松方正義
| 松方 正義 | |
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大礼服を着用し聖マイケル・聖ジョージ勲章を佩用した松方
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| 生年月日 | 1835年3月23日 (旧暦天保6年2月25日) |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1924年7月2日(満89歳没) |
| 死没地 | |
| 出身校 | 造士館 |
| 称号 | 従一位 大勲位菊花章頸飾 公爵 名誉博士(オックスフォード大学) |
| 親族 | 松方幸次郎(三男) |
| 配偶者 | 松方満佐子 |
| サイン | ![]() |
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| 内閣 | 第1次松方内閣 |
| 任期 | 1891年5月6日 - 1892年8月8日 |
| 天皇 | 明治天皇 |
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| 内閣 | 第2次松方内閣 |
| 任期 | 1896年9月18日 - 1898年1月12日 |
| 天皇 | 明治天皇 |
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| 内閣 | 第1次伊藤内閣 黒田内閣 第1次山縣内閣 第1次松方内閣(首相兼務) |
| 任期 | 1885年12月22日 - 1892年8月8日 |
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第8代 内務大臣
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| 内閣 | 第1次松方内閣(首相・蔵相兼務) |
| 任期 | 1892年6月8日 - 同7月14日 |
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| 内閣 | 第2次伊藤内閣 |
| 任期 | 1896年3月17日 - 同8月27日 |
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その他の職歴
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(1896年9月18日 - 1898年1月12日) |
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(1898年11月8日 - 1900年10月19日) |
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(1890年7月10日 - 1897年7月10日) (1907年9月 - 1924年7月2日) |
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(1868年 - 1870年) |
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松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日(1835年3月23日) - 1924年(大正13年)7月2日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家、財政指導者。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は公爵。幼名は金次郎。通称は助左衛門。号は海東[1]。
明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに大蔵卿、大蔵大臣(初・第2・第3・第4・第6・第8・第11代)を長期間務めて日本銀行を設立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
現在の鹿児島県に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。わずか13歳にして両親を亡くす[2]。
弘化4年(1847年)、薩摩の武士の子弟が通う藩校造士館に入る[3]。
