武村正義
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武村正義 たけむら まさよし |
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|---|---|
| 生年月日 | 1934年8月26日(74歳) |
| 出生地 | 滋賀県蒲生郡玉緒村 |
| 出身校 | 東京大学教育学部卒業 東京大学経済学部卒業 |
| 前職 | 自治省職員 |
| 現職 | 龍谷大学客員教授 |
| 所属政党 | (自由民主党→) (新党さきがけ→) (さきがけ→) 民主党 |
| 学位・称号・勲章 | 旭日大綬章 教育学士(東京大学) 経済学士(東京大学) |
| 世襲の有無 | 無 |
| 内閣 | 村山内閣 村山改造内閣 |
| 就任日 | 1994年6月30日 |
| 退任日 | 1996年1月11日 |
| 内閣 | 細川内閣 |
| 就任日 | 1993年8月9日 |
| 退任日 | 1994年4月28日 |
| 選挙区 | (滋賀県全県区→) 滋賀県第2区 |
| 就任日 | 1986年 |
| 退任日 | 2000年 |
| 就任日 | 1974年 |
| 退任日 | 1986年 |
| 就任日 | 1971年 |
| 退任日 | 1974年 |
武村 正義(たけむら まさよし、1934年(昭和9年)8月26日 - )は、日本の自治官僚、政治家。龍谷大学客員教授、徳島文理大学大学院教授。
八日市市市長、滋賀県知事(3期)、衆議院議員(4期)、新党さきがけ代表、内閣官房長官、大蔵大臣を歴任。
目次 |
[編集] 経歴および人物
[編集] 生い立ち
滋賀県蒲生郡玉緒村(八日市市、現東近江市)の農家に生まれる。滋賀県立八日市高等学校を経て、名古屋大学工学部に入学し、その後、再受験して、東京大学教育学部に入学。東京大学新聞研究所を経て、経済学部に学士入学、経済学部を卒業。
1962年、自治省に入省。西ドイツ留学で西ドイツ連邦、州政府の成り立ちなどを見聞。さらに帰国後、愛知県、埼玉県に出向。埼玉県 文書課 課長として、自治体行政を経験することで、政治への関心を募らせていった。
昭和50年代、滋賀県知事のかたわら龍谷大学に客員教授として教鞭をとる。 その縁で龍谷大学は滋賀県から理工学部の要請を受け、滋賀県瀬田の「びわこ文化公園都市」に理工学部と社会学部の第3のキャンパスを開く。
[編集] 環境政治家
自治省を退職して、1971年に郷里の八日市市市長選に立候補し当選。1974年、滋賀県知事選に立候補し、当選を果たす。滋賀県知事時代は県民との対話を重視し、住民運動を先取りした県政との高い評価を受けた。実績としては、琵琶湖の水質汚染を防ぐために、日本初の合成洗剤追放条例(正式名称「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」、1979年10月17日制定、1980年1月1日施行、参照, 通称:琵琶湖条例)や、風景条例(正式名称「ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例」、1984年7月19日制定、1985年7月1日施行、参照)など、全国的に注目を集めた環境保全条例の制定が挙げられる。また、1984年8月28日~8月31日には滋賀県主催の国際会議「国際湖沼環境会議」を大津市で開催。ちなみに、この会議にはのちの滋賀県知事、嘉田由紀子が琵琶湖研究所の研究員として参加し、滋賀県立琵琶湖博物館を提唱していた。
県知事には1978年に無投票で再選。1982年に三選を果たした。
[編集] 「バルカン政治家」
1986年7月6日の第38回衆議院議員総選挙(衆参同日選挙)に自由民主党で無所属で立候補し(選挙期間中に自由民主党公認となり)当選、国政へ進出。自民党では、福田派-安倍派-三塚派に所属する(本当は最大派閥田中派から出馬を希望していたが同派現職山下元利が居た為、同派内の創政会会長竹下登が自身の盟友安倍晋太郎に武村を紹介した。即ち隠れ竹下派)。田中秀征、鳩山由紀夫、簗瀬進ら、三塚派の若手を中心に政策集団「ユートピア政治研究会」を結成し、金のかかる政治に対する改革を訴えた。なお、このユートピア政治研究会がのちの「新党さきがけ」の母体となった。
1993年6月18日、宮澤喜一を首班とする宮沢内閣不信任案可決に伴う衆議院の解散(いわゆる「嘘つき解散」。ただし、武村自身は不信任案に対して反対票を投じており、決議の時点では造反していなかった)を機に、同年6月21日、10人の自民党議員とともに自民党を離党、「新党さきがけ」を結党し、党代表に就任。同年7月18日の第40回衆議院議員総選挙では「新党ブーム」に乗って13議席を獲得し躍進。衆院選翌日の7月19日には、知事時代から親しい関係にあった細川護煕の日本新党と、院内統一会派「さきがけ日本新党」を結成し、細川とともに共同代表となる。衆院選後の政局で日本新党と共にキャスティング・ボートを握り、後藤田正晴を中心とする自民党内政治改革推進派と提携しようとするが、同年8月9日、新生党の小沢一郎代表幹事の工作によって、細川を首班とする非自民連立政権、細川内閣が誕生。武村は内閣官房長官に就任した。
