自見庄三郎

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日本の旗 日本の政治家
自見 庄三郎
じみ しょうざぶろう
生年月日 1945年11月5日(66歳)
出生地 日本の旗 福岡県小倉市
出身校 九州大学医学部卒業
九州大学大学院医学系研究科修了
前職 九州大学医学部講師
科学技術庁長官秘書官
現職 社団恵友会霧ヶ丘津田病院副院長
産業医科大学医学部非常勤講師
西南女学院大学保健福祉学部非常勤講師
所属政党 自由民主党→)
(無所属→)
国民新党
称号 医学博士(九州大学・1977年
永年在職議員(両院通算)
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内閣 野田内閣
任期 2011年9月2日 - 現職

日本の旗 内閣府特命担当大臣
(金融担当)
内閣 菅内閣
菅第1次改造内閣
菅第2次改造内閣
任期 2010年6月10日 - 2011年9月2日

日本の旗 第63代 郵政大臣
内閣 第2次橋本改造内閣
任期 1997年9月11日 - 1998年7月30日

選挙区 比例区
当選回数 1回
任期 2007年 - 現職

選挙区 (旧福岡県第4区→)
福岡県第10区
当選回数 7回
任期 1983年 - 2005年8月8日
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自見 庄三郎(じみ しょうざぶろう、1945年11月5日 ‐ )は、日本政治家医師医学者学位医学博士九州大学1977年)。参議院議員(1期)、内閣府特命担当大臣(金融担当)国民新党副代表、国民新党参議院議員会長。

ハーバード大学公衆衛生学部主任研究員、九州大学医学部講師衆議院議員(7期)、郵政大臣第63代)などを歴任した。

目次

[編集] 来歴

[編集] 生い立ち

福岡県小倉市(現、福岡県北九州市小倉北区)生まれ。1958年、小倉市立堺町小学校(現北九州市立小倉中央小学校)を卒業した。1961年、福岡学芸大学附属小倉中学校(現福岡教育大学附属小倉中学校)を卒業した。1964年福岡県立小倉高等学校を卒業し、九州大学医学部に入学した。1970年6月に、第50回医師国家試験に合格した。学園紛争により卒業が4ヶ月延期されたため、1970年7月に九州大学医学部を卒業した。

[編集] 医学者として

九州大学医学部の第1内科に入局し、遺伝学研究室主任を務めた。1977年3月、九州大学大学院の医学系研究科を修了し、医学博士の学位を取得した。1980年7月、アメリカのハーバード大学にて、公衆衛生学部の疫学教室に所属する主任研究員となった。1982年4月、九州大学の医学部にて講師に就任した。

[編集] 衆議院

1983年12月、第37回衆議院議員総選挙に当時の福岡4区から自由民主党公認で立候補し、初当選を果たした。以後7期連続当選を果たす。1987年1992年には、衆議院議事進行係に就任した。1997年9月には、第2次橋本改造内閣にて、郵政大臣に就任した。

2005年7月5日、いわゆる「郵政国会」の衆議院本会議採決で反対票を投じた。第44回衆議院議員総選挙では、この反対票を理由に自由民主党の公認を得られず、無所属で福岡県第10区から出馬した。しかし、同年9月11日、自由民主党が「刺客候補」として送り込んだ西川京子に敗れる。その後、離党勧告処分を受けて、自由民主党を離党した。

[編集] 総選挙落選後

2006年8月22日、早期の国政復帰を目指して、日本医師会の政治団体である日本医師連盟(日医連)の第21回参議院議員通常選挙比例区推薦候補公募に立候補するも、この日開かれた日医連執行委員会での挙手による採決の結果、圧倒的大差で3選を目指す武見敬三参院議員に敗れた。しかし4月の日医会長選で、武見が当選した唐澤祥人会長に肩入れしたことを「政治介入」とし、強く反発していた近畿6県などの執行委員は退席した。また、2007年1月30日には、茨城県医師会の政治団体である茨城県医師連盟(委員長原中勝征)は常任委員会を開き、第21回参議院通常選挙で武見敬三と自見庄三郎の2人を推薦することを全会一致で決め、都道府県医師連盟で初めて、日本医師連盟の決定に背く決定を下した。

2006年10月13日、「参院選では国民新党がキャスティングボートを握る可能性がある」として、第21回参議院通常選挙に国民新党の比例候補として立候補することが正式に発表された。2007年2月4日に実施された北九州市長選挙では、当選した北橋健治を支援した。当初は過去のいきさつもあり自由民主党が推薦した対立候補を個人的に応援していたが、新たな所属先である国民新党が北橋を推薦したことから、最終的に党の方針に従った。

