大久保利通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
日本の旗 日本の政治家
大久保 利通
Toshimichi Okubo 4.jpg
大久保利通(明治維新後)
生年月日 1830年9月26日
出生地 日本の旗 日本 薩摩国 鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島県鹿児島市高麗町)
没年月日 1878年5月14日(満47歳没)
死没地 日本の旗 日本東京府麹町区紀尾井町(現在の東京都千代田区紀尾井町)
出身校 造士館
前職 武士薩摩藩士)
所属政党 無所属(薩摩藩閥)
称号 従一位
勲一等旭日大綬章
親族 大久保利和(長男)、牧野伸顕(次男)、大久保利武(三男)、伊集院彦吉(女婿)、麻生太郎(玄孫)、武見敬三(玄孫)
配偶者 大久保満寿子

日本の旗 第3代大蔵卿
任期 1871年8月13日 - 1873年10月12日

日本の旗 初代内務卿
任期 1873年11月29日 - 1874年2月14日

日本の旗 第3代内務卿
任期 1874年4月27日 - 1874年8月12日

日本の旗 第5代内務卿
任期 1874年11月28日 - 1878年5月14日
テンプレートを表示

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日1830年9月26日) - 明治11年(1878年5月14日)は、日本武士薩摩藩士)、政治家位階勲等従一位勲一等

明治維新元勲であり、西郷隆盛木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑の1人でもある。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

文政13年8月10日1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士大久保利世皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士であった。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、下加治屋町の郷中藩校造士館で、西郷隆盛税所篤吉井友実海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となった。武術は胃が弱かったため得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたという[1]

天保15年(1844年)、元服し、通称を正助(しょうすけ)、は利済と名乗るが、後に改名する。

幕末[編集]

弘化3年(1846年)より、藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動では父・利世とともに連座して罷免され謹慎処分となる。以後、大久保家は貧しい生活を強いられ、この時の借金依頼の手紙や証文が現在残る大久保の文書で最も古いものとされている。島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年(1853年)5月に記録所に復職し、御蔵役となる。

安政4年(1857年10月1日、西郷とともに徒目付となる。精忠組の領袖として活動し、安政5年の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教(後の久光)に税所篤の助力で接近する。篤の兄で吉祥院住職乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。

万延元年(1860年3月11日、重富邸にて忠教と初めて面会し、3月、勘定方小頭格となる。文久元年(1861年10月23日、御小納戸役に抜擢され藩政に参与(去る10月7日には堀仲左衛門も御小納戸役に抜擢)、家格も一代新番となる[2]

文久元年12月15日1862年1月14日)から同2年(1862年)1月中旬までの間に久光から一蔵(いちぞう)の名を賜り通称を改める。

倒幕・王政復古[編集]

志士時代の大久保利通(明治元年頃)

文久2年(1862年)に久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜将軍後見職、福井藩主・松平慶永政事総裁職就任などを進めた。同年5月20日、御小納戸頭取に昇進となる。この昇進により、小松清廉中山中左衛門と並んで久光側近となる。文久3年(1863年2月10日には、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進する[3]慶応元年(1865年)1月下旬~5月の間に利通と改諱する(久光の七男・真之助が元服し、久済と名乗ったため、「済」の字を避諱したという[4])。

慶応2年(1866年)、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。慶応3年(1867年)、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、四侯会議を開催させる。しかし四侯会議は慶喜によって頓挫させられたため、今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなる。

小松、西郷とともに公議政体派である土佐藩後藤象二郎寺村道成真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟、浪人の坂本龍馬中岡慎太郎との間で将軍職の廃止、新政府の樹立等に関する薩土盟約を三本木の料亭にて結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。

武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は8月14日に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明け、それを機に9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣品川弥二郎広島藩辻維岳が会し出兵協定である三藩盟約を結んだ。なお、この三藩盟約書草案は大久保の自筆によって書かれたもので、現在も残っている。

10月14日、正親町三条実愛から倒幕の密勅の詔書を引き出した大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功した。しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古クーデターを計画して実行する。王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張した。

明治維新後[編集]

サンフランシスコにて撮影(明治5年)

慶応4年(1868年1月23日太政官にて大阪への遷都を主張する。明治2年7月22日1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年1871年)には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させた。

明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制地租改正徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。

明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。また台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に渡った。交渉の末に、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。また、出兵の経験から、明治8年(1875年)5月、太政大臣三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出した[5]

大久保はプロイセンドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれる。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。

明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。また自ら総裁となり、上野公園8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。

暗殺[編集]

大久保の墓(青山霊園

明治11年(1878年5月14日石川県士族島田一郎長連豪杉本乙菊杉村文一脇田巧一および島根県士族・浅井寿篤により紀尾井坂東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)。享年49〈数え年〉、満47歳没。墓所は東京都港区青山霊園にある。

