全日空機雫石衝突事故

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1)全日本空輸 58便 2)航空自衛隊 F-86
概要
日付 1971年7月30日
原因 第1の原因として、自衛隊機のジェットルートへの侵入、第2の原因として、自衛隊機、全日空機双方の接触回避の遅れに起因する空中衝突(事故調査委員会発表)[1]
場所 日本岩手県岩手郡雫石町
死者 1)162 2)0
負傷者 1(地元住民)
航空機
機体 1)ボーイング727-281 2)F-86F
航空会社 1)全日本空輸 2)航空自衛隊
機体記号 1)JA8329 2)92-7932
乗客数 1)155 2)0
乗員数 1)7 2)1
生存者 1(航空自衛隊機乗員)
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全日空機雫石衝突事故(ぜんにっくうきしずくいししょうとつじこ)は、1971年7月30日に発生した航空事故空中衝突)である。

岩手県岩手郡雫石町上空を飛行中の全日本空輸旅客機航空自衛隊戦闘機が飛行中に接触し、双方とも墜落した。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が犠牲となった。1985年8月12日に「日航ジャンボ機墜落事故」が発生するまで、最大の犠牲者数を出した国内の航空事故であった。

刑事裁判および民事裁判は結審しており、双方の過失を認定しつつも自衛隊機側の責任がより重いと判断された。報道では全面的に自衛隊側に事故責任があるとされていた。

なお、同じ日に、サンフランシスコ国際空港パンアメリカン航空845便離陸衝突事故が発生している。

目次

[編集] 事故の概要

[編集] 衝突までの状況

ボーイング727-281型の同型機
航空自衛隊F-86Fの同型機

1971年7月30日全日空58便(ボーイング727-281 機体記号JA8329)は北海道・千歳空港を計器飛行方式により出発し午後1時33分に離陸した。58便の定刻は午後12時45分であり、定刻よりも遅れていた。

機長(当時41歳)、副操縦士(当時27歳)、アメリカ人航空機関士(当時30歳)、客室乗務員ら乗員7名と乗客155名が58便に搭乗していた。乗客のうち122名は静岡県富士市にあった吉原遺族会の北海道旅行団一行であった。また3人は旅行会社の添乗員であった。58便は函館NDBにジェットルートJ10Lで向かい、午後1時46分に通過した。この時の飛行高度は22,000ftであった。ここで高度を上昇しながら松島NDBに向けて変針し、札幌航空交通管制部管制所に「松島NDB通過は午後2時11分の予定」と通報した。ここから巡航高度を28,000ftに上昇し自動操縦で飛行していた。

ほぼ同じごろ航空自衛隊第1航空団松島派遣隊所属のF-86F戦闘機2機が編隊飛行訓練のため航空自衛隊松島基地を午後1時28分頃に離陸した。訓練生である2等空曹(当時22歳)を教育指導するために、教官として1等空尉(当時31歳)が随伴する編隊飛行訓練であり有視界飛行方式であった。訓練空域は、横手訓練空域の北部をその一部に含む臨時の空域(秋田県横手市付近)であり、松島派遣隊は、ジェット・ルートJ11Lの中心線の両側9km、高度25,000ft(約7,600m)から31,000ft(約9,500m)の間を飛行制限空域とし、やむを得ない場合を除き訓練飛行を禁止していた[2]

[編集] 衝突

岩手県岩手郡雫石町付近上空で午後2時2分頃、東京方向へ190度の磁針度を取って飛行していた全日空58便機と、岩手山付近上空を編隊飛行訓練していた2機の自衛隊機のうち1機(航空自衛隊機体登録番号92-7932)が、高度約28,000ft(約8,500m)で空中衝突した。当時は一つない快晴であった。

雫石上空で訓練空域を太平洋側に変更するために教官機が左旋回したところ、教官は訓練生機の後方から全日空機が接近しているのを視認、教官は直ちに訓練生に対して回避するよう指示、訓練生は左60度バンク機動により回避を実施したが、約2秒前(距離約500m)からでは既に手遅れであった。そのうえ全日空機の進行方向に訓練生が回避する形となってしまったため、訓練生機に全日空機が追いつく形で接近し、訓練生機の右主翼付け根付近に全日空機が水平尾翼安定板左先端付近前縁(T字尾翼のため、機体の最も上の部分にある)を引っかけるような形で追突したとされる。そのときの速度は旅客機が487kts/h(約902km/h)、自衛隊機が445kts/h(約824km/h)であったとされる[3]

