全日空機雫石衝突事故

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全日本空輸 58便
概要
日付 1971年7月30日
原因 自衛隊全日空双方のミスによる空中衝突(事故調査委員会発表)
場所 日本岩手県岩手郡雫石町
死者 162
負傷者 1(地元住民)
航空機
機体 1)ボーイング727-281 2)F-86F
航空会社 1)全日本空輸 2)航空自衛隊
機体記号 1)JA8329 2)92-7932
乗客数 1)155 2)0
乗員数 1)7 2)1
生存者 1(航空自衛隊機乗員)
  

全日空機雫石衝突事故(ぜんにっくうきしずくいししょうとつじこ)は、1971昭和46)年7月30日[1]に発生した航空事故空中衝突)である。全日本空輸旅客機航空自衛隊戦闘機が飛行中に接触し、双方とも墜落した。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が犠牲となった[2]。一般には全面的に自衛隊側に事故責任があるとされているが、刑事裁判および民事裁判では、双方に見張り不足があったが、自衛隊機側の責任がより重かったと判断された。

目次

[編集] 事故の概要

[編集] 衝突までの状況

ボーイング727-200型の同型機
航空自衛隊F-86Fの同型機

1971年7月30日全日空58便(ボーイング727-281 機体記号JA8329)は北海道・千歳空港を午後1時33分に離陸した。58便の定刻は午後12時45分であり、定刻よりも48分遅れであった。

機長(当時43歳)、副操縦士(当時27歳)、アメリカ人航空機関士(当時31歳)ら操縦乗員3名、客室乗務員4名と乗客155名が58便に搭乗していた。なお、58便機長は元航空自衛隊パイロットであった。乗客のうち122名は静岡県富士市にあった吉原遺族会の北海道旅行団一行であった。また3人は旅行会社の添乗員であった。58便は函館NDBにジェットルートJ10Lで向かい、午後1時46分に通過した。この時の飛行高度は22000フィートであった。ここで高度を上昇しながら松島NDBに向けて変針し、札幌管制区管制塔に「松島NDB通過は午後2時11分の予定」と通報した。ここから巡航高度を28000フィートに上昇し自動操縦で飛行していた。

ほぼ同じごろ航空自衛隊第1航空団松島派遣隊所属のF-86F戦闘機2機が編隊飛行訓練のため航空自衛隊松島基地を午後1時28分頃に離陸し、秋田県横手市付近に臨時に当日設定(当時は許容されていた)されていた「横手北訓練空域」を目指して北上した。2機は2等空曹(当時22歳)を訓練生として指導するために、教官として1等空尉(当時31歳)が随行する編隊飛行訓練であった。なお訓練生は教官から事前に訓練空域と飛行高度の打ち合わせをしない実戦さながらの訓練飛行であった。なお飛行は計器を用いない有視界飛行方式であった。

当日北海道から東京に向かう航空路「ジェット・ルートJ11L」にまたがる東北地方各空域を訓練空域としていたが、J11Lの中央線から両側5海里(およそ9.2Km)の高度25000フィート(7600m)から31000フィート(9500m)の訓練飛行は禁止していた。だが、後述のように教官はジェットルートは盛岡市上空を通過していると認識していたという。

[編集] 衝突

岩手県岩手郡雫石町付近上空で午後2時2分頃、東京方向へ190度の磁針度を取って飛行していた全日空58便機に、岩手山付近を旋回飛行していた2機の自衛隊機がニアミスした。当時は雲一つない快晴であった。雫石上空でこの時訓練空域を太平洋側に変更するために教官機が左に旋回したが、教官機よりも1000フィート下を飛行していた訓練生は、教官の操縦する機体の追尾に集中していたため、彼の操縦していた自衛隊機(シリアルナンバー92-7932)が接近し、衝突の直前に互いに視認した[3]

教官は訓練生に対して衝突回避行動を取るように命令、わずか2秒前(距離500m)から実行したが回避するには既に手遅れであった。そのうえ旅客機の進行方向に訓練生が回避しようとしていたため、自衛隊機に全日空機が下側から追いつく形で28,000フィート(約8,500m)で衝突し、自衛隊訓練生機の右主翼付け根付近を全日空機の水平尾翼安定板左先端付近前縁(T字尾翼のため、機体の最も上の部分であった)が引っかけるような形で接触した。そのときの速度は旅客機が900km/hで自衛隊機が840km/hであった。

[編集] 墜落

その直後、双方の機体とも操縦不能になり墜落し、58便は搭乗していた乗員乗客162名全員が死亡した。58便はしばらく降下しながら飛行したが安定板の機能を喪失していたため、速度が急加速し音速の壁を突破し15,000フィート(約3000m)で空中分解した[4]という(この音速の壁を突破した際のものと推測される音が、盛岡市内の病院屋上でも確認された)。

また衝突直後に大きな白い雲状の物が発生したのを多くの者が目撃しており、写真撮影した者も複数いた。偶然近くの青森県上空を飛行していた東亜国内航空114便パイロットや、花巻上空を飛行していた同僚機の全日空61便のパイロットが、58便からの状況を把握できず混乱した通信を傍受していたが、それもすぐに途絶えてしまった。58便機長の最期の言葉は「エマージェンシー(緊急事態)オールニッポン…」であった。操縦乗員は地面に激突して大破した機首で発見された。また機体が空中分解したため、乗客たちの遺体が安庭小学校のある西安庭地区を中心とした雫石町内の各地に58便の残骸とともに落下し、極めて凄惨な状況で発見された。

