五代友厚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
五代友厚
大阪証券取引所前の銅像
鹿児島市の泉公園にある銅像

五代 友厚(ごだい ともあつ、天保6年12月26日1836年2月12日) - 明治18年(1885年9月25日)は、日本武士薩摩藩士)、実業家薩摩国鹿児島城長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。幼名は徳助。通称才助。大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。

年譜・功績[編集]

※日付は明治5年までは旧暦

経歴[編集]

幼少・青年期[編集]

三国名勝図会』の執筆者で記録奉行である五代直左衛門秀尭の次男として薩摩国鹿児島城下で生まれる。質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学ぶ。

14歳のとき、琉球公益係を兼ねていた父親が奇妙な地図を広げて友厚を手招いた。見せたものは、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図だった。友厚は父からこの世界地図の複写を命じられる。友厚は2枚写し、1枚は藩主に献上し、1枚は自分の部屋に掲げて日夜眺めていたようで、地図を眺めながら特にイギリスに目をつけていた。世界地図には薩摩はおろか日本すら載っていないことに気づくと同時に「なぜ日本と同じように小さい島国であるイギリスが世界を制覇できたのか」、そして国内で起こっている薩摩や長州の藩同士の争いがとても小さい争いであり「同じ日本国民として手を取り合い、外国に負けないような国力と技術力をつくろうではないか」という熱意をもつようになる。

武士・役人として[編集]

安政元年(1854年)、ペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となる。その折、五代は「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったと記されてある。安政2年(1855年)、藩の郡方書役助(当時の農政を司る役所の書記官の補助)となる。兄が鎖国論者にも関わらず、開国論者の立場に立つ。その翌年、長崎海軍伝習所へ藩田習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学ぶ。

安政6年(1859年)、懇願するも渡航を拒まれた友厚は水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航、藩のために汽船購入の契約をする。文久3年(1863年)7月、生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと松木洪庵(寺島宗則)と共にイギリス海軍の捕虜となり、横浜で釈放される。国元ではイギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をし、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって帰国を許された。

実業家への展望[編集]

慶応元年(1865年)、藩命により寺島宗則森有礼らとともに英国留学に出発、欧州各地を巡歴。ベルギーブリュッセルモンブランと貿易商社設立契約に調印、これは薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたが、諸要因により失敗に終わる。しかし、この時の経験がのちの五代の経営手腕に大きな影響を与えることになる。

慶応2年(1866年)、御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一気に握る会計係に就任。長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。ここでいうドックというのは俗にそろばんドックと呼ばれるもので現存している。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛大久保利通らとともに倒幕に活躍した。

その結果、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となる。外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたった。また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開ける。

明治2年(1869年)の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行、また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。紡績業・鉱山業(奈良県天和銅山・福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力する。薩長藩閥政府との結びつきが強く、明治8年(1875年)に大久保利通、木戸孝允板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件(参照:明治十四年の政変)にも関わり、政商といわれた。

他にも、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学天王寺商業高校)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した。

鹿児島市泉町(泉公園内)、大阪市中央区の大阪証券取引所前、大阪商工会議所前には銅像が建立されている。

人物[編集]

恵まれた環境[編集]

五代は小松清廉西郷隆盛大久保利通などの要人と知り合いだった。長州藩の高杉晋作や土佐藩の浪人坂本龍馬とも非常に仲が良い。このように一流の人物たちと関わり合える条件をもっていたことが五代の後の功績へと役立った。加えて、五代が役立てたものは英語力である。当時から外交に英語力は欠かせなかった。特に薩摩藩城代家老小松清廉には重用されて恩義を感じ、小松死後はその妻(側室)子の面倒を見たことでも知られる。

悪に対する厳格な態度[編集]

友厚の大阪との関わりは、明治の新政府成立後に始まった。 新政府が諸外国との交渉窓口として外国事務掛を大阪に設け、五代を任命したのが起点である。 この頃、大阪では日本人の無知につけこんだ外国商人の不正行為が後を絶たなかった。条約違反、購入料金の不払い、雇い人への賃金不払い等は日常茶飯事で、領事館の家賃不払いまでもが平気で行われていた。五代はこのような不正に対しては断固たる態度で臨み、一切の妥協を拒んだ。次第に五代が駐在する大阪港では外国船の荷物検査があまりにも厳しいという抗議が政府まで届き、政府が取り締まり緩和勧告を出すほどの騒動に発展した。しかし、五代は外国商人の要求の真意が荷物検査が行われることによる不満(脱税や不正行為ができなくなる為)であることを見抜いていたので全く動じなかった。

商売人にとって「信用」は最も大切であり、不正を容認することは信用を失い、不正を糾弾することでその信用を勝ち取ろうとする五代の信念があった。五代は商人である前に「正義」「大儀」を重んじる一人の武士であり、不正を見逃すことも国益を損なうことも出来ない性分だった。

大阪商法会議所設立[編集]

明治初期、維新変動の波を受け、大阪経済が低迷する。銀主体の商取引の廃止や藩債の整理による富豪や両替商の資産消失が主な原因であった。この事態を打開し大阪経済の復活を願って財界指導者の有志15名が明治11年7月に大阪商法会議所設立の嘆願書を大阪政府に提出。これが今日の大阪商工会議所の礎となる。設立背景は、国内に事件がおこると常にドサクサに紛れ悪辣な金儲けをする者が増えるのを防ぐため、また互いを助け合うために実業家たちの一致団結による協力と意見交換の場が必要とする考えに起因する。嘆願書の集め方は五代らしい強引な勧誘で、決め文句は「万が一、後に会へ加盟を申し込んでも拒絶、もしくは巨額の入会費を徴収する」で、結果的に60人の同志を獲得した。初代会頭は五代友厚。大阪商法会議所を設立した目的は大阪の実業家の相互扶助によって新時代の潮流に棹差し大阪商人の伝統である信用第一主義に則り以って自己の利益を増すと同時に大阪の繁栄を軸に国富の増強に資するといった教育勅語的な趣旨に基づいた遠大な意図だった。役員の構成は、五代を初め計11人が創立委員となり鴻池善右衛門三井元之助(後の三井財閥)、広瀬宰平(後の初代住友総理人)らの150株を筆頭に皆で立ち上げた。五代は初代会頭として生みの子の育ちいく姿をみて「大阪が日本の産業と金融機関の中枢になるのはすぐだ」と呟いた。

文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(上),A diplomat in Japan』坂田精一訳、岩波書店(岩波文庫)1990年、107頁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]