ロッキード事件

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最高裁判所判例
事件名 外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反被告事件
事件番号 昭和62年(あ)第1351号
1995年(平成7年)2月22日
判例集 刑集49巻2号1頁
裁判要旨
  1. 日本の刑事訴訟法上、刑事免責の制度を採用しておらず、刑事免責を付与して獲得された供述を事実認定の証拠とすることを許容していないものと解すべきである以上、アメリカ連邦法上に基づいて行われた嘱託証人尋問調書については、その証拠能力を否定すべきである。
  2. 特定機種の選定購入の勧奨は、一般的には、運輸大臣の航空運輸行政に関する行政指導として、その職務権限に属するものというべきである。
  3. 内閣総理大臣が行政各部に対し指揮監督権を行使するためには、閣議にかけて決定した方針が存在することを要するが、閣議にかけて決定した方針が存在しない場合においても、内閣総理大臣の地位及び権限に照らすと、流動的で多様な行政需要に遅滞なく対応するため、内閣総理大臣は、少なくとも、内閣の明示の意思に反しない限り、行政各部に対し、随時、その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導、助言等の指示を与える権限を有する。
大法廷
裁判長 草場良八
陪席裁判官 園部逸夫 中島敏次郎 可部恒雄 大西勝也 小野幹雄 三好達 大野正男 千種秀夫 高橋久子 尾崎行信 河合伸一
意見
多数意見 園部逸夫 可部恒雄 大西勝也 小野幹雄 大野正男 千種秀夫 尾崎行信 河合伸一(以上8名全部の論点について)、1.については全員一致
意見 草場良八 中島敏次郎 三好達 高橋久子(以上4名2.3.について)
反対意見 なし
参照法条
運輸省設置法28条の2、3条、4条、憲法38条、72条 、刑事訴訟法248条 、146条 、317条 、1条 、226条、内閣法4条 、6条 、8条
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ロッキード事件(ロッキードじけん)は、アメリカ航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年昭和51年)2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件。

この事件では日本やアメリカ、オランダヨルダンメキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、本項では、「総理の犯罪」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。なお、肩書きはいずれも当時のものとする。

事件概要[編集]

この事件は、国内航空大手の全日本空輸(全日空)の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、自由民主党衆議院議員で前内閣総理大臣田中角栄が、1976年昭和51年)7月27日受託収賄外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕され、その前後に田中以外にも運輸政務次官佐藤孝行や元運輸大臣橋本登美三郎2名の政治家が逮捕された。

さらに、収賄、贈賄双方の立場となった全日空社長若狭得治以下数名の役員及び社員、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ暴力団CIAと深い関係にあった児玉誉士夫や、児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出した。また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。

この事件は1976年昭和51年)2月にアメリカ合衆国上院で行われた上院外交委員会多国籍企業小委員会(委員長フランク・チャーチの名から「チャーチ委員会」)における公聴会にて発覚しており、アメリカとの間の外交問題にも発展した。

経緯[編集]

トライスターの販売不振[編集]

L-1011 全日空のトライスター

1970年昭和45年)11月に初飛行し、1972年昭和47年)4月に運航が開始されたL-1011 トライスターは、大手航空機製造会社のロッキード社初のジェット旅客機として同社の威信をかけて開発されたもので、中二階の客室、貨物室構造にエレベーターが設置された他、自動操縦装置については軍用機のトップクラスメーカーとしてのノウハウが生かされ、当時としては他に例がないほどの先進的な装備が施されていた。ロッキード社は、レシプロ機時代にはロッキード コンステレーションシリーズで一世を風靡したものの、ジェット化の波には乗り遅れてしまい、軍用機メーカーとしては屈指の大手になったものの民間機市場での地位は低下してしまっていた。そこで、ロッキードはこのトライスターで民間機市場での起死回生を狙っていたのである。

しかし、ジェット旅客機メーカーとしての実績が先行していたマクドネル・ダグラスDC-10や、1970年に初就航してから既に多くの発注を受けていたボーイング747との間で激しい販売競争にさらされていた。またL-1011 トライスターに搭載するロールス・ロイス社製ターボファンエンジンRB211」は、軽量化のため複合材のファンブレードを用いていたが、複合材のファンブレードではバードストライクの衝撃試験でブレードの前縁が破壊されるため、金属製のファンブレードに変更することになり、またそのさなかロールス・ロイス社が破産・国有化されるなどして開発が遅れていたため、日本においても既に全日空のライバルである日本航空がマクドネル・ダグラスDC-10の大量発注を決めたほか、他国においても発注が伸び悩むなど苦戦していた。このため、このような状況を解消すべくロッキード社が各国の政治家や航空関係者に様々な働きかけを行なっていた。