嘉永3年(1850年)、16歳のとき、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得る。この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認められ、褒賞として金130両を下賜された[4]。
[編集] 幕末期
29歳の時、議政書掛(ぎせいしょがかり)という藩政立案組織の一員となった。低い身分から異例の出世を遂げた松方に対し、称賛する者もいる反面、妬む者もいたという[5]。
慶応2年(1866年)、軍務局海軍方が設置され御船奉行添役と御軍艦掛に任命される。慶応3年(1867年)、軍賦役兼勤となり、長崎と鹿児島を往復して、軍艦の買い付けなどに当たった。
[編集] 明治維新後
明治維新政府では長崎裁判所参議に任じられ、日田県知事に転任する。県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から別府港を築港、今日日本一の温泉都市となった別府温泉の発展の礎を築いた。 日田で松方は大量の太政官札の偽札流通を発見して調査の末、福岡藩による藩ぐるみの偽札製造の事実を明らかにしたことで大久保利通の評価を得て、その推挙で民部大丞・租税権領に就任する。
以降は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿大久保の下では地租改正にあたる。だが、財政方針を巡って大蔵卿大隈重信と対立する。松方は大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真っ向から反対したのである。その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。だが、明治十四年の政変によって大隈が失脚すると、参議兼大蔵卿として復帰する。
松方は財政家として、政府紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税や醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場の払い下げ、などによって財政収支を大幅に改善させ、インフレーションも押さえ込んだ。ただ、これらの政策は深刻なデフレーションを招いたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。
[編集] 総理大臣として
1891年(明治24年)に第1次山縣内閣が倒れると大命降下を受けて総理大臣に就任した。しかし閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、1年強で辞任に追い込まれた。その後第2次伊藤内閣を挟んで1896年(明治29年)に再び松方に組閣の命令が下るが、懸案であった金本位制への復帰こそ成し遂げたものの、大隈重信率いる進歩党との連繋がうまくいかず、同じく1年数か月で辞任を余儀なくされた。
[編集] 晩年
1902年(明治35年)日本赤十字社社長に就任。また、栃木県那須(現在の那須塩原市)に千本松牧場を開場。後に隣接して別邸(松方別邸)を造り、皇太子を招くなどの社交の場とした。1903年(明治36年)から枢密顧問官。1917年(大正6年)から内大臣を務めた。
伊藤博文や山縣有朋らの死後は元老を主導する立場となり、加藤友三郎内閣の成立などに関与した。1924年(大正13年)7月2日、呼吸不全により死去(89歳)。東京三田の自宅で国葬が執り行われた。墓所は東京都港区の青山霊園。
[編集] 評価
年齢、キャリアからすれば薩摩閥の中核となるべき人物であったが、財政面以外での政治手腕には欠けるところがあった(2度の内閣がともに閣内分裂が理由であっけなく倒れた)ために軽んじられており、それゆえ派閥をまとめることが出来なかったといわれる。
ただし、明治天皇からの信頼は絶大であり、松方財政においても、閣僚や元勲の反対の中、天皇から財政委任の詔勅を得、財政をすすめている。日露戦争の開戦に当たっては、消極派の伊藤・井上らに反論し、積極的に開戦を主張、財政上の懸念は解決できると豪語し、元老会議を主導した。この功績が明治天皇から認められ、戦後異例の大勲位受章となった。
[編集] 人物
- 奥羽日日新聞「本邦朝野紳士の体重」(1902年(明治35年)5月8日)によると身長は172cm、体重は78kgとある。