人物・逸話[編集]

銅像(鹿児島市)

仕事ぶり[編集]

  • 金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、それどころか必要だが予算のつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めていた。そのために死後は8,000円もの借金が残ったが、大久保の志を知っていた債権者達は借財の返済を遺族に求めなかったという。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。
  • 寡黙で他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人間は少なかったと言う。桐野利秋も大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一瞥されただけでその気迫に呑まれすぐに引き下がったといわれる。他にも若い頃から勇猛で鳴らした山本権兵衛さえも、大久保の前ではほとんど意見できなかったという。
  • 大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返ったと千坂高雅が語っている。
  • 大久保の部下だった河瀬秀治は、大久保の没後の内務省で後任の内務卿である伊藤博文の部屋で西郷従道中井弘が盛んに夕べの宴会の話をしたり、用もないのに中井弘が出入りするようになるなどすべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。
  • 福地源一郎は大久保の人物を「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」と評した。
  • 大隈重信は大久保を「維新時代唯一の大政事家」と評し、意思の堅固と冷静で決断力に富んでいる点を挙げている。さらに同じく維新の三傑の一人木戸孝允とともに「維新時代の二大英傑」と評している(大隈は西郷を評価していなかった)。
    • 「大久保は辛抱強い人で、喜怒哀楽顔色に現はさない。寡言沈黙、常に他人の説を聴いて居る、『宜かろふ』言ったら最後、必ず断行する。決して変更しない、百難を排しても遂行すると云ふのが特色であった。(中略)大久保は一見陰湿な方で、且つ武骨無意気な風であった」[7] 
  • 伊藤博文は、大久保と木戸の比較論として「木戸公は(中略)忍耐の力は大久保公に一歩を譲っておった。その代わり識力の方は大久保公も一歩を譲っておった。」と評し、岩倉を加えた三人をして「岩倉、木戸、大久保三公はとにかく度量といい決断といい胆力といい時流に卓絶しておった。我輩の先輩として見る所では彼の三人には一人も及ぶものはない」と最大級の評価をしている。[8]
  • 長州閥の総帥である木戸孝允とは、維新後は政治的に対立することが多かったが、公人としては互いに認め合っていた。木戸は大久保に多くの不快を持ちながらも、政治家としての大久保については「大久保先生の人物には毫も間然するところこれ無く敬服つかまつり候」と評価し、大久保も参議を辞任した木戸の慰留に何度も努めるなど、政治的な同僚としての木戸を強く必要とした。 
  • 今でいう風光関係の問題にも関心があった。明治6年(1873年)に五代友厚浜寺公園へ案内された大久保は、県令・税所篤が園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするのを知り、「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」と反対する歌を詠んだ[9]。税所はこの歌を知り開発計画を撤回した。なお、浜寺公園の入り口付近にこの時に詠んだ歌が、「惜松碑(せきしょうひ)」として顕彰されている。

嗜好[編集]

  • 家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。出勤前のわずか10分か15分の間を唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、三男の大久保利武ら子ども達が争って、玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。平生は公務が忙しく、家族と夕食を摂ることもままならなかったが、土曜日は自らの妹たちも呼んで家族と夕食を摂るようにしていた。大久保はこの土曜日の家族との夕食を無上の楽しみにしていたという。
  • 趣味囲碁。碁好きの島津久光に接近するために碁を学んだといわれるが、それ以前の嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述があり、損得を抜きにして好きであったと思われる。また大の負けず嫌いで、さすがに対戦相手に当り散らすようなことはなかったが、碁で負けたときは露骨に機嫌を悪くした。
    • 大隈重信 「(碁に関しては)岩倉と大久保は両人ともなかなか上手であった。どちらかと云うと大久保の方が少し上手であった。ところが大久保は、激し易い人であったので、岩倉はその呼吸を知って居るから、対局中常に大久保を怒らせて勝ちを取った」[10]「道楽の少ない男で、碁が一番大好きであった。何処へ往くにもお高と云う女碁打(三段)を連れて歩いた。我輩の宅などへ遊びに来るにも、先づお高を先き案内に寄越すと云う風である。大久保は碁に負けると厭な顔するけれども、決して其塙では腹を立てない。併し家に帰ると家人や書生に当り散らしたそうだ。ナンでも碁に負けて帰ると、玄関から足音が違ったという評判であった」[11]
  • ヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用し、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった。また、朝用と夜用のパイプをそれぞれ分けて使っていた(そうしなければならないほど、年中煙草を吸っていた)。
  • 京都宇治玉露を濃く淹れたものを好んだ。
  • 漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。
  • 朝食には珈琲と、ブランデーを少し垂らしたオートミールを好んだ[12]
  • 写真嫌いだった西郷隆盛とは対照的に、写真が好きで多くの肖像写真がある。
  • 青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用し、当時としては非常に洋風な生活をしていた。また頭髪をポマードでセットしていた。
  • 頭頂部に大きな禿がありそれを髪で隠していた為、早朝に邸宅を訪問しても髪をセットするまで応対に現れなかったという。
  • 明治8年(1875年)から1年かけて、麹町三年町(旧丹羽左京大夫邸及び旧佐野日向守邸跡)に白い木造洋館を建てた(建築費用は恩賜金と盟友・税所篤からの借金で賄ったとされる。後にこの邸はベルギー公使館となった)。当時は個人の家としては珍しい洋館であったが、金をかけたものではなかった。また、これとは別に高輪に純和風の別邸を所有していた。

