生麦事件

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『生麦之発殺』(早川松山画)
明治になって想像で描かれた錦絵で、名前が出ているのは島津久光小松帯刀のみ。当時は久光の武勇伝として一般に親しまれていた。

生麦事件(なまむぎじけん)は、幕末文久2年8月21日1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。

尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。事件の石碑は、京急本線生麦駅近くに残っている[1]

事件の概要[編集]

事件の勃発[編集]

事件当時の生麦村。東海道にそった集落の神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)近辺と見られている。
リチャードソン落馬地点付近に建てられた生麦事件之碑。明治16年建立。碑文は中村正直による。 リチャードソン落馬地点付近に建てられた生麦事件之碑。明治16年建立。碑文は中村正直による。
リチャードソン落馬地点付近に建てられた生麦事件之碑。明治16年建立。碑文は中村正直による。

文久2年(1862年)、薩摩藩島津茂久(忠義)の父で藩政の最高指導者・島津久光は、幕政改革を志して700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いたのち(文久の改革も参照)、勅使大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。久光は大原の一行より1日早く、8月21日に江戸を出発した。率いた軍勢は400人あまりであった[2]

行列が生麦村に差しかかった折り、騎馬のイギリス人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光目的で川崎大師に向かっていたとの説もある。

生麦村住人の届け出書[3]神奈川奉行所の役人の覚書[4]、そして当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウの日記[5]を突き合せてみると、ほぼ以下のような経緯を辿った。

行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人が斬りかかった。

4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは深手を負い、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、とどめを刺された。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり、真っ先に横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川にある当時、アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けることになった。

『薩藩海軍史』によれば、リチャードソンに最初の一撃をあびせたのは奈良原喜左衛門[6]であり、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休が抜き打ちに斬った(のち久木村は同事件の回顧談を鹿児島新報紙上に詳細に語っている)。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりでとどめをさしたのは海江田信義であったという[7]。なお、当時近習番だった松方正義の直談によれば、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小の柄袋を脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという。

横浜居留地の反応[編集]

この事件は、東禅寺事件などそれまでに起こった攘夷殺傷事件とは違って個人的な行為ではなく、大名行列の供回りの多数が一斉に斬ったものであり、たとえ直接久光の命令がなくとも、暗黙の了解の下に行われていたことは歴然としていた。事件直後、各国公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって開かれた対策会議でも、「島津久光、もしくはその高官を捕虜とする」という議題が挙がっていて[5]、下手をすれば戦争に直結しかねないだけに、イギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねることとなる。

事件直後、ボロデール夫人の要請に応えて最初に動いたのは、イギリス公使館付きの医官だったウィリアム・ウィリスである。騎馬で、まだ続いていた薩摩藩士の行列のわきをすりぬけて生麦に向かううちに、横浜在住の加勢の男たち3人が追いついてきて、やがてイギリスの神奈川領事ヴァイス大尉率いる公使館付きの騎馬護衛隊も追いついた。一行は、地元住民の妨害を受けながらも、リチャードソンの遺体を発見し、横浜へ運んで帰った[8]

イギリス代理公使ジョン・ニール中佐は、薩摩との戦闘が起こることを危惧して騎馬護衛隊の出動を禁じていたが、それを無視してヴァイス領事が出動したことで、2人の間には確執が生じた。事件当日の夜から翌朝にかけて、横浜居留民の多くが、遺体収容を果たしたヴァイス領事を支持し、武器をとっての報復を叫んだ。フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールがそれを応援するようなそぶりを見せていたことも、居留民たちの動きを加速した。しかしニール中佐は冷静であり、現実的な戦力不足と全面戦争に発展した場合の不利を説いて騒動を押さえ込み、幕府との外交交渉を重んじる姿勢を貫いた[5]

久光一行の動向[編集]

