中川昭一
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なかがわ しょういち
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| 生年月日 | 1953年7月19日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 2009年10月3日(満56歳没) |
| 死没地 | 東京都世田谷区 |
| 出身校 | 東京大学法学部政治学科卒業 |
| 前職 | 日本興業銀行従業員 |
| 所属政党 | 自由民主党 |
| 称号 | 正三位 旭日大綬章 法学士(東京大学・1978年) |
| 世襲の有無 | 2世 |
| 親族 | 中川文蔵(祖父) 中川一郎(父) 中川義雄(叔父) |
| 公式サイト | 中川昭一 公式サイト |
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| 内閣 | 麻生内閣 |
| 任期 | 2008年9月24日 - 2009年2月17日 |
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| 内閣 | 麻生内閣 |
| 任期 | 2008年9月24日 - 2009年2月17日 |
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| 内閣 | 第3次小泉改造内閣 |
| 任期 | 2005年10月31日 - 2006年9月26日 |
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| 内閣 | 第3次小泉内閣 |
| 任期 | 2005年9月21日 - 2005年10月31日 |
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| 内閣 | 第2次小泉内閣 第2次小泉改造内閣 |
| 任期 | 2003年11月19日 - 2005年9月21日 |
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その他の職歴
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(2003年9月22日 -2003年11月19日) |
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(1998年7月30日 -1999年10月5日) |
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(1983年12月 -2009年7月21日) |
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中川 昭一(なかがわ しょういち、1953年7月19日 ‐ 2009年10月3日[1][2])は、日本の政治家。位階は正三位。勲等は旭日大綬章。衆議院議員(8期)、農林水産大臣(第27・41代)、経済産業大臣(第3・4・5代)、財務大臣(第10代)、内閣府特命担当大臣(金融担当)などを歴任した。
目次 |
人物概要
自由民主党の衆議院議員として、中選挙区制下では北海道第5区、小選挙区比例代表並立制導入後は北海道第11区から出馬し、2009年の第45回衆議院議員総選挙で落選するまで連続8期務めた。
公職としては農林水産大臣、経済産業大臣、財務大臣、内閣府特命担当大臣(金融担当)を務め、また、安倍晋三総裁の下で自由民主党政務調査会長に就任した。また、北朝鮮日本人拉致事件に関しては超党派でつくる北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟の会長代行を務め、自民党内では拉致問題特命委員長を務めた。防衛問題に関しては安倍晋三総裁の下で集団的自衛権に関する自由民主党特命委員長に任命され、麻生太郎内閣に入閣する前まで務めた。
農林水産大臣、科学技術庁長官を務めた中川一郎は父。参議院議員中川義雄は叔父。
生涯
生い立ち
学生時代
元毎日新聞常務取締役でジャーナリストの河内孝によれば、昭一の母・貞子は麻布中学校受験時に塾や家庭教師に一切頼らず参考書のみで勉強させ合格。麻布高校時代、東京大学受験のためサッカーをやめるが、それが原因で心臓肥大を患う。慶應義塾大学経済学部へ入学するも東京大学入学に向けて仮面浪人を選択。東京大学へ入学した。護憲派の学者・宮沢俊義の話を父・中川一郎にすると憤怒されたという[3]。また、親交が深かった平沼赳夫によれば、慶大は1年で辞め、浪人して東京大学法学部に入り直したという[4]。
日本興業銀行時代
政界入り
父親である中川一郎代議士が1983年1月9日、札幌パークホテルのバスルームにて自殺した。この父の自殺後に弔い選挙の過程で発生した鈴木宗男との後継争いは、マスコミから「骨肉の争い」と書き立てられた。
1983年の第37回衆議院議員総選挙に初当選後は石原慎太郎率いる自由革新同友会(旧中川一郎派)に所属、その後は清和会→亀井グループ→志帥会と歩み、農水系・保守派の有力議員として地歩を築いた。1992年夏には党友組織自由国民会議初代代表黛敏郎と共に、宮澤内閣官房長官加藤紘一が企てた今上天皇の中華人民共和国訪問阻止運動の先頭に立った。
小渕内閣で初入閣
小泉内閣での活躍
小泉再改造内閣、第2次小泉内閣、第3次小泉内閣で経済産業大臣に就任し、メキシコやフィリピンとの自由貿易協定(FTA)交渉を締結するなどの成果をあげ、小泉改革に貢献した。一方では郵政解散後の造反組リーダーであった平沼赳夫とは銀行員時代から兄弟のような間柄で、最初に選挙に出馬した際も、応援に駆けつけた経緯がある。そのため中川は、郵政民営化には賛成ながらも、造反組には半ば同情的だった。また平沼に対しては、2003年に経済産業大臣として入閣するのに伴い、不在になった拉致議連会長就任を、安倍晋三とともに三顧の礼で打診している。
盟友の安倍・麻生内閣の成立
2006年9月の自民党総裁選では、友人である、時の内閣官房長官・安倍晋三を支持する考えを明言。安倍総裁のもと政調会長に就任した。
2007年に政府税制調査会会長・本間正明の愛人問題が持ち上がった際には、「道徳の問題」と断じ、辞任への流れを作った。