- 松方は女好きで、非常に子沢山であり、早世した2男も含めて15男11女の26子があった。或る日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが咄嗟に思い出せず、「後日調査の上、御報告申し上げます」と奏上したという。
[編集] 栄典
- 1884年(明治17年)7月 - 伯爵。
- 1906年(明治39年)4月1日 - 大勲位菊花大綬章。
- 1907年(明治40年)9月 - 侯爵。
- 1916年(大正5年)7月14日 - 大勲位菊花章頸飾。
- 1922年(大正11年)9月 - 公爵。
[編集] 家族・親族
- 妻:満佐子(1845-1920、薩摩藩士・川上助八郎の長女) - 4男1女の子を産み、妾の子供達も一緒に養育した
- 長男:巌(1862-1942、実業家、銀行家) - 十五銀行代表者。妻・保子は医学者長與專齋の娘、長與稱吉妹
- 次男:正作(1863-1945、外交官) - 妻は三菱財閥創始者岩崎弥太郎の弟で2代目総帥岩崎弥之助(元日本銀行総裁)の娘
- 三男:幸次郎(1865-1950、実業家、政治家) - 川崎造船所社長、衆議院議員。妻は三田藩最後の藩主九鬼隆義の娘、幸次郎の娘・花子は松本重治夫人
- 四男:正雄(1868-1942) - 大阪タイガース〔大阪野球倶楽部〕初代取締役会長・オーナー、日本職業野球連盟初代副総裁、1986年に野球殿堂入り[6]。孫の康は、三井住友海上社長。
- 長女:千代子(1869-1893) - 武笠清太郎夫人
- 五男:五郎(1871-1956、実業家) - 東京瓦斯電気工業社長
- 次女:幾姫(?-1873)
- 三女:廣子(1874-1951) - 川上直之助夫人
- 六男:虎雄(1876-1898)
- 七男:金熊(?-1880)
- 四女:津留子(1878-1956) - 谷村愛之助夫人
- 八男:乙彦(1880-1952) - 妻は山本権兵衛元首相の娘、プロフィギュアスケーター八木沼純子は曾孫にあたる
- 五女:光子(1881-1975) - 松本枩蔵夫人
- 九男:正熊(1881-1969) - 妻は新井領一郎の娘・美代、正熊の娘・ハルはエドウィン・O・ライシャワーに嫁す
- 十男:義輔(1883-1972)
- 十一男:金次郎(1886-1906)
- 十二男:十一郎(?-1888)
- 十三男:虎吉(1890-1973) - 松本重太郎の養子
- 六女:梅子(1892-1978) - 堀越角次郎夫人
- 十四男:義行(1896-1970) - 森村市左衛門の養子
- 十五男:三郎(1899-1973、登山家、実業家) - 共同通信社専務理事。巌の養子となり、松方家第3代当主になる
- 七女:文子(1903-1956) - 野坂三枝夫人
- 松本枩蔵 - 松本重太郎の息子で五女・光子の夫、息子・重治は幸次郎の女婿
[編集] 系譜
松方氏はもともと、武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県北東部)の豪族河越重頼の四男重時から始まる。鎌倉時代初期、島津忠久に従って、薩摩(鹿児島県)にやって来たというから、非常に古い譜代であり、戦国時代の猛将島津義弘に仕えた人物として、松方伊豆がいる[7]。
松方家は、12世紀に島津家に従って東国からやって来た由緒ある家柄であり、17世紀に松方和泉守が15歳で主命を受けて長崎に鉄砲製造の術を研究に行って以来、鉄砲製造を監督指導して禄を食(は)んできた。七右衛門は30代目の当主である。しかし、そもそも当時、砲術があまり評価されていなかったうえに、松方家は下級藩士の家柄であったので、社会的地位は実質的には高くはなかった。さて、松方家には跡継ぎの息子がいなかったため、七右衛門は養子をとることを考え、正恭の人物を見込んで、彼を迎えることにした。郷士の家系に生まれ、徳川時代の身分制では最低の階層であった商業に従事していた松田正恭は、かくして武士の身分を得、七右衛門が没した1818年、松方家の家督を相続し、名を改め、以来、“松方正恭”と名乗った[8]。
- 松方正義の次男・正作の妻・繁子は三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助の長女なので、松方家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係を結んだといえる。
- 松方一族は現在数百人の会員からなる「海東会」という一族会を形成している。[9]
