保利耕輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
日本の旗衆議院議員 保利 耕輔
生年月日 1934年9月23日(77歳)
出身地 日本の旗東京都
出身校 慶應義塾大学法学部
学位・資格 法学士
前職 会社役員
所属委員会 農林水産委員会
世襲 2世
父・保利茂(衆議院議員)
選出選挙区 佐賀3区
当選回数 11回
所属党派 自由民主党(無派閥)
党役職 憲法改正推進本部長
会館部屋番号 衆議院第1議員会館337号室
テンプレートを表示

保利 耕輔(ほり こうすけ、1934年9月23日 - )は、日本政治家自由民主党所属の衆議院議員(11期)。

文部大臣第138代)、自治大臣第53代第54代)、国家公安委員会委員長第63代第64代)、自由民主党国会対策委員長(第43代)、自由民主党政務調査会長(第51代)を歴任した。

衆議院議長内閣官房長官自由民主党幹事長を歴任した元衆議院議員保利茂は父。

目次

[編集] 概要

[編集] 略歴

東京都出身。東京高等師範学校附属国民学校(現・筑波大学附属小学校)、東京教育大学附属中学校・高等学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、慶應義塾大学法学部卒業。

1958年、大学を卒業し日本精工に入社。1974年にはフランスのNSKフランスSA社長に就任した。

父・保利茂の死去に伴い、後援会の要請を受けて1979年第35回衆議院議員総選挙佐賀県全県区から自由民主党公認で出馬し、初当選。以後当選11回。1982年衆議院議事進行係を務める。

自民党入党後は田中派に所属し、田中派の分裂に際しては竹下登が結成した経世会に加わる。竹下派会長・金丸信の後継をめぐり派内が小渕恵三を推すグループ、羽田孜を推すグループに分かれた際は綿貫民輔らと共に最初はどちらにも与さず、後に平成研究会(小渕派→橋本派)に参加した。1990年第2次海部内閣文部大臣に就任し、初入閣を果たす。

1999年小渕再改造内閣自治大臣国家公安委員会委員長に就任し、2度目の入閣を果たす。小渕首相の危篤に伴い、急遽居抜き内閣の形で組閣された第1次森内閣でも再任された。

2005年7月、小泉純一郎首相が成立に執念を燃やす郵政民営化法案の採決で反対票を投じた。そのため第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず、佐賀県第3区から無所属で出馬。自民党公認の広津素子らを破り、10回目の当選を果たした。総選挙後の特別国会では、再提出された郵政民営化法案に一転、賛成票を投じた。

2006年11月、自民党に復党届を提出。12月に党紀委員会で認められ、約1年ぶりに自民党に復党した。保利の復党により、自民党内では佐賀3区で当選した保利、比例復活で初当選した広津素子のいずれを次期総選挙において佐賀3区で公認するかが問題になったが、自民党佐賀県連はより強固な後援会組織を有する保利を公認するよう党本部に求めた。2008年8月、福田康夫総裁の下で自由民主党政調会長に就任。党執行部入りにより、次期総選挙での佐賀3区での公認はほぼ確実視された。福田は9月に突如辞任し、後継の麻生太郎総裁の下でも政調会長に留任した。

2009年8月、第45回衆議院議員総選挙に佐賀3区から出馬[1]。自民党を離党しみんなの党に入党して立候補した広津らを破り、11回目の当選を果たした。総選挙後、党憲法改正推進本部長に就任。

[編集] 人物

[編集] 所属議員連盟

[編集] 関係団体

[編集] 脚注

  1. ^ 比例貢献が基準?公明が自民92候補を推薦(2009年7月30日20時25分 読売新聞)

[編集] 関連項目

議会
先代:
長勢甚遠
日本の旗 衆議院法務委員長
2001年 - 2002年
次代:
園田博之
官職
先代:
野田毅
日本の旗 自治大臣
第53・54代:1999年 - 2000年
次代:
西田司
先代:
野田毅
日本の旗 国家公安委員会委員長
第63・64代:1999年 - 2000年
次代:
西田司
先代:
石橋一弥
日本の旗 文部大臣
第114代:1990年
次代:
井上裕
党職
先代:
谷垣禎一
自由民主党政務調査会長
第51代:2008年 - 2009年
次代:
石破茂
先代:
村岡兼造
自由民主党国会対策委員長
第43代:1997年 - 1998年
次代:
古賀誠
個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語