2007年度予算案の衆議院採決において民主党が多数の解任決議案を出して抗戦したことについて、ほかの自民党議員が「大義なき抵抗」と批判する中、「民主党は、本当に採決を阻止したいならもっと徹底的に抵抗するべきだった」という主旨の講演をおこなった。
2007年8月27日に予定された安倍改造内閣人事ないし自民党役員人事では最後まで重要ポストでの起用が確実視されており、東京新聞や毎日新聞などは中川の入閣の可能性を報じていたが、実際には入閣や党重要役員への就任はなかった。
2007年9月12日、安倍首相が突如辞意を発表すると麻生太郎“首相”の擁立に動く。翌13日には都内のホテルで麻生と会談し支持を伝え、総裁選の推薦人に名を連ねた。14日には日本テレビのスッキリに出演、同局が流布した「麻生クーデター説」を「こういう謀略説は往々にして一人歩きする。真実でないものをあたかも真実であるかのように発言するのはいかがなものか」と同説を強く牽制している。同月22日には麻生に同行し、弁護士の北村晴男や、衆議院議員の西川京子とともに新宿での街頭演説を行っている。月刊誌『WILL』(2007年12月号)のインタビューに、2006年の自民党総裁選では安倍晋三を支持したが、その際に次の総裁選では麻生を支持する旨を伝えていたことを明らかにした。
2007年11月、保守派の議員で集まる勉強会、真・保守政策研究会を設立するにあたってのまとめ役となる。同勉強会には、伊吹派、麻生派の大多数の議員に、津島派から鳩山邦夫、久間章生、石破茂、斉藤斗志二、戸井田徹、馬渡龍治、町村派から長勢甚遠、高市早苗、古賀派から丹羽雄哉、鈴木俊一、菅義偉、山崎派から甘利明、高村派から大島理森、江渡聡徳など各派幹部から中堅、無派閥議員からも島村宜伸、浜田靖一、梶山弘志まで50名規模になると言われている。
なお、同勉強会参加者の多くが2007年自由民主党総裁選挙において麻生太郎を支持していることから、次期総裁選における麻生支持の母体となると目された。2008年自由民主党総裁選挙では全員が麻生支持で固まったわけではないが(たとえば石破は対抗馬として出馬している)、麻生当選の原動力にはなった。
2007年9月27日、派閥の領袖である伊吹文明が福田政権下で幹事長に就任したことに伴い、志帥会の会長代行に就任。
2007年10月18日、都内のホテルで政策勉強会を開催。中曽根康弘らが講師として出席した。
2007年11月28日、都内のホテルで開いた前述の勉強会の準備会合で東トルキスタンの人権活動家・ラビア・カーディルと会談。その席で中国による東トルキスタンとウイグル人に対する弾圧に対する強い懸念を示した。
2008年9月4日、首相であった福田康夫の退陣表明に伴う自民党総裁選で、幹事長であった麻生太郎への支持を表明。同日には、自身が所属する志帥会の、派閥としての麻生支持が確認された。
兄貴分の亀井静香や平沼赳夫が派閥から離れ、志帥会領袖の伊吹文明も総裁候補ではないため、中川への期待は大きかった。小泉内閣の5年間には一貫して党7役(広報本部長、組織本部長)や閣僚(経産大臣、農水大臣)として重用され、安倍政権では引続き党三役(政調会長)、さらに麻生政権では財務・金融担当大臣を務めるにおよび、同派では有力な総裁候補と目されつつあった。
G7もうろう記者会見による失脚
2009年2月14日にイタリアのローマで開催されたG7の財務大臣・中央銀行総裁会議終了後の会議において、二日酔いのような様子で記者会見を行った様子が海外も含めたメディアで放送されると、猛批判を浴びることとなった。中川は釈明を行ったが、3日後に大臣職を辞任した(後述)。
議員落選と死去
財務大臣としての失態から猛批判を浴びた影響を抱えたまま、2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙に北海道第11区から出馬した。地元の謝罪回りに奔走し、さらに麻生総裁、安倍元総裁の応援を受けて民主党の「日米FTA」や「日の丸切り張り」が「日本や十勝を滅ぼす」とした批判や自身の断酒宣言を繰り返すも、3万票余りの差をつけられて民主党の石川知裕に敗れ、比例復活もなく落選。落選後の会見では「私には何の力もなくなったが、みなさんにご恩返しをしたい」[5]と語っていた。
9月14日には公式HPを落選後初めて更新、「私は今後新たに決意を持って進んでいきます。発信していきます。『日本が危ない』から」と決意を述べていた[5]が、腰痛や風邪、不眠症による睡眠薬の服用など健康面で優れなかった。
10月4日、私邸2階の寝室で倒れているのを夫人が発見し通報したが、救急隊が到着したときは既に手遅れであり死亡が確認された。弔問客の証言によれば、遺族は中川の死因を「急性心筋梗塞」と説明している[6]が、正式な死因判定は法医学による行政解剖並びに病理検査の結果を待つことになっている。
先述のとおり倒れているのが発見されたのは10月4日であるが実際に死去したのはその前日の10月3日と推測される[1][2]。同年10月27日、鳩山由紀夫内閣の閣議にて中川に対する正三位、および、旭日大綬章の追贈を決定したが、授与された日付は10月3日付とされている[7][8]。
政策
政治思想
信条・政策を共有する安倍晋三、麻生太郎の所謂・AA(ダブルエー)に中川を加えた3人はANAとも称される。さらに、平沼赳夫を加えたHANAや、中川、麻生に菅義偉、甘利明を加えたNASAとも呼ばれる。
農政を中心に、郵政、電波、文教など幅広く政策に通じる。
農政
典型的な農林族議員として知られていたため、小泉政権での経済産業大臣就任(2003年)は事務方から驚きと困惑をもって迎えられたが、日本の農業に打撃を与えかねない農業作物の自由化が問題となっていた自由貿易協定(FTA)交渉を巡っては、農林族の大物として党内の族議員の反発を抑えつつ、積極的に推進してメキシコ、フィリピンとの合意に至るなど、自由化に反対する族議員とは異なる姿勢を見せた。続く2005年の内閣改造では農水大臣に横滑りし、引続きWTOの通商交渉を行った。
2006年1月30日の衆議院予算委員会のBSE問題での答弁で、「アメリカでの調査は施行しておらず、閣議通りに調査しなかった」と発言し、閣議決定と実際が相違したことを農水大臣として認めた。
2008年5月2日、アメリカ訪問の際に、農務長官のエドワード・トマス・シェーファーと会談。会談の中では、アメリカ産牛肉の輸入再開に対する懸念を示した。