古在由直 ┣━━┳━古在由重━━━━古在豊樹 豊子 ┃ ┗━古在由正 ┣━━━━━━━古在由秀 熊沢善庵━━━━━妙子 ┏━澄江 ┣━━┻━幣原顕━━━━━幣原廣 幣原新治郎━━┳━幣原坦 ┗━幣原喜重郎(内閣総理大臣) ┣━━┳━幣原道太郎━┳━━━━━幣原隆太郎━┳━━━幣原慎一郎 ┏━岩崎弥太郎━━━━雅子 ┣━幣原重雄 ┣━━━━━倶子 ┗━━━幣原幸二 ┃ ┃ ┗━幣原平三 ┗━━━━━幣原章二 ┃ ┣━━━━━━┳春路 ┃ ┃ ┃┣━━━━加藤厚太郎 ┃ 喜勢 ┃加藤高明(内閣総理大臣) ┃ ┣岩崎久弥━━━━━岩崎彦弥太━━━岩崎寛弥 ┃ ┗磯路 ┏━木内良胤━━━━━━━━木内昭胤━━━━━━木内孝胤 岩崎弥次郎━┫ ┣━━┻━木内信胤 ┃ 木内重四郎 ┃ ┃ 島津久光━━━━━島津珍彦━━━孝子 ┃ ┃ 須賀川誠 ┃ ┣==岩崎忠雄 ┃ ┃ ┃ ┃ ┏和子 ┗━岩崎弥之助 ┏━━━━━岩崎小弥太 ┣━━┫ ┃ ┃ ┃ ┗寛子 ┃ ┣━━━━━岩崎俊弥━━━━淑子 ┃ ┃ ┣━━━━━岩崎輝弥 ┣━━━━━━━━━雅美 ┣━━━━━━┫ ┃ ┃ ┗繁子 野村駿吉 ┏━岩崎正男 ┃ ┃ ┣━━┳野村正吉 ┃ ┃ ┣━━━━増子 ┗松方亮三 ┃ 後藤象二郎━━━早苗 ┃ ┃ ┏松方正作(次男) ┃ ┣松方五郎(五男)━松方正信 ┣━渡辺晴男 ┃ ┃ ┃ ┃中村愛作━━━━┳てる子 ┃ ┃ ┗武子 ┃ ┃ ┣━━━━━┫ ┃ 渡辺良吉 ┗━渡辺紀久男 ┏━━━いく子 ┃ ┣━━━━━╋━━━ともの ┃舘香録 ┏舘稲麻呂━━━━紀久子 ┗━━━純子 ┃┣━━━━━━━╋舘豊夫 ┃すえ ┗久楽子 ┃ ┣━━━━━━━漆野道也 ┃漆野佐一郎━━━┳漆野東吉 ┃ ┗漆野寿一 ┃ ┣━━━━━━━漆野孝一 ┃下河辺建二 ┏やさ ┃┣━━━━━━━╋下河辺孫一 ┏━下河辺俊行 ┃まつ ┃┣━━━━━╋━下河辺行信 ┃ ┃敏子 ┗━牧子 ┃ ┃ ┣━━━━━━━━━小澤健二 ┃ ┃小澤開作 ┏━小澤俊夫 ┃ ┃┣━━━━━╋━小澤克己 ┃ ┃さくら ┣━小澤征爾━┳━━━━征良 ┃ ┃ ┗━小澤幹雄 ┗━━━━小澤征悦 ┃(内閣総理大臣)┗下河辺三史 ┃芦田均 ┣━━━━━┳━下河辺元春 ┃┣━━━━━━━━美世 ┣━下河辺史郎 ┃寿美 ┗━下河辺晴三 ┃ 松方七右衛門==松方正恭━━━━松方正義━━━━╋松方巌(長男)==松方三郎━━松方峰雄 ┏松方岳史━┳松方錬太郎 ┃ (内閣総理大臣)┃ ┣━━━━╋松方岩雄 ┗理紗 ┃ ┃山下亀三郎━━━━山下太郎━━和子 ┗松方雪雄 ┃ ┃ ┃ ┣松方幸次郎━━━┳松方幸輔━━松方信夫 ┃ ┃ ┗松方勝彦 ┃ ┣松方正雄━━━━┳松方義雄━┳松方清 松田為雅━━━━━┛ ┣千代子 ┃ ┗松方康 ┣幾姫 ┣松方鉄雄━━松方健 ┣広子 ┗松方三雄━━松方明 ┣松方虎雄 ┣松方金熊 ┣津留子 エドウィン・O・ライシャワー ┣松方乙彦 ┃ ┣光子 ┏ハル ┣松方正熊━━━━┻松方真 ┣松方義輔 ┣松方金次郎 ┣松方十一郎 ┣松方虎吉(松本重太郎養子) ┣梅子 ┣松方義行(森村市左衛門婿養子) ┣松方三郎(巌養子) ┗文子
[編集] 脚註
- ^ 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年が「海来」としているのは誤植。
- ^ ハル・松方・ライシャワー著『絹と武士』55頁
- ^ ハル・松方・ライシャワー著『絹と武士』56頁
- ^ ハル・松方・ライシャワー著『絹と武士』59頁
- ^ ハル・松方・ライシャワー著『絹と武士』77頁
- ^ 殿堂一覧|財団法人野球体育博物館 殿堂者詳細情報 松方正雄
- ^ 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 280-281頁
- ^ ハル・松方・ライシャワー著『絹と武士』 45頁
- ^ 最新日本政財界地図 (8) 国際文化会館人脈と白州次郎
[編集] 関連作品
テレビ 『坂の上の雲〔テレビドラマ〕』〔2009年11月29日~2011年12月25日、スペシャルドラマ 演:大林丈史〕
[編集] 参考文献
- 鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社 1965年 158-163頁
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥(松方家 十九人もの子だくさん)』 角川書店 1983年 216-219頁
