ウィリアム・ウィリス

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ウィリアム・ウィリス
ウィリス博士
生誕 1837年
アイルランド
死没 1894年2月14日
職業 医師

ウィリアム・ウィリスWilliam Willis, 1837年 - 1894年)は、幕末から明治維新にかけて日本での医療活動に従事したイギリス人医師(医学博士)、お雇い外国人

生涯[編集]

1837年にアイルランドで生まれ、スコットランドエディンバラ大学で医学を学んだ。1861年、箱館領事館の第二補佐官兼医官に任用され[1]、江戸高輪東禅寺の公使館に着任後、第二次東禅寺事件に遭遇し、生麦事件の現場を目撃した。ハリー・パークスの下で医官として働いた。

1863年薩英戦争ではイギリス人負傷者の治療にあたった。

1864年、元公使館医官ジェンキンズと横浜で最初の薬局を開業した。四国艦隊下関砲撃事件に際し下関遠征に参加することが許されなかったことに不満を持ち、医官を辞職して開業医となるか迷うが十分な収入が見込めないので思いとどまった。

1865年、この頃、長男ジョージ(日本名うたろう?)が生まれた。[2]

1866年、医官を務めるかたわら首席補佐官兼会計官に昇進。公使パークスの鹿児島・下関・宇和島訪問に同行、生麦事件をおこした島津久光に会い、強い反感をもった。横浜で大火に遭遇。

1867年パークス夫妻とともに富士山に登った。兵庫開港準備に伴う人事で江戸副領事・横浜副領事に昇進した。

1868年、兵庫領事マイバーグ急死のために大坂副領事代理を兼任した。鳥羽・伏見の戦いの勃発、幕府軍の敗北、慶喜の大坂城脱出を知った。幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。戦病傷者治療という名目でサトウとともに大坂・京都に行き[3]、ミットフォードとともに前土佐藩主山内容堂を診察し堺事件に関する謝罪を各国公使に伝達することを依頼された。パークス襲撃事件の負傷者を治療した。江戸に戻った後に横浜で彰義隊討伐作戦の負傷兵などを治療した。北越戦争での戦傷者の治療にあたるため越後路を旅行した。[4]江戸(東京)副領事に復帰。

1869年、新政府の要請でイギリス外務省員の身分をもったまま東京医学校の教授に就任、大病院の指導にあたった。

1870年、新政府がドイツ医学採用の方針をとったため自発的に東京医学校教授を退職した。[5]イギリス外務省員を辞職し、西郷隆盛や医師石神良策の招きにより鹿児島医学校長、附属病院長に就任した。森有礼の提言で英語の発音指導にもあたった。

1871年、イギリス公使館書記官アダムズの訪問をうけた。[6]廃藩置県前後の薩摩の情勢について代理公使アダムズに書簡を送って報告した。この頃、日本人女性八重[7]と結婚した。[8]

1877年西南戦争勃発を機に東京に戻るまで鹿児島への医学の普及に貢献した。この時ウィリスの下で学んだ中に高木兼寛がいる[9]

1881年イングランドに戻り、親友のアーネスト・サトウと同時期にシャムバンコクのイギリス公使館で働いた後、1892年に帰国した。

家族[編集]

  • ウィリスが勤務していたロンドンのミドルセックス病院で看護婦の下働きをしていたマリア・フィスクとの間にエドワードという男子をもうけ(マリアとは結婚せず)、来日前にウィリスの長兄ジョージのもとに預けた。ウィリスが医官となったのはエドワードのために十分な蓄えを残すためでもあった。
  • 日本では、横浜の女性との間に子供を一人もうけ、1871年に鹿児島で江夏八重(1850-1931)と結婚し、息子アルバートもうけたが、妻子を置いて帰国し、1881年に再来日した際に8歳のアルバートを引き取った[10][11]ヒュー・コータッツィは、西洋人女性が少なかった当時、ウィリスは寂しさからやむなく日本人女性を選ばざるを得なく、八重との結婚も英国の法律外の婚姻だろうとしているが、鮫島近二は結婚確認証があるとしている[12]。八重の父親の江夏十郎は江戸生まれの侍だが、島津久光の御側役を務め、鹿児島城下の二本松馬場に住んでいた[13]。ウィリスと八重は十郎の病気治療が縁で知り合った[13]。八重は容姿に優れ、和歌が得意で藩の才媛と謳われていた女性で、ウィリスと馬に2人乗りするなど西欧的感覚にも富んでいたらしい[13]。ウィリスは日本語がほとんどできなかったため、英語が通じる者を除き、妻以外の日本人との深い交流は限られていた[10]
  • 八重との子・アルバート(1873-1943)は、ウィリスとともに1881年に8歳で渡英したが、1885年にウィリスがシャムへ赴任したため、ロンドンHanhope通り166番地のバクスター家の養子となる[13]。ロンドンのPolytechnic(現・ウエストミンスター大学?)を卒業後、バクスター家とともにオーストラリアへ渡航[14]。イギリスへ帰国してケンブリッジ大学へ入学する予定だったが、父の死により断念し、ロンドンで書記の仕事を得、Kentish Town,Islip通り92番地にバクスター夫人とその兄とともに10年暮らしたが、煖炉も私室も与えられない辛い暮らしを強いられ、単身で再び渡豪[14][13]。1906年に来日して母と再会し、関西で平田キクと結婚して二男一女(三男二女?)をもうけ、日本名・宇利有平として日本に帰化[11]関西大学などで英語教師として働いた[15][16]奈良県生駒郡富雄村字二名の自宅で死去し[13]奈良市白毫寺に眠る[17]西宮市に子孫がいる[11]河内浩志はアルバートの孫[14]
  • アルバートの3歳上にジョージという息子がおり(横浜の女性との子?)、八重とアルバートとともに暮らした[15]
  • チノという女性との間にウタロウ(ユウタロウ)という名の子がいた[13]。コータッツィによると、ウィリスには英国も含め複数の女性たちに産ませた子が何人かいたらしい[10]

