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に対して異例とも言える積極的な関与を行った。

また、捜査開始の指示を受けて2月18日には最高検察庁東京高等検察庁、東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、同月24日には検察庁と警視庁国税庁による合同捜査態勢が敷かれた。捜査を指揮した伊藤栄樹東京地方検察庁検事(のち検事総長)の証人喚問での答弁「まず初めに“5億円ありき”とご承知願いたい」は有名になった。

[編集] 「ロッキード隠し」

捜査の開始を受けてマスコミによる報道も過熱の一途をたどり、それに合わせて国内外からの事件の進展に対する関心も増大したものの、明らかにライバルの田中前首相をターゲットにした捜査の急激な進展は、親田中の議員を中心に「国策捜査」として批判されることになった。

また、椎名悦三郎自民党副総裁を中心とした自民党内の反三木派が、事件捜査の進展を急ぐ三木の態度を「はしゃぎすぎ」と批判し、さらに5月7日には田中前首相と椎名が会談し三木退陣を合意するなど、いわゆる「三木おろし」を進め、田中派に加えて大平派福田派椎名派、水田派、船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなる。国民やマスコミはこのような動きに対して「ロッキード(事件)隠し」と批判したが、このような声を尻目に田中前首相や椎名、大平や福田などの多数派は結束を強めていった。

なお、三木首相はその後異例のスピードで政敵である田中前首相を7月27日に起訴、逮捕に持ち込んだものの、田中前首相の逮捕を「逆指揮権発動によるもの」とみなした田中派からは、三木首相とともに田中前首相に対する捜査を推し進めた中曽根派出身の稲葉修法務大臣と共に激しい攻撃の対象となった。

[編集] 「三木おろし」

福田赳夫(左から2番目)
福田赳夫(左から2番目)

この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言われない」として「三木おろし」が再燃、田中前首相の逮捕から1カ月足らずの8月24日には反主流6派による「挙党体制確立協議会」が結成される。三木は9月に内閣改造を行ったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木首相も田中前首相との対決姿勢を改めて鮮明にする。

三木首相は党内分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず、戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙を迎える。1976年12月5日に行われた第34回衆議院議員総選挙では、ロッキード事件の余波を受けて自民党が8議席を失うなど事実上敗北し、三木首相は敗北の責任を取って首相を辞任することを余儀なくされ、後継には「三木おろし」を進めた1人の福田派のリーダーの福田赳夫が就くことになった。なお、この選挙において田中前首相はこれまでどおりに新潟3区から出馬し、地元有権者からの圧倒的な支持を得て168,522票を獲得しトップ当選を果たした。

[編集] 怪死

このように事件が公になり捜査が進んだ前後に、ロッキード事件を追っていた日本経済新聞記者の高松康雄(1976年2月14日死亡)や上記の福田太郎(1976年6月9日死亡)、さらに田中角栄の運転手の笠原正則(1976年8月2日死亡)など、複数の事件関係者が立て続けに急死し、マスコミや国民の間で「証拠隠滅のために(事件の当事者によって)暗殺されたのではないか」との疑念を呼んだ。

しかし、捜査が進む中、1976年5月24日に行われた参議院内閣委員会において、社会党秦豊参議院議員より警察庁刑事局の柳館栄に対して福田や片山、鬼などの関係人物に対する身辺保護の必要性について質問が行われたが、「それらの人物からの身辺保護の依頼がなかったことから特に(警察は)何もしていない」という返答しかなかった。その上、この答弁が行われた翌月には上記のように福田が死亡するなど、再び関係人物の身辺保護の必要性が問われるような状況になったにもかかわらず、なぜか警察はその後も政治家以外の民間人(自らの手で身辺保護が可能な小佐野や児玉は除く)に対して表立った身辺保護を行わなかったことから大きな批判を呼んだ。