2009年の衆院選では、これまで自身が各国と自由貿易協定(FTA)を締結してきたにもかかわらず、民主党がマニフェストに日米FTAの推進と明記したことに対して、「民主党が政権を取れば十勝は壊滅する。それでもいいのか。これまで十勝を守ってこれたのは私だからだ」と批判したが落選した。
経済
金融界の出身で住専問題・税制改正に関わるなどして財政金融には明るい。2003年からは経済産業大臣を2年間務め、2008年からは財務大臣を務めた。
経済産業大臣時代の政府系金融機関の統合問題では財務大臣(当時)の谷垣禎一とともに政策金融の重要性を訴え、首相の小泉純一郎、総務大臣の竹中平蔵(いずれも当時)と対立したことがあった。
財界などが求める法人税減税には賛成の立場を取り、2兆円の法人税減税を提唱した[9][10]。
財務大臣としては、世界的な金融危機が発生している状況下で、国内市場に対する危機回避策として、政府保有株の売却凍結・空売り規制強化・ドル供給オペ拡充・無制限のドル貸し出しなどを行った。
IMFへの緊急融資
財務大臣就任後間もない2008年10月10日の先進7ヶ国財務相・中央銀行総裁会議にて、中川はIMF(国際通貨基金)に新興・中小国向けの新たな緊急融資制度を設ける構想を提案し、G7各国から高い評価を受けた[11]。この「中川構想」提案に対して、ブラジルを含む中南米の低収入国がIMFCで歓迎する公式声明を出した[12]。実際にウクライナ、ベラルーシ、パキスタンが、中川構想ベースによるIMFからの緊急融資で救済された。
2009年2月13日、G7に出席するために中川はローマを訪問する。翌2月14日のG7にて、中川は会議に先立ち、前日の13日にアメリカの財務長官ティモシー・フランツ・ガイトナーと会談し、バイ・アメリカン条項に懸念を示したうえで、保護主義の排除で一致した[13]。その後の本会議では、日本が先頭に立って、G7各国の間で保護主義的な動きに走ることがないよう牽制する姿勢が注目され、特に開催国イタリアのメディアは高く評価した[14]。
IMFによる日本への謝意
日本が署名した融資の取り決めは、IMF加盟国による資金提供としては過去最大規模であった。IMFに外貨準備金の一部(1000億ドル)[15]を拠出する取り決めに正式に署名し、新興・中小国の救済に充てられることになった[16]。これに対して、IMF専務理事のストロスカーンより「日本による融資は、これまで人類の歴史で最大のものだ」という謝意が表明された[17][18]。
三橋貴明は、日本国内のマスメディアが中川の朦朧記者会見(後述)に関する報道に終始し、IMFを通じた日本の世界への貢献やストロスカーンによる賛辞など、会議の内容についてはほとんど触れなかった点を指摘している。三橋は、「ストロスカーン氏の『人類史上最大規模の融資』との言葉についてほとんど報道しないのは、怒りよりも先に、一種の不気味ささえ覚える。日本のマスメディアは、日本が世界的に評価されると、何か不都合でも生じるのだろうか。世界中の国々が日本に感謝し、謝意を表明したにもかかわらず、マスメディアはそれを完璧に無視した。挙句の果てに、中川氏の朦朧会見を、明らかな悪意に基づき繰り返し報道し、最終的に辞任に追い込んだのである。テレビ局などのマスメディアが、何らかの政治的意図に基づきIMFへの融資取り決めについて報じなかったならば、明確な放送法違反である。放送法第3条の2『政治的に公平であること』及び『報道は事実を曲げないですること』などに抵触している可能性が極めて高い」と述べている[19]。
麻生内閣は、IMFへの緊急融資について、「IMFが市場で資金調達をするための担保として米国債を提供し、日本政府は財政負担なしに利益だけを得られる」と説明した。
中国
2006年4月7日の記者会見で、当時の経済産業大臣で親中派の二階俊博が打ち出した「東アジアEPA(経済連携協定)」構想について、「この構想は中国の参加を想定している。昨年春に中国で起きた反日デモの、一般人や民間企業が襲われたことの総括もできていない」と異議を唱えた。中川は同日「日本は中国と経済連携協定締結の努力をするべきではない。なぜなら中国は日本国民の安全を保証できないからだ」とも語り、同年6月6日の記者会見では日本政府が凍結していた中国向け円借款の再開を決めたことについて「なぜ中国に対し、また援助するのか。正直言って分からない」と述べた。
外交・安保・その他
外交や国家観においては概して保守的であり、中国や北朝鮮に対する強硬発言が目立つ。経済産業大臣時代、中国とのガス田問題では法的・理論的根拠による姿勢を崩さず、帝国石油に初めて試掘権を与えた。中国側の要求する共同開発についても、前提として日中中間線より中国側でも日本側に試掘を認めるよう再三要求している。また拉致問題に早くから取り組んできた政治家の一人であり、拉致議連の会長もつとめた(家族会代表の横田滋は中川を最も信頼する国会議員の1人に挙げている)。毎年靖国神社に参拝することも欠かさず、経産大臣、農水大臣の職にある際にも参拝をしている。政治家としての活動は「親父の遺言」とたびたび公言している。
2006年10月15日、テレビ番組内で「非核三原則は国民との重い約束だ。しかし、最近の北朝鮮の核兵器実験の動向を受けて、この約束を見直すべきかどうか議論を尽くすべきだ」とアドバルーン発言。その翌日、自民党を含む政治家からの非難及び国内世論(特に反核団体)の非難の声や、アメリカ大統領のジョージ・W・ブッシュ(当時)から苦言を述べられたことを受けて釈明した。しかし同時に「非核三原則の下で核を持たずにどういう対抗措置ができるのか真剣に考えなければならない」と指摘。「その議論と非核三原則を守ることは矛盾しない」と強調した。
各国が北朝鮮の核問題への対応に追われる中、中川の発言によって「北が核を持てば日本も核武装するのではないか」との(米中への)外交的圧力が強まり、米中との連携を強化する結果となった。訪米中の10月27日にも、元副大統領のダン・クエールや元上院議員のトム・ダシュルらアメリカの要人たちを相手に、“NPTや非核三原則の堅持は当然”としながらも日本の核武装の是非について繰り返し“論議すべし”と言及。これらの発言に対し、民主党の前原誠司らから批判もあった。2009年4月5日に北朝鮮がミサイルを発射したことについて「純軍事的に言えば核に対抗できるのは核だというのは世界の常識だ」と述べ、日本は核武装について議論をすべきであることを表明している[20]。
