チャールス・リチャードソン

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生麦事件で殺害されたリチャードソンの遺体(1862年)

チャールズ・レノックス・リチャードソン英語: Charles Lenox Richardson, 1833年4月16日 - 1862年9月14日)は、19世紀後半に上海で活動したイギリス商人。生麦事件で殺害された。

生涯[編集]

リチャードソン落馬地点付近に建てられた生麦事件之碑(中村正直による碑文)
横浜外国人墓地にあるリチャードソンの墓(中央)。両脇はそれぞれマーシャルとクラークの墓。

ロンドン出身。父はチャールズ・リチャードソン、母はルイザ・アン・レノックス。姉が2人、妹が1人いる。1853年サザンプレス港から上海へ渡海し、そこで商社を設立して商業に従事していた。

1862年、仕事を引き払ってイギリスへ帰郷する際に、観光のために日本へ入国する。上海で交友のあった横浜商人ウッドソープ・クラークと再会し、クラークやウィリアム・マーシャルの案内で、マーガレット・ボラディル夫人を加えた4人で川崎大師へ向かうことになる。その途中、生麦村島津久光の行列と遭遇するが、騎乗のまま行列に乗り入れ、激昂した薩摩藩奈良原喜左衛門無礼打ちにされる。リチャードソンは重傷を負ったため遁走を図るが、程なく落馬し、追いかけてきた久木村治休海江田信義に止めをさされた(生麦事件)。

イギリス本国はリチャードソン殺害事件に際して、代理公使ジョン・ニールを通じて薩摩藩と江戸幕府に賠償金10万ポンド、犯人の引渡しと陳謝を要求するが、薩摩藩は拒否し、薩英戦争を引き起こすことになる。

人物[編集]

リチャードソンの性格については、親孝行で物静かであったとする話がある一方、当時の清国北京駐在イギリス公使のフレデリック・ブルース英語版エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースの弟)は、リチャードソンに対して冷ややかな見解を持っており、本国の外務大臣ラッセル伯爵への半公信(半ば公の通信)の中で次のように書いている。

リチャードソン氏は慰みに遠乗りに出かけて、大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから周囲から敬意を表されて育つ。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきに避けるしなかったのであろうか。私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分の雇っていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホークであったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である」[1]

また、オランダ人医師ヨハネス・ポンぺ・ファン・メーデルフォールトは、帰国途中のハーグで偶然、リチャードソンの叔父という人に会い、説明した際の反応を以下のように記している。

「すべて彼に話してやったが、この純朴な老人が私に答えていうには、『まさにその通りで、チャールズ(Charles)はいつも向う見ずであり頑固であった。私は、彼は結局そんなことで死ぬんだろう、という予言もしていたのだ。気違い同然の性向からイギリスを早く出て行かなければならないことになったのだ。(中略)島津のしたことは自分の意見としても正しいと思う。イギリス政府はあの場合、何もタッチすべきではなかったのだ。』と。」
ポンぺの考えとして「リチャードソンのしたことは気違い沙汰ではなかっただろうか?(中略)もしそんなことがロンドンで起ったとしたら辛抱できるであろうか?たとえば、イギリス国王陛下議会の開会式に臨まれる途上で、こんなことが起ったらいかがであろうか?」と述べている[2]

脚注[編集]

  1. ^ 坂野正高「駐清英国公使ブルースの見た生麦事件のリチャードソン」(学士会報1974年、第723号)『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』より孫引き
  2. ^ 山田勝「イギリス紳士の幕末」(日本放送出版協会、2004年)『ポンぺ日本滞在見聞記』より孫引き

参考文献[編集]

関連項目[編集]