[編集] 裁判

衆議院予算委員会における数度に渡る証人喚問や、5月14日に衆議院で、同19日に参議院に設置された「ロッキード問題に関する特別委員会」などにおいて、これらの証人による証言の裏付け作業が進んだ上、検察などによる捜査が急激なペースで進んだ結果、事件の発覚から半年にも満たない7月から8月にかけて田中前首相や檜山、若狭などの多くの関係者が相次いで逮捕され、東京地方裁判所起訴された。

[編集] 田中前首相

田中前首相は1976年(昭和51年)7月27日逮捕されたのち、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。田中前首相に対する公判1977年(昭和52年)1月27日東京地方裁判所で開始され、日本国内はおろか世界各国から大きな注目を集めることになった。その後1983年(昭和58年)10月12日には懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った(5日後に保釈保証金2億円を納付し再度保釈)。この第一審判決を受けて国会が紛糾し、衆議院解散のきっかけとなった(田中判決解散)。

田中前首相はこれに対して「判決は極めて遺憾。生ある限り国会議員として職務を遂行する」と発言し控訴したが、1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却、上告審の最中の1993年(平成5年)12月16日の田中の死により公訴棄却(審理の打ち切り)となった。

なお、田中前首相は下級審有罪判決後も衆議院議員を辞任せず、その後の選挙でも地元新潟の有権者が田中前首相を国会に送り続けたことや、いわゆる田中派が長らく自由民主党内での最大派閥の座を維持したことから、「闇将軍」などと呼ばれ、逮捕後の総理総裁擁立に影響力を与えたほか、1987年に発生したいわゆる「皇民党事件」(田中前首相の有罪判決後に袂を分かった竹下登経世会会長に対する嫌がらせを止めるために暴力団が関与した事件)にその名が取りざたされるなど、その後も政界に大きな影響力を維持した。

[編集] 田中前首相秘書

田中前首相の秘書官榎本敏夫も田中と同日に外為法違反容疑で逮捕され、その後起訴された。その後夫人の三恵子が「榎本が5億円の受領を認める発言をしていた」と法廷で証言した(所謂「蜂の一刺し」証言)ことなどを受け、1995年(平成7年)2月22日に、最高裁判所で有罪判決を受けた。司法は秘書の最終審判決という形で田中前首相の5億円収受を認定した。

[編集] 橋本元運輸相と佐藤衆院議員

受託収賄に問われた橋本登美三郎元運輸大臣と佐藤孝行元運輸政務次官も、1976年8月に相次いで東京地検特捜部に受託収賄容疑で逮捕された。逮捕後に橋本と佐藤は自由民主党を離党した。

橋本は逮捕されたこともあり1980年に行われた衆議院選挙に落選して政界から引退。その後1審、2審で有罪判決を受けるも、上告中の1990年に死亡したために公訴棄却となった。

佐藤は1審、2審で有罪判決となり執行猶予付きの有罪が確定した。しかし執行猶予期間終了後に自民党に復党し、宮沢喜一政権下で自民党総務会長などの要職を歴任。1997年総務庁長官で初入閣するも、ロッキード事件で有罪が確定した政治家の閣僚入りに世間の反発を招き、わずか12日で辞任した。

[編集] 児玉誉士夫

児玉は事件の核心を握る中心人物であったにもかかわらず、1976年2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に、「病気」と称し自宅にこもり、さらにその後は入院した東京女子医科大学病院にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や検察に対する批判も集中した。その後児玉の態度に怒ったポルノ俳優の前野光保が同年3月に小型機で児玉の豪邸に自爆攻撃を行なったが、児玉は別の部屋に寝ていて助かった。

その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で起訴され裁判に臨むことになったが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年1月に死亡した。

[編集] 小佐野賢治

小佐野は、1976年2月から行われた衆議院予算委員会において第1回証人として証言したものの、上記のような「証言」が議院証言法違反にとわれ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後1986年10月に小佐野が死亡したために被告死亡により控訴棄却となった。