中川は、毎日新聞が2003年の総選挙直前に、日本の核武装に対する4項目のアンケートを行なった際にも「状況によっては検討すべき」と答え、2006年11月1日の記者会見でも「(北朝鮮が核実験を行った)この時期だからこそ提起することに意義がある」と語っている。
中川の核問題発言について、実際に日本の核武装化を目指して運動を行っているわけではなく、あくまで非核三原則を守ることによって日本が得られる利益について議論しようとしているだけだ[21]との意見もある。
2006年10月23日付けの毎日新聞によると、同紙の取材に、教員免許の更新制度に関連して「日教組の一部活動家は(教育基本法改正反対の)デモで騒音をまき散らしている」「(デモという)下品なやり方では生徒たちに先生と呼ばれる資格はない。免許剥奪だ」と、日教組の活動を強く批判した。
2006年12月19日、中川は産経新聞のインタビューに答え、官憲(役人、特に警察関係)による慰安婦募集の強制性を認めた1993年の「河野談話について早期に見直しを検討すべきだとの考えを示した。自身の核論議発言に関しては直後に雑誌で「最近は非核三原則に『言わせず』を加えた非核四原則どころか、『考えてもいけない』という非核五原則だ」と指摘し、国会で議論が封殺されている現状を批判した。
『週刊新潮』(2007年2月2日号)の櫻井よしことの対談では、核論議と海洋権益保護の必要性を強く訴えた。旧ソ連の北方領土侵略を「20世紀最大の国際法違反」とした上で、当時の外務大臣であった麻生太郎が唱えた「北方領土・面積二等分論」を激しく批判している。中川は「面積二等分論」について、外務省の暴走、との認識を示している。中川は同領土問題に対し、「北海道の政治家として、絶対に譲れない一線。領土というのは2島と言ってしまった瞬間に、2島以上のものは返ってこない」と断言している。
2007年12月17日、慶應義塾大学の授業における講演で「原爆投下はアメリカが世界ナンバーワンの軍事力を持つための実験だった」と主張。さらに「我々は実験台にされた」としてアメリカに抗議し、場合によっては国会でも非難決議を行うべきという見解を示した。また、中川は「原子力船、あるいは原子力潜水艦を持つ、という議論が何で出てこないのかなあと、私は思っているわけであります」と切り出し、国内唯一の原子力実験船だった「むつ」が放射線漏れ事故を起こして以来、動力としての原子力を活用しようという動きが事実上なくなっていることを指摘。軍事目的の利用については否定しつつも、「原子力タンカー」の実現を訴えた[22]。
対東アジア認識
1998年7月31日、農水大臣就任直後の記者会見で「強制連行があったのか、なかったのか分からない。中学校教科書に従軍慰安婦問題が記述されたことも疑問だ」と発言した。
2001年4月14日、北海道帯広市内で、歴史教科書問題をめぐる報道機関に対して、「ヤコブ病で脳がスポンジ状態になっていて思考が停止している」と発言し、薬害ヤコブ病訴訟の原告団から、発言の撤回と謝罪を求める抗議文を提出され、後日謝罪した。
2005年、NHK番組改変問題に関与したと報道される。中川は、報道当初は「公正中立の立場で放送すべきであることを指摘した。政治的圧力をかけて中止を強制したものではない」と主張したが、その後「NHKが説明に来たのは(番組放映後の)2月2日。放送内容の変更や放送中止に関しては一切言っていない」と見解を変えている。朝日新聞と中川の対立の根は、1998年に中川が小渕内閣で農水大臣を務めていた際、省内の会見場に日の丸を掲揚したことに対して朝日新聞が批判したことが発端である。2008年10月17日には、閣議後の会見の場で中川が日の丸を掲揚した際、会見を主催する財務省の記者クラブ・財政研究会の一部の記者が「国民の中には違和感を持つ人もいる」と発言したが、それに対して中川は「世界に発信する場という認識で国旗掲揚は当然だ」と述べた。
2005年8月13日の記者会見で、1998年にミサイルを発射した(三陸沖に着弾)北朝鮮について、中川は「相手(北朝鮮)はまともな国ではない。気違いだと思っている」と発言し、保守派の賞賛を受けた。
2006年10月20日夜、静岡県浜松市内の講演で、北朝鮮による日本への核攻撃の可能性に関し「普通はやらないが、あの国の指導者はごちそうを食べ過ぎて糖尿病ですから考えてしまうかもしれない」と述べた。その後「指導者が贅沢三昧をしているのはおかしいという趣旨の発言で、誤解のないようにしてほしい」と釈明した。
2007年2月、名古屋での講演会で「中国は北京オリンピックを契機に経済・軍事的台頭を終える準備を進めているのではないか。日本はあと20年もすれば中国の省になっているかもしれない」と発言し近年の中国における軍拡路線を批判・懸念するという中国脅威論を唱えた。
2007年4月15日に都内のホテルで講演した際、中国の首相である温家宝が来日したことに対して「日本のナンバー1が行ったのに、中国のナンバー3が来るというのは、外交儀礼から言っておかしい」と、中国の外交姿勢は非常識であると批判した。
2007年4月22日、都内で行われた拉致問題の国民大集会に出席する。そこで北朝鮮の不誠実な態度を激しく批判した上で、日本独自で北朝鮮への「テロ支援国家指定」を可能にできる法整備に言及した。前国連大使のジョン・ボルトンらの辞任後、北朝鮮に融和的な対応が見られるアメリカの政策転換を意識した発言と見られる。
2007年5月9日、都内で開かれた、伊吹派の政治資金パーティーで、「日米同盟強化や国際貢献の観点から武器輸出三原則を緩和すべき」という認識を示す。
2007年5月17日、安倍が掲げる価値観外交および中国の脅威に対抗するため、インドやオーストラリアとの連携を促進させるための議員連盟・「価値観外交を推進する議員の会」の旗揚げに関与する。
2007年7月6日、ラジオ番組内で1993年の従軍慰安婦問題に関する河野談話について、「(河野洋平は)自虐的な方」、「外国なんか、うそでも誇りを持って(話を)する。(日本政府が)真実と思われるものを封じ込めているのは納得できない」と発言した。
中央公論(2008年2月号)でジャーナリストの田原総一朗、田中均・元外務審議官と鼎談。その中で、金正日体制崩壊後、衆議院の「北朝鮮復興委員会」を創設するとし、その委員長として北朝鮮の復興・民主化推進に強い意欲を示した。