全日空の大型機選定作業[編集]

1970年(昭和45年)1月、全日空は昭和47年度の導入を目指して、若狭副社長を委員長とする「新機種選定準備委員会」を設置し米国へ調査団を派遣するなどしたが、その後の雫石事故、ニクソン・ショックにより一時停止の憂き目を見た。1972年(昭和47年)に入り選定作業を再開し、メーカー側もまた7月23日から26日にかけて東京、大阪でデモフライトを実施するなど白熱化したが、当時騒音問題がクローズアップされる中、全日空は低騒音性を重視していたところ、もともと低騒音性についてはロッキードL-1011に及ばないダグラスDC-10は、大阪空港に設置された騒音測定地点で急上昇して騒音測定を回避するなどした。DC-10は、この数か月前にエンジン脱落事故、貨物室ドア脱落事故などが相次ぎ、社内では同型機に対する安全性への不信感が大いに募ったという[1][2]

選定準備委員長らとともに各職場の意見を聴取したところ、整備、航本、運本の現業3本部に加え総合安全推進委員会などの技術部門はL-1011を、経理部はB747SRを推し、営業本部はL-1011、DC-10に意見が分かれていることが明らかになった。当時騒音問題が激烈だったのは大阪空港であるが、その大阪空港支店の管理職45名のうち、33名がL-1011を推していたという[1]

トライスター発注[編集]

イギリス首相エドワード・ヒース

1972年(昭和47年)10月7日の同社役員会で若狭社長が役員に意見を求めたところ、技術部門担当役員の3名はL-1011を、技術担当以外ではDC-10が2名、B747SRが1名、L-1011が1名と分かれた。全会一致を求める若狭は、先にFAAの騒音証明を取り下げたダグラス社の騒音証明の結果が出るまで決定を延期した。10月22日を過ぎてダグラス社に問い合わせたところ、「雨が降ったので測定できなかった」旨の回答を得たのみで、騒音証明の見通しも得られなかった。10月28日に再度召集された役員会では、前回L-1011以外を推した役員も大勢に従う旨を述べ、「整備が自信を持って推すもの以外は乗れない」との意見もあった。結局、役員会ではロッキードL-1011を選定する旨決定した[3][4]

チャーチ委員会[編集]

ロッキードF-104J

田中が首相を辞任した約1年3カ月後、そして全日空にL-1011トライスターが納入された約2年後の1976年昭和51年)2月4日に、アメリカ合衆国上院で行われた外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)公聴会で、ロッキード社が、全日空をはじめとする世界各国の航空会社にL-1011 トライスターを売り込むため、同機の開発が行なわれていた1970年代初頭に各国政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いていたことが明らかになった(全日空への工作費は約30億円だったと言われる)。

明らかになっていく「工作」[編集]

児玉誉士夫(前列左、1953年)

さらにその後公聴会において、ロッキード副会長アーチボルド・カール・コーチャンと元東京駐在事務所代表ジョン・ウイリアム・クラッターが、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し1972年昭和47年)10月に「(全日空へL-1011 トライスターを売り込むための)コンサルタント料」として21億円あまりを渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の丸紅などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを証言した。

また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人のシグ片山が経営するペーパー会社や、児玉の元通訳で、GHQで諜報活動のトップを務めていたチャールズ・ウィロビーの秘書的存在でもあった福田太郎が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。

国会[編集]

チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭や渡辺副社長、大庭、丸紅会長の檜山廣や専務・大久保利春、ロッキード日本支社支配人の鬼俊良などが証人喚問され、この模様は全国にテレビ中継された。

5月、ロッキード事件調査特別委員会が発足。その後、ロッキードから金を貰ったとして「二階堂進元官房長官、佐々木秀世元運輸相、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤六月元運輸政務次官」が限りなく黒に近い灰色高官であるとされたが、職務権限の問題や請託の無い単純収賄罪での3年の公訴時効成立の問題があったため起訴はされなかった。

捜査[編集]

捜査開始[編集]

ジェラルド・フォード大統領

その後、首相三木武夫がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて直々に捜査の開始を指示、同時にアメリカ大統領のジェラルド・フォードに対して捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に対して異例とも言える積極的な関与を行った。

また、捜査開始の指示を受けて2月18日には最高検察庁東京高等検察庁、東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、同月24日には検察庁と警視庁国税庁による合同捜査態勢が敷かれた。

三木は、外交評論家の平沢和重を密使として送り、3月5日キッシンジャーと会談させて米側の資料提供を求めた。米政府は同月23日、日本の検察に資料を渡すことを合意した[5]

「ロッキード隠し」[編集]