なお札幌航空交通管制部の通信記録からは、全日空58便が他の航空機視認に関する報告及び回避行動をした形跡が一切認められなかった。 なお、事故に関連した書籍によれば、教官機よりも1000ft下を飛行していた訓練生は、教官機との編隊維持に集中していたため、全日空機を全く視認していなかった可能性が指摘されている。また、元航空自衛隊空将佐藤守は「教官機は訓練生機の左後上方に位置していた。」と主張している。

[編集] 墜落

その直後、双方の機体はともに操縦不能になり、全日空58便についてはしばらく降下しながら飛行していたが、水平安定板と昇降舵の機能を喪失していたため、降下姿勢から回復できず速度が急加速し、音速の壁を突破したことにより約15,000ft(約5000m)(ただし須藤朔は著書の中で約25,000ftだったと主張している)付近で空中分解墜落、搭乗していた乗員乗客162名全員が死亡した。その時の音速の壁を突破した際のものと思われる衝撃音が盛岡市内の病院屋上など、墜落地よりも離れた場所でも確認されている。墜落した機体(機体番号:JA8329)はボーイング社から3か月前に納入されたばかりのものであった。

衝突直後には大きな白い状の物が発生した事実を多くの者が目撃しており、写真撮影した者も複数いた。偶然近くの青森県上空を飛行していた東亜国内航空114便パイロットや、花巻上空を飛行していた全日空61便のパイロットが、58便からの状況を把握できず混乱した通信を傍受していたが、それもすぐに途絶えてしまった。58便機長の最期の言葉は、14時2分48秒から同54秒にかけての「エマージェンシー(緊急事態)、エマージェンシー、エマージェンシー、アーッ!」であった[4]。なお、操縦乗員は地面に激突して大破した機首の中で発見された。また機体が空中分解したため、事件現場の近傍で働いていたり通行していた者は後年の番組等で「音がして外を見たら、(胡麻)粒のようなものが落ちていた。」と語っている。乗客たちは安庭小学校のある西安庭地区を中心とした雫石町内の各地に58便の残骸とともに落下し、極めて凄惨な状況で発見された。この際、落下した旅客機の車輪の残骸が民家の屋根を貫通し、住民の女性(当時81歳)が負傷した。

墜落の衝撃による火災が発生しなかったため比較的早く犠牲者の身元が判明したが、遺体が高速で地上に叩き付けられたため、極めて凄惨な状況を呈していたという。また遺体を検死していた警察犠牲者のうち1名を取り違えるミスをしたため、身元確認の精度について疑問が持たれることとなった。

一方の訓練生は、訓練機が接触後きりもみ状態になったため、射出座席装置のレバーを引こうとしたが手が届かず脱出できなかった。しかし、キャノピー(風防)が離脱していることに気づいたため、安全ベルトをはずし機体から脱出後パラシュートで生還した[5]。そして、自衛隊機も空中分解し、田んぼに墜落した。一部書籍によると、田んぼに墜落したF-86F戦闘機には墜落直後、警察や自衛隊によって警戒のための規制線が張られておらず、近所の農家の人達がF-86F戦闘機の部品を持ち去ったという。持ち去られた部品の中にはF-86F戦闘機に装備されていた航空機搭載用12.7mm重機関銃M3も含まれていたと見られている[要出典]

[編集] 事故に対する裁判

この事故の刑事裁判及び民事裁判の争点になった点として

  1. 自衛隊機と全日空機が空中衝突した地点はどこであったか、どの程度逸脱していたか
  2. 双方の過失割合はどの程度であるか

があった。双方の裁判とも自衛隊側は「過失は全て全日空側にある」と主張した。なお自衛隊側の主張はジェットルートJ11Lの中心線から左右に振られた安全空域(自衛隊の基準は左右9kmずつ、運輸省の基準は左右16km)を中心線から12km(刑事裁判2審弁護人)外れて飛行したと主張するもので、全日空機が逸脱していたのが事故の最大原因としていた。