人権擁護法案に対して
中川は、人権擁護法案には明確に反対している。安倍が中川を政調会長に起用したのは、同法案を絶対に上程させないという安倍のメッセージでもある。2006年10月6日、自民党は人権擁護法案の議論を行ってきた党人権問題等調査会の会長ポストを、中川昭一政調会長預かりとすることを決めた。 調査会は事実上、機能停止状態となった。
2007年11月14日、中川は東京都内のホテルで、安倍内閣崩壊以降停滞していた保守政治再建のための勉強会の準備会合を行った。会合には元農水大臣の島村宜伸や、元経済産業大臣の平沼赳夫が参加した。中川は保守主義の大家であるエドマンド・バークの言説を引用し、集団的自衛権の明確化や人権擁護法案反対を強く訴えた。同年12月4日、中川は前述の保守の勉強会を発足させる。同会の名称はその際には決まらなかったが、会長には中川が、最高顧問には平沼赳夫が、議長には島村宜伸が就いた。会には代理出席を含め、50人以上が参加した。出席者の中から、この法案の上程を懸念する意見が相次いだ。同月17日には、勉強会の正式名称が「真・保守政策研究会」に決定した。
2008年2月15日、中川は真・保守政策研究会の人権擁護法案勉強会にて、以前からの持論として同法案を第二の“治安維持法”と激しく批判した。翌16日の大阪府内の講演では、「この法案が成立すれば、私や麻生さんはブタ箱行き」と改めて批判したうえで、同法案上程阻止のため、国民運動を起こしていく考えを示した。
2008年3月10日、憲政記念館で開かれた、人権擁護法案上程阻止のための、いわゆる「人権擁護法案」再提出に対する要請受付国民集会に出席し、同法案には戦前の治安維持法に匹敵する危険性があると主張し、自身に寄せられる国民の声の中に賛成意見はただの1つもない点、また、同法案推進派議員が反対派に対して脅迫とも取れる発言をしていたことを明らかにした。
人物像
趣味は水鉄砲とサッカー、自宅で花を育てること。特技はテニスである。政界きっての読書家で、HPで読書の感想を多く記している。尊敬する政治家は、父の中川一郎と英国の首相だったヘンリー・ジョン・テンプル。
2004年に発覚した年金未納問題では、中川の年金保険料未納期間は18年1か月であることが発覚した。すなわち、他の議員の未納が大臣や次官就任時の年金切り替え手続きの不備によるものとひとまずは釈明されうるのに対して、中川の場合には国会議員当選以来一度たりとも年金保険料を納入していなかったという釈明の余地のない事実が明らかとなった(2年分事後納付)。ただし中川は議員年金には加入していたとのことである。
第3次小泉改造内閣で農水大臣に再登板した際の産経新聞の報道によれば、たびたび出演している報道2001では注目度が高く、中川が出演した際は高視聴率を叩き出すとのことである。また、同大臣再登板の際には、中華民国総統であった李登輝から祝意が寄せられている。中川自身も李を人間として慕っており、政界きっての親台派である。
2005年11月、小池百合子とともに慶應義塾大学の学園祭である三田祭にて、経済新人会主催の講演会を行っている。2006年11月から夕刊フジの金曜日のコラムを隔週で担当している。同コラムは、小泉純一郎、安倍晋三が首相就任前まで担当しており、厚生労働大臣の舛添要一も過去に執筆していたことで知られる。
中川秀直との関係
安倍晋三政権時にともに自民党の党三役に起用された中川昭一と秀直は、名字こそ同じだが、両者間での血縁関係は無く、またその政治思想も大きく異なる。経済政策において秀直が「上げ潮派」の代表格として金融政策を重視し、概して新自由主義的なのに対し、昭一は財政出動に積極的であり、構造改革路線とはやや距離がある。他方、昭一は保守正統派の代表格で靖国神社参拝を是とするのに対し、秀直は、かつて新自由クラブに籍を置いていたこともあり、イデオロギー的にタカ派的な主張をすることは少なく、靖国に代わる国立追悼施設建設が持論である。
首相であった安倍晋三が中川昭一を政調会長に起用した裏には、秀直に対する牽制との見方もある。安倍は政権発足当初、麻生太郎を幹事長に考えていたとされる。ところが、森喜朗と秀直の横槍で断念し、秀直を幹事長に据えた経緯がある。他方、昭一は時事通信や朝日新聞のような一部のメディアが「文科相に内定」と報じており、政治ジャーナリストの末延吉正なども文科相就任を予測していた。昭一の政調会長起用が秀直に対する相当な警戒感であることを伺わせる。
上記のように、靖国神社参拝や人権擁護法案反対で政策を共有する昭一と異なり、秀直は対中融和派で人権擁護法案の推進派でもある。安倍は、拉致問題や経済制裁などの対北朝鮮政策に関しては党内議論を昭一に任せているが、秀直には触らせていない。現実に安倍の政権運営の躓きは、秀直の幹事長起用に端を発しており、藤原正彦や屋山太郎などは「秀直を幹事長から解任すべき」と提言していた。
郵政造反組復党問題が持ち上がった際には、造反組に反省と総括を要求する秀直と衝突。「まるで天安門事件のよう」と、秀直を激しく批判した。なお、本人は「本当は文化大革命と言いたかった」そうだが、誤って天安門事件と発言したとしている。
飲酒癖にまつわるエピソード
自他ともに認める大の酒好きである。しかし中川が政界で重要な地位を占め、ニューリーダーの一人と目されるようになるにつれ、周囲からも酒癖を注意されることが増え、本人もしばしば禁酒・断酒を宣言するが、長続きしなかった。
経済産業相時代の中川を知る(中川を追い落とした)キャリア官僚は「見かけによらずプレッシャーに弱いのか、大きな交渉の前に酒を飲まずにはいられないようだった」と、仕事中に酒を常飲していたともとれる発言をしている[23]。
2009年8月31日第45回衆議院議員総選挙では飲酒報道が祟り、比例代表でも復活できず落選した[24]。
だるまの目を塗り潰す
2000年の総選挙で当選を決めた際、選挙事務所で酒に酔い、ふらふらとしながら万歳三唱している姿が全国に放映された。当選直後、だるまに目を入れる際に、酔っ払っていたことや墨の量も考えずに行ったために黒い涙のようになってしまい、周囲を慌てさせた[25]。
酔ったまま初閣議
経済産業相当時、2004年9月の小泉政権時の内閣改造では、お別れ会見後に経産省を出て別の場所で酒を飲んだが、再任されて慌てて官邸に向かい、酔ったまま初閣議に臨んだ[25]。