捜査の開始を受けてマスコミによる報道も過熱の一途をたどり、それに合わせて国内外からの事件の進展に対する関心も増大したものの、明らかにライバルの田中をターゲットにした捜査の急激な進展は、親田中の議員を中心に「国策捜査」として批判されることになった。

また、椎名悦三郎を中心とした自民党内の反三木派が、事件捜査の進展を急ぐ三木の態度を「はしゃぎすぎ」と批判し、さらに5月7日には田中前首相と椎名が会談し三木退陣を合意するなど、いわゆる「三木おろし」を進め、田中派に加えて大平派福田派椎名派、水田派、船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなる。国民やマスコミはこのような動きに対して「ロッキード(事件)隠し」と批判したが、このような声を尻目に田中、椎名、大平や福田などの多数派は結束を強めていった。

一方、吉永祐介を捜査主任とする東京地検特捜部はその後異例のスピードで田中を7月27日に逮捕し起訴に持ち込んだが、三木とともに田中に対する捜査を推し進めた中曽根派出身の法務大臣稲葉修は、三木の政敵である田中の逮捕を「逆指揮権発動によるもの」とみなした田中派から、三木と共に激しい攻撃の対象となった。

「三木おろし」[編集]

福田赳夫首相(左から2番目)

この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言われない」として「三木おろし」が再燃、田中の逮捕から1カ月足らずの8月24日には反主流6派による「挙党体制確立協議会」が結成される。三木は9月に内閣改造を行ったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木も田中との対決姿勢を改めて鮮明にする。

三木は党内分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず、戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙を迎える。1976年12月5日に行われた第34回衆議院議員総選挙では、ロッキード事件の余波を受けて自民党が8議席を失うなど事実上敗北し、三木は敗北の責任を取って首相を辞任。後継には「三木おろし」を進めた1人の福田派のリーダーの福田赳夫が就くことになった。

怪死[編集]

このように事件が公になり捜査が進んだ前後に、複数の事件関係者が立て続けに急死(ロッキード事件を追っていた日本経済新聞記者の高松康雄が1976年昭和51年)2月14日、上記の福田太郎が同年6月9日、さらに田中角栄の運転手・笠原正則が同年8月2日)するなど、マスコミや国民の間で「証拠隠滅と累が及ぶのを防ぐため、当事者の手先によって暗殺されたのではないか」との疑念を呼んだ。

しかし、捜査が進む中、1976年5月24日に行われた参議院内閣委員会において、社会党参議院議員秦豊より警察庁刑事局の柳館栄に対して福田や片山、鬼などの関係人物に対する身辺保護の必要性について質問が行われたが、「それらの人物からの身辺保護の依頼がなかったことから特に(警察は)何もしていない」という返答しかなかった。

その上、この答弁が行われた翌月には上記のように福田が死亡するなど、再び関係人物の身辺保護の必要性が問われるような状況になったにもかかわらず、警察はその後も政治家以外の民間人(「自ら(関係の深い暴力団)の手」で身辺保護が可能な小佐野や児玉は除く)に対して表立った身辺保護を行わなかったことから大きな批判を呼んだ。

裁判[編集]

田中角栄[編集]

衆議院予算委員会における数度に渡る証人喚問や、5月14日に衆議院で、同19日に参議院に設置された「ロッキード問題に関する特別委員会」などにおいて、これらの証人による証言の裏付け作業が進んだ上、検察などによる捜査が急激なペースで進んだ結果、事件の発覚から半年にも満たない7月から8月にかけて田中や檜山、若狭などの多くの関係者が相次いで逮捕され、東京地方裁判所起訴された。

田中は1976年(昭和51年)7月27日逮捕されたのち、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。田中に対する公判1977年(昭和52年)1月27日東京地方裁判所で開始され、日本国内はおろか世界各国から大きな注目を集めることになった。その後1983年(昭和58年)10月12日には懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った(5日後に保釈保証金2億円を納付し再度保釈)。この第一審判決を受けて国会が紛糾し、衆議院解散のきっかけとなった(田中判決解散)。

田中はこれに対して「判決は極めて遺憾。生ある限り国会議員として職務を遂行する」と発言し控訴したが、1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却、上告審の最中の1993年(平成5年)12月16日の田中の死により公訴棄却(審理の打ち切り)となった。

田中の秘書官榎本敏夫も田中と同日に外為法違反容疑で逮捕され、その後起訴された。1995年(平成7年)2月22日に、最高裁判所で有罪判決が確定。司法は首相秘書の最終審判決という形で田中首相の5億円収受を認定された。また、死亡後の田中の相続でも収受した5億円を個人財産として相続税が計算された。

児玉誉士夫[編集]