久光一行はその夜、横浜に近い神奈川宿に宿泊する予定を変更して程ヶ谷宿に宿泊した。一行の中にいた大久保利通の当日の日記によれば、横浜居留地の報復の動きを警戒して、藩士2人が探索に出ている。公儀御料である生麦村の村役人はただちに事件を神奈川奉行に届け出、これを受けて調査を開始した奉行は久光一行に対して使者を派遣し、事件の報告を求めた。しかし久光一行は翌日付けで「浪人3〜4人が突然出てきて外国人1人を討ち果たしてどこかへ消えたもので、薩摩藩とは関係ない」という届出をすると、奉行が引き止めるのも意に介さずそのまま急いで京へ向かった。神奈川奉行からの報告を受けた老中板倉勝静は、薩摩藩江戸留守居役に対して事件の詳しい説明を求めたところ、数日後に「足軽の岡野新助が、行列に馬で乗り込んできた異人を斬って逃げた。探索に努めているが依然行方不明である」と説明した[2]。神奈川奉行からの詳細な報告を受けて事件の概要を把握していた幕府はこの事実とは異なる説明に憤り、江戸留守居役に出頭を求め糾弾したが、薩摩藩側はしらを切り通した。

大名行列に対する外国人の「不作法」については、久光らは江戸に到着して間もない6月23日、幕府に訴え書き[2]を提出していた。その文面によれば、往路ですでに久光の行列は騎馬の外国人に遭遇していたところ、狭い東海道において、大名一行の通行にかまわず横に並んで広く場所をとり、不作法が見受けられる、というものである。続けて「少々のことには目をつぶれ、と藩士たちに達してはいるが、先方に目にあまる無礼があった場合はそのままにするわけにもいかない。各国公使へ不作法は慎むように達して欲しい」と訴えている。それに対する幕府の返答は、「そういう達しはすでに出しているが、言葉も通じず、習慣も違うことから、我慢して穏便にすませて欲しい」というものだったが、実際には幕府はそのような通達を出してはいなかった。

事件後の状況と余波[編集]

2009年、生麦事件参考館に建てられた碑。山階宮晃親王作の漢詩が刻まれている。
横浜外国人墓地にあるリチャードソンの墓。近年、有志によって、マーシャルとクラークの墓も左右に集められた。

文久2年[編集]

事件から2日後の8月23日1862年9月16日)、ニール代理公使は横浜において外国奉行津田正路と会談した。この会談でニールは「勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせてこなかったのか」と追及した。これに対して奉行は「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答え、「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話」として、ニールに反論されている[9]。ニールは本国の外務大臣への報告書に、久光通行の知らせはなかったことを明記して、外交上自国に有利な幕府の過失を指摘している[5]

8月30日には、老中板倉勝静邸においてニールと老中板倉・水野忠精との折衝が行われ、ここでもイギリス側は犯人の差し出しを繰り返し要求した。一方、ニールは本事件の賠償金要求については、イギリス本国の訓令を待って交渉することとしていた。

当時の幕府においては、多数の軍勢を伴って幕府の最高人事に介入した久光に対して、敵意を持つ見方が一般であった。そのため、生麦事件の知らせに「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出た」と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎みイギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったく立てることができないでいたという[10]。当の久光の幕政介入によって政事総裁職に就いた松平慶永は、本事件に関する処置案(久光の帰国差し止め等)を老中らに建言するも受け入れられず、一時登城を停止する事態となった。

一方、東海道筋の民衆は、「さすがは薩州さま」と歓呼して久光の行列を迎えたという[11]。閏8月7日(1862年9月30日)に久光は上洛、9日に参内するが、孝明天皇はわざわざ出御して久光の労を賞し、これは無位無冠の者に対しては異例の待遇であった。この事件を題材に山階宮晃親王が作った「薩州老将髪衝冠 天子百官免危難 英気凛々生麦役 海辺十里月光寒」という漢詩は、明治になって愛唱された[2]。 しかし、生麦事件をきっかけとして朝廷が攘夷一色に染まってしまったことは、久光および薩摩藩の思惑を超えた結果だった。薩摩藩の幕政改革の意図は攘夷ではなく、彼らの不満はむしろ幕府が外国貿易を独占していたことにあったのである[12]。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、23日に京都を発って鹿児島に戻った。

文久3年[編集]