一方の訓練生は操縦席が炎上し[5]戦闘機の射出座席装置のレバーを操作できなかったが、途中で風防が脱落したため墜落する機体からパラシュートで脱出し無傷で生還した。なお、自衛隊機も空中分解し田んぼに激突した[6][7]

また、落下した旅客機の車輪の残骸が民家の屋根を貫通し、住民の女性(当時81歳)が負傷した。墜落の衝撃による火災が発生しなかったため、犠牲者の遺体は前に発生し身元確認が難航した英国海外航空機空中分解事故(このときは前部機体が炎上したため)とは違い、比較的早く身元が判明したが、同様に遺体が高速で地上にたたきつけられたため、極めて凄惨な状況を呈していたという。また犠牲者のうち若い女性1名の身元がなかなか判明しなかった。最終的には確認されたが、これは他人名義の航空券で搭乗していたためであった[8]。また遺体を検死していた警察が犠牲者のうち1名を取り違えるミスをしたために、身元確認の精度について疑問がもたれるハプニングもあった。

なお事故機となった58便として運用されていたJA8329機はボーイング社から新造機として1971年3月に納入されたもので、4月の路線就航からわずか3ヶ月で喪失することになった。これは全日空のJA8302機(全日空羽田沖墜落事故機)よりも運航期間が短い薄命の機体となった。

[編集] マスコミによる自衛隊批判

この事故で航空自衛隊トップの上田泰弘航空幕僚長と、增原惠吉防衛庁長官(当時)が事故の責任を取り辞任した。一方、当時のマスコミ全般の報道は「有視界飛行の自衛隊機が民間機の定期航路に入り込んで、計器飛行中の旅客機と衝突事故を起こしたのであるから、自衛隊機に重大ミスがあった」といった偏見に満ちた断定的なものであった[9]。特に、事故当日に運輸省航空局だけでなく、一方の当事者である航空自衛隊も全面的過失があったことを認めており、そのため事故原因が一方的に断定することになったといわれている。

また教官が事故当日の7月30日午後9時に、松島基地でマスコミとの記者会見に応じたが、その場で『この時(空中衝突地点を)定期航空路近くだと思う。航路を考えながら飛んでいるが、上の方にはジェット機、下のほうがプロペラ機が飛んでおり、いちいち考慮していては訓練にならない』と不機嫌な感情を込めて発言した。この失言が『定期航空路をいちいち気にしては訓練は出来ない』と、一般に受け取られたため自衛隊に対する風当たりがますます強くなった。マスコミがこの事を自衛隊批判の格好の材料としてセンセーショナルに書き立てたので、自衛隊に対して大きなイメージダウンになった。さらに、自衛隊幹部が「事故現場が訓練飛行区域であっても25000フィートから30000フィートの空域は飛行を禁止されている」と発言[10]していたことも、自衛隊に過失があったとされた一因のひとつである。

しかし航空事故の発生要因はひとつではなく、定期航空路と自衛隊の訓練空域が隣り合わせに設定されているという、安全性への配慮を欠いた航空路設定の問題のみならず[11]、この事故のように好天下で両機がお互いの存在を認識していた航空機同士が空中衝突した場合、程度の差はあれ双方に過失を認定すべきであり、旅客機側に接触直前まで回避行動を取らなかった過失が多少なりとも存在するという論もある。しかも上記のように定期航空路と自衛隊の訓練空域が接近していた情況があったため、双方とも注意が必要であったと主張する論もある。なお、前年の1970年には民間航空機と自衛隊機のニアミスが28件発生していた。

旅客機に搭乗していた全員が犠牲となり当時としては史上最悪の航空事故となった本事故に対し、マスコミの報道は初めから偏見に満ちており、事故の原因となった訓練空域と定期航空路が隣り合わせに設定されているような稚拙な航空行政や安全対策の不備の追及よりも、片方の当事者である自衛隊機を批判するばかりの反自衛隊プロパガンダ記事となった。新聞ばかりでなく週刊誌も同じであり、たとえば週刊サンケイ(現在のSPA![12]「予測された世界最大・最悪の空中衝突!空の凶器!跳りょうする自衛隊機」のキャプションを付けており、自衛隊に一方的な非があるかのような表現をしていた。「自衛隊機は常識はずれの無謀操縦をしており、防衛庁には弁解の余地がない」旨を確証もなく新聞紙上に発言した大学教授が事故調査委員に任命されており、結論ありきの先入観と偏見を持って調査していたともいわれ、客観性は疑問視されている。

また、後の裁判(後述)で旅客機が航路をそれ自衛隊の訓練空域に入っていたと主張されたが、自衛隊機の教官の証言では訓練空域が当日朝に上司から指示されたものであり、民間航空機の飛行は制限されるものと思ったとしており、訓練空域の設定自体に問題があったともいえる[13]。 また、現在においても事故の原因追及より当事者の責任追及になりがちな日本の社会風土も問題がある。事故を調査した運輸省は事故調査団を臨時に組織したが、常設の国家機関として航空事故調査委員会が設立されたのは1974年のことである。