児玉は事件の核心を握る中心人物であったにもかかわらず、1976年昭和51年)2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に、「病気」と称し自宅にこもり、さらにその後は入院した東京女子医科大学病院にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や検察に対する批判も集中した。その後児玉の態度に怒ったポルノ俳優の前野光保が同年3月に児玉の豪邸へ小型軽飛行機による自爆テロ(児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件)を行なったが、児玉は別の部屋に寝ていて助かった。

その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で起訴され裁判に臨むことになったが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年昭和59年)1月に死亡した。なお、死亡後の相続では闇で収受した25億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。

小佐野賢治[編集]

小佐野は、1976年昭和51年)2月から行われた衆議院予算委員会において第1回証人として証言したものの、上記のような「証言」が議院証言法違反にとわれ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後1986年昭和61年)10月に小佐野が死亡したために被告死亡により公訴棄却となった。

丸紅ルート[編集]

「丸紅ルート」の中心人物で、事件当時社長を務めた檜山広1976年昭和51年)7月に贈賄と外為法違反容疑で逮捕、起訴され、1995年平成7年)に田中元首相の秘書の榎本とともに最高裁判所で実刑が確定した。

しかしながら高齢のために刑の執行は停止され、檜山は収監されないまま2000年平成12年)に死去した。檜山はこの間、1985年昭和60年)から1999年平成11年)まで丸紅名誉顧問を務めていた。

全日空ルート[編集]

全日空に有利な政治的取り計らいを受けるために、若狭社長の意を受けて全日空の幹部がロッキードから受け取ったリベートの一部を裏金として運輸族の政治家や運輸官僚へ贈賄していたとして立件された。この件は全日空ルートと呼ばれる[6]

もっとも、ロッキードL-1011型機の選定においては機種選定の正当性は明らかであったこともあり、検察は贈賄罪としては立件できなかったため、若狭社長以下6名の社員は、外為法違反および議院証言法違反などの容疑で逮捕され、起訴された。1982年1月、東京地方裁判所でいずれも執行猶予付きの有罪判決が下された。これに対しては若狭社長のみが控訴し、上訴審を経て、最高裁が1992年9月に上告棄却したことにより、懲役3年(執行猶予5年)の有罪判決が確定した[7]

多論[編集]

アメリカ陰謀説[編集]

ロッキード事件はアメリカ合衆国の当局が仕掛けた陰謀だ、という説がある。 ホワイトハウス在住記者ジュリー・ムーン文明子)がヘンリー・キッシンジャー国務長官に「ロッキード事件はあなたが起こしたんじゃないんですか?」と問いただしたところ、キッシンジャーは「オフ・コース(もちろんだ)」と答えている[8]

諸説[編集]

ヘンリー・キッシンジャー(左)とジェラルド・フォード(右)

中曽根康弘は自著で、事件当時のジェラルド・フォード政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが東京に来た際、『ロッキード事件をあのように取り上げたのは間違いだった』と中曽根に語り、「キッシンジャーはこういうことはやるべきでなかったと反対したらしい」と記述している。さらに同著では「ロッキード事件の原点は角栄の石油政策にある」とも述べている[9]

その他にも、この事件が発覚する過程において、贈賄側証人として嘱託尋問で証言したロッキード副社長のコーチャンと元東京駐在事務所代表・クラッターが、無罪どころか起訴すらされていない点、ロッキード社の内部資料が誤って上院多国籍企業小委員会に誤配されたとされる点など、事件に関連していくつもの不可解な点があったため、ソビエト連邦アラブ諸国からのエネルギー資源の直接調達を進める田中の追い落としを狙った石油メジャーとアメリカ政府の陰謀だったとする説、または中華人民共和国と急接近していた田中を快く思っていなかったアメリカ政府が田中を排除する意味があったとする説が田原総一朗の書いた記事などで当時から有力だが、田中による中華人民共和国との国交成立に反発していた右翼自民党福田派、その他、田中の政治手法を良しとしない者達が警察と絡んで仕組んだ陰謀説もある。

三木武夫総理が人気取りと内閣延命のために検察を使って田中を逮捕したという説もある[10]。また、検察が対潜哨戒機P3Cの導入がらみの事件を全日空トライスター受注をめぐる事件としてロッキード事件を捏造したとする説もある[11]

誤配説について[編集]

ただし、誤配説に対しては『ロッキード社の監査法人であるアーサー・ヤング会計事務所がチャーチ委員会から証拠書類の提出を求められ、すぐに証拠書類を提出したものの、顧客秘守義務の観点から、すぐに手渡してしまったということが判るとロッキード社との関係上都合が悪いため、事実を隠すために誤配説を流布した』という説もある。また、当初アメリカ政府が日本の国内事情を考慮して捜査資料の提供を渋っていた事実もある。