[編集] 「全日空ルート」

「全日空ルート」の贈賄側とみなされた若狭が1976年7月に外為法違反容疑および議院証言法違反により逮捕、起訴された他、その前後にも副社長の渡辺以下多数の社員が芋づる式に逮捕、起訴された。この様に部下の多くが逮捕され、自身も刑事被告人の立場であるにもかかわらず若狭は同年に全日空会長に就任し、社内だけでなく株主やマスコミからも大きく批判された。しかし全日空及び若狭はこれを無視し続け、その後1991年(平成3年)には名誉会長に就任した。

翌1992年(平成4年)9月に最高裁判所は若狭に対し懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を下したものの、続けて会長の座に居座り続けた挙句、1996年(平成8年)に日本航空協会会長に就任し、その後も「航空業界のドン」として君臨しつづける土台を作った。その上、翌1997年(平成9年)には当時の全日空の社長である普勝清治の後継をめぐり社内抗争を展開するが、社内外から多くの批判を浴びたことを受けて相談役に退き、2005年に死亡した。

[編集] 「丸紅ルート」

「丸紅ルート」の中心人物で、事件当時社長を務めた檜山広は1976年7月に贈賄と外為法違反容疑で逮捕、起訴され、1995年に田中元首相の秘書の榎本とともに最高裁判所で実刑が確定されたものの、高齢のため執行停止となり、収監されないまま2000年に死去した。この間も1985年から1999年まで丸紅名誉顧問を務めた。

なお、2000年代に入り他の被告も次々と病死し、2007年現在生存する元被告は榎本、佐藤孝行、太刀川恒夫の3人のみとなった。

[編集] その後

[編集] 全日空が発注したDC-10

全日空が発注キャンセルしたものの、既に製造中であったマクドネル・ダグラスDC-10は3機あったが、マクドネル・ダグラス社は売れ残った他の機体と共に各国の航空会社にダンピング販売した。そのうちの1機がトルコ航空に販売され、のちに1974年トルコ航空DC-10パリ墜落事故を引き起こした(この事故の原因はマクドネル・ダグラスDC-10の設計上の問題であった)。

[編集] 全日空に納入されたトライスター

全日空はL-1011 トライスターを事件発覚前の1974年から導入し、事件が明らかになった後も導入を続けて最盛期には21機保有した。全日空は同機を国内線の主要機種として、また1986年に初就航した国際線の主要機種として使用したものの、より大型なボーイング747の導入やより燃費効率に優れるボーイング767の導入を受けて、奇しくも田中角栄元首相の死去と時を同じく1995年を最後に全機退役させた。運行中に人身事故や全損事故を起こしていない全日空にとって稀有な機種のひとつでもある。

[編集] 陰謀説

[編集] 諸説

ヘンリー・キッシンジャー(左)とジェラルド・フォード(右)
ヘンリー・キッシンジャー(左)とジェラルド・フォード(右)

後に事件当時のジェラルド・フォード政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが、『ロッキード事件は間違いだった』と中曽根康弘に述べたとされる(ただし、どのような意味で「間違い」だとしてるのかは不明である)。

その他にも、この事件が発覚する過程において、贈賄側証人として嘱託尋問で証言したロッキード社のコーチャン副社長とクラッター元東京駐在事務所代表が、無罪どころか起訴すらされていない点、ロッキード社の内部資料が誤って上院多国籍企業小委員会に誤配されたとされる点など、事件に関連していくつもの不可解な点があったため、ソ連アラブ諸国からのエネルギー資源の直接調達を進める田中前首相の追い落としを狙った石油メジャーとアメリカ政府の陰謀だったとする説、または中華人民共和国と急接近していた田中前首相を快く思っていなかったアメリカ政府が田中前首相を排除する意味があったとする説が田原総一郎の書いた記事などで当時から有力だが、中華人民共和国との国交正常化に反発していた右翼や自民党福田派、その他、田中前首相が行う理念のない行き当たりばったりの政治手法や税金を食い荒らす国賊的な行動を良しとしない者達が警察と絡んで仕組んだ陰謀説もある。