[編集] 自衛隊擁護論

全日空機は自衛隊の訓練空域に侵入した上で、速度の速い全日空機がF86を引っ掛けたのが真相であるとして、自衛隊の過失は軽いとする意見がある。このことは刑事訴訟で被告(自衛隊機)側が主張したものであるが、裁判所はこの主張の根拠となった自衛隊のデータを精度が低いものとして採用しなかった。この事故に関する訓練空域についての認識は国・航空会社・戦闘機の教官とも違っていた上に、裁判で認定された訓練空域は民事・刑事ともそれぞれ違っていたという。そのため、全日空機が航空路を逸脱したのか、自衛隊機が航空路に侵入したのかを論じることは難しいといえる。しかしながら事故当時の一方的なマスコミによる自衛隊批判に対して、全日空側の過失が重いとする論調の意見は現在でも根強くある。これは、事故発生当日に世間一般に確定的になった「自衛隊全面過失論」を、様々な証拠からなされた反論である。

たとえば、須藤朔の『ジェット・ルートJ11L』(1975年発行)、内藤一郎の『真説 日本航空機事故簿』(1994年発行)や足立東の『追突-雫石航空事故の真実』(日本評論社刊、1993年発行)などといった書籍は、自衛隊全面擁護、全日空全面批判といえる内容となっている。これはマスコミが「自衛隊側に一方的な非がある」との姿勢に基づいた報道を展開したことに対する反動といえる。なお、須藤と内藤は元パイロットである。

「ジェット・ルートJ11L」では、航空事故調査委員会の調査は恣意的なものであったと批判しており、実際の空中衝突地点は事故調査委員会が「断定」した地点[14]よりも西側(つまり臨時に設定された横手北訓練空域内)であると主張している。また事故調査委員会の最終報告書(1972年7月27日公表)が、旅客機に搭載していたフライトレコーダーだけの分析で飛行ルートを断定したことを批判している。なお、同書は全日空機は20Kmも逸脱したと主張しているが、根拠は曖昧なものである。

「真説日本航空事故簿」は特に強く自衛隊批判を展開したとして、全日空の大株主でもあり、自衛隊に対し批判的な論調が普段から多いとして朝日新聞社を特に名指しで批判しており[15]、事故に関わった自衛隊員に同情的な内容となっている。そのうえ、政府が全日空を倒産させないために自衛隊側に全面的責任があるとした恣意的な事故調査報告書を出したと陰謀論的な主張[16]している。

また「追突」では全日空機操縦乗員が食事をしていたため前方監視が不足していた可能性や、反自衛隊のプロパガンダを流し続けた報道や裁判が必ずしも公平ではなかったことを指摘している。第一審の盛岡地裁も旅客機が西へ12km程度逸脱(原因は函館上空における方向転換操作が約40秒間遅れたためとされる)していたと認定しており、加えて58便がフライトプランで承認されていた航空航路は24,000フィートであり、それを超えて上昇していたために自衛隊機との衝突が起こったと結論づけている[17]

近年でも軍事評論家の佐藤守ブログの中で、58便機長が遅れを取り戻すために松島NDBを無視し次の太子NDB(茨城県)を直行する経路を選択し、ショートカットをした結果として航路を逸脱していたと主張[18]している。

また当事故発生から10年以上たった1985年2月になって搭乗していた乗客が撮影した8ミリフィルムが発見され、このフィルムが全日空側が民事訴訟で「58便が東側に逸脱」していた証拠として提出したが、防衛庁側の三角法による分析によれば、予定されていた航空路からでは本来撮影できるはずのない田沢湖が写っていたことから、全日空機が航路を西側に逸脱して自衛隊の訓練空域(つまり自衛隊側の主張のように)を飛行していたことの証左とされた[19]。これらの経緯を報道した記事[20]によれば、防衛庁側に有利な証拠であり、全日空は証拠を取り下げたという。

なお、航空事故調査委員会、岩手県警及び検察側、裁判所の各審、さらには自衛隊側を擁護する書籍では全て衝突までの経路や衝突地点は全て異なっている。このように錯綜しているため真実は不明である。なお自衛隊が提出したレーダ記録(後述)であるが裁判では信頼性が乏しいとされた。これは当時の防空レーダの精度が低かった上に、レーダの正確な性能については「防衛秘密」であったため、証拠能力が低い[21]と見なされたためであった。

一方で、自衛隊機が訓練のための標的機(仮想敵機)として民間機を利用することが日常的に行われていたとする元航空自衛隊員の何の根拠も無い告発が8月3日にあった[22]。この証言によれば北海道網走市のレーダーサイトに勤務していた1969年冬に、自衛隊機附近を飛行していたレーダーに写る民間航空機に「フェイカー」(仮想敵機)を示すマーカーをつけていたというものであった。事故機となったボーイング727が冷戦体制下における日本にとって最大の仮想敵国であるソ連の領空侵犯する爆撃機に似ていたために迎撃訓練に利用したというものである[23]。また、空中衝突直前に自衛隊機の乗員が「ボギー」を連呼していたが、これは航空自衛隊内部では「危ない」のほかに「我不知飛行体」という意味があると指摘された[24]。また毎日新聞でも8月3日に長沼ナイキ事件の事件関係者が、陸上自衛隊であるが、民間機を訓練の仮装標的にしていたとするメモを残していたと主張する報道をした。

これらは週刊文春[25]などが「JA8329機は“標的”だった?」のキャプションをつけて反自衛隊プロパガンダの格好の材料として報道されたため、世間にあたかも自衛隊が危険な訓練飛行を行っていたかのような予断をあたえるものであった。また、全日空も「浜松基地上空でボーイング727の直前をF-86Fが横切った事があった」と認めたり、事故直後に山口県内で自衛隊の訓練機と全日空のフレンドシップ機がニアミスを起こしたが、フレンドシップのアメリカ人機長がニアミスを運輸省に報告したにもかかわらず、自衛隊がその事実をすぐに認めなかったため、自衛隊が標的にしていたとする真実味を持って受け止められた。このため、現在でも自衛隊による仮想敵機疑惑が事実であったと根拠の無い記載する書籍がある[26]

