黒木三次

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黒木三次

黒木 三次(くろき さんじ、明治17年(1884年12月21日 - 昭和19年(1944年9月30日[1])は、日本の華族貴族院議員・帝都復興院参与司法省委員を務める。位階・勲等・爵位は正三位勲三等伯爵[1]

人物[編集]

第1軍司令官を務めた黒木為楨陸軍大将伯爵と、妻ヒヤク(黒田清隆の養女)の長男として東京に生まれる。一高内村鑑三の元で学び、明治45年(1912年東京帝国大学法科大学を卒業。大正7年(1918年)から欧米に留学し、帰国後は母校の東京帝国大学法科大学で副手を務める。大正12年(1923年2月3日の父の薨去を受けて襲爵し、伯爵となる。三次は同年9月1日に発生した関東大震災の復興を目的とした帝都復興院参与に就任し、大正15年(1926年)5月1日には補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出された[2]。貴族院議員は薨去するまで務めた[1]他、司法省委員や中央水産会中央農業会全国農業経済会の設立委員等、数々の公職に就いた[1]。墓所は多磨霊園

三次は内閣総理大臣松方正義公爵の嫡男、第十五銀行頭取松方巌公爵の娘竹子(1895-1979[3])と結婚した。竹子の叔父幸次郎松方三郎は三次と共に熱心な美術収集家だが、松方三郎が美術や音楽、登山に興味を持ったのは三次の影響だと言われる。

栄典[編集]

逸話[編集]

少年時代から志賀直哉有島生馬らと親しく、大正14年には志賀、里見弴らと山陰地方を旅行している。

フランス印象派の大家クロード・モネと親交があった。

親族[編集]

黒木従達(1953年)

三次の没後は養子の黒木従達(1917-1983、西郷従徳六男[5])が跡を継いだ。従達は宮内庁に入り、皇太子明仁親王(後の明仁上皇)に、東宮侍従として長年仕え、民間妃選定など皇太子・美智子妃結婚[6]に大きな役割を果たしたが、東宮侍従長在任中の1983年に急逝した。三次の弟で為楨の三男黒田清 (伯爵)は内閣総理大臣黒田清隆伯爵の子、黒田清仲に子が無かった為養子として入り、家督を継承する。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』25-26頁。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、36頁。
  3. ^ 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017, 「第一章 松方正義」の項
  4. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  5. ^ 『豪閥: 地方豪族のネットワーク』佐藤朝泰、立風書房, 2001、p17
  6. ^ “侍従によるお妃入り申し込み その日に「たまたま」取材で訪れていた元「お妃選び班記者」の取材ノートから(7)”. JCastニュース. (2012年5月3日). https://www.j-cast.com/2012/05/03128317.html?p=3 

参考文献[編集]

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


日本の爵位
先代
黒木為楨
伯爵
黒木(為楨)家第2代
1923年 - 1944年
次代
黒木従達