酩酊状態で後援会で挨拶
2005年夏に十勝管内本別町で行われた後援会パーティーに酩酊状態で現れ、10分間を予定していた挨拶はろれつが回らずに、数分間で終了した。中川は、同席していた同管内の首長から「ちゃんと挨拶した方がいい」と一喝されたという[25]。
宮中晩餐会で悪酔い騒動
2008年11月20日のスペイン国王フアン・カルロス1世夫妻を迎えて開催された、天皇・皇后主催の晩餐会において、悪酔いして騒動を起こしたことが『週刊新潮』で報道され、本人もこれを認めている。晩餐会では、テーブルを挟んで正面にいた妻に、何度も「お酒、もうやめなさい」と言われていたにも関わらず多量飲酒。その後、中川は東宮大夫の野村一成に対して、「水問題について皇太子殿下もお詳しいと聞いたので是非お話しさせていただく機会がほしい」と絡んだところ、素っ気なく「無理」と返されたことに対して中川が激怒、「分かった、帰る!」と大声で怒鳴ったとされる。また読売新聞は、酔った勢いで「宮内庁のばかやろう」などと怒鳴って途中退席したと報道している[23]。
中川本人はインタビューで「まぁ、お酒が入っていましたから、“帰る”と大声で言ったかもしれません。言ったような気がします、はい、大声で。殿中ですよね…。酔ってるな、という自覚はあったんですが」、「場所が場所だけに…失態をしてしまいました。お酒が悪い。本当にお酒が悪い」と語っている。
演説で26ヵ所の読み間違い
2009年1月28日の衆議院本会議で、財務・金融担当大臣として財政演説を行ったが、「渦中」を「うずちゅう」、「改正」を「改革」、「削減」を「縮減」などと読み間違え、財務省が計26ヵ所の訂正を申し出るという事態になった。後日、議事録の訂正に衆議院議院運営委員会の野党側の理事の了承も必要であるため訂正箇所を減らして再度要請した(政府批判の材料になる可能性もあるため、重要な間違いでない部分=話が通じる部分はそのまま訂正しないことにしたとされる)。また、年度予算の計数について、2009年度の税収の減収額(7兆4510億円減)を「7兆4050億円減」と間違えた。財務省によると、間違えた理由として「風邪で体調が悪かった」のが原因としている。麻生太郎の漢字の読み間違えが話題になる中での現職閣僚の読み間違いであったことで、メディアがこれを取り上げた[26]。
なお、自民党国会議員の秘書によると、中川は前日に東京都内で酒を飲みながらテニスをし、持病の腰痛を悪化させていたという[27]。
G7での居眠りと閉幕後の泥酔記者会見
2009年2月14日にイタリアのローマで開催されたG7の財務大臣・中央銀行総裁会議終了後の内外記者を集めた日本銀行総裁の白川方明と財務官の篠原尚之との共同記者会見の場にて、中川はろれつが回らず、あくびをし、表情は目がうつろで記者の質問にまともに答えることができないという醜態を曝した。さらに、中川は日銀の政策金利を言い間違えたり、質問した記者が見つけられず「どこだ!」と叫んだり、「共同宣言みたいなものが出ました」などと不明瞭な発言をしたことから、各国の各方面から「時差ぼけ」の影響だけでなく、健康不安や深酒を疑われている[28]。
この記者会見での中川の姿は日本の新聞やテレビのニュースで「深酒居眠り会見」[29]として大きく取り上げられ、その結果、世界中に報道された。
帰国後の2009年2月16日の衆議院財務金融委員会での答弁で、中川は会見前に「(ワインを)飲んだのをごっくんということであれば、ごっくんはしておりません。たしなんでいるんです。グラス一杯飲んでおりません」と発言している[30]。
原因は機内での風邪薬[31]の大量服用と同時に飲んだアルコールの相乗効果によるものとしている(ただし佐藤優によると、この釈明では海外メディアに「アルコール中毒」どころか「薬物」を連想させかねないため、釈明の意味をなさない恐れがあるという[32])。当初飲酒の事実を否定していたが、その後、当日G7の公式行事を中座し、読売新聞記者、財務省職員、通訳、旧知の知人と飲食していた事実が判明したこともあり[33]、状況として本人の酒好きから泥酔疑惑が指摘されたが、帰国後の番記者との会話で、当時、会議に行く機内での飲酒と服用した風邪薬の併発の副作用であると釈明している。中川は、機中でも度の強いアルコールを数杯飲用していたことを認めている。この場合、酒と薬による複合中毒を起こし、本来よりも強い効果を示すことが報告されている。
官房長官の河村建夫は会見で、「風邪薬の大量服用が原因。昼食にワインが出て、ぜんぜん手つかずだったということではないが、深酒したとかとは全く関係ない」と述べた[34]。自民党幹部からは「前代未聞の珍事で世界に対して恥ずかしい」「国辱だ」との批判が出た。また、アメリカABCテレビの記者のブログでは、「トヨタ自動車や日産が何万人も解雇していることは目を覚ますのに十分な理由だ」「各国首脳が集まったが、起きているだけでも難しいことが判明した」「(眠いのであれば、会議が開催されたイタリアには)いつでもエスプレッソがある」などと、皮肉交じりの批判などが記載された[35]。
この事態を受けて2月17日、民主党・日本共産党・社民党・国民新党・新党日本の野党5党による、参議院への中川に対する問責決議案提出が固まった。同日、中川は昼過ぎからの財務省での緊急記者会見で、平成21年度予算案およびその関連法案の衆議院通過後に辞表を提出し、財務・金融担当大臣を辞任すると表明したが、即座の辞任ではないために野党側はさらに態度を硬化させ、問責決議案を野党5党で提出、自民党内では「(衆議院通過後の辞任というのは)わかりづらい」(塩崎恭久)、「即座に辞任すべき」(山崎拓)との声が出たほか、公明党の北側一雄も自民党幹部を訪ねて即座の辞任を要請、予算審議における、民主党など野党側の「辞任しなければ予算審議しない」、「辞任表明した閣僚に質問しても意味がない」という、予算委員会欠席の国会対応もあり、結局、同日に辞表を提出するに至った[36]。辞任の際、中川は「予算委員会の雰囲気を見て、自分が辞めた方が国家のためになると判断した」と述べている。後任は経済財政担当大臣の与謝野馨が、財務大臣と金融担当大臣を兼任することとなった。
バチカン美術館でのトラブル