文久3年(1863年)の年明け早々、生麦事件の処理に関するイギリス外務大臣ラッセル伯爵の訓令がニール代理公使の元へ届いた。これに基づき、2月19日、ニールは幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求した。さらに、薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告した。幕府に圧力を加えるため、イギリスフランスオランダアメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港した。

折しも将軍徳川家茂は上洛中であり、滞京中の老中格小笠原長行が急遽呼び戻され、諸外国との交渉にあたることとなった。賠償金の支払いを巡って幕議は紛糾するが、水野忠徳らの強硬な主張もあって一旦は支払い論に決する。しかし、攘夷の勅命を帯びて将軍後見職徳川慶喜が京都から戻り、道中より賠償金支払い拒否を命じたため事態は流動化し、支払い期日の前日(5月2日)になって支払い延期が外国側に通告された。これにニールは激怒、彼は艦隊に戦闘の準備を命じ、横浜では緊張が高まった。

再び江戸で開かれた評議においては、水戸藩の介入[13]もあって逆に支払い拒否が決定されるが、5月8日、小笠原長行は海路横浜に赴き、独断で賠償金交付を命じた。翌9日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された[14]。一方、横浜に滞在していた慶喜は小笠原と入れ違いに江戸に戻っており、小笠原との間に賠償金支払いを巡って黙契が存在していたという説がある。小笠原は、賠償金支払いを済ませたのち再度上京の途に就くが、大坂において老中を罷免された。

幕府との交渉に続いて、イギリスは薩摩藩と直接交渉するため、6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。しかし交渉は不調であり、7月2日、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、イギリス艦隊側にも損傷が大きく、4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束した。

10月5日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館にて講和に至った。薩摩藩は幕府から借りた2万5000ポンドに相当する6万300両をイギリス側に支払い、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。

事件発生の背景[編集]

生麦村本宮町(生麦4丁目)、事件発生現場の説明版。当時、ここに住んでいた豆腐屋勘左衛門は事件を目の当たりにした。

当時、宣教の機会をうかがって来日していたアメリカ人女性宣教師のマーガレット・バラは、アメリカの友人への手紙にこう記している。「その日は江戸から南の領国へ帰るある主君の行列が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、この人たちは当然守らなければならないことも幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。そしてその大名行列に出会ったとき、端によって道をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったのです」[15]。ただしこの光景はバラが直接観察したものではなく伝聞によるものであり、バラはその情報源を述べていない。

ただ、事件後の代理公使ニール中佐と幕府とのやりとりで見れば、イギリス公使館は勅使・大原重徳の東海道通行の知らせは受け取っていたものの、その日付は島津久光の通行より1日遅く、またイギリス公使館では翻訳に手間取ってもいて、リチャードソン一行はイギリス領事館からの正式な告知は受けていなかったものと思われる。しかし林董の回顧録に、リチャードソンたちは「今日は島津三郎通行の通知ありたり。危険多ければ見合すべし」と友人から忠告されていたという話も見えて、アメリカ公使館は非公式の通知を受けていたか、あるいは情報を得て、独自の判断から自国民に警告を出していたのではないかとも考えられる。

事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起こらなかったという[16]。ヴァン・リードは日本の文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどういうことになるかを理解しており、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」とイギリス人4名を非難する意見を述べている[17]

また当時の『ニューヨーク・タイムズ』は「この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない。」と評している[18]

また、当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルース(Frederick Wright-Bruceエルギン伯爵ジェイムズ・ブルースの弟)は、本国の外務大臣ラッセル伯爵への半公信(半ば公の通信)の中でこう書いている。「リチャードソン氏は慰みに遠乗りに出かけて、大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから周囲から敬意を表されて育つ。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきに避けるしなかったのであろうか。私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分の雇っていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホークであったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である」[19]

以上に見るように、生麦事件はリチャードソン一行の礼儀を欠いた行動によって発生したという見方もイギリス側の一部には存在したものと推測できる。ただ、ブルース公使も書いているように、極東に進出していたイギリスのミドル・クラスの人々には、現地の習わしをふみにじる粗暴なタイプも多く[20]、上海の商人仲間におけるリチャードソンの評判は、かならずしも悪くはなかったようである。イギリス外務省も、その指令を受ける在日イギリス公使館も、横浜居留商人などの強硬論や被害者家族の訴求を無視することはできなかった。