人物[編集]

  • 身重190.5cm,体重127kgの大男だった[13]
  • アーネスト・サトウは、「これほど人情味のある医師はいない」と評し[18]、シャムでもウィリスを部下とした[13]

脚注[編集]

  1. ^ 日本勤務を希望した理由として、ウィリスは家族への手紙に「年俸500ポンドという英国ではとても期待できない収入」が得られるためと記している
  2. ^ 母親はウィリスの遺言書に記されていた「ちの」という女性か?
  3. ^ 大山巌の依頼で前線近くの相国寺養源院に野戦病院を置き薩摩藩兵(西郷従道など)の治療にもあたった。
  4. ^ 高崎・軽井沢・上田・善光寺を経由して高田・柏崎・新潟・新発田で治療に従事、落城直後の会津若松の様子も目撃した。
  5. ^ 明治政府が正式にドイツ人医師の派遣を要請したのはウィリスの退職後であるが、新政府の医学取調掛に任命された相良知安・岩佐純が大学に基礎を置き研究活動を重視するドイツ医学の採用を主張していた
  6. ^ アダムズは公式の覚書「ウィリス博士の鹿児島病院」のなかで、ウィリスが患者の治療だけではなく食生活の改善・公衆衛生・予防医学・教育などの分野で多くの業績をあげていることを報告している。
  7. ^ 鹿児島県士族江夏(こうか)十郎の娘である。
  8. ^ 1873年、次男アルバートが生まれ、異母兄のジョージとともに養育されたと思われる。
  9. ^ 後に海軍軍医となった高木は「根拠に基づいた医療」を特性とするイギリス医学に依拠して、当時流行していた脚気が栄養の不足に基づくものと考え、兵食改革をすすめ、海軍における脚気の発生率を劇的に低下させた。他方、研究を重視するドイツ医学の流れをくむ陸軍では高木の考えは否定され、結果として日清戦争日露戦争では多くの脚気患者を出してしまった。
  10. ^ a b c Dr. William Willis 1837-1894 ヒュー・コータッツィ,鹿児島大学医学雑誌, 1995
  11. ^ a b c 日本近代西洋医学の夜明け(英医ウィリアム・ウィリス)佐藤八郎, 鹿児島大学医学雑誌, 1995
  12. ^ 英医ウィリアム・ウイリスについて 鮫島近二, 鹿児島大学医学雑誌, 1995
  13. ^ a b c d e f g h i 英医ウィリアム・ウィリス― 日本近代西洋医学の夜明け尾辻省悟、第24回日本消化器集団検診学会秋季大会講演要旨、1987
  14. ^ a b c ウィリアム・ウィリスの墓と遺言書尾辻省悟, 鹿児島大学医学雑誌, 1995
  15. ^ a b 慈愛会・研修医・指導医研修会に思うこと-その4(最終回)-“大リーガー医”とウイリアム・ウイリス納光弘、財団法人慈愛会
  16. ^ 東京慈恵会の成立を探る ―それを支えた慈恵・維新の志士達―中山和彦、慈恵医大誌、2012年
  17. ^ 維新の医療と恩人徳永幸彦、大阪日日新聞、2009年4月17日
  18. ^ 新薩摩学薩摩と留学生図書出版 南方新社, 2006

参考文献[編集]

  • 『白い航跡』吉村昭講談社1991年
  • 『遠い崖 - アーネスト・サトウ日記抄』萩原延壽朝日新聞社2008年
  • 『英医ウィリアム・ウィルス略伝』佐藤八郎,1968
  • 『英国公使館員の維新戦争見聞記』ローレンス・オリファント,ウィリアム・ウィリス著・中須賀哲郎訳,校倉書房、1974
  • 『ある英人医師の幕末維新―W・ウィリスの生涯』ヒュー・コータッツィ(中央公論社, 1985年)
  • 『医学近代化と来日外国人』蒲原宏ほか、世界保健通信社, 1988年
  • 『幕末維新を駆け抜けた英国人医師-甦るウィリアム・ウィリス文書』ウィリアム・ウィリス, 大山瑞代、創泉堂出版、2003年