上記の問題の記者会見が終了してから15分後、バチカン市国にあるバチカン美術館を約2時間観光した。そこで、触ることが禁止されている美術品に素手で触ったり、柵を越えて警報を鳴らしたり、ラオコーン像の台座に座るなど非常識な行動をしていたと報道された。中川の事務所は「体調が悪かったため、見学中に入ってはいけない区域に入ってしまって警報が鳴ったのは事実だ。関係者に迷惑をかけることになり申し訳ない」と釈明した[37]。しかし、中川自身は2009年3月14日午前に放送されたCS番組で「非常に事実と違う」「(博物館を)案内してもらい、つつがなく終わったと思っていたらあの報道。(バチカン側も)全く警報機も鳴っていないし、私に注意もしていないとお怒りになっている」と述べ、事実関係を否定した[38]が、政府は2009年4月7日の閣議で決定した答弁書で、中川が2月にバチカン市国のバチカン博物館を視察した際、立ち入り禁止区域に入り、同博物館の警報機が鳴っていたことを明らかにした。答弁書では、同博物館に確認し、「警報機は鳴ったが、その音量は全館に響くほど大きくなく、気づいた人も気づかなかった人もいただろう」としている[39]。
政治資金
消費者金融業界からの献金
食肉偽装業者からの献金
- 牛肉偽装事件で2004年に摘発を受けたハンナングループの団体や企業(いずれも代表はハンナン会長だった浅田満)から、パーティー券購入などにより1999年からの2年間で計200万円の資金提供を受けていた[41]。牛肉偽装業者から農水大臣経験者(中川はその後も農水大臣に就任)への献金ということもあって国会でもたびたび取り上げられ、中川もハンナングループからの資金提供の事実を認めた上、別の政治団体でも献金を受けたことを明らかにした[42]。
建設業法違反業者からの献金
- 建設業法違反で、国土交通省などから指名停止処分を受けた秋田県内の建設会社の社長から、2006年以後2年間にわたって計100万円の献金を受けていた。この会社は、入札参加資格に必要な経営事項審査の申請に際し、実際の決算より利益を水増し計上した虚偽の財務諸表を提出したとして、秋田県から営業停止処分、国土交通省東北地方整備局から指名停止処分を受けていた[43]。
略年譜
- 3月 - 新宿区落合第一小学校卒業
- 3月 - 私立麻布中学校卒業
- 2月 - 日本興業銀行退行
- 12月 - 衆議院議員初当選
- 6月 - 宇野内閣で農林水産政務次官に就任
- 11月 - 自由民主党副幹事長に就任
- 9月 - 自由民主党北海道支部連合会長に就任
- 10月 - 自由民主党総務会長代理
- 5月 - 自由民主党広報本部長
- 10月 - 自由民主党組織本部長
- 10月 - 第3次小泉改造内閣で農林水産大臣に就任
- 9月 - 麻生内閣で財務大臣兼内閣府特命担当大臣(金融担当)に就任
- 2月 - 麻生内閣でG7後の会見が非難され、財務大臣兼内閣府特命担当大臣および金融担当大臣を辞任。後任は与謝野馨。
- 8月 - 第45回衆議院議員総選挙落選
- 10月4日 - 自宅2階のベッドでうつ伏せになって死亡しているのが発見された[44]
家族・親族
- 実家
- 自家
- 妻
- 長女(会社員)
- 長男(学生)
系譜
- 中川家(衆議院会議録情報 第098回国会 本会議 第11号)
- 祖父中川文蔵は富山県西砺波郡福光町の出身で、14歳の時北海道に入植し開拓に従事、後に広尾町議を務めた。祖母セイは山形県出身。父中川一郎は北海道広尾郡広尾町の開拓農家に生まれ、昭和22年(1947年)9月九州大学農学部を卒業。北海道開発庁開発担当官、開発専門官などを務めた。昭和38年(1963年)11月衆議院議員に当選、昭和52年(1977年)11月に福田内閣改造内閣で農林大臣(農林水産大臣改称)、昭和55年(1980年)7月鈴木善幸内閣で国務大臣科学技術庁長官等を歴任した。叔父中川義雄は参議院議員。
┏女 ┏中川昭一━━━━┫ ┏中川一郎━━━━┫ ┗男 ┃ ┗男 中川文蔵━━━━━┫ ┃ ┗中川義雄
主な所属議員連盟
- 北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟
- 日韓議員連盟
- 日本会議国会議員懇談会
- 日本の前途と歴史教育を考える議員の会
- 公共放送のあり方について考える議員の会
- 真・保守政策研究会
- 中国の抗日記念館から不当な写真の撤廃を求める国会議員の会
- 公共放送の公平性を考える議員の会
- 賃貸住宅対策議員連盟
著書
- 『飛翔する日本』 講談社インターナショナル 2008年 ISBN 4770041047
- 『日本を守るために日本人が考えておくべきこと』 PHP研究所 2008年 ISBN 4569701833
- 『どうした、日本 -中川昭一と宋文洲の不愉快な対話-』 ダイヤモンド社 2008年 ISBN 4478082685
関連項目
- 自由民主党国会議員一覧
- 古賀敬章(自身の東大法学部の同級生で元秘書、安倍晋三とは対立関係)
- 石原宏高(衆議院議員、旧興銀の後輩)
- 三木谷浩史(楽天社長、旧興銀の後輩)
- 篠原尚之(財務官)
- 玉木林太郎(財務省国際局長)
- 越前谷知子(読売新聞社経済部記者)
- 泉山三六 - 酒が原因で第2次吉田内閣の大蔵大臣を辞職した(トラ事件)
- 君塚直隆(歴史・政治学者、中川は彼の著書をよく取り上げている)
- 石原慎太郎
- 浅田満
- 世襲議員
- 米中冷戦
- 核武装論
脚注
- ^ a b “中川元財務相が死亡=東京・世田谷の自宅で”. 時事通信. (2009-10-04) 2009-10-04 閲覧。
- ^ a b “中川氏、循環器異常・血液中にアルコール”. 読売新聞. (2009-10-05) 2009-10-05 閲覧。
- ^ 週刊文春2009年10月15日号(文藝春秋)
- ^ テレビ朝日ワイドスクランブル2009年10月6日
- ^ a b “【中川昭一氏死去】「新たに決意を持って進む」 ホームページで決意語る”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2009-10-04) 2009-12-09 閲覧。
- ^ “遺族は弔問客に死因は「急性心筋梗塞」と説明”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2009-10-05) 2009-10-05 閲覧。
- ^ “故中川元財務相に旭日大綬章=政府”. 時事通信社 (時事通信社). (2009-10-27) 2009-12-09 閲覧。