さらに肝心な点は、日英修好通商条約による治外法権の規定により、日本の側にはイギリス人を裁く権利は存在しなかったことである。つまりイギリス側から言うならば、イギリス人が日本の法律に従ういわれはなく、たとえ日本の国内法で無礼討ちが認められていようとも、当然のことながらそれはイギリス側からは認められるものではなかった。一方、薩摩藩側から見るならば、「国内法との整合性がつかない治外法権を含んだ条約は、朝廷の許しも得ず幕府が勝手に結んだもの」ということになるのである。したがってこの事件は、治外法権が日本国内にもたらす矛盾[21]を大きく露呈させたものでもあり、以後薩摩藩が真剣に、朝廷を中心として条約を結び直すための条件整備について模索を始めるきっかけともなった。

事件直後に現場に駆けつけたウィリス医師は、リチャードソンの遺体の惨状に心を痛め、戦争をも辞すべきでないとする強硬論を持ちながらも、一方で兄への手紙にこう書いている。「誇り高い日本人にとって、最も凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるに違いありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」[8]

こういった当時の横浜居留民の常態を考えれば、薩摩藩がすでに往路で事件が起こりかねなかった状況を訴えていたにもかかわらず、島津久光一行の東海道通行とそれにともなう外国人通行自粛の要請を、幕府が各国公使館に正式に通告していなかったことの問題は大きい。この不手際は、事件後のイギリスとの外交交渉においても幕府側の弱みとなり続けた。条約により、居留地を中心として10里四方の外国人の遊歩は自由とされていたことから、幕府の規制要請がない限りにおいては、リチャードソン一行の行動がいかに無礼なものであろうとも、通行の安全を保障すべき幕府の責任をイギリス側は強硬に追求することができたのである。

余談だが、当事件の数ヶ月前に同じ生麦を大名行列として通過した尾張藩の見物をジェームス・カーティス・ヘボンが近所の丘の上からオペラグラスで行っているが、一行への礼を表したため不問に付されている。そもそも外国人のみならず当時の日本人にとっても、華美な大名行列の見物は娯楽のひとつであった。

関連図書[編集]

小説・伝記
  • 吉村昭『生麦事件』(新潮社、初版1998年/新潮文庫(上下)、2002年 上巻 ISBN 410111742X 下巻 ISBN 4101117438
    • 新版『吉村昭歴史小説集成〈1〉桜田門外ノ変/生麦事件』(岩波書店、2009年)
  • 宮澤眞一『「幕末」に殺された男 生麦事件のリチャードソン』(新潮選書、1997年)

脚注[編集]