[編集] 参議院

2007年7月29日投開票の参議院議員選挙で国民新党公認で比例代表枠で出馬、当選した。なお、日医連の推薦を争った武見敬三は比例区で個人票が足りず、落選した。同年8月には、国民新党副代表に就任した。同年9月25日 自身が参院初当選後初めての総理大臣指名選挙では、棄権した。その後、国民新党総務会長(のち、政策審議会長へ移行)に就任した。2009年9月、亀井久興の落選に伴い、国民新党幹事長に就任した。

[編集] 菅政権

2010年6月11日内閣府特命担当大臣(金融担当)亀井静香の辞任に伴い、後任として2度目の入閣を果たした。前任の亀井が担当していた「郵政事業の抜本的な見直し及び改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」も、後任として担当することとなった。同年6月14日、国民新党幹事長を退任し、国民新党副代表に就任した[1][2]。また、同年10月22日には、参議院本会議において、永年在職表彰(両院通算して25年に到達)を受けた。

2010年9月17日菅第1次改造内閣、2011年1月14日菅第2次改造内閣でも、それぞれ内閣府特命担当大臣(金融担当)に留任した。また、引き続き「郵政事業の抜本的な見直し及び改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」も担当することとなった。

[編集] 野田政権

2011年9月2日野田内閣で内閣府特命担当大臣(金融担当) に再任された。また、「郵政事業の抜本的な見直し及び改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」も担当することとなった。

[編集] 政策・主張

1997年12月16日テレビ東京系で放映されたアニメポケットモンスター」第38話「電脳戦士ポリゴン」を観ていた視聴者が痙攣などの発作を起こして病院に担ぎ込まれるという事件が起こった(ポケモンショック)。このとき医師でもある自見は、かつての勤務先でもある九州大学医学部教授から「光感受性発作」に関するアドバイスを受けた上で、発生原因とメカニズムを分析、自らポケモンの該当話を視聴し、「透過光を利用して画面の背景がより強い光によって明滅する映像表現」(透過光撮影)への対応策を郵政大臣として指示した。この後、日本のテレビのアニメーション番組の多くは「テレビは明るい場所で離れた位置から見て下さい」といった字幕が流れるようになった。

[編集] 人物

衆議院議員時代、YKKのパイプ役を担っていると自称していた時期がある。これは、自由民主党時代に同じ福岡県選出の山崎拓が率いる山崎派に所属し、派の幹部を務めていたことによる(離党により自動退会。福岡県選出の自由民主党国会議員には山崎派が多かっただけに派にとっても打撃となった)。

熱くなりすぎると演説にブレーキをかけられなくなる傾向があり、参議院本会議で代表質問に立った際、議事進行役に制限時間超過を指摘されたり、テレビ朝日ビートたけしのTVタックル』に出演した際は、司会者が制御不能に陥るほど三宅久之と激しく議論を戦わせた(2009年7月の20周年企画にて)。

[編集] 文献

[編集] 著書

  • 『郵政省蘇る“民意”が勝った行政改革』(日本テレソフト、1999年)

[編集] 脚注

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  1. ^ 「国民新党:新幹事長に下地氏、国対委員長など兼務」『国民新党:新幹事長に下地氏、国対委員長など兼務 - 毎日jp(毎日新聞)毎日新聞社2010年6月14日
  2. ^ 「国民新党幹事長に下地氏――自見氏は副代表」『国民新党幹事長に下地氏 自見氏は副代表 - MSN産経ニュース産経デジタル2010年6月14日

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


官職
先代:
亀井静香
日本の旗 特命担当大臣金融
2010年 -
次代:
現職
先代:
堀之内久男
日本の旗 郵政大臣
第63代:1997年 ‐ 1998年
次代:
野田聖子
議会
先代:
高橋一郎
日本の旗 衆議院逓信委員長
1995年
次代:
中川昭一
党職
先代:
亀井郁夫
増員
国民新党副代表
2007年 - 2009年
2010年 -
次代:
亀井郁夫
現職
先代:
亀井久興
国民新党幹事長
第2代:2009年 - 2010年
次代:
下地幹郎
先代:
新設
国民新党参議院幹事長
初代:2007年 -
次代:
現職
先代:
新設
国民新党政策審議会長
初代:2008年 - 2009年
次代:
下地幹郎
先代:
新設
国民新党総務会長
初代:2007年 - 2008年
次代:
政策審議会長へ移行
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