士族反乱〜最期[編集]

遭難地近隣の清水谷公園に立つ哀悼碑
  • 征韓論で対立した江藤新平との確執で知られ、佐賀の乱で江藤が死罪となった際には日記に江藤への罵倒ともとれる言葉を残している。このことから「江藤を死罪にした裁判長の河野敏鎌は大久保から1,000円で買収された」[13]「上京していた江藤の弟源作を見て江藤の亡霊を見たかのように驚いた」[14]など当時から現在に至るまで様々な創作、風説を生み出している。
  • 鹿児島が暴発したときには、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と鹿児島の暴徒を一掃できるとし、また西郷については、これでは私学校党に同意せず「無名の軽挙」をやらかさないだろうと書き送っている(明治10年2月7日付書簡)。しかし西南戦争前に西郷が参加していることが分かると、西郷と会談したいと鹿児島への派遣を希望したが、大久保が殺されることを危惧した伊藤博文らに朝議で反対されたため、希望は叶わなかった。
  • 西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いたという[15])。西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んでいたりしていた。また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている。
  • 明治11年(1878年)に暗殺される日の朝、福島県令・山吉盛典に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ」と将来の構想を語ったという(『済世遺言』)。
  • 大久保利通を水神として祀る「大久保神社」が、福島県郡山市にある。また、地元の人々によって「大久保様の水祭り」が毎年9月1日に執行されている[16]
  • 地元鹿児島では「西郷どんの敵」として人気が無い時代が長く続き[独自研究?]銅像が建てられたのも西南戦争百周年の機会による。平成2年(1990年)の大河ドラマ『翔ぶが如く』の放送を境に、それまで冷徹な人物と見られがちだったが、実は近代日本の礎を築いた公平無私な政治家であった事などが次第に認知されるようになり、現在は再評価もかなり高くなってきている​[要出典]​。

系譜[編集]

大久保氏
明確ではないが藤原氏末流を称している。家紋は左三つ藤巴。戦国時代末に京都から薩摩に移るというが、系図は貞享年間に市来郷川上に中宿(城下に籍を残したまま他郷へ移住すること)した仲兵衛より始まる。暗殺後の遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、木戸孝允の遺族とともにただ二家のみであった。

家族・子孫[編集]

安政4年(1857年)12月、薩摩藩士・早崎七郎右衛門の次女・満寿子と結婚。満寿子との間には長男・大久保利和[17]、次男・牧野伸顕、三男・大久保利武、五男・石原雄熊、長女・芳子が生まれた(芳子の夫は後の外務大臣伊集院彦吉)。また、大久保には妻の外におゆう(京都祇園お茶屋一力亭の9代目主人杉浦治郎右衛門の娘。芸妓か?)という寵妾が居り、おゆうとの間に四男・大久保利夫、六男・大久保駿熊、七男・大久保七熊、八男・大久保利賢が生まれた。

孫の大久保利謙は日本近代史家、国立国会図書館憲政資料室の成立に寄与した。もう一人の孫・大久保利春丸紅専務で、ロッキード事件に際しては贈賄側の一人として逮捕起訴され有罪判決を受けた。「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったという。

曾孫に吉田健一(作家)、大久保利晃放射線影響研究所理事長、元産業医科大学学長)、玄孫寛仁親王妃信子牧野力通産事務次官)、麻生太郎(第92代内閣総理大臣)、武見敬三参議院議員)がいる。

父・利世の沖永良部島時代の島妻の子孫に植村花菜がいる[18]