  1. ^ 同所にて平成22年12月より首都高速横浜環状北線建設のため、一時東側近隣の旧東海道脇に仮移転した。
  2. ^ a b c d 『薩藩海軍史』
  3. ^ 『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より。ちょうど事件が自宅前で起こったため一部始終を間近に見た勘左衛門が、事件当日に神奈川奉行所に出した報告書である。
  4. ^ 神奈川奉行支配定役並・鶴田十郎覚書(嘉永文久年間見聞雑記)『薩藩海軍史』に収録
  5. ^ a b c d 『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』より
  6. ^ 当時京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾の実兄宛書簡は、喜左衛門の弟の奈良原喜八郎としている。ただし、行列の先を行っていた宮里孫八郎が事件の十数日後に鹿児島の家族に宛てた書簡は、当番供目付だった兄・喜左衛門の名を挙げており、久光の駕籠側にいた松方正義も証言を残しており、リチャードソンへの一太刀目が兄の喜左衛門であったことが今日において定説となっている。
  7. ^ 主に海江田信義の著作と直話に基づく話のようである。
  8. ^ a b 『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』より
  9. ^ 『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』引用の「幕府側の所記」
  10. ^ 『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』が引用する越前藩中根雪江の記録『再夢記事』
  11. ^ 『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より。事件当時、戸塚の宿役人だった川島弁之助の後年の談話である。
  12. ^ 生麦事件のわずか9日前、ジャーディン・マセソン商会横浜支店のS.J.ガウアーは、ヴァイス領事に出していた報告書に「独立心に富んだ大名は、心底から攘夷を望んでいるのではなく、外国との交易をこそ望んでいる」と記している。
  13. ^ 5月4日及び9日の江戸城中における評議には、異例にも水戸藩家老の武田耕雲斎大場一真斎が参加していた(『明治維新と世界認識体系』p.194)。
  14. ^ 早朝から各二千ドル入りの箱を積んだ荷馬車がイギリス公使館に到着し、公使館が集めた中国人の貨幣鑑定人が貨幣の検査や勘定を行った上、艦隊の甲板に運ばれた。この作業には3日がかかったという(『一外交官の見た明治維新(上)』)。
  15. ^ 『古き日本の暼見』より
  16. ^ よく誤解があるが、大名行列に遭遇して通行人が土下座を強いられたのは徳川御三家の場合のみであり、それ以外の大名行列の場合は通行人は脇に下がるだけでよかった。決して外国人に対して特別待遇で土下座を免除した訳ではない。
  17. ^ 『後は昔の記ー林董回顧録』
  18. ^ "The Anglo-Japanese War." November 15, 1863, New York Times.
  19. ^ 板野正高「駐清英国公使ブルースの見た生麦事件のリチャードソン」(学士会報1974年、第723号)『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』より孫引き
  20. ^ 駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックは横浜の居留民社会を「ヨーロッパの人間の屑」と表現していた。
  21. ^ この当時の日本では、安全のために、武士であっても狭い市中での乗馬は禁止されていた。日本には去勢馬がおらず、馬が暴れて死人が出ることもまれではなかったためである。ところが外国人は条約を盾に、かまわず馬を乗り回した。結果、事故が頻発し、治外法権は一般庶民の恨みも買っていた。顕著な例としては、同じ文久2年に函館において、ロシア人の馬に蹴られた町人があばら骨を折り、眼球破裂で危篤状態になった事件がある。しかしロシア人は賠償に応じず、幕府が治療費を払った(谷口眞子著『武士道考―喧嘩・敵討・無礼討ち』角川学芸出版、2007発行)。

参考文献[編集]

  • 公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史 中巻』(明治百年史叢書:原書房、初版1968年7月)
  • 徳富蘇峰近世日本国民史.文久大勢一変 中編 維新への胎動(中)生麦事件』(平泉澄校訂、講談社学術文庫、1994年3月、元版・時事通信社)
  • アーネスト・サトウ、坂田精一訳『一外交官の見た明治維新(上)』(岩波文庫、初版1960年)
  • 萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄 1 旅立ち』(朝日新聞社、初版1998年10月、朝日文庫、2007年)
  • イアン・C・ラクストン『アーネスト・サトウの生涯-その日記と手紙より』(長岡祥三・関口英男訳、東西交流叢書10 雄松堂出版、2003年8月)
  • ヒュー・コータッツィ、中須賀哲朗訳『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』(中央公論社、1985年4月)
  • マーガレット・バラ、川久保とくお訳『古き日本の暼見 Glimpeses of Old Japan 1861〜1866』(有隣堂〈有隣新書〉、1992年9月)
  • 林董『後は昔の記 林董回顧録』(由井正臣校注、平凡社東洋文庫173、初版1970年、第7刷1990年9月)
  • 石井光太郎、東海林静男編『横浜どんたく 上巻』(有隣堂、昭和48年10月)
  • 横田達雄編『青山文庫所蔵資料集1 那須信吾書簡(一)』(青山文庫後援会、1977年12月)
  • 奈良勝司『明治維新と世界認識体系』(有志舎、2010年)
  • Copyright・Jonathan Guinness with Catherine Guinness 『The House Of Mitford』(Orion Books New Ed版, 1984年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度29分40.1秒 東経139度40分18.3秒 / 北緯35.494472度 東経139.671750度 / 35.494472; 139.671750