[編集] 刑事裁判

自衛隊機の教官と訓練生が、事故発生後33時間後に岩手県警に逮捕され、業務上過失致死航空法違反で起訴された。なお、航空法違反は「安全な飛行を怠った」とする83条に抵触したとするもので、この条文は個人法人の双方に責任が認定される可能性のあるものであった。過去に発生した日本の航空事故では、自衛隊機と全日空機が滑走路で衝突した全日空小牧空港衝突事故(1960年)で、逮捕起訴されたのは管制官のみで有罪判決となっているが、双方の操縦者は責任を問われていない。一方で検察が事故責任があると判断して全日空機仙台空港着陸失敗事故(1963年)と日本航空MD11機乱高下事故(1997年)では裁判の結果、無罪判決となっているほか、日東航空つばめ号墜落事故(1963年)では乗員が有罪となっている。これらは全て乗員が生存していた航空事故であるが、鉄道事故の場合は信楽高原鐵道列車衝突事故JR福知山線脱線事故では、死亡した運転士だけでなく、鉄道会社の運行管理者についても検察庁に書類送検されており、いずれの事故も後に法人としての事故責任を追及されている。

裁判では、被告側弁護人が全日空側に過失責任があったと主張したが、第一審の盛岡地裁1975年3月11日)は、『全日空の過失を論ずるまでもない』として、教官に禁錮4年、訓練生に禁錮2年8月の実刑判決を言い渡した。また、裁判所は『全日空側の過失があったとする余地はあるが、自衛隊機側の過失を否定するものではない』とした。なお、盛岡地裁は全日空機が12km程度航空路の中心線よりも西に逸脱(自衛隊側の基準では逸脱だが、航空路を管轄する運輸省の基準では許容範囲内)しており、空中衝突地点は確定できないが航空路の近傍であるとした。第二審の仙台高裁(1978年5月9日)は、教官の控訴に対しては『見張り義務違反』があったとして棄却したが、訓練生に対しては無罪を言い渡し、そのまま確定した。これは、訓練生は「上官の命令に絶対服従」であったため、教官の指示に従っただけに過ぎず、空中衝突を避けることはできなかったとされたためである。なお、空中衝突地点について、仙台高裁は「J11Lから西に4kmを中心とする東北1km、南北1.5kmの円内」とする事故調査報告書の内容を支持するものであった。

上告審で、被告人弁護側は海法泰治(2審検察側鑑定人)の鑑定書を根拠に「全日空機がジェットルートを大きく外れて飛行したため、自衛隊設定の訓練空域内で空中衝突した」として、教官の無実を主張した。最高裁1983年9月22日判決[6])は、教官に『見張り義務違反』があったことを認定したが、被告人に対する量刑は教官一人にのみ刑事責任を負わせており酷過ぎるとして、2審判決を破棄し懲役3年執行猶予3年の判決を下した。執行猶予を付けるために懲役3年に減軽したのである。

最高裁は、減軽の理由として「航空路に隣接して訓練空域を設定したうえに、被告人らに特段の説明もなく」「杜撰な計画に基づく上官の命令による訓練」であり「被告人らは訓令命令を拒否できなかった」として、上司の自衛隊基地幹部の怠慢があったことを認定した。なお、事故当初は訓練命令を出した部隊長も捜査されたが、最終的に起訴が見送られ、上司の自衛隊幹部は誰も起訴されなかった。

[編集] 民事裁判

乗客遺族による民事裁判は国を被告としたものが起こされており、たとえば死亡した大学助教授の妻子に対する損害賠償訴訟では1974年3月1日に東京地方裁判所が4823万円の支払いを命じる判決を言い渡しているが、国側が控訴しなかったためそのまま確定している。

全日空側(全日空及び全日空に保険金を支払った保険会社10社)と自衛隊(国)側の双方が、互いに損害賠償を請求しあって争うことになった。全日空は事故による営業損失など18億円、保険会社は全日空に支払った全壊した旅客機の航空保険金25億円、国は事故で喪失した戦闘機と被害者遺族に「立て替えて」支払った賠償金など19億円をそれぞれ請求するものであった。この民事裁判では結果的には通常の交通事故と同様に双方に過失があったと認定されることになったが、その割合を認定するために大きな論争となった。全日空側は自衛隊側に、自衛隊側は全日空側に過失の大半があると主張していた。