アメリカ人の不起訴[編集]

また、コーチャン、クラッター、エリオットのアメリカ人3名が起訴されずに嘱託証人尋問調書が作成された点については日本の司法制度にない司法取引であり反対尋問もできなかったという批判があるが、両名に対する嘱託尋問がアメリカで行なわれるのに際して3名は当初証言を拒否し、アメリカでは外国公務員に対する賄賂を規制する法律がなくアメリカ国内法では合法だったことや、アメリカ政府が実業界要人を日本へ引き渡すことが非現実的だったため、日本の検察が外国裁判所ノ嘱託ニ因ル共助法に基づいてアメリカ司法機関に嘱託するにあたって、刑事訴訟法第248条に基づく起訴便宜主義によって事実上の免責を与えたのが直接的な理由である(日米犯罪人引渡し条約の発効は1980年、国際贈賄防止条約の発効は更に遅れて1997年)。その点を考慮すれば3名が起訴されなかったことに不審なところはない、という反論もある。

なお、嘱託証人尋問調書について下級審では刑事免責については日本の法律とは異なった手続によって行なわれた証拠調べが日本の法秩序の基本的理念や手続構造に反する重大な不許容事由を有するものでない限りは可能な範囲において受けいれる余地を認め、安易な免責による証言は一般的に違法の疑いがあるが、ロッキード事件ではアメリカの実業界要人を起訴できる可能性がないことやアメリカで公正な手続で尋問が行われたことなどの事情から合理的理由があり適法として証拠として採用された。しかし、丸紅ルートの最高裁では共犯者に刑事免責を与えた上で得た供述を事実認定に用いる司法取引という制度を日本の法律は想定していないとしてコーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した。もっとも他の証拠を元に原審の有罪判決が維持されている。

反対尋問が封じられたという点については、反対尋問ができなくても刑事訴訟法第321条1項3号に基いて伝聞証拠禁止の原則の例外を適用して、下級審では証拠採用された。また丸紅ルートの裁判において1977年10月に証拠請求をして1979年2月から始まった検察側による嘱託証人尋問調書の立証が1981年3月に終わってから1年近くたった1982年になって弁護側が正式に嘱託による反対尋問を請求した際に説得的な立証趣旨を示すことができずに裁判所に却下されたという経緯がある(全日空ルートの裁判では検察側がエリオットの嘱託証人尋問調書を立証している間に、弁護側が申請によってエリオットから宣誓供述書を取って実質的な反対尋問を行なわれた)。コーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した最高裁も反対尋問ができなかったという理由で証拠能力を否定したわけではない。

ロッキード事件にかかわる問題点[編集]

不自然な金銭の受け渡し場所[編集]

調書によれば、トライスター機を日本が購入するにあたって、田中角栄側はロッキード社から丸紅を通じて、4回に渡って計5億円の金銭授受が行われ、その金銭授受を実行したのは、伊藤宏丸紅専務と田中の秘書である榎本敏夫とされている。しかし、その4回の受け渡し場所は、1回目が1973年8月10日14時20分頃にイギリス大使館裏の道路にとめた車の中にて、2回目が同年10月12日14時30分頃に伊藤の自宅付近の公衆電話ボックス前にて、3回目が1974年1月21日16時30分頃にホテルオークラ駐車場にて、4回目が同年3月1日8時ごろに伊藤の自宅にてとなっている。

1回目の受け渡し場所については、当初押収した手帳に、8月10日の午後にイギリス大使館裏にあるレストラン「村上開新堂」に行く旨書いてあったため、その事を追及したところ「村上開新堂に菓子の引き取りに行った」と証言した。しかしその後、法廷で同店の経営者の村上寿美子が、8月10日に同店が夏休みで閉店していたことを証言したため、証言の信頼性が崩れた。