官位及び栄典の履歴[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 毛利敏彦『大久保利通』(中公新書)、5頁
  2. ^ 御小納戸役は6人扶持以上の職であるので、小姓与格が就任すると、一代小番になれる。なお、この職についた御小姓与クラスの人物に大山巌の玄祖父である大山綱栄調所広郷がいる。
  3. ^ 市来四郎の日記に、「速なる昇進にて、人皆驚怖いたし物議甚しく候」と書かれるほどの異数の大抜擢だったという。
  4. ^ 大久保利通日記1
  5. ^ これが、管船政策の濫觴となった。寺島成信『帝国海運政策論』巌松堂書店、1923年、第二篇「本邦海運政策の沿革」第一章「海運政策の変遷」第一期「本邦海運の萌芽発育時代(明治維新より日清戦役に至る)」二「本邦海運政策の濫觴」に、「八年五月大久保内務卿の建議」「八年九月三菱に対する政府命令書と航海補助金」「本邦近代的海運政策の起原」「三菱と米英船との競争」の項。逓信省『逓信事業史 第6巻』逓信協会、1941年、第十篇「管船」第三章「海運及造船事業に関する政策及法令」第一節「明治前期」第三款「大久保内務卿の海運政策樹立建白」。
  6. ^ 勝田(2003) p.19/127
  7. ^ 近代デジタルライブラリー『大隈伯百話』
  8. ^ 近代デジタルライブラリー『伊藤公元勲談』
  9. ^ 祐子内親王家紀伊小倉百人一首「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ」の本歌取り
  10. ^ 『大隈侯一言一行』近代デジタルライブラリー『大隈侯一言一行』
  11. ^ 大隈伯百話近代デジタルライブラリー『大隈伯百話』
  12. ^ 司馬遼太郎翔ぶが如く』より
  13. ^ 司馬遼太郎『歳月』
  14. ^ 鈴木鶴子『江藤新平と明治維新』
  15. ^ 中西進監修『実はこの人こんな人』 四季社、2002年4月10日、ISBN 4-88405-126-2 C1023
  16. ^ 佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家(日本史リブレット 人072)』 山川出版社、2009年
  17. ^ 岩倉使節団に同行、1890年帝国議会開設とともに貴族院議員となる。1881年岩倉具視と共に日本鉄道設立に参画、1888年には甲武鉄道社長となる。
  18. ^ 植村花菜のルーツは大久保利通!祖母の故郷で知る:スポニチ(2011年3月10日)

参考文献[編集]

  • 『大久保利通日記』全2冊 本史籍協会叢書、1927年。復刻北泉社、1997年。
  • 『大久保利通文書』全10冊 本史籍協会叢書、1927〜29年。東京大学出版会、1983年に復刻。
  • 『大久保利通関係文書』全5冊 立教大学文学部史学科日本史研究室編 吉川弘文館、1965年、復刻マツノ書店、2005-2008年。
  • 勝田孫弥 『大久保利通伝(上中下)』 同文館、1910-1911年、1921年。
  • 勝田孫弥 『甲東逸話』 冨山房、1928年。
  • 清沢洌 『外政家としての大久保利通』中公文庫、1993年、初版中央公論社、1942年。
  • 佐々木克監修 『大久保利通』 講談社学術文庫、2004年。※関係者による大久保の実像を伝える証言集。
  • 牧野伸顕 『回顧録』 新版は中公文庫上下、1978年。 ※牧野は大久保の次男。 
  • 毛利敏彦 『大久保利通』 <維新前夜の群像5>中公新書、1974年。
  • 勝田政治 『“政事家”大久保利通―近代日本の設計者』 講談社〈講談社選書メチエ273〉、2003年(平成15年)。ISBN 978-4062582735
  • 佐々木克 『大久保利通と明治維新』 歴史文化ライブラリー・吉川弘文館、1998年。
  • 佐々木克 『志士と官僚 明治を「創業」した人びと』 講談社学術文庫、2000年。
  • 佐々木克 『大久保利通―明治維新と志の政治家 (日本史リブレット 人072)』 山川出版社、2009年。
  • 加来耕三 『不敗の宰相 大久保利通』 講談社+α文庫、1994年。
  • 笠原英彦 『大久保利通』 <幕末維新の個性3> 吉川弘文館、2005年。
  • 落合功 『大久保利通 国権の道は経済から』 評伝日本の経済思想・日本経済評論社、2008年。
  • 大久保利泰監修『大久保家秘蔵写真 大久保利通とその一族』 国書刊行会、2013年。
  • 徳富蘇峰『近世日本国民史 明治三傑』 講談社学術文庫、1981年。
  • 木戸孝允『木戸孝允日記全三冊』 東京大学出版会、1985年。

大久保利通を主題とした作品[編集]

史論[編集]

小説[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


公職
先代:
創設
木戸孝允
伊藤博文
日本の旗 内務卿
初代:1973年 - 1974年
第3代:1974年
第5代:1974年 - 1978年
次代:
木戸孝允
伊藤博文
伊藤博文
先代:
伊達宗城
日本の旗 大蔵卿
第3代:1971年 - 1973年
次代:
大隈重信