- 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 新人物往来社 2003年 280-281頁
- ハル・松方・ライシャワー著、広中和歌子訳 『絹と武士』 文藝春秋 1987年
- 『松方正義関係文書』(全18巻別巻1補巻1 大東文化大学東洋研究所)
- 室山義正 『松方正義 我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』(日本評伝選・ミネルヴァ書房 2005年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 松方正義 | 近代日本人の肖像
- 明治宰相列伝 : 松方正義 | 国立公文書館
- 国立国会図書館 憲政資料室 松方正義関係文書(寄託)
- 国立国会図書館 憲政資料室 松方家文書(松方正義)(MF:財務総合政策研究所財政史室蔵)
- 歴代総理の写真と経歴 第4・6代 首相官邸サイト
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 山縣有朋 伊藤博文 |
第4代:1891年5月6日 - 1892年8月8日 第6代:1896年9月18日 - 1898年1月12日 |
次代: 伊藤博文 伊藤博文 |
| 先代: 創設 渡邊國武 渡邊國武 松田正久 |
初代:1885年12月22日 - 1892年8月8日 第3代:1996年3月17日 - 8月27日 第5代:1896年9月18日 - 1898年1月12日 第8代:1898年11月8日 - 1900年10月19日 |
次代: 渡邊國武 渡邊國武 井上馨 渡邊國武 |
| 先代: 副島種臣 |
第8代:1892年6月8日 - 7月14日 |
次代: 河野敏鎌 |
| 先代: 大山巌 |
1917年5月2日 - 1922年9月18日 |
次代: 平田東助 |
| 先代: 佐野常民 |
第6代:1881年10月11日 - 1885年12月22日 |
次代: 廃止 |
| 先代: 伊藤博文 |
第7代:1880年2月28日 - 1881年10月21日 |
次代: 山田顕義 |
| 先代: 創設 |
官選初代:1868年 - 1870年 |
次代: 野村盛秀 |
| その他の役職 | ||
| 先代: 佐野常民 |
第2代:1902年 - 1913年 |
次代: 花房義質 |
| 爵位 | ||
| 先代: 創設 |
松方公爵家 初代:1922年 - 1924年 |
次代: 松方巌 |
| 先代: 創設 |
松方侯爵家 初代:1907年 - 1922年 |
次代: 陞爵 |
| 先代: 創設 |
松方伯爵家 初代:1884年 - 1907年 |
次代: 陞爵 |
| 歴代内閣総理大臣 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 第3代 山縣有朋 |
第4代 1891年5月6日 - 1892年8月8日 |
第5代 伊藤博文 |
||||||
| 第5代 伊藤博文 |
第6代 1896年9月18日 - 1898年1月12日 |
第7代 伊藤博文 |
||||||
|
||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||
| 元老 | |||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1889 | 1891 | 1892? | 1898 | 1900 | 1902 | 1904 | 1909 | 1912 | 1913 | 1915 | 1916 | 1922 | 1924 | 1934 | 1940 |
| 伊藤博文 | |||||||||||||||
| 黒田清隆 | |||||||||||||||
| 山縣有朋 | |||||||||||||||
| 西郷従道 | |||||||||||||||
| 松方正義 | |||||||||||||||
| 井上馨 | |||||||||||||||
| 大山巌 | |||||||||||||||
| 桂太郎 | |||||||||||||||
| 西園寺公望 | |||||||||||||||
| 重臣会議 | |||||||||||||||
| 帯の始めは受命年(重臣会議は制度創設年)、終わりは終任年(死去年)。西郷従道は正式な受命を経ていない。 | |||||||||||||||