3回目の受け渡し場所の駐車場があるホテルオークラでは、調書の授受時刻にその駐車場前の宴会場で、前尾繁三郎を激励する会が開かれており、数多くの政財界人やマスコミの人間がいた。したがって、調書通りならば、顔見知りにあいかねない場所で伊藤と榎本が金のやり取りをしたことになる。また、この日は記録的大雪であり、調書が真実なら、伊藤と榎本は雪の降りしきる野外駐車場で30分以上も立ち話をしていたことになるが、誰の口からも雪という言葉は出ていない。田原総一朗が、伊藤の運転手である松岡克浩にインタビューしたところ、松岡自身は金銭授受の記憶がなかったが、取調べで伊藤の調書を見せられそんなこともあったかもしれないと曖昧に検察の指示に従ったと述べ、さらに検察によって3回も受け渡し場所が変更させられたと証言している。松岡は、当初検事の命令に従い、ホテルオークラの正面玄関前に止まっている2台の車を書いたが、その後、検察事務官に「ホテルオークラの玄関前は右側と左側に駐車場がある。あなたが言っていた場所は左側だ」と訂正を求め、しばらくして、また検察事務官がやってきて、今度は5階の正面玄関から1階の入り口の駐車場に変えさせられたとしている。また、当初伊藤も松岡とほぼ同じ絵を描いており、松岡の調書が変更された後、伊藤の調書も同様に変更させられた。田原は、「打ち合わせがまったくなく、両者が授受の場所を間違え、後で、そろって同じ場所に訂正するなんてことが、あり得るわけがない。検事が強引に変えたと判断するしかありません。百歩譲ってそのようなことが偶然起こり得たとしても、この日の受け渡し場所の状況を考えると、検事のでっち上げとしか考えられない」としている。

田原が、榎本にインタビューしたところ、榎本は4回の授受は検察が作り上げたストーリーだと明言した上で、5億円を受け取ったこと自体は否定せず、丸紅からの「田中角栄が総理に就任した祝い金」という政治献金として、伊藤の自宅で受け取ったと証言している。また、田原は伊藤にもインタビューしているが、伊藤はせいぜい罪に問われても政治資金規正法違反だと踏んでいた。検察から攻め立てられ、受け取ったのは事実だから、場所はどこでも五十歩百歩と考えるようになり、検察のでたらめに応じたと答えている。そして、田原が、事件の捜査を担当した東京地検特捜部検事の一人に取材した結果、匿名を条件に「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」と述べた。さらに、事件が発覚したときに渡米し、資料の入手やロッキード社のコーチャン、クラッターの嘱託尋問に奔走した検事の堀田力は、「受け渡し場所はもともと不自然で子供っぽいというか、素人っぽいというか。おそらく大金の授受などしたことがない人が考えたとしか思えない」と語り、その不自然さを認めている[12][13]

金額の不一致(政治主義裁判)[編集]

ロッキード社の工作資金が児玉と丸紅に30億円流れ、そのうちの過半が児玉に渡っている以上、5億円の詮議も解明されなければならない事柄であるから当然解明するのは道理にかなっていることではあるが、さることながら金額が多いほうの流通は一向に解明されていない。この方面の追跡が曖昧にされたまま5億円詮議の方にのみ向うというのは「政治主義裁判」である可能性がある。

他方で、問題にすべきは児玉が工作資金の使途を明かさなかったことを最大の理由として事件の全容が解明されなかったことであって、そのことをもってロッキード裁判を批判するのはあたらない、という見方もある。また、仮に私人である児玉に渡った資金と総理大臣であった田中に渡った資金が存在して金額に大きな違いがあるとしても、賄賂罪を構成する職務権限の観点から同列に並べて考えられるべきではないだろうという意見も多い。

公訴権の乱用の可能性[編集]

三木武夫総理大臣稲葉修法務大臣による「逆指揮権発動」による田中裁判は、公訴権の乱用である可能性がある。「指揮権発動」も「逆指揮権発動」も共に問題があるという観点を持つべきであろう、という主張がある。すなわち、一般に、政争は民主主義政治の常道に属する。その政争に対し、検察権力の介入を強権発動すること自体、公訴権の乱用である。同時に三権分立制を危うくさせ、司法の行政権力への追従という汚点を刻んだことになる、というのである。日本国行政の最高責任者である三木はアメリカ政府に資料を請求する親書において、もし何も出なかった時の日本国の体面を考え「If any(もしなんらかのものがあれば)」とする文言を入れることを宮沢喜一外務大臣が進言したのに対して「あるに決まっているからそんな文言は必要ない」と言って宮沢の提案を退けて最初から見込み捜査に加担し[14]、渡米中だった東京地検特捜部担当検事に国際電話で捜査状況について直接問い合わたり司法共助協定締結に関して首相官邸を訪問した検事に対してロッキード事件の起訴時期について尋ねていたことが判明している[15]。また、検事総長への指揮権を持つ稲葉法相は田中首相逮捕前に新聞のインタビューで「これまで逮捕した連中は相撲に例えれば十両か前頭。これからどんどん好取組が見られる」「捜査は奥の奥まで 神棚の中までやる」と今後の大物の逮捕を示唆した上での徹底捜査をコメントをした。