[編集] 誤配説について

ただし、誤配説に対しては『ロッキード社の監査法人であるアーサー・ヤング会計事務所がチャーチ委員会から証拠書類の提出を求められ、すぐに証拠書類を提出したものの、顧客秘守義務の観点から、すぐに手渡してしまったということが判るとロッキード社との関係上都合が悪いため、事実を隠すために誤配説を流布した』という説もある。また、当初アメリカ政府が日本の国内事情を考慮して捜査資料の提供を渋っていた事実もある。

[編集] コーチャンとクラッター

また、コーチャン、クラッター両名が起訴されていない点については、両名に対する嘱託尋問がアメリカで行なわれるに際して、日本の検察が刑事訴訟法第248条に基づき事実上の免責を与えたのが直接的な理由である。アメリカに在住する両名を起訴することは実質的に不可能であった(日米犯罪人引渡し条約の発効は1980年、国際贈賄防止条約の発効は更に遅れて1997年)事を考えれば、両名が起訴されなかったことに不審なところはない、という反論もある。

[編集] ロッキード事件にかかわる問題点

[編集] 金額の不一致(政治主義裁判)

ロッキード社の工作資金が児玉と丸紅に30億円流れ、そのうちの過半が児玉に渡っている以上、5億円の詮議も解明されなければならない事柄であるから当然解明するのは道理にかなっていることではあるが、さることながら金額が多いほうの流通は一向に解明されていない。この方面の追跡が曖昧にされたまま5億円詮議の方にのみ向うというのは「政治主義裁判」である可能性がある。

他方で、問題にすべきは事件の全容が解明されなかったことであって、そのことをもってロッキード裁判を批判するのはあたらない、という見方もある。また、私人である児玉に渡った資金と総理大臣であった田中前首相に渡った(とされる)資金とは、たとえその額に大きな違いがあるとしても、同列に並べて考えられるべきではないだろうという意見も多い。

[編集] 公訴権の乱用の可能性

三木武夫首相と稲葉法相による「逆指揮権発動」による田中前首相裁判は、公訴権の乱用である可能性がある。「指揮権発動」も「逆指揮権発動」も共に問題があるという観点を持つべきであろう、という主張がある。すなわち、一般に、政争は民主主義政治の常道に属する。その政争に対し、検察権力の介入を強権発動すること自体、公訴権の乱用である。同時に三権分立制を危うくさせ、司法の行政権力への追従という汚点を刻んだことになる、というのである。

他方で、いわゆる「逆指揮権発動」とは単に三木内閣がロッキード事件の解明に熱心であったことを指すに過ぎず、なんら問題にすべきところはないという反論もある。例えば田中前首相逮捕の方針は検察首脳会議で決定され、三木も稲葉もその報告を受けただけである。稲葉にいたっては地元で釣りをしている時に安原美穗刑事局長から電話でその報告を受けた程だった。後に稲葉は、あれだけの証拠があっては指揮権で田中前首相逮捕を差し止めることなど無理で、それを恨まれても困ると発言している。

[編集] 不当逮捕の可能性

「外為法違反」という別件逮捕で拘束するという違法性、しかもかつて首相職にあったものにそれを為すという政治主義性という問題があるとする主張もある。しかしながら、田中前首相の場合「5億円の受け取り」という一つの行為が外為法違反と収賄罪の双方に関わっていることなどを考えれば、別件逮捕という批判は当たらないとの反論もある。