しかしながら、いずれも事故時の訓練内容は編隊飛行訓練であり、現在では航空自衛隊側を陥れるためのデマであったとされている。

[編集] 全日空擁護論

まず当時のマスコミの論調自体が、プロパガンダともいえる自衛隊悪玉説であった。さらに全日空側が回避行動を取らなかった理由として、自衛隊機が編隊機などの場合に民間機は進路を変えずに自衛隊機が回避して去っていくのを待った為とする論が有る。これは「自衛隊機が国籍不明機など不審機の識別のため自機に接近し監視している」と民間機のパイロットが判断した場合は、回避せずに水平飛行を継続すべきとされている事に拠る[27]。そのため全日空機は回避をせず事故に至ったのではないかという根拠の無い推測があった。また仮に回避行動を取るにも小型戦闘機に比して大型旅客機は鈍重と言わざるを得ず、視認して操縦桿操作から機体反応までは時間差があるため回避に間に合わなかった可能性も指摘されている。この点から、より俊敏な自衛隊機側の回避責任が大きいとする論もある。特に事故直前まで自衛隊機の訓練飛行が民家のある所から多数目撃されていたため、旅客機ないし戦闘機が僅かな誤操作でニアミスしてもおかしくない状況であった[28]

雫石の事故を受けて運輸省(当時)はアメリカ・連邦航空局に日本の航空管制の診断を要請したが、「管制システムがアメリカに比べ10年遅れている」と指摘された。具体的には、人材不足、レーダーや航法援助システムの整備不足、航空自衛隊の防空用レーダーを航空路管制に使用していないこと、空港周辺のレーダー管制空域が半径9Kmしかないこと、事故後にもニアミス[29]が多発していたこと、ジェット・ルートが航空無線標識間を直線で飛行するルートと決められているのみで、位置と幅員が明確に告知されていなかったことなどが指摘された。このように、僅かな操縦ミスでニアミスに繋がる危険性が内在していた航空行政の不備が事故の背景にあり、レーダー管制下で管制官が逸脱を認識するなど、日本の航空管制システムが高度化されていれば防げた可能性はあった。[30]

[編集] 事故に対する裁判

この事故の刑事裁判及び民事裁判の争点になった点として

  1. 自衛隊機と全日空機が空中衝突した地点はどこであったか、どの程度逸脱していたか
  2. 双方の過失割合はどの程度であるか

があった。双方の裁判とも自衛隊側は「過失は全て全日空側にある」と主張するものであった。なお自衛隊側の主張はジェットルートJ11Lの中心線から左右に振られた安全空域(自衛隊の基準は左右9Kmずつ、運輸省の基準は左右16Km)を中心線から12Km(刑事裁判2審弁護人)外れて飛行したと主張するもので、全日空機が逸脱していたのが事故の最大原因としていた。

[編集] 刑事裁判

自衛隊機の教官と訓練生が、事故発生後33時間後に岩手県警に逮捕され、業務上過失致死と航空法違反で起訴された。なお、航空法違反は「安全な飛行を怠った」とする83条に抵触したとするもので、この条文は個人・法人の双方に責任が認定される可能性のあるものであった。全日空の刑事責任については、両罰規定を適用するほどではなかったと捜査当局が判断したといえる[31]

裁判では、被告人側弁護人が全日空側に過失責任があったと主張したが、第一審の盛岡地裁1975年3月11日)は、『全日空の過失を論ずるまでもない』として、教官に禁錮4年、訓練生に禁錮2年8月の実刑判決を言い渡した。また、裁判所は『全日空側の過失があったとする余地はあるが、自衛隊機側の過失を否定するものではない』とした。なお、盛岡地裁は全日空機が12Km程度航空路の中心線よりも西に逸脱(自衛隊側の基準では逸脱だが、航空会社を管轄する運輸省の基準では許容範囲内)しており、空中衝突地点は確定できないが民間航空路のそばであるとした。

第二審の仙台高裁(1978年5月9日)は、教官の控訴に対しては『見張り義務違反』があったとして棄却したが、訓練生に対しては無罪を言い渡し、そのまま確定した。これは、訓練生は「上官の命令に絶対服従」であったため、教官の指示に従っただけに過ぎず、空中衝突を避けることはできなかったとされたためである。なお、空中衝突地点について、仙台高裁は「J11Lから西に4Kmを中心とする東北1km、南北1.5kmの円内」とする事故調査報告書の内容を支持するものであった。

上告審で、被告人弁護側は海法泰治(2審検察側鑑定人)の鑑定書を根拠に「全日空機がジェットルートを大きく外れて飛行したため、自衛隊設定の訓練空域内で空中衝突した」として、教官の無実を主張した。最高裁1983年9月22日判決[32])は、教官に『見張り義務違反』があったことを認定したが、被告人に対する量刑はひとりにのみ刑事責任を負わせており酷過ぎるとして、2審判決を破棄し懲役3年[33]執行猶予3年を付けた。

最高裁は、減刑の理由として「航空路に隣接して訓練空域を設定したうえに、被告人らに特段の説明もなく」「杜撰な計画に基づく上官の命令による訓練」であり「被告人らは訓令命令を拒否できなかった」として、上司の基地幹部の怠慢があったことを認定した[34]。被告人となった教官は、法学上の「期待可能性[35]のない状況であったとして、他に適切な行動が取れなかったため過失を犯しても致し方ない状況であり、刑事責任が減免されたといえる[36]