他方で、いわゆる「逆指揮権発動」とは単に三木内閣がロッキード事件の解明に熱心であったことを指すに過ぎず、なんら問題にすべきところはないという反論もある。例えば田中逮捕の方針は検察首脳会議で決定され、三木も稲葉もその報告を受けただけである。稲葉にいたっては地元で釣りをしている時に刑事局長から電話でその報告を受けた程だった。後に稲葉は、「あれだけの証拠があっては指揮権で田中前首相逮捕を差し止めることなど無理で、それを恨まれても困る」と発言している。

不当逮捕の可能性[編集]

「外為法違反」という別件逮捕で拘束するという違法性、しかもかつて首相職にあったものにそれを為すという政治主義性という問題があるとする主張もある。

しかしながら、田中の場合「5億円の受け取り」という一つの行為が外為法違反と収賄罪の双方に関わっていることなどを考えれば、別件逮捕という批判は当たらないとの反論もある。

なお、1976年8月4日の参議院ロッキード事件に関する特別委員会で、外為法違反による逮捕について外貨予算制度や外貨集中制度の廃止及び大幅な為替自由化によって外為法違反は形式犯に過ぎなくなったと印象付けたい質問が出たが、政府は「1975年に総額約20億円の密貿易に絡む不正決裁事件で20法人44人を検挙し、その内10人を身柄拘束していた例が存在する」「貿易に頼るという立場に依存度が強い日本において為替管理等を含む外為法の規制が有効に機能しなければ国際的な立場をとることができず、現行の外為法は十分有効に機能している」「外為法違反で検察庁が求公判している事例は多い年で63名、少ない年で5名ある」と答弁している。

“作文”調書の可能性[編集]

各被告の供述証書(検事調書)が検事の作文に対する署名強要という経緯で作られた事が判明しており、この様な検事の暴走行為は下記にもあるように他にもみられることではあるが、まさに「権力犯罪」、「国策裁判」と考えても差し支えない、という主張もある。しかし、検事調書の作成にあたって一問一答を忠実に記録するのではなく、検事が供述をまとめた調書に被告(被疑者)の署名捺印をさせる、という手法は日本の刑事裁判に一般的なもので、その是非はともかくとしてロッキード事件に特有のものではない。また、一般にロッキード裁判批判論では、丸紅の大久保利春が公判でも大筋で検事調書通りの証言を行なった事実が無視されている。

流行語[編集]

事件の捜査や裁判が進むにつれ、事件関係者が発した言葉や事件に関連した符丁が全国的な流行語となった。

(ぜんぜん)記憶にございません
衆議院予算委員会にて最重要参考人と目される小佐野賢治が喚問を受けた際、偽証や証言拒否を避けつつ質問に対する本質的解答をしない意味をもつこの発言を連発。これ以降は他の証人も同等の言葉を多用するようになった。
ピーナツ(ピーシズ)
賄賂を受領する際の領収書に金銭を意味する隠語として書かれていたもの。100万円を「1ピーナツ」と数えていた[16]。「ピーシズ」はpieces、つまりピースの複数形[17]
ハチの一刺し
田中の元秘書で、事件で有罪となった榎本敏夫前夫人の三恵子が、榎本に不利な法廷証言を行なった心境について述べた言葉。
よっしゃよっしゃ
田中が全日空への工作を頼まれたときに発したとされる言葉。

他国における「ロッキード事件」[編集]

オランダでは、空軍における戦闘機F-104を売り込んでいていた)の採用をめぐって、女王ユリアナ王配ベルンハルトにロッキード社から多額の資金が流れ込んでいたことが明らかになった。これは日本での汚職事件と相まって対外不正行為防止法を制定させるきっかけとなった。

イタリアでは、C-130の採用を巡り、大統領ジョヴァンニ・レオーネ首相在職中にロッキード社から賄賂を受けていた疑惑が明るみに出て、レオーネは任期を半年残して辞任に追い込まれた。

検察[編集]

(かっこ内は主な後職)

  • 法務省
  • 最高検察庁
  • 東京高等検察庁
  • 東京地方検察庁
  • 東京地検特捜部
    • 部長 川島興 (大阪高検検事長)
    • 副部長 吉永祐介(検事総長)、副部長 永野義一(最高検検事)、副部長 藤本一孝(新潟地検検事正)(発覚時副部長)、副部長 石黒 久晫(名古屋地検検事正) (藤本氏と交代)
    • 特捜部検事   
      • 河上和雄(最高検公判部長)、村田恒 (検察官)(名古屋高検検事長)、松田昇(最高検刑事部長、預金保険機構理事長)、東条伸一郎(大阪高検検事長)、堀田力(4月から参加)(法務省官房長)、小林幹男(仙台地検検事正)、小木曽国隆(さいたま地検検事正)、佐藤勲平(福岡地検検事正、公正取引委員)、浜邦久(東京高検検事長)、友野弘(宇都宮地検検事正)、神宮寿雄(昭和58年東京地検検事辞職)、宮崎礼壹(内閣法制局長官)、太田幸夫 (東京高裁部総括判事)、広島速登、村田紀元、山部力、近藤太郎、寺田輝泰、水流正彦、清水正男、荒木久雄
    • 特捜部資料課長 田山市太郎