第一審の東京地裁(1978年9月20日判決)は、自衛隊機は30秒前、全日空機は20秒前には双方の存在を確認できたとして双方に過失が存在することを認定し、時間を基に過失割合は国3、全日空2であるとしたうえで国は全日空へ2.7億円、保険会社に13.2億円を支払命令を出し、全日空は国に7.1億円支払うよう命令した[7]

第二審の審議は双方の主張が鋭く対立したため判決まで10年以上かかった。東京高裁(1989年5月9日判決)は、1審よりも自衛隊の過失割合を厳しく認定し、国2、全日空1であるとした。これは『訓練空域設定自体に過失があり、自衛隊機も航空機ルートの間近で見張り義務を怠った、全日空機も衝突7秒前に決断すれば衝突を防げたのに回避措置をとらなかった過失があるが、ジェットルートの保護空域内であり過失の程度は小さい』と判示[8]した。そのため、自衛隊(国)の過失が重いとされた[9]。そのうえで、東京高裁は国は全日空に7.1億円、保険会社に15.2億円、全日空は国に6.5億円を支払うように判決を下し、双方が控訴しなかったためそのまま確定した。

なお、東京高裁は目撃証言などから空中衝突地点をJ11Lの線上から西に6.7km離れた地点上空。具体的には駒木野地区矢筈橋西から北西(真方位315度)へ1.3kmの雫石町西根の八丁野地区北側を中心とする半径2km以内と認定した。

[編集] 事故原因

当時はまだ常設の航空事故調査委員会が設置されておらず、事故調査のため「全日空機接触事故調査委員会」が総理府に設置された。この全日空機接触事故調査委員会が1972年7月27日に運輸大臣に提出した事故報告書では、事故の原因は次のように発表された[10][1]

  • 第1の原因は、教官が訓練空域を逸脱してジェットルートJ11Lの中に入ったことに気づかず訓練飛行を続行したこと。
  • 第2の原因は、
    • 全日空操縦者にあっては、訓練機を少なくとも接触約7秒前から視認していたと推定されるが、接触直前まで回避操作が行われなかったこと。これは、全日空操縦者が接触を予測していなかったためと考えられる。
    • 教官にあっては、訓練生が全日空機を視認する直前に訓練生に対し行った接触回避の指示が遅く、訓練生の回避に間に合わなかったこと。これは、教官が全日空機を視認することが遅れたためと考えられる。
    • 訓練生にあっては、接触約2秒前に、事故機の右側やや下方に全日空機を視認し、直ちに回避操作を行ったが接触の回避に間に合わなかったこと。これは、訓練生が機動隊形の訓練の経験が浅く、主として教官機との関係位置を維持することに専念していて、全日空機を視認するのが遅れたためと考えられる。

また、事故報告書は、事故の背景として、航空交通の急速な発展に伴い種々の問題が発生していると指摘した。早急に法制度の整備と完全な実施を行うべしとしたのは次の5点である[11]

  • 航空機の姿勢をひんぱんに変更する特殊な飛行は、原則として航空交通管制区または航空交通管制圏では行えないよう法的に明確化すること。また、飛行訓練を行う際は訓練空域からの逸脱を防ぐため、訓練機の性質、訓練の形態および規模等に応じ必要な方策が講じられるよう措置すること。
  • 航空機の操縦者は、航空交通管制に従っていてもいなくても、飛行中は他の航空機と衝突しないように見張りをしなければならないよう法的に明確化すること。
  • 航空路、ジェット・ルートに対するポジティブ・コントロールの徹底を図るとともに、事故を防止する装置を開発、装備すること。
  • 航空保安業務に関して、運輸、防衛両省庁はなおいっそうの協調を図ること。
  • さらに、独立した事故調査委員会を常設すべきこと。

当時の国による航空管制はレシプロ機が飛行していた時代と基本的に変わっておらず、東北地方を覆域する航空路監視レーダーは設置されておらず、航空路管制は操縦士からの位置通報を元に地図盤上で識別し指示及び許可を与えるというノンレーダー管制が主流であった。そのうえジェットルートも1950年代にジェット機に比べ運航速度が低いレシプロ機旅客機を運航する前提で制定されてから変更されておらず、ジェット、プロペラが混在し大変危険な状態であり、また訓練空域を横断する航空路が設定されていた。