[編集] “作文”調書の可能性

各被告の供述証書が検事の作文に対する署名強要という経緯で作られた事が判明している、この様な検事の暴走行為は下記にもあるように他にもみられることではあるが、まさに「権力犯罪」、「国策裁判」と考えても差し支えない、という主張もある。しかし検事調書の作成にあたって一問一答を忠実に記録するのではなく、検事が供述をまとめた調書に被告(被疑者)の署名捺印をさせる、という手法は日本の刑事裁判に一般的なもので、その是非はともかくとしてロッキード事件に特有のものではない。また、一般にロッキード裁判批判論では、丸紅の大久保利春被告が公判でも大筋で検事調書通りの証言を行なった事実が無視されている。

[編集] 流行語

事件の捜査や裁判が進むにつれ、事件関係者が発した言葉や事件に関連した符丁が全国的な流行語となった。

  • 「(ぜんぜん)記憶にございません」
衆議院予算委員会にて最重要参考人と目される小佐野賢治が喚問を受けた際、偽証や証言拒否を避けつつ質問に対する本質的解答をしない意味をもつこの発言を連発。なお、これ以降は他の証人も同等の言葉を多用するようになった。
  • 「ピーナツ(ピーシズ)」
賄賂を受領する際の領収書に金銭を意味する隠語として書かれていたもの。100万円を「1ピーナツ」と数えていた。
  • 「ハチの一刺し」
田中元総理の元秘書で、事件で有罪となった榎本敏夫の三恵子前夫人が、榎本に不利な法廷証言を行なった心境について述べた言葉。
  • 「よっしゃよっしゃ」
田中元総理が全日空への工作を頼まれたときに発したとされる言葉。

[編集] 他国における「ロッキード事件」

オランダでは、空軍における戦闘機F-104を売り込んでいていた)の採用をめぐって、女王ユリアナ王配ベルンハルトにロッキード社から多額の資金が流れ込んでいたことが明らかにされた。これは日本での汚職事件と相まって対外不正行為防止法を制定させるきっかけとなった。

[編集] 注釈

  1. ^ RB211には軽量化のため複合材のファンブレードを用いていたが、複合材のファンブレードではバードストライクの衝撃試験でブレードの前縁が破壊されるため、金属製のファンブレードを新たに開発中だった。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 立花隆 『田中角栄研究-全記録』上下 (講談社)
  • 立花隆 『ロッキード裁判批判を斬る』全3巻 (朝日新聞社)
  • 堀田力 『壁を破って進め-私記ロッキード事件』上下 (講談社)
  • 徳本栄一郎 『角栄失脚 歪められた真実』 (光文社 著者は訴訟資料を再調査した元ロイター記者 )
  • 木村喜助 『田中角栄の真実』 『田中角栄 消された真実』(弘文堂 著者は一審から上告審まで担当した弁護士)
  • 田原総一朗 『戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった』 (講談社プラスアルファ文庫)
  • 小室直樹 『田中角栄の遺言』 (ザ・マサダ)『田中角栄の呪い』 (光文社)
  • 井上正治 『田中角栄は無罪である。』 (講談社)
  • 秦野章 『何が権力か』 (講談社)
  • 小山健一 『私だけが知っている「田中角栄無罪論」』 (講談社出版サービスセンター)
  • 田中角栄を愛する政治記者グループ 『田中角栄再評価 ― ロッキード事件も無罪だった!?』 (蒼洋社)
  • 早坂茂三 『怨念の系譜』 (東洋経済新報社)
  • ロッキード裁判とその時代(1),(2) 朝日新聞
  • ロッキード事件疑獄と人間 朝日新聞社
  • ロッキード事件「葬られた真実」講談社
  • 権力者たちの狂宴 ―戦後政治とロッキード・スキャンダル 人間の科学社
  • 「ロッキード」とは何か すずさわ書店
  • ロッキード売り込み作戦―東京の70日間 朝日新聞社
  • スポーティーゲーム―国際ビジネス戦争の内幕 學生社
  • 「田中裁判」もう一つの視点―ロッキード捜査と一審判決への疑問 時評社