注釈[編集]

  1. ^ a b 限りなく大空へ pp337
  2. ^ そのキャンセルした全日空向けDC-10のうちの1機(量産29号機 cn 46704/29)が格安でトルコ航空に売却されたが、貨物ドアに重大な欠陥があった事から、1974年トルコ航空DC-10パリ墜落事故が発生してしまった。
  3. ^ 限りなく大空へ pp339
  4. ^ 騏驎おおとりと遊ぶ<下> 本所次郎著 p174
  5. ^ 奥山俊宏 (2010年3月7日). “「自民離脱、信問う」示唆:三木元首相が米政府に密使:ロッキード事件”. 朝日新聞: p. 13版、38面 
  6. ^ 『田中角栄研究 全記録(下)』P.336 立花隆著 1982年 講談社文庫
  7. ^ 大空への挑戦 ANA50年の航跡 72頁
  8. ^ 共同通信社発行『朴正煕金大中
  9. ^ 中曽根康弘『大地有情』1996年 271, 472頁
  10. ^ 倉山満『検証 財務省の近現代史』光文社新書
  11. ^ 高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』
  12. ^ 『検察を支配する「悪魔」』(田原総一朗田中森一の共著 講談社、 2007年12月)ISBN 9784062144537
  13. ^ vol.32 昭和51年 ロッキード事件(1-3) - 振り返る昭和 - 地球発 - [どらく 「田中角栄」という宿題 文:田原総一朗(ジャーナリスト)]
  14. ^ 俵孝太郎「戦後首相論」(グラフ社)
  15. ^ 産経新聞 2006年7月27日
  16. ^ 「ピーナツ100個(=1億円)」と書かれた暗号領収書が存在した。
  17. ^ これはアメリカにおいても有名になった。同時期に製作されたアニメ・『トムとジェリー』において「どこかの国の政治家と同じでピーナツが大好き」という台詞がある。

参考文献[編集]

  • 立花隆 『田中角栄研究-全記録』上下 (講談社)
  • 立花隆 『ロッキード裁判批判を斬る』全3巻 (朝日新聞社)
  • 堀田力 『壁を破って進め-私記ロッキード事件』上下 (講談社)
  • 徳本栄一郎 『角栄失脚 歪められた真実』 (光文社 著者は訴訟資料を再調査した元ロイター記者 )
  • 木村喜助 『田中角栄の真実』 『田中角栄 消された真実』(弘文堂 著者は一審から上告審まで担当した弁護士)
  • 田原総一朗 『戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった』 (講談社プラスアルファ文庫)
  • 小室直樹 『田中角栄の遺言』 (ザ・マサダ)『田中角栄の呪い』 (光文社)
  • 井上正治 『田中角栄は無罪である。』 (講談社)
  • 秦野章 『何が権力か』 (講談社)
  • 小山健一 『私だけが知っている「田中角栄無罪論」』 (講談社出版サービスセンター)
  • 田中角栄を愛する政治記者グループ 『田中角栄再評価 ― ロッキード事件も無罪だった!?』 (蒼洋社)
  • 早坂茂三 『怨念の系譜』 (東洋経済新報社)
  • ロッキード裁判とその時代(1),(2) 朝日新聞
  • ロッキード事件疑獄と人間 朝日新聞社
  • ロッキード事件「葬られた真実」講談社
  • 権力者たちの狂宴 ―戦後政治とロッキード・スキャンダル 人間の科学社
  • 「ロッキード」とは何か すずさわ書店
  • ロッキード売り込み作戦―東京の70日間 朝日新聞社
  • スポーティーゲーム―国際ビジネス戦争の内幕 學生社
  • 「田中裁判」もう一つの視点―ロッキード捜査と一審判決への疑問 時評社
  • 本所次郎 『騏驎おおとりと遊ぶ<上>-若狭得治の軌跡 運輸省編』 徳間書店、2002年ISBN 4198614644
  • 本所次郎 『騏驎おおとりと遊ぶ<下>-若狭得治の軌跡 全日空編』 徳間書店、2002年ISBN 4198614652
  • 『限りなく大空へ 全日空の30年』 全日本空輸株式会社、1983年
  • ANA50年史編集委員会 『大空への挑戦 -ANA50年の航跡-』 全日本空輸株式会社、2004年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]