佐藤静雄 (衆議院議員)

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佐藤 静雄
さとう しずお
生年月日 (1941-10-09) 1941年10月9日(82歳)
出生地 日本の旗 日本 北海道虻田郡ニセコ町
出身校 高崎経済大学
前職 衆議院議員秘書
所属政党自由民主党→)
自由党→)
自由改革連合→)
自由連合→)
(自由民主党→)
無所属
親族 佐藤時雄(弟)
佐藤聖一郎(子)

選挙区旧北海道1区→)
北海道4区
当選回数 4回
在任期間 1986年7月7日 - 1990年1月24日
1993年7月19日 - 2003年10月10日

当選回数 3回
在任期間 1975年4月 - 1983年11月
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佐藤 静雄(さとう しずお、1941年(昭和16年)10月9日 - )は、日本政治家衆議院議員(4期)、北海道議会議員(3期)を歴任。現在は農家

来歴・人物[編集]

北海道虻田郡ニセコ町出身。幼くして実父と死別。ニセコ小学校ニセコ中学校倶知安高校高崎経済大学卒業[1]。大学時代から福田赳夫の選挙を手伝い、卒業後は会社員を経て福田の秘書となる(福田事務所での同い年の同僚に小泉純一郎首相)。

1975年、郷里に戻り33歳で北海道議会議員に初当選。3期務めた後、1983年第37回衆議院議員総選挙旧北海道1区から自民党公認で立候補するも落選(福田が創始者の清和会には同じ新人候補町村信孝がおり、中曽根派幹部渡辺美智雄を頼った)。1986年第38回衆議院議員総選挙で初当選(当選同期に鳩山由紀夫斉藤斗志二三原朝彦村井仁逢沢一郎金子一義武村正義杉浦正健園田博之中山成彬石破茂笹川堯武部勤井出正一村上誠一郎など)。1990年第39回衆議院議員総選挙では次点で落選。1991年北海道知事選挙を間近に控えて、現職の横路孝弘が圧倒的な強さを誇る中、町村や鳩山や舛添要一が出馬を辞退したため、保守陣営から横路の対抗馬に担ぎ出されるが惨敗した。

1993年第40回衆議院議員総選挙で返り咲き当選。1994年4月離党し柿沢弘治太田誠一新井将敬山本拓米田建三高市早苗らと自由党を結成、羽田内閣北海道開発政務次官。自由改革連合結成には参加したが新進党への参加は見合わせ自由連合経て1995年春の道知事選での自民党推薦・さきがけ支持候補伊東秀子支援や同年夏の第17回参議院議員通常選挙での自民党候補への支援が認められ11月復党し旧渡辺派に復帰。1996年10月第41回衆議院議員総選挙では北海道4区で小選挙区勝利を果たし第2次橋本内閣で建設政務次官就任。

1999年3月18日、旧渡辺派から志帥会旗揚げ参加。

2000年6月第42回衆議院議員総選挙で再選し、2001年4月に第1次小泉内閣国土交通副大臣就任。

2003年第43回衆議院議員総選挙では鉢呂吉雄に敗北し比例復活も果たせず落選。

2005年第44回衆議院議員総選挙でも国政復帰を目指したが、再び鉢呂に敗北し落選した。

参議院比例区からの出馬を目指したが自民党の公認を得られず2007年4月22日に行われた小樽市長選に無所属で立候補するが落選し、自民党小樽支部から除名された。

2008年1月、次期衆議院議員総選挙では北海道4区札幌市手稲区後志管内)に、 平沼赳夫経済産業大臣が検討している新党から立候補する意向を明らかにしていたが、同年8月23日自民党が宮本融を擁立することを決定したため、出馬を断念し政治家を再び引退表明。実業家に転身し株式会社ジャパンドリームカンパニー代表取締役みんなの党を応援している。

2011年2月、2ヶ月後の小樽市長選挙への立候補を表明。4月24日投開票の結果、落選。政界からの引退後はニセコ町でトウモロコシの農業・生産販売業を営む。

親族[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ 選挙@HTB”. web.archive.org. 北海道テレビ放送 (1997年1月28日). 2023年8月11日閲覧。

関連項目[編集]

公職
先代
高橋一郎
泉信也
日本の旗 国土交通副大臣
泉信也月原茂皓と共同

2001年-2002年
次代
中馬弘毅
吉村剛太郎
議会
先代
植竹繁雄
日本の旗 衆議院内閣委員長
2000年
次代
横路孝弘