なお、最高裁の評決は3対2の合議割れ[37]であり、多数意見では有罪であるが量刑を軽減し執行猶予を付けるべきだとした。これに対し、少数意見は『原審が事故責任を被告人にのみ負わせており、量刑不当であるとしつつも、執行猶予は与えるべきではなく、禁固2年が相当である』として、多数意見に反対した。そのため、最高裁の裁判官5人は教官の刑事責任は免れないと認定していた。なお、教官は有罪判決が確定したため、国家公務員法の規定により自衛官の地位を失った。

また、刑事裁判で被告人は、訓練指示が古い航空地図に手で指し示しただけのものという漠然なものであったと証言した。それによれば訓練空域の割り当て事務をしていた飛行班長補佐がブリーフィングルームにあった100万分の1の航空地図に盛岡市を中心に北は岩手山の北、東は早地峰山付近、西は奥羽山脈(田沢湖の付近)の東西80Km,南北50Kmの間の空域を指し示しただけという大雑把なものだったという。そのうえ、この地図は古いものでジェット・ルートが記載されておらず、前述のようにジェットルートは盛岡市上空だと教官は認識していたが、実際には西側にあり、そのうえ飛行班長補佐も飛行制限空域が設定されていることを知らされていなかった。この飛行制限空域は航空幕僚長が1970年1月26日付けで通達した「航空機の運航に関する達」[38]によるもので、ジェットルートJ11Lを函館NDBと松島NDBを結んだ直線かつ高度24000フィート以上を航空路とし、その付近を飛行する場合には他の航空機のニアミスを防ぐ為に見張りを厳重にすべしとなっていた。

しかし民事裁判では、航空自衛隊側から地図上に演習空域エリアが明記されたものが証拠として提出、そのため、作家の柳田邦男は「組織としての航空自衛隊の過失は明らかであるが、裁判は現場の人間を血祭りに上げただけで、背景にある事故原因については何ら問われていない」と批判した[39]

[編集] 民事裁判

乗客遺族による民事裁判は国を被告としたものが起こされており、たとえば死亡した大学助教授の妻子に対する損害賠償訴訟では1974年3月1日に東京地方裁判所が4823万円の支払いを命じる判決を言い渡しているが、国側が控訴しなかったためそのまま確定している。

全日空側(全日空及び全日空に保険金を支払った保険会社10社)と自衛隊(国)の双方が、互いに損害賠償を請求しあって争うことになった。全日空は事故による営業損失など18億円、保険会社は全日空に支払った全壊した旅客機の航空保険金25億円、国は事故で喪失した戦闘機と被害者遺族に「立て替えて」支払った賠償金など19億円をそれぞれ請求するものであった。この民事裁判では結果的には通常の交通事故と同様に双方に過失があったと認定されることになったが、その割合を認定するために大きな論争となった。自衛隊側は全日空側に過失の大半があると主張していた。

第一審の東京地裁(1978年9月20日判決)は、自衛隊機は30秒前、全日空機は20秒前には双方の存在を確認できたとして双方に過失が存在することを認定した。そのため裁判所は時間を基に過失割合は国3、全日空2であるとした。そのうえで国は全日空へ2.7億円、保険会社に13.2億円を支払命令を出し、全日空は国に7.1億円支払うよう命令した。そのため全日空が支払う金額の方が4.4億円多かった[40]

第二審の審議は双方の主張が鋭く対立したため10年以上もかかった。東京高裁(1989年5月9日判決)は、1審よりも自衛隊の過失割合を厳しく認定し、国2、全日空1であるとした。これは『訓練空域設定自体に過失があり、自衛隊機も航空機ルートの真近で見張り義務を怠った、全日空機も衝突7秒前に決断すれば衝突を防げたのに回避措置をとらなかった過失があるが、ジェットルートの保護空域内であり過失の程度は小さい』と判示[41]した。そのため、自衛隊(国)の過失が重いとされた[42]。そのうえで、東京高裁は国は全日空に7.1億円、保険会社に15.2億円、全日空は国に6.5億円を支払うように判決を下し、そのまま確定した。

なお、東京高裁は目撃証言などから空中衝突地点をJ11Lの線上から西に6.7Km離れた地点上空。具体的には駒木野地区矢筈橋西から北西(真方位315度)へ1.3Kmの雫石町西根の八丁野地区北側を中心とする半径2Km以内と認定した。

結果的に空中衝突地点の裁判における認定はそれぞれ大きく異なることとなった。そのため、現在も大きな論争を呼ぶ一因となっている。

[編集] 事故原因

運輸省の「全日空機接触事故調査委員会[43]」が、1972年7月27日に運輸大臣に提出した事故報告書は、自衛隊機がジェットルートに侵入していたこと、58便パイロットがニアミスの危険性を認識せず回避行動をとらなかったこと、そして自衛隊機側が視認が遅れた為に回避が間に合わず空中衝突したと事故原因を結論つけた。そのため現在では、全日空側に過失はなく自衛隊のみが当事故に対して過失があったと結論づけられている。ただし前述のように事故から40年近く経過した現在も、自衛隊・旅客機の双方に過失があったと主張する者もおり、なかには自衛隊側は被害者とまで主張するものまでいる。そのため、どちらの過失が重かったかは現在でも論争がある。しかし当時の国による航空管制はレシプロ機が飛行していた時代と基本的に変わっておらず、東北地方を覆域する航空路監視レーダーは設置されていなかった。そのうえジェットルートも1950年代にジェット機に比べ運航速度が低いレシプロ機旅客機を運航する前提で制定されてから変更されておらず、訓練空域を横断する航空路が設定されていた。