また戦後になって旅客機と戦闘機が空中衝突する事故がアメリカでは1950年代から1960年代にかけて続発していたが、日本においても1965年ごろからニアミスが続発していた。そのため運輸省航空局は航空自衛隊と対策を協議していたが、自衛隊側の「訓練スケジュールなどがガラス張りになる」という、冷戦下における防衛問題を事由に協議はなかなか進まなかったという。しかし防衛庁は空中衝突事故を事故前から危惧しており、速やかな安全対策を構築する様に運輸省に意見具申をしていたという話もある。

形式上、自衛隊優先という原則が「紳士協定」で締結されていたものの、調整連絡に不備があったため事故の当日に訓練空域が拡張されたことが全日空側に充分に伝わらなかった可能性もある。また事故機となったJA8329は、事故当日午前8時ごろに50便(客室乗務員は交代していたが、運航乗務員は58便と同じ)として雫石上空を通過した際にも自衛隊機とニアミスをしていたことが確認されているが、このことを自衛隊、全日空ともにお互いに報告しておらず、連絡体制が全く機能していなかったといえる。

そのため、58便が訓練空域に侵入していたとしても、58便自身がそのことを認識することはできなかったとする主張がある。また自衛隊側においても訓練空域の設定が事故当日に行われたものであり、旅客機とのニアミスの危険性が操縦士に伝達されていなかったため、事故となった。そのため政府による立ち遅れていた航空管制システムと、運輸省航空局と防衛庁間の連絡調整体制の不備が最大の事故原因であったとする主張があるが、航空路レーダー管制の立ち遅れ及び省庁間の緊密な連携体制の不構築等、遅きに失した航空行政の怠慢こそが事故の発端であり、現在の様に自衛隊レーダーサイトによる訓練支援、運輸省航空路監視レーダーによる航空路管制、訓練空域と航空路の明確な分離、航空局と航空自衛隊間の空域使用に関する連絡調整システムが確立されていれば起こりえなかった事故で、全日空及び自衛隊双方共に大変不幸な事故であった。昭和46年7月30日以降この種の事故は現在まで生起していない。

[編集] 事故のその後

事故直後の1971年8月7日、政府の中央交通安全対策会議は自衛隊訓練空域と航空路の完全分離、自衛隊機と小型民間機の有視界飛行方式を低高度に限定、そして航空路を横切る場合のために自衛隊専用の回廊の設定が答申された。航空自衛隊の訓練空域は、その後陸上から海上へと移転した。1975年7月には航空法改正が行われ、航空管制空域における曲芸飛行と訓練飛行の原則禁止、特定空域の高度変更の禁止と速度制限、ニアミス防止のために見張りなど安全義務と発生時の報告義務、トランスポンダフライトレコーダー等の装置の装着義務が明記された。これらの法規はそれまで適用されていなかった自衛隊機にも適用されることになった。

運輸省は航空路監視レーダー(ARSR)の導入を推進し、1991年6月に日本国内のほぼ全域を17基のレーダーでカバーし1基が故障しても他のレーダ-でバックアップが可能なレーダー管制システムが完成した。また空中衝突防止の航空機器「空中衝突防止装置(TCAS)」が開発され、日本国内を飛行する最大離陸重量5700kgを超えるか旅客定員19名以上のタービン機には航空法で装着を義務化しており、安全性は向上している。ただし空港及び飛行場周辺及び航空路上でのニアミスは現在でも軍民問わず時々発生している。

事故で有罪判決を言い渡された元教官は国家公務員の規定により失職したが、執行猶予が明けた1986年10月25日に福岡市内で元同僚が激励会を開いた。この時の激励会に駆けつけるためにパイロットが訓練スケジュールを調整して自衛隊機により福岡空港に集まった[12]ことがある。元教官は事故後二度とパイロット職に復帰せず、2005年8月に死去した。また当時訓練生だったパイロットは最高裁判決後、戦闘機から救難機のパイロットに転向し、2003年10月に定年退職するまで人命救助に尽くした[13]。被告人は既に死去しているが、遺族の名で刑事裁判の再審請求を起こす動きが進められている。しかし、執行猶予期間の経過によって刑の効力が消滅しているから再審の対象とならず、この再審請求は名誉回復が目的であるが、無罪を証明できる確実な証拠など刑事訴訟法第435条の要件を満たさない限り実現性に乏しいとされる。

