ノート:大久保利通

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外部リンクの削除について[編集]

リンク先の大部分が「翔ぶが如く」の引用であるため非常に紛らわしい。またエピソードとして紹介したいのならば「大久保利通と惜松碑の関係」というようなリンクにすべきでは?少なくともサイトのtitleをそのまま引用する必要は無いと思われる。--203.136.129.81 2010年6月4日 (金) 15:49 (UTC)[返信]

確かに一見して判りにくいのはその通りです。訂正しました。--rshiba 2010年6月4日 (金) 15:55 (UTC)[返信]

本文中の人物・逸話の中に「西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と言ったようだ」とありますが、この元となった一次史料の出典を求めます。「大久保利通(松原到遠編)」「甲東逸話(勝田孫弥)」「大久保利通傳(勝田孫弥)」など明治・大正期に書かれた大久保利通関連資料を読みましたが、これに関する記述は見つかりません。 「みだりに笑ったり怒ったりされなかったようだ。私どもは前申したように公の笑われたのを見たことがない。(中略)しかし泣かれた事が唯一度あったそうだ。(中略)いよいよ出たに違いないという確報も証拠も来たとき初めて「そうであったか」といってハラリと涙をこぼされたそうである。大久保公の涙はこのときが子供の時をのぞけば生涯に唯一度だけであったということである。(「大久保利通」高橋新吉談)」)という証言は見つけることが出来ました。--Miciell会話2012年7月30日 (月) 05:32 (UTC)[返信]

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「島津久光に接近するために、碁を学んだとの話も伝えられるが誤りで、嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある。」の斜体部分に要出典がついていますが、久光が権力を握る十年以上前の日記に碁を打った記事があるのならばそれがすなわち久光に接近するために碁を学んだのではない根拠になりませんか?それとも、「学んだ、には碁を知っている人間がより強くなろうと学ぶ行為も入る」というわけでしょうか?(それなら学んだを覚えたに修正して要出典を消せばよいかと)--210.156.131.11 2012年9月12日 (水) 14:49 (UTC)[返信]

ウィキペディアは不特定多数の人間で査読し合うシステムを採用しています。査読者の質は問えませんので、その記述が正しいかどうかは出典があるか否か以外では主張することができないのです。
まず「碁を学んだとの話も伝えられるが誤りで」の部分は、まず「碁を学んだとの話も伝えられる」についてはどのような資料のそのような記述があったのか出典を示す必要があります。そして「誤りで」についても同様です。
出典が示されない場合は時間をおいて削除される可能性があります。Wikipedia:出典を明記するをご確認ください。--183.72.108.138 2012年9月12日 (水) 16:09 (UTC)[返信]
海音寺潮五郎の史伝「西郷隆盛」(朝日文庫版3巻P226)に「久光の碁敵だった住職につてがあったのでその住職を介して久光に接近しようと碁の稽古をした」とあります。ただ、このときゼロから覚えたのかこれ以前からある程度碁を打っていたのかについては記載がないので、海音寺「西郷隆盛」を出典にして要出典の解消を図ると、「島津久光に接近するために、碁を学んだとの話も伝えられるが、それより前の嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある。」という書き方ではどうかと思います。(海音寺が大久保日記を読んでいることはたびたび著書に引用しているので明らかですが、この嘉永元年の記事について触れてもおらず触れないのが不自然なわけでもありません。総じて、「学んだ」「稽古した」と書いてある本に「覚えたとは書いていないからこれ以前から大久保は碁を打っていた」という態度は取るべきでないと思います)--210.141.172.24 2012年9月15日 (土) 00:47 (UTC)[返信]

上述しましたようにウィキは厳密な出典主義を採用しています。信頼できる出典のどこどこに記載があったということ以外正当性を主張できないのです。示された出典ですが小説ですと創作という解釈をされ説得力に欠ける場合があります。望ましいのは学術論文です。ご納得いただけないならばWikipedia:井戸端に議論を立ち上げてみてはいかがでしょうか.--27.231.209.82 2012年9月15日 (土) 02:31 (UTC)183.72.108.138継承[返信]

小説じゃなくて史伝なんですが、海音寺の本業は作家だから「小説じゃないのか、出典としてどうか」という疑問はありがちですね。学術論文が正面から触れてる題材とも思えませんので学者が書いた伝記でも探してきましょう。それがなかった場合に海音寺出典で編集したりはしませんので。--210.141.172.24 2012年9月15日 (土) 07:00 (UTC)[返信]
議論の日記(嘉永元年正月四日)ですが、息子が親戚の家で見つけたもので、自宅にあった日記をまとめた「大久保利通日記」には含まれていません。原文は次のとおり。
「今日は朝六ツ半ニ起床、他出不致、小座之辺少々取こばめ、八ツ前牧野氏被訪碁打相企三番打、拙者勝負マケいたし候処、夫成ニ而取止、其内税所喜三左衛門殿被訪、喜平次殿は被帰、喜三左衛門殿と段々咄共いたし、左候而ハマ投相企、川上四郎左衛門殿、門番九兵衛などと屋敷前ニ而いたし、後は安愛寺前ニ而もいたし、大鐘近程遊び夜入近喜三左衛門殿は被帰(後略)」
牧野との三番だけでなく、友人達とほぼ一日中碁を打っています。税所との勝負では「ハマ投相企」つまりアゲハマ(相手から取った石)を投げようと企てたとあります。
一方、久光に近づくために「碁を学んだ」件については、妹の証言(佐々木克「大久保利通」)によるとこの住職が「碁の上手だとわかった。それでこれへ習いに出かけられた」とあるので、嘉永元年には友人たちにボロ負けするレベルだったのが、安政六年には藩内で知られている上級者に習い行く程度には腕を上げたと読めます。

小番と新番[編集]

脚注の2ですが、本文は「新番」、脚注内は「小番」となっています。 御小納戸役は6人賄料以上で新番相当、小番は10人賄料以上なので本文の「新番」が正しいのではないでしょうか。

薩長中心史観による記述は中立なものなのか[編集]

大久保利通の暴政に苦しめられた側にとっては、看過できない歪曲偏向記述が少なくないのでは?美化され英雄視されるような人物なのか?暗殺されて当然の人物と考える者も多いはず。薩長寄りではない立場からの加筆修正が望まれる--1.114.27.92 2015年6月5日 (金) 14:29 (UTC)[返信]

そもそも、どの部分が歪曲偏向なのか、明らかにしてから削除すべきです。貴方個人の好き嫌いを書くところではありません。--震天動地会話2015年7月27日 (月) 06:36 (UTC)[返信]

最古の文書[編集]

「嘉永3年(1850年)のお由羅騒動では父・利世とともに連座して罷免され謹慎処分となる。以後、大久保家は貧しい生活を強いられ、この時の借金依頼の手紙や証文が現在残る大久保の文書で最も古いものとされている。」の部分ですが、碁の項にもあるように、これより古い嘉永元年の日記が見つかっているので、「この時の借金依頼の手紙や証文が現在残っている。」に修正してもいいでしょうか。--101.111.244.195 2015年12月28日 (月) 10:09 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

大久保利通」上の3個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2018年3月27日 (火) 16:29 (UTC)[返信]