連立政権の中では、細川の女房役として、連立政権のキーパーソンに一躍浮上した武村は、対国民的には「ムーミンパパ」の愛称を認知させることでソフトなイメージを出すことに成功。政治改革やコメ自由化などで細川政権を支える一方で、与党代表者会議を主宰する小沢と対立することで自分を際だたせることに成功するなどしたたかな政略を見せたため、欧州の火薬庫と呼ばれたバルカン半島になぞらえ、三木武夫以来の「バルカン政治家」とも称された。ただし、自分の意見が通らないと、マスコミに対し細川との不和を漏らすなど、結果的に細川政権の不安定要因を作り出していたことも事実で、細川は当初、連立内閣を小沢と武村のバランスに立って運営していたが、次第に小沢に傾斜し、国民福祉税構想の発表の際、武村が「過ちを改めるに、はばかることなかれ」と発言し、細川との間は急速に冷却化していった。1994年4月8日、細川政権の崩壊直後、「さきがけ日本新党」は解消され、日本新党と新党さきがけの合流は構想倒れに終わった。
1994年4月28日発足の羽田孜を首班とする羽田内閣の成立に当たっては、閣外協力に転じ、院内会派「改新」には参加しなかった。この間、水面下で自民党と、連立から離脱した社会党と交渉を重ね、同年6月24日に自社両党と連立を組み、翌日6月25日、羽田内閣は総辞職。6月30日、村山富市を首班とする自社さ連立内閣、村山内閣を成立させる。武村は大蔵大臣に就任し、1995年の村山内閣改造内閣でも留任する。
大蔵大臣としては、消費税率の3%から5%への引き上げなどの税制関連法案の制定や、破綻した住宅金融専門会社の処理(住専処理)問題に当たった。
1995年9月、フランスの核実験再開および核実験実施に当たり、タヒチでの抗議デモに参加。
新党さきがけの党運営については、やがて、新党さきがけの代表幹事だった鳩山由紀夫との間で、社会党との新党、「社さ新党」構想をめぐり対立が表面化。1996年8月28日、代表を辞任。同年9月28日には鳩山、菅直人、簗瀬らが新党さきがけを離党し、民主党を結成。民主党の結成に際しては新党さきがけ全体での合流を希望したが、鳩山らは「排除の論理」でこれを拒否した。8月28日の代表辞任後、井出正一が後任の代表となるが、新党さきがけは閣外協力の形で自民党政権を支えたものの、党勢の退潮に歯止めが効かず埋没。1998年5月31日、代表に復帰。同年6月、自民党との連立を解消し、環境政党としての再出発を表明、同年10月、党名を「さきがけ」に改称し事実上解党する。
2000年、腹部大動脈瘤破裂で倒れ、一命をとりとめたものの、同年6月25日の第42回衆議院議員総選挙に無所属で立候補し、武村の健康問題を批判した小西哲(自民)の前に落選。2001年3月10日、さきがけを離党し民主党に入党した。ところが同年7月23日、皮肉にも小西が死去。それに伴う10月の衆議院補欠選挙では立候補に意欲を見せるも、病気の悪化などがあり立候補を断念。事実上の政界引退となった。
2004年、旭日大綬章を受章。現在は、病気を克服して、かつて非常勤講師を勤めていた龍谷大学にて客員教授として再び教壇に立つ傍ら、地球環境問題にも取り組んでいる。
[編集] 政策
[編集] 国家像「きらりと光る国」
武村は「小国主義」(小日本主義)を主張した石橋湛山にならい、日本のあるべき姿を「小さくともキラリと光る国」と表現。新党さきがけも党のスローガンに「質実国家」「足るを知る経済」を掲げた。新党さきがけには後に『石橋湛山と小国主義』(岩波ブックレット)を著した作家井出孫六の甥井出正一や、2004年に石橋湛山に関する著書を発表した田中秀征も参加している。新党さきがけ参加議員には石橋湛山の主張が意識されており、新党の離合集散が繰り返される中で埋もれがちであったとはいえ「小国主義」は新党さきがけが強く打ち出していた国家像であった。この主張は中村敦夫のみどりの会議に引き継がれた。
2006年11月20日、後援者・有志により滋賀県大津市の長等山園城寺(三井寺)北院法明院庭園に、武村の政治活動を記念しその業績を称える記念碑が建立された。碑表面には「きらり」「武村正義物語記念碑」(『毎日新聞』滋賀版に84回にわたって連載された自叙伝の表題を記念)と刻まれ、裏面には武村の経歴が記されている。碑の文字は地元の書家・太田佐亨によるものである。「きらり」は武村の日本の将来像を示す象徴的表現であった。
[編集] 著書
- 『水と人間』(1980年12月、第一法規出版、ISBN 4474011880)
- 『「草の根政治」私の方法』(1986年7月、講談社、ISBN 4062028565)
- 『琵琶湖から、神戸から』(高見裕一との共著、1993年7月、ほんの木、ISBN 4938568411 )
- 『小さくともキラリと光る国・日本』(1994年1月、光文社、ISBN 4334970850)
- 『さきがけの志』(田中秀征との共著、1995年5月、東洋経済新報社、ISBN 4492210725)
- 『私はニッポンを洗濯したかった』(2006年1月30日、毎日新聞社、ISBN 4620317500 『毎日新聞』滋賀版連載の自叙伝「きらり武村正義物語」の単行本化)
[編集] 関連項目
- 新党さきがけ
- 嘘つき解散
- 第40回衆議院議員総選挙
- ユートピア政治研究会
- 伊藤忠彦(新党さきがけ時代、1994年から1997年までの秘書)
- 宇佐美登(自民党時代の秘書。結成直後の衆議院選挙に立候補し最年少で当選。)
[編集] 外部リンク
- 朝日新聞 - マイタウン京都 - 日曜ひろば - 元蔵相武村正義さん(72)(2006年11月13日の記事、同記事のバックアップ)
- NIKKEI NET - 武村正義氏の10年(2006年2月11日)
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| 4代 野崎欣一郎 |
5代 1974 - 1986 |
6代 稲葉稔 |
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