全日空機が墜落した現場は「慰霊の森」として整備され、同所で毎年慰霊祭も開催されていたが、三十三回忌に当たる2003年をもって終了した。しかし同所は、現在でも地元住民や全日空社員によって大切に維持されている。2006年8月、墜落現場から数百メートル離れた急斜面に窓枠や座席など事故機の部品10点近くが埋まっているのが発見され、全日空社員によって回収された。なお全日空機の機体残骸は全日空が倉庫で保管していたが、2007年1月19日から、同社の研修施設内(東京都大田区)に全日空松山沖墜落事故など他の人身死亡事故の残存する遺品や資料を保存・展示して社員の安全教育を行う「ANAグループ安全教育センター」の中で公開されている。前述の事故現場近くで回収した部品のほか、垂直尾翼下のエンジン空気取入口の一部や、胴体側面のジュラルミン製外板など、雫石事故のものは入り口からすぐの位置に展示[14]されている。

[編集] 備考

  • 1960年にも全日空と自衛隊機が滑走路で衝突する死亡事故が現在の名古屋飛行場で発生している(全日空小牧空港衝突事故)が、この時の事故は航空管制官が安全確認を怠ったことによる誤った誘導が原因であり、後にこの管制官は逮捕され有罪判決を言い渡されている。
  • この事故の2年前の1969年には、全日空機と読売新聞社の社有機が淡路島上空で接触事故を起こしている(全日空機淡路島空中接触事故)が、この時は乗客乗員に死者は出なかった。
  • アメリカ合衆国で発生した軍用機と旅客機による空中衝突事故としてはユナイテッド航空736便空中衝突事故(1959年)とヒューズ・エア・ウエスト706便空中衝突事故(1971年6月)があるほか、世界各地で同様の事故が発生している。
  • 刑事裁判における裁判の費用は国ではなく被告人個人が負担した。当然個人で賄える額ではなく、航空自衛隊OB組織「つばさの会」などからのカンパを受けた。

[編集] 脚注

  1. ^ a b 事故調査報告書 2 解析および結論 2.2 結論 2 推定原因
  2. ^ 事故調査報告書 2.解析および結論 2.1 解析
  3. ^ 事故調査報告書 1.技術調査 1.16 試験および研究 1.関係各機の飛行経路 (2)接触約3分前からの飛行経路
  4. ^ 事故調査報告書 1.技術調査 1.16 試験および研究 4.交信内容の分析 (2)交信内容の分析
  5. ^ 事故調査報告書 1.技術調査 1.1 飛行経過 3.接触時およびその後の状況
  6. ^ 『朝日新聞』 1983年9月21日夕刊
  7. ^ 『朝日新聞』 1978年9月21日
  8. ^ 『朝日新聞』 1989年5月9日夕刊
  9. ^ また損害額の認定に当たって航空機がたとえ新品(事故機は就航3か月であった)であっても、使用した年数に応じて減価償却した金額であるべきとする判例が示された。なお、裁判では全日空機の機体損害額を22億0665万8377円であると認定されたが、既に航空保険金でそれ以上の支払いを受けたとして賠償請求権は消滅したとされた
  10. ^ 昭和47年度運輸白書 各論 III 航空 第2章 航空における安全および輸送力の確保 第6節 航空事故 2 事故の原因
  11. ^ 事故調査報告書 2 解析および結論 2.2 結論 4 勧告
  12. ^ 九州朝日放送が資料映像取材のため訪れた福岡空港に、各航空団所属の機体が集まったことを不審に思い発覚した。
  13. ^ FOR THE BLUE SKY-航空自衛隊の50年-(2005年2月、朝雲新聞社刊・ISBN4-7509-8020-X)43貢
  14. ^ :安全教育センターに関する記事(山陽新聞)

[編集] 参考文献

  • 柳田邦男「航空事故」 中央公論社(現中央公論新社1975年
  • デビッド・ゲロー「航空事故」(増改訂版)イカロス出版 1997年
  • 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大辞典』 東京法経学院出版、2002年
  • 特定非営利活動法人災害情報センター編『鉄道・航空機事故全史』 日外選書Fontana シリーズ 2007年
  • 財団法人航空交通管制協会 「航空管制50年史」 2003年
  • 日本航空宇宙学会誌 第21巻 第237,238号 全日本空輸株式会社ボーイング式 727-200 型, JA8329 および航空自衛隊 F86 F-40 型, 92-7932 事故調査報告書 / 全日空機接触事故調査委員会

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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