また戦後になって旅客機と戦闘機が空中衝突する事故がアメリカでは1950年代から1960年代にかけて続発していたが、日本においても1965年ごろからニアミスが続発していた。そのため運輸省航空局は航空自衛隊と対策を協議していたが、自衛隊側の「訓練スケジュールなどがガラス張りになる」という、冷戦下における防衛問題を事由に協議はなかなか進まなかったという。

一応、自衛隊優先という原則が「紳士協定」で締結されていたものの、連絡に不備があったため事故の当日に訓練空域が拡張されたことが充分に伝わらなかった可能性もあった。また事故機となったJA8329は、事故当日午前8時ごろに50便(客室乗務員は交代していたが、運航乗務員は58便と同じ)として雫石上空を通過した際にも自衛隊機とニアミスをしていたことが確認されているが、このことを自衛隊、全日空ともにお互いへ報告しておらず、連絡体制が全く機能していなかったといえる。

そのため、58便が訓練空域に侵入していたとしても、58便自身がそのことを認識することはできなかったといえる。また自衛隊側においても訓練空域の設定が事故当日に行われたものであり、旅客機とのニアミスの危険性が操縦士に伝達されていなかったため、不幸にも事故に巻き込まれる事になった。そのため政府による立ち遅れていた航空管制システムと、航空当局間の連絡体制の不備が最大の事故原因であったともいえる。

[編集] 事故のその後

事故直後の1971年8月7日、政府の中央交通安全対策会議は自衛隊訓練空域と民間航空路の完全分離、自衛隊機と小型民間機の有視界飛行方式を低高度に限定、そして民間航空路を横切る場合のために自衛隊専用の回廊の設定が答申された。航空自衛隊の訓練空域は、その後陸上から海上へと移転した。1975年7月には航空法改正が行われ、航空管制空域における曲芸飛行と訓練飛行の原則禁止、特定空域の高度変更の禁止と速度制限、ニアミス防止のために見張りなど安全義務と発生時の報告義務、トランスポンダーフライトレコーダー等の装置の装着義務が明記された。これらの法規は自衛隊機にも適用されることになった。

運輸省は航空路監視レーダー(ARSR)の導入を推進し、1991年6月に日本国内のほぼ全域を二重以上のレーダーでにカバーするレーダー管制システムが完成した。また空中衝突防止の航空機器「空中衝突防止装置(TCAS)」が開発され、日本国内を飛行する旅客機には航空法で装着を義務化しており、安全性は向上している。ただしニアミスは現在でも時々発生している。

前述の通り、事故で有罪判決を言い渡された元教官は失職した。執行猶予が明けた[44]1986年10月25日に福岡市内で元同僚が激励会を開いたが、この時の激励会に駆けつけるためにパイロットが訓練スケジュールを調整して福岡空港に集まった[45]ことがある。彼は2005年8月に逝去(享年61)しているが、事故後二度とパイロット職に復帰しなかった。また当時訓練生だったパイロットは最高裁判決後、戦闘機から救難機のパイロットに転向し、2003年10月に定年退職するまで人命救助に尽くした[46]。被告人は既に死去しているが、遺族の名で刑事裁判の再審請求を起こす動きが進められている[47]

全日空機が墜落した現場は「慰霊の森」として整備され、同所で毎年慰霊祭も開催されていたが、三十三回忌に当たる2003年をもって終了した。しかし同所は、現在でも地元住民や全日空社員によって大切に維持されている。2006年8月、墜落現場から数百メートル離れた急斜面に窓枠や座席など事故機の部品10点近くが埋まっているのが発見され、全日空社員によって回収された。なお全日空機の機体残骸は全日空が倉庫で保管していたが、2007年1月19日から、同社の研修施設内(東京都大田区)に全日空松山沖墜落事故など他の人身死亡事故の残存する遺品や資料を保存・展示して社員の安全教育を行う「ANAグループ安全教育センター」の中で公開されている。前述の事故現場近くで回収した部品のほか、垂直尾翼下のエンジン空気取入口の一部や、胴体側面のジュラルミン製外板など、雫石事故のものは入り口からすぐの位置に展示[48]されているという。

[編集] 事故を題材にした出版物

吹雪の夜、東京から北海道に向かっていた旅客機が航空自衛隊機と空中衝突して下町の市街地に墜落。その乗客と思われる兄妹が魂だけになった母親を、ブラック・ジャックに自衛隊から奪った金銭3000万円で診察してくれと頼むエピソード。最後はブラック・ジャックが母親の主治医として別世界へ向かう旅客機に同行するのを拒否したため、金銭は返却した。目的地が逆になってはいるが、本事故を連想するものである。本編に旅客機と戦闘機が空中衝突する描写あり。
東京発札幌行きのEAL524便が謎の墜落事故を起こし、事故機のすぐそばを飛行していた航空自衛隊のF-15戦闘機のパイロットの二尉がニアミスしたのが原因と疑われたが、実際には衾(ふすま)という巨大な飛行妖怪に襲われたのが原因であった。主人公の潮ととらの乗る北海道行きの飛行機を狙ってとりつくが、獣の槍によって飛行機から切り離されたところを航空自衛隊の空対空ミサイルで退治された。なお本編では事故に関わった航空自衛官と524便機長の娘との葛藤が描かれている。
事故直後に主人公のフジ三太郎が架空の戦闘機「スカタング」を操縦している最中に旅客機と空中衝突し、一度は脱出したが自らパラシュートの縛帯を解いて飛び降りたという4コマ漫画が掲載された。

[編集] 備考

  • 1960年にも全日空と自衛隊機が滑走路で衝突する死亡事故が現在の名古屋飛行場で発生している(全日空小牧空港衝突事故)が、この時の事故は航空管制官が安全確認を怠った事による誤った誘導が原因であり、後にこの管制官は逮捕され有罪判決を言い渡されている。
  • 当該事故の翌年の1972年に、日本航空日本航空ニューデリー墜落事故日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故など5件の航空事故を発生させていたが、柳田邦男は著書「続・マッハの恐怖」中で、一連の事故要因のひとつとして航空自衛隊からの転職パイロット(これを「割愛組」と呼ぶ)が関係[49]しているのではないかと推理しており、当該事故の機長も陸上自衛官であったことから、関連があったのではないかという指摘がされている。ちなみに当時は、自衛隊からの転職者に対しては面接試験しか行われていなかったが、以後のパイロット採用試験はその他の科目も加えられ厳しく行われる事になった。
  • アメリカ合衆国で発生した軍用機と旅客機による空中衝突事故としてはユナイテッド航空736便空中衝突事故(1959年)とヒューズ・エア・ウエスト706便空中衝突事故(1971年6月)があるほか、世界各地で同様の事故が発生している。
  • 刑事裁判における裁判の費用は国ではなく被告人個人が負担した。当然個人で賄える額ではなく、航空自衛隊OB組織「つばさの会」などからのカンパを受けた。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

  1. ^ 同じ日に、サンフランシスコ国際空港パンアメリカン航空845便離陸衝突事故が発生している。
  2. ^ 1985年8月12日に「日航ジャンボ機墜落事故」が発生するまで、国内の航空事故としては最大の犠牲者数だった。
  3. ^ 一部書籍によれば教官機は視認していたが訓練生機は視認していなかった可能性が指摘されている
  4. ^ ただし須藤朔は著書の中で25,000フィートを主張している
  5. ^ 事故調査委員会は戦闘機のコックピットに焦げた跡がないとして勘違いとしている
  6. ^ 一部書籍によると、田んぼに墜落したF-86F戦闘機に墜落直後、警察や自衛隊によって警戒の為の規制線が張られておらず、近所農家の人達がF-86F戦闘機の部品を持ち去るハプニングがあった。
  7. ^ 持ち去られた部品の中にF-86F戦闘機に装備されていた、12.7mm機関銃も含まれていた。
  8. ^ そのため、現在では他人名義の航空券の譲渡が禁止されている
  9. ^ 朝日新聞・読売新聞・毎日新聞の全国紙の夕刊は7月30日付紙面で「自衛隊機の過失」を全面的に報じていた
  10. ^ 毎日新聞、1971年8月3日朝刊
  11. ^ 柳田邦男の「続・マッハの恐怖」によれば、1971年時点で複数の民間航空機のパイロットが自衛隊機とのニアミスや危険な行為を受けた経験を持っていたと証言している
  12. ^ 1971年8月16日号
  13. ^ 事実、教官は臨時に設定された訓練空域における航空路の存在と危険性について松島派遣隊の上層部から指導されていなかったこと、松島派遣隊には古い航空航路図しかなく、現行の民間航路の正しい位置を知ることが出来なかったなどによって、教官は少し離れた位置に航空路があるという認識をして訓練に向かったという
  14. ^ 事故調査報告書では、衝突地点を小岩井農場の西側上空としており、ジェットルートを3kmほど西よりに逸脱していたと認定した
  15. ^ 朝日新聞が大株主であるのは、前身の極東航空の創設者のひとりが朝日新聞出身であったためである。また現在でも大株主の地位にある。もっとも前述したように自衛隊を糾弾したのはマスコミ全般に見られた事ではある。
  16. ^ 政府がそのような事をしたという根拠が提示していないため、真相は不明。ただし内藤は同じくパイロットミスが原因とされた全日空羽田沖墜落事故の事故機機長(内藤の海軍航空隊時代の元同僚)にも同情的な事を記述している。
  17. ^ この場合、事前に函館上空で、58便が上昇することを承認した航空管制にも一因があるといえる。もっとも、最初に承認された24,000フィートは訓練空域から除外されていないが、承認変更された28,000フィートは訓練空域から除外されていた。
  18. ^ 佐藤も指摘しているが、58便の航跡データを記録しているはずのBADGEシステムが、不思議な事に衝突前に運用を中断していたとされているため記録がなく、証明できないという
  19. ^ この時点では刑事裁判は結審し、民事裁判が進行中となっていた。前述のように双方の過失を認定しつつも自衛隊のほうが過失が大きいと認めた
  20. ^ 朝日新聞 1985年2月18日「深層真相」
  21. ^ 雫石事故の直前に発生した「ばんだい号墜落事故」では、航空自衛隊のレーダーから消失した地点よりも実際の墜落現場が相当西にずれていた事例があった。そのため、最初の捜索では陸上自衛隊は違う地点を探していた。詳しくは柳田邦男著「続・マッハの恐怖」を参照のこと。もっとも「防衛秘密」を盾にとってレーダーの性能を秘匿すれば証拠調べが不可能になるから、これを法廷での証拠とすることができないのは至極当然のことである。実際に、小西反軍自衛官事件第一審判決では「防衛秘密」を理由とする証拠提出拒否(この場合は「治安出動訓練」の内容開示拒否)を理由として「犯罪の証明ができない」として無罪判決が下されている
  22. ^ 朝日新聞1971年8月4日
  23. ^ ただし防衛庁は事実無根(このような措置をするのは戦時体制直前からだという)と否定しており、またそのような仮想敵機は通常自衛隊の保有する輸送機や練習機等を利用するという
  24. ^ 自衛隊側はこのような単語は1960年代初めに使用しなくなったと主張している。ちなみに全日空機を標的にしていたのなら「ボギー」ではなく「ターゲット」という用語を用いたはずである
  25. ^ 1971年8月16日号
  26. ^ 一例として広岡友紀著「JALが危ない!」2006年、YELL books刊。同書の本文中に、雫石事故を示し「全日空は自衛隊によって撃墜されたことのある航空会社」という誤まった記述がある
  27. ^ 海外では領空侵犯していた民間機が回避し、逃亡と判断され撃墜された事例がある
  28. ^ もっとも、現在でも在日アメリカ軍機が中国地方や四国地方の山間部で、敵地への低空侵入を想定した訓練飛行を行っている事が問題になっている。実際に、訓練中と見られる米軍機が高知県・早明浦ダムの貯水池に墜落した事例もある。おりからの渇水で干上がっていたとはいえ、堤体直撃の危険はあった。
  29. ^ 中には全日空所属のボーイング727が宮崎県上空で3機も300mの高度範囲でニアミスした事例もあった
  30. ^ また事故後に航空自衛隊が設定しなおした訓練空域の中には、航空路や空港への出発進入経路に接近していて安全性に問題がある不適切な設定があった。そのため、航空局と航空自衛隊との連絡に不備があったといえる
  31. ^ 犯罪行為直後に被疑者が死亡した事件では、被疑者が書類送検される場合が多い。過去に発生した日本の航空事故では、自衛隊機と全日空機が滑走路で衝突した全日空小牧空港衝突事故(1960年)で、逮捕起訴されたのは管制官のみで有罪判決が出されているが、双方の操縦者は責任を問われていない。一方で検察が事故責任があるとして全日空機仙台空港着陸失敗事故(1963年)と日本航空MD11機乱高下事故(1997年)では裁判の結果無罪判決がだされているほか、日東航空つばめ号墜落事故(1963年)では乗員が有罪となっている。これらは全て乗員が生存していた航空事故であるが、鉄道事故の場合は信楽高原鐵道列車衝突事故JR福知山線脱線事故では、死亡した運転士だけでなく、鉄道会社の運行管理者についても検察庁に書類送検されており、いずれの事故も後に法人としての事故責任を追求されている。
  32. ^ 朝日新聞 1983年9月21日夕刊
  33. ^ 日本の刑罰では、執行猶予を付けられるのは懲役3年以内とされている。執行猶予をつけるため3年に減刑された。
  34. ^ 事故当初は訓練命令を出した部隊長も捜査されたが、最終的に起訴が見送られ、上司の自衛隊幹部は誰も起訴されていなかった
  35. ^ この場合、教官はいつでも事故の起きる危険のある命令にしたがったものであり、適法な行為を行なうことが期待できないような場合であった。そのため命令で強制された行為であるから、違法性が阻却されるべきというものである。ただし、訓練生とは違い教官の刑事責任を免責されなかった
  36. ^ 池内宏『航空事故の過失理論』成山堂書店48-50頁
  37. ^ 高等裁判所以下の裁判では複数の裁判官が審議する合議制の場合、個人的な意見を判決文で表明することは出来ないが、最高裁判事のみ、個人的見解を判決文で「少数意見」として表明することが認められている。
  38. ^ 航空自衛隊 航空機の運航に関する達 通達ではなくが正式名称である
  39. ^ 朝日新聞 1983年9月23日
  40. ^ 朝日新聞 1978年9月21日
  41. ^ 朝日新聞 1989年5月9日夕刊
  42. ^ また損害額の認定に当たって航空機がたとえ新品(事故機は就航3ヶ月であった)であっても、使用した年数に応じて減価償却した金額であるべきとする判例が示された。なお、裁判では全日空機の機体損害額を22億0665万8377円であると認定されたが、既に航空保険金でそれ以上の支払いを受けたとして賠償請求権は消滅したとされた
  43. ^ 常設の航空鉄道事故調査委員会が設置されたのは1974年のことであった
  44. ^ 執行猶予期間が経過するとその刑の言い渡しは効力を失う。そのため将来に向って刑の言渡しがなかったことになる。
  45. ^ 九州朝日放送が資料映像取材の為、訪れた福岡空港に各航空団所属の機体が集まったことを不審に思い発覚した。なお公私混同ではあるが、違法性はない
  46. ^ FOR THE BLUE SKY-航空自衛隊の50年-(2005年2月、朝雲新聞社刊・ISBN4-7509-8020-X)43貢
  47. ^ 執行猶予期間の経過によって刑の効力が消滅しているため、前科になっていない。そのため、この再審請求は名誉回復が目的であるが、無罪を証明できる確実な証拠など刑事訴訟法第435条の要件を満たさない限り実現性に乏しい
  48. ^ :安全教育センターに関する記事(山陽新聞)
  49. ^ 5件のうち4件までの機長が元航空自衛官だった

[編集] 参考文献

  • 柳田邦男「航空事故」 中央公論社(現中央公論新社1975年
  • 特定非営利活動法人災害情報センター編『鉄道・航空機事故全史』 日外選書Fontana シリーズ 2007年
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