- ^ 故中川昭一氏:正三位に――旭日大綬章も贈る 毎日jp(毎日新聞社) 2009年10月27日[リンク切れ]
- ^ 毎日新聞 2008年7月10日
- ^ 『中央公論』2008年7月10日号
- ^ 10月15日号〇中川財務・金融相、G7で高く評価〇(デイリーヨミウリ メルマガ)
- ^ International Monetary and Financial Committee / Eighteenth Meeting October 11, 2008 / Statement by Guido Mantega Minister of Finance, Brazil / On behalf of Brazil, Colombia, Dominican Republic, Ecuador, Guyana, Haiti, Panama, Suriname, Trinidad and Tobago
- ^ 保護主義排除で一致=中川氏、バイ・アメリカンに懸念-日米財務相会談(時事ドットコム2009年2月14日)
- ^ 【イタリア】伊メディアのG7論調:日本が保護主義けん制の先頭に立つと高評価/NNA.EU
- ^ IMFからの融資は100%返済されるため、2国間での直接融資より安全である。
- ^ IMF拠出で署名=過去最大の1000億ドル-中川財務相(時事ドットコム2009年2月14日)
- ^ G7後の会見での要人発言要旨(ロイター2009年2月15日)
- ^ G-7 meeting IMF Gains New Funding, Puts Focus on Bank Clean Up(IMF Survey online)
- ^ 三橋貴明『ジパング再来 〜大恐慌に一人勝ちする日本〜』 p.17
- ^ "「核に対抗できるのは核」北朝鮮情勢で中川前財務相". 産経新聞. 2009年4月19日 閲覧。
- ^ 夕刊フジ「中川昭一の言わせてもらう」(2009年4月24日付)
- ^ J-CASTニュース 「我々は原爆の実験台にされた」 中川昭一氏、米非難決議を主張
- ^ a b ヤマ場になると飲まずにいられない…中川氏、失態いろいろ 読売新聞 2009年2月18日
- ^ 【速報】北海道11区で敗退の中川前財務相「ひとえに私の責任」 - MSN産経ニュース
- ^ a b c 中川財務相辞任:何度も酒に飲まれ 千鳥足で会議出席 04年改造、初閣議でも失態 毎日新聞 2009年2月18日[リンク切れ]
- ^ 財務省が大臣の財政演説で26カ所の訂正願 (MSN産経、2009年1月30日付)
- ^ 中川昭一財務・金融担当相辞任 毎日新聞 2009年2月19日
- ^ 「酩酊会見」を隠蔽した新聞 中川昭一問題で露呈した「真実の報道」の崩壊(JanJanコラム【大気圏外】執筆: 田中良太2009年2月19日)
- ^ 共同通信社 (2009-02-15). “中川財務相、G7会見で“迷言” 「深酒」や「居眠り」疑惑”. 47NEWS 2009-10-04 閲覧。
- ^ 衆議院-会議録 財務金融委員会 第171回第4号平成21年2月16日
- ^ 麻生太郎は予算委員会にて、「抗ヒスタミン剤が含まれていたという説明を受けた」と、民主党の枝野幸男に答弁している。
- ^ 東京スポーツ、2009年2月19日付における佐藤優と鈴木宗男の対談
- ^ 平成21年2月19日 第171回国会 予算委員会における玉木政府参考人の証言
- ^ 中川財務相「風邪薬飲みすぎ、酒は口に含んだ程度」(読売新聞、2009年2月16日付)
- ^ 「中川さん、眠気にはエスプレッソ」…米記者ブログで (読売新聞、2009年2月16日付)
- ^ 中川財務相が辞任、G7後の醜態会見で引責 (読売新聞、2009年2月17日付)
- ^ 中川氏、バチカンでもお騒がせ 美術品に素手・警報作動 (朝日新聞、2009年2月20日付)
- ^ 中川前財務相、バチカン騒動を否定 警報機報道「事実と違う」 (日本経済新聞、2009年3月14日付)
- ^ やっぱり鳴っていたバチカン博物館の警報機…政府が答弁書 (読売新聞、2009年4月8日付)
- ^ しんぶん赤旗 2003年9月12日 パーティ券リストの面々
- ^ しんぶん赤旗 2004年4月28日 ハンナン献金 中川経産相への200万円「幽霊団体」からも
- ^ [1] 2004年5月18日 参議院経済産業委員会
- ^ 産経新聞 2008年9月26日 建設業法違反の違反建設業者から献金 中川財務相の団体に
- ^ “中川昭一元財務相が死亡 東京都内の自宅で”. 山陽新聞. (2009-10-04) 2009-10-04 閲覧。
- ^ 貞子について、内藤國夫の著書『悶死 中川一郎怪死事件』139頁に「国鉄職員の三女で、北海道きっての女子名門校、札幌市立高等女学校を卒業した。いまも、その名残りはあるが、美貌で知られ、読売新聞社主催の“ミス日本”コンクール札幌予選で、一位にこそなれなかったものの、ミス・サッポロにつぐ“ラッキーセブン”の七人の美女に選ばれた。市内の中心部、すすきのの写真館のショウウィンドウに、見合用の貞子の写真が飾られていたなどのエピソードが伝えられる。」とある。今井久夫の著書『反骨の宰相候補 中川一郎』254頁に「貞子は、まったくの深窓の令嬢育ちである。父親とは早くから死に別れたが、精神科の医者をしている兄と一緒に暮していた。内気で外に出るのが苦手である。」とある。
外部リンク
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 伊吹文明 |
第10代 : 2008 -2009 |
次代: 与謝野馨 |
| 先代: 茂木敏充 |
第13代 : 2008 -2009 |
|
| 先代: 島村宣伸 岩永峯一 |
第27代:1998年 ‐ 1999年 第41代:2005年 ‐ 2006年 |
次代: 玉澤徳一郎 松岡利勝 |
| 先代: 平沼赳夫 |
第3・4・5代:2003年 ‐ 2005年 |
次代: 二階俊博 |
| 党職 | ||
| 先代: 中川秀直 |
自由民主党政務調査会長 第48代:2006年 - 2007年 |
次